北畠治房男爵(きたばたけはるふさ1833~1921) 大和歴史人物事績4
北畠治房男爵は、本名平岡武夫・通名は煙管屋鳩平と言い平岡久兵衛の子として天保4年1月元旦に大和国平群郡法隆寺村に生れたと伝える(煙管屋は屋号・号は「布穀」)。
伴林光平(1813~1864・河内国志紀郡林村生れ、国学者・歌人、中宮寺の宮侍講・文久1年法隆寺村東福寺に移庵)、平群郡東安堵村今村文吾(1808~1864・私塾晩翠堂主)などの感化を受け、大和天誅(忠)組「勘定方」に参加、離脱・薩摩に逃れる。錦旗を駿府に追随して大総督有栖川宮に謁見し、南朝「北畠」を名乗る〔明治期、室生寺に北畠親房(ちかふさ・1293~1354)の墓地を造作活動した事実からも南朝末裔を正当化する行動であったのだろう〕。
上京して維新開期の前躯者として歓迎され、参議兼大蔵卿大隈重信(1838~1922・伯爵)の寵愛を受け、推挙により横浜開港場裁判官となるが、「明治14年の政変」により失脚・下野した大隈の立憲改進党結成に参加(東京専門学校〔早稲田大学の前身〕創立議員も務める)。任期中(明治6年)に起こった「小野組転籍事件」の裁定(司法卿〔法務大臣の前身〕江藤新平命にて京都控訴院裁判官拝)に辨腕を振るい、大参事槇村正直(1834~96・京都府初代知事)と舌戦を繰り広げたと記録に残る。20年東京控訴院検事・23年大審院判事・24年大阪控訴院(大阪高等裁判所の前身)院長に任命、29年「天誅組国家勲功あり」特旨にて華族に列し「男爵・正二位」を賜る。41~44年貴族院議員。資性は、豪宕雄壮・才弁であったと言う。
65歳になった31年より法隆寺村に隠棲し、「法隆寺の雷おやじ」として学会や世間では有名であったようだ。信徒総代の地位にあり「献納宝物」・「百萬塔売却」にも関わり、良訓(1707)『古今一陽集』加筆や若草伽藍の塔心礎も大垣を壊して自庭に持ち出し多宝 (五重)鉄塔の台座とし、大正4年兵庫住吉の久原房之助(くわはらふさのすけ1869~1965・鉱山王・政治家)邸に譲渡売却(昭和13年証券王・野村徳七〔1878~1945〕所有)と、傍若無人ぶりを伝えている。国道25号線の富雄川に架かる橋「米寿橋」名は、治房の母米寿祝の明治21年に架橋したらしい。大正10年5月4日88歳で没し、佐伯定胤師が「天寿院布穀治房大居士」と印籠を渡し、宮仕人の縁で中宮寺内墓所に葬られる(勲一等瑞宝章)。
邸宅跡は、重層な土塀で囲まれた屋敷に離れや蔵・内蔵を伴って建つ車寄せの付く、起り屋根(むくりやね)本瓦葺き二階建て母屋は、明治20年建築(棟梁西岡常吉と伝承)で戦後町の結婚式場公民館となったが、今は個人社長宅。カフェとなっている出格子窓の長屋門は淀城城門を移築したと伝えるが、出所は不明。城門では無く武家の屋敷門である。
(佐伯啓造編〔1940〕『斑鳩雑記』〔初出「以可留我」6冊1937〕 奈良:鵤故郷舎、高田良信〔2013〕「法隆寺学入門(五十)」『聖徳』216 奈良:法隆寺、高田良信〔1983〕「若草の礎石に就いて」『法隆寺発掘調査概報Ⅱ-昭和57年度防災工事に伴う発掘調査-』奈良:法隆寺・同ほか〔1989〕「若草伽藍発掘五十周年記念特集」『伊珂留我-法隆寺昭和資財帳調査概報-』11 東京:小学館)
【freelance鵤書林39 いっこう記】