轟英明さんのインドネシア・レビュー、 第6回 「怪奇映画の女王」スザンナがスクリーンに蘇る時
前回は昨年大ヒットした怪奇映画『悪魔の奴隷』(原題Pengabdi Setan)について語りました。反イスラーム的な内容の古風なスタイルのオバケ話が、なぜ今のインドネシアで観客動員数が400万人を超えるほど大ヒットするのか、私なりに考えた仮説を提示してみましたが、実のところよく分からないなあというのが正直なところです。ただ、私にとってはこの「分からなさ」がインドネシアに長年住んでいて面白いと感じる部分でもあります。
そんなわけで、前回参考文献として挙げた『怪奇映画天国アジア』を今回も参照して、インドネシアにおける怪奇映画の概略と、その際には必ず言及される女優スザンナ(1942年~2008年)について、今回は語ってみたいと思います。
表紙はタイ映画『幽霊の家』ポスター
インドネシアの地で劇映画が初めて製作上映されたのは1926年の無声映画『ルトゥン・カサルン』(Lutung Kasarung) 、西ジャワの民話の映画化でした。当時はまだオランダ植民地時代だったので、監督はオランダ人ヒューヘルドルプ、撮影はドイツ人クルーゲル、主演はバンドン県知事の子ども。その後、すでにアジアで映画先進国だった中国大陸からの映画人たちが到来し、中国の物語を映画化、その中には西遊記の猪八戒が主人公のものや、日本でも有名な白蛇伝がありました。これらは怪奇映画と呼べる内容ではないものの、現実の人間社会を活写したのではないファンタジーを扱っているため、そのさきがけと見なすことも可能なようです。
インドネシア独立後、映画産業は活況を呈しますが、幽霊を扱った作品はいくつかあったもののその多くは喜劇だったらしく、本格的な怪奇映画の登場は映画産業が再び活性化した70年代を待たねばなりませんでした。
1971年に至り、本格的怪奇映画『墓場での出産』が公開されます。主演は当時29歳のスザンナ。原作は70年代インドネシアで大ヒットしたアクション漫画『幽霊洞窟の盲目剣士』(Si buta dari gua hantu)の作者ガネス・TH による漫画。脚本は後に大監督となるシュマンジャヤ(ガネス・TH とシュマンジャヤについてはいずれ別項で論じる予定)。映画全体の雰囲気としてはエドガー・アラン・ポーのゴシック小説を連想させる内容となっています。
映画『墓場での出産』Beranak dalam kubur ポスター
この映画以降、スザンナは恋愛ドラマにも出演するものの、主に怪奇映画においては欠かせない女優として、文字通り怪奇映画の女王の座へと上っていきます。代表作としては『スンデル・ボロン』(Sundel Bolong)、『黒魔術の女王』(Ratu Ilmu Hitam)、『ニ・ブロロン』(Nyi Blorong)、『サンテット』(Santet)など。
1963年、21歳当時のスザンナ
スザンナがどのようにして怪奇映画の女王と呼ばれるようになったのか、その背景と人気の秘密についてじっくり語ることは、数本の映画しか見ていない私にはやや荷が重いのですが、いくつか気付いた点を指摘しておきたいと思います。
まず第一に、彼女の出自が本名のSuzzanna Martha Frederika van Oschから分かるとおり、混血であったこと。両親ともに混血だったので、彼女はオランダ、ドイツ、ジャワ、マナドの血を引いていました。先述したようにインドネシア映画史とはその黎明期から様々な民族や出自を持った人たちが作り上げてきた歴史であり、内容を含めて混血性こそがインドネシア映画の核ではないかと私は思っています。怪奇映画はその通俗性からインテリや外国人からはさげすまれ、まともに論じられてこなかったのですが、混血性をキーワードとして再検討するならば、スザンナこそはインドネシア映画の、まごうことなき本流をゆく女優と位置づけることも可能でしょう。彼女が全盛期の映画でたびたび見せる、相手を射抜くような神秘的な眼差しが印象的です。
第二に、彼女の名声が怪奇映画の女王として定着したのはすでに40歳を超えた80年代だったこと。子役として「インドネシア映画の父」ウスマル・イスマイルの『血と祈り』で映画デビューし、60年代には数本の映画で主演女優を務め、歌手としてアルバムを出したりもしましたが、それほどの人気は得られませんでした。遅咲きの大スターだったということです。
第三に、彼女が主演した怪奇映画のほとんどが、モダンな都市ではなく伝統的な農村部や地方を舞台としていたこと。おどろおどろしい呪術やイスラーム到来以前の神話や民話が生きる伝統的な共同体において、彼女は幽霊や南海の女神の娘などを繰り返し演じてきました。
第四に、彼女がスクリーンで見せる妖艶さが実生活でも同様であると観客には信じられたこと。具体的には、彼女がいくつかの映画の中で見せる呪術的行為を実生活でも実践しているので、40代を過ぎても美しさを保っていると噂されたことです。映画内世界と現実の出来事が渾然一体となることで俳優の人気が上がることは珍しくありませんが、実際に呪術が存在し広く信じられているインドネシアにおいては単なるスキャンダルを超えた次元のように思えます。
第五に、強権的な軍事独裁スハルト政権全盛期に彼女が出演した怪奇映画の妖花が咲き乱れたこと。前掲書『怪奇映画天国アジア』著者の四方田犬彦さんは、共産主義国家とイスラーム世界には怪奇映画はジャンルとして存在しない、それは世界を統一する原理がある地域や国においては幽霊や妖怪などという魑魅魍魎(ちみもうりょう)は存在が許されないためであると繰り返し述べています。
ただしインドネシアは重要な例外で、なぜこの国でこれほど怪奇映画が製作されるかと言えば、外来宗教であるイスラーム到来以前の原始宗教や精霊信仰が根強く残っていることが背景にあると解説しています。そして、ここからは私の解釈となりますが、強権的で検閲も厳しかったスハルト政権下でなぜ怪奇映画のような荒唐無稽で非合理的な物語が許されしかも人気があったのか、それは最終的には秩序回復のハッピーエンドだったからと私は考えています。
恐ろしい幽霊や怪物となったスザンナが自分を殺した男たちに復讐し、さらに暴れようとするも、イスラーム導師や自分よりも力の強い術者によって説伏され、混乱していた共同体は秩序は取り戻す。彼女が主演した怪奇映画の要約とはこのようなものです。
これは旧体制と後に呼ばれたスカルノ政権時代の政治的経済的混乱を収拾し、その原因とされた共産主義を徹底的に弾圧し、秩序維持を第一としたスハルト政権のあり方と相似しています。混乱は必ず収まり、秩序は回復される、これがスハルト政権時代の怪奇ものに限らないインドネシア映画の基調でした。よって、スハルト政権崩壊後の今に続く改革時代の怪奇映画においては、共同体の混乱は解決されずハッピーエンドとならないことが常態となりました。もしスザンナが今も存命であれば、80年代に製作された怪奇映画以上の荒唐無稽ぶりをスクリーンで見せていたのではないかと想像されます。
最後に、彼女の代表作『スンデル・ボロン』(Sundel Bolong)の有名な場面を以下に引用しておきます。日本の怪談を連想させる、恐怖と笑いが渾然となった名場面ではないかと思いますが、いかがでしょうか?
サテ200串(!)を一気食いするスザンナ、その正体は...
次回はオバケ話の続きか、あるいは荒唐無稽なジャンルとして繋がりのあるシラット小説やその映画化について語ってみたいと思います。それではまた来月!
<参考文献及びウェブサイト>
四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009年 国際交流基金アジアセンター発行『カラフル!インドネシア2』パンフレット 2017年
Revisiting Indonesia's Queen of Horror