聖徳太子(しょうとくたいし574~622) 大和歴史人物事績6
2018.03.05 14:04
日本人が一番馴染みの深い人物は聖徳太子であろう。敏達天皇3年に用明帝の第二皇子として誕生。母は欽明帝皇女・穴穂部間人(あなほべのはひと)。馬官厩戸にて生まれたと伝え「厩戸皇子」と言う。女帝推古天皇1(593)皇太子として摂政。
詔して佛法を興隆し、内外の情勢を見聞し11年冠位十二階を定め、12年憲法十七条の制定をし、官民の心得を示す。自らの宮を斑鳩に移し、28年蘇我馬子と『天皇記』・『国記』・『臣連伴造百八十部、公民等の本記』を撰す。推古天皇30年斑鳩飽波葦墻宮に薨じる。用明・推古帝が眠る河内磯長の地の切石石室内に繰り抜き式石棺に埋葬、両側に格狭間を施す棺台2基(母穴穂部間人皇后・妃膳臣女合葬)の三骨一廟御陵。
排佛派守屋・勝海排斥後深く佛法に帰依し、遣隋使を介して国交を開き大陸の学問文化を取り入れ、我が国の礎を築き興隆に尽力した。数十年ならずして三経義疏の著述、佛法大いに興り、寺46・僧尼1,380人、豊聡耳皇子との異名を持つ聡明なお方であったと歴史書『上宮聖徳太子伝補闕記(ほけつき)』・『聖徳太子伝暦』は伝える。平安期から顕著になる太子信仰は、日本人の根底の思想・人物となる。唯一戦前・戦後と一貫して高額お札であったが、縁どいて久しいのは世の中の精神文化崩壊と相まって皮肉なことだ。
【freelance鵤書林41 いっこう記】