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戦争を知らない子供たち

2018.03.05 22:01

「 戦争を知らない子供たち 」

北山修作詞・杉田二郎作曲


戦争が終わって 僕等は生れた

戦争を知らずに 僕等は育った

おとなになって 歩き始める

平和の歌を くちずさみながら

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

若すぎるからと 許されないなら

髪の毛が長いと 許されないなら

今の私に 残っているのは

涙をこらえて 歌うことだけさ

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

青空が好きで 花びらが好きで

いつでも笑顔の すてきな人なら

誰でも一緒に 歩いてゆこうよ

きれいな夕日が 輝く小道を

僕等の名前を 覚えてほしい

戦争を知らない 子供たちさ

戦争を知らない 子供たちさ


Wiki  http://bit.ly/2oPZJlK

『戦争を知らない子供たち』(せんそうをしらないこどもたち)は、1970年に発表された、北山修が作詞し、杉田二郎が作曲した楽曲。

1970年8月23日、大阪万博でのコンサートで初めて歌われ、その模様がライブアルバム「戦争を知らない子供たち」として発売された。同年11月5日には、「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でにシングルカットされた。

翌年1971年2月5日には、ジローズの歌唱によるシングルが発売され、オリコン最高11位、累計売上30万枚以上[1]のヒット曲となった。ジローズはこの年の第13回日本レコード大賞新人賞を、作詞を担当した北山修は作詞賞を受賞した。1972年公開の映画「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」では挿入歌として使用され、1973年には、この曲の歌詞を原案にした同名の映画が制作された。

世はベトナム戦争の真っ最中であり(武力衝突開始1960年、終結は1975年。なお不正規戦争で宣戦も講和もない)、憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。

元々、歌詞が先に出来ており、北山は真っ先に盟友加藤和彦に作曲してもらおうと思ったら、鼻で吹いて突っ返されてしまい、やむなく杉田二郎の元に持って行ったという(2002年11月17日のザ・フォーク・クルセダーズ新結成記念解散音楽會での北山の発言より)。加藤とは逆に杉田は、北山の詞に素直に感動し、喜んで曲を付けたという。その後も北山自身、割り切れなさを感じることも多かったというこの歌詞に素直に曲を付け、胸を張って歌い続けた杉田の姿には励まされたと、5年後の1975年発売の杉田のシングル「男どうし」に寄せたコメントに書いている。


この曲は戦争は終わってから25年後に発表されました。1970年のことです。それから半世紀近く経過しました。当時『戦争を知らない子供たち』を口ずさんだ世代は、すでに古希を超えられたかもしれません。

『戦争を知らない子供たち』を口ずさんだ世代の子や孫、もしかするとひ孫の世代が日本を作っていくことになりました。

将来、憲法改正があったとしても、9条の改正だけはないと断言していた田中角栄は、対決型の政治を避ける平和主義者として知られ、外交面でも大きな成果を歴史に残しました。

日中国交正常化(1972年9月)がその最大の成果だと思います。

注)田中角栄 wiki http://bit.ly/1Jjazq3

注)日中国交正常化 wiki http://bit.ly/2H90yh3

角栄が世を去って25年近く経過し、日本は戦後73年を迎えました。日本の現役政治家で実質的に戦争を知る者はほとんどいなくなりました。憲法改正に向かて進む日本をいま角栄が見たらどう感じるでしょうか?

田中角栄の言葉です。

「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる。」