會津八一(あいずやいち1881~1956) 大和歴史人物事績1
明治14年、新潟県新潟市古町通5番町の料亭會津屋の七人兄妹次男として8月1日生まれる。「八一」と名付く。美術史家・書家であり、孤高の歌人で、最後の文人と言われる。時代に抗した平仮名文字独特の書と万葉風を近代化した歌風は自身も「獨往」と称し、今日高く評価される。雅号は、秋艸道人、渾斎、八朔・八朔郎。昭和31年11月21日逝去・享年76歳、戒名は自選した「渾斎秋艸道人」。28歳の明治41年8月最初の奈良旅行以来、大和の古寺と佛教美術へ強い関心を持つと共に奈良大和路の歌詠を試みた。
大正14年早稲田高等学院教授となり、翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して奈良美術史・東洋美術史の講座を担当、奈良大和路行脚に明け暮れた。大正10年小川晴賜と出会い、当時のハイテクである写真に開眼し撮影・研究に取り組む(『室生寺大観』(飛鳥園)など)。また12年弟子の安藤更生(1900~70)・板橋倫行(1902~61)らと大正9年創した日本希臘(ぎりしゃ)学会改組 奈良美術研究会を立ち上げ源豊宗(1895~2001)の協力のもと、13年小川の飛鳥園・奈良美術社から雑誌『佛教美術』刊行(創刊~12冊、『校訂聖徳太子傳私記』・『校訂高僧法顕傳』奈良美術研究会)。昭和4~9年、京都帝國大學考古学・美術史の濱田耕作(1881~1938)・建築史の天沼俊一(1876~1947)、大阪朝日新聞社学芸部美術担当の春山武松(1885~1962)らとも計り、東洋美術研究会に改め美術研究誌『東洋美術』を奈良飛鳥園から企画刊行(創刊~20号)。美術史と建築学の提携した早稲田東洋美術史学会も組織し、佛教美術とりわけ東洋美術研究の先哲となる(『奈良美術史料・推古篇』武蔵野書院)。昭和6年に早稲田大学教授となり、昭和9年『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究 二巻』(東洋文庫論叢17-1・2)で文学博士の学位を受ける。翌年文学部に芸術学専攻科が設置され、主任教授就任。
歌は、新潟尋常中学校の頃より、「萬葉集」や同郷人「良寛」に親しんだと言う。卒業後、東京専門学校文化に入学し、坪内逍遥(1859~1935)・小泉八雲(1850~1904)らの講義を聴講、東北日報の俳句選者も務める。明治39年早稲田大學文学科卒業後、郷里上越の私立有恒学舎の英語教師を経て逍遥の招聘で早稲田中学の英語教員・教頭の傍ら俳句・俳論を残す。大正3年から東京小石川区高田豊川町の自宅・大正11年より郊外落合村市島謙吉(1860~1944・同郷・早稲田大學)別荘閑松庵を「秋艸堂」と名づけ、大正13年奈良大和の風光と美術を酷愛の愛歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』(春陽堂)出版。佛教美術への関心は、俳句から短歌への転向になったのだと言う。奈良大和路の佛寺は八一の歌で、より一層背光を放つ事となった。昭和15~19年にかけて歌集❶『鹿鳴集』(創元社)・❷『山光集』(養徳社)、随筆集『渾斎隋筆』(創元社)・書画図録『渾斎近墨』(春鳥会)等刊行。慕う弟子達を厳しく指導、多くの人材を育てた。
昭和20年4月B29空襲により被災し、八一を支えた養女紀伊子も病没(享年34歳)、新潟に帰郷早稲田大学教授辞任(昭和23年名誉教授)。昭和21年「夕刊ニイガタ」(後新潟日報吸収)創刊にあたり社長就任。歌集❸『寒燈集』(四季書房)、書画図録『遊神帖』(日本美術出版)等刊行。昭和26年に『會津八一全歌集』(中央公論社)刊行(第2回読売文学賞受賞)。新潟市名誉市民1号。宮中歌会始の召人としても臨席。戦後奈良発の文化の灯とした東大寺塔頭観音院・上司海雲(1906~75・壷法師・206世別当)の天平の会(志賀直哉・杉本健吉・入江泰吉・吉井勇・北川桃雄・須田剋太・金子千鶴・池田小菊ら)に参加。表紙の揮毫と寄稿(昭和22・23年『天平』創刊~3号 全国書房・天平出版部)。
没後、『會津八一全集』昭和34年初版全9巻・昭和44年新版全10巻・昭和59年増訂版全12巻 東京:中央公論社より刊行を見る。また、東京都新宿区西早稲田に「早稲田大学會津八一記念博物館」、新潟市中央区万代に「新潟市會津八一記念館」が開館している。會津八一研究文献としては、伝記研究書・評釈歌集・書簡集・展示会図録等多岐にわたる。
【freelance鵤書林36 いっこう記】