【教養】君主制の遺産 太政官布告
読者の方々は覚えておいでだろうか。以前ミシェル内閣総理大臣が、予算委員会における内閣の施政方針演説で述べた内容を。
「民主共和制を明確に掲げる憲法を制定し、君主制復古の策動を粉砕し、共和国の不可侵性・不可逆性を堅持して参ります」
これから読み取れる通り、与党急進的民主主義同盟の施政方針は過激なまでの反君主制、共和政擁護によって特徴付けられている。
既に空想国会では天皇制が廃止されて久しく、また海外であったとしても君主制、いや世襲制に対する激しい非難を浴びる気風が確立されており、現状での制度回帰は極めて難しいのが現状であろう。
しかしながら、依然として君主制の息吹は空想国会に残っており、完全に死に絶えてはいない。実は、彼らは公文書館の古い文献保管庫の中に、半ば忘れられながらも、未だに力を持って生き残っていた。
今回は教養記事として、日本国、及び空国に残った君主制の遺産とも言える古い法令群、「太政官布告」について簡単に纏めていこう。
「太政官布告」とは、その名の通り明治初期の太政官制下において制定された一連の法令群の総称である。これらは厳密には、官員への訓令として下達された「太政官達」と、一般国民に対し「太政官布告」に分かれており、本来的な言葉の意味では後者のみを指すが、当時からそれらの区別は厳密であったわけでは無い。故に、ここでは「布告」の方に表記を統一する。
(なお、太政官制の説明については記事の末尾を参照のこと)
今現在、明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足して太政官制が廃止され、その翌年に制定された公文式(明治19年2月26日勅令第1号)により、布告と官達は名実ともに日本の法令形式からは姿を消しているが、過去に出された布告の中には今なおその効力を保持しているものが幾つか存在しており、それらは日本最古の有効な法律となっている。
では、今なお有効な布告とはなんであろうか。またその根拠は何か。まず根拠について簡単に触れる。
まず戦前においては、明治22年(1889年)に公布された大日本帝国憲法第76条第1項に次のように規定された。
「法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ効力ヲ有ス」
これは簡単に言えば、「どんな名前の法令でもこの憲法に違反していない限りは有効なものである」という意味であり、公布以前に制定された数々の布告の効力を認めている。
だが、戦後改正された「日本国憲法」においてはそうした旧法令に関する明文事項は存在せず、あくまで98条の1項において、
「その条規に反する法律、命令……の全部又は一部は、その効力を有しない」
と定められるに留まっている。これにより、戦後の布告の効力の有無については、「内容が合憲であれば有効」とする立場と、「形式が違憲であれば無効であり、別途措置を講ずるべき」とする立場で議論が続いている。
なお、現実の措置としては「明治憲法下で法律として制定されたもの、及び法律としての効果を持つ太政官布告」は現在も有効であると解釈され、一方「命令」(ここでは原則として、立法府を通さずに定められた、拘束力を持つ法令と解する)として布告された法令については、その内容が現在でも命令可能な範囲の場合は有効、それを逸脱した範囲のものは特別の措置を講じない限り昭和22年(1947年12月31日)を以て効力打ち切りとなっている。(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)
したがって、「法律としての効力を持ち、かつ現行憲法に違反しない」、又は「命令としての効力を持ち、かつ法律の定めるべき範囲に抵触していない」布告は今も有効であるということができよう。
では、現実問題としてそんなものは存在するのだろうか。実は存在している。筆者が法令検索システムe-Govにて検索を行ったところ、7件が該当し、その内訳としては1件が法律、6件が政令として分類されていた。(但し、政令として分類された6件のうち2件については、最高裁判所が現行の「法律」として効果を有するものと判示している)
ここではその一覧を以下に列挙し、最高裁判例によって効果を持つとされるものについては簡単な解説を付す。
・明治十三年太政官布告第三十六号(刑法 抄)
・明治十七年太政官布告第三十二号(爆発物取締罰則)
・明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)
・明治六年太政官布告第六十五号(絞罪器械図式)
・明治八年太政官布告第五十四号(勲章制定ノ件)
・明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得 抄)
・明治十四年太政官布告第六十三号(褒章条例)
この中で最高裁において法律としての効果を有すると判示されたのは、「刑法 抄」、「絞罪器械図式」の二つである。この二つと「爆発物取締罰則」を合わせた三つについて簡単な解説を行う。
まず、「爆発物取締罰則」だ。この法律は現在も有効な太政官布告の中でも最もポピュラーなものであり、重要なものと言える。マスメディアにおいて「爆発物取締法」と呼称される法令は実はこれのことであり、現実世界における爆発物の取り締まりの根拠法令もこれである。
この布告は明治17年(1884年)に明治天皇の勅旨として公布された。(「爆發物取締罰則別册ノ通制定ス 右奉 勅旨布吿候事」)閣僚として副署したのは太政大臣三条実美以下、内務卿山県有朋、司法卿山田顕義の三名である。第一条では、「治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身體財產ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆發物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス」と規定しており、当時頻発していた自由民権運動に関わるテロの抑制を志向していた。
その後何度かの改正を経たのち現在まで有効な法律として扱われており、直近では令和4年(2022年)6月に更なる改正が行われている。
続いては最高裁判例により有効性が認められた二つの法令についてだ。最初は「刑法 抄」である。
これは明治40年(1907年)に制定された現行刑法以前に用いられていた所謂旧刑法であり、「抄」はその一部が現在でも効果を持つことを表している。
この布告は明治13年(1880年)7月17日に布告され、その後前述の通り明治40年に現行刑法が制定されたことに伴って廃止された。が、その一部、具体的には第1編(総則)第2章(刑例)第3節(付加刑処分)第31条、第33条(剥奪される公権の種類と、禁錮刑に処された官吏の役職剥奪と公権剥奪処分の規定)、並びに第2編(公益ニ関スル重罪軽罪)第4章(信用ヲ害スル罪)第9節(公選ノ投票ヲ偽造スル罪)第233条から第236条(公の選挙に関する結果の偽造、並びにそれを依頼する贈収賄に対する法定刑の規定)までが、現在も有効な法令とされている。
その根拠は刑法施行法に定められた内容と、昭和24年(1949年)4月6日に最高裁大法廷が宣告した判例である。以下に示す同判例によれば、
「旧刑法第二編第四章第九節第二三四条のいわゆる公選投票賄賂罪の規定は、所論のように明治一三年太政官布告第三六号によつて制定されたものである。しかしながら、この規定は旧憲法が明治二二年に制定されたときに、その第七六条によつて「憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令」であつて「遵由ノ効力ヲ有ス」るものと認められ、現行刑法が明治四一年一〇月一日から施行されるに当つて旧刑法を廃止した際にも、刑法施行法第二五条によつて「当分ノ内刑法施行前ト同一ノ効カヲ有ス」るものとして存置されたまま今日に至つたものである……刑法施行法は前記のように当分のうちその効力を有すると規定しているのであるから、この規定の内容は早晩改正されることが予想されたものと言わなければならない。そして、その内容は論旨に指摘するように今日においては他の法律の規定と権衝を失し時代に添わない感のあることも事実である。しかしながら、この規定は…実際上必要な規定として適用されてその効力を持続して来たのであるから…「当分ノ内」の字句があるとしても、他の法律によつて廃止されないかぎり…効力を失つたものと言うことはできない」
(昭和24年4月6日最高裁判例 刑集 第3巻4号456頁)
とされており、233条から236条までが、本来は刑法施行法において、「当分ノ内刑法施行前ト同一ノ効力ヲ有ス」るものであったが、改正がなされぬまま現行の法律として有効であることが示されている。(参考として記事末尾に当該法規定全文を付記する)
また、31条と33条については、判例の中に言及は無いものの、233条から236条の内部に「附加刑」の存在が記されており、またそこに「人の資格に関するもの」が他に特別の措置として規定されていないことから、なおこれらに関しては有効な規定であると解釈されている。(わかりやすく言えば、旧刑法233条から236条は刑法施行前と同じ効力を持っており、かつその中に附加刑の存在が言及され、さらに人の資格についての附加刑には言及がないことから、それについて定めた旧刑法31条、33条はなお有効であると見做すことができる、ということであると思われる。この点については記者の学識不足をお詫びする次第である)
では、最後の「絞罪器械図式」についてだ。これは極めて単純なもので、ごく簡単に言ってしまえば、「絞首刑に使う装置はこのような物を用いること」とする内容の布告である。
この布告は明治6年(1873年)2月に出された後、(この布告以前の1870年には、死刑を絞首刑にする旨の布告がなされていたが、3件の執行後の死刑囚蘇生があった為、本布告による装置導入が行われた)昭和32年(1957年)7月8日の最高裁判例でその有効性が確認され、以後も法律として存続している。同判例では、
「太政官布告六五号は明治三年一二月二日頒布の新律綱領に定められた絞首刑の執行方法である絞柱式を改め、絞架式とするため、その刑具とその使用方法を図解し、また、絞縄解除の時間を定めたものであるが、新律綱領および改定律令が明治一五年旧刑法の施行により廃止されたものと解すべきものとしても、右布告はこれに附随して当然に失効することなく旧刑法の死刑(絞首刑)の執行方法を定めたものとしてなおその効力を有し、更に旧刑法が廃止され、新刑法が施行された後もその死刑の執行方法を定めたものとして有効に存続していたものと解すべきことは、その間同布告を廃止する旨の何らの法令も発せられず、また、これに代わるべき法令の制定もなかつたことによつても明白である」
(最高裁判例昭和32年7月8日 第15巻7号1106頁 奥野健一判事の補足意見書)
としている。また、同判例の裁判は絞首刑による死刑の違憲性についても争われていたが、これについても最高裁は「合憲」としており、「名称の如何を問わず、同布告が法律として効力を有する」旨を判示している。(記事末尾に付録として判例の関連部分の全文を示す)
以上が現在も「法律としての」効力を持つ太政官布告三つの解説である。判例を念のため引用した為に、文章が冗長になってしまったことは心からお詫びする次第だ。
ちなみに、元々は一本の記事で紹介する予定であったが、「君主制の遺産」とも言える法体系はもう一つ存在している。その名も、「ポツダム勅令」である。本記事が好評であれば、いずれそれについて纏めた記事も出す予定である。
文責 燃えない薪
記事末付録(参考資料)
・刑法 抄(明治十三年太政官布告第三十六号)
第三十一条 剥奪公権ハ左ノ権ヲ剥奪ス
一 国民ノ特権
二 官吏ト為ルノ権
三 勲章年金位記貴号恩給ヲ有スルノ権
四 外国ノ勲章ヲ佩用スルノ権
五 兵籍ニ入ルノ権
六 裁判所ニ於テ証人ト為ルノ権但単ニ事実ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト為ルノ権但親属ノ許可ヲ得テ子孫ノ為メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト為リ又ハ会社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ権
九 学校長及ヒ教師学監ト為ルノ権
第三十三条 禁錮ニ処セラレタル者ハ別ニ宣告ヲ用ヒス現任ノ官職ヲ失ヒ及ヒ其刑期間公権ヲ行フコトヲ停止ス
第二百三十三条 公選ノ投票ヲ偽造シ又ハ其数ヲ増減シタル者ハ一月以上一年以下ノ軽禁錮ニ処シ二円以上二十円以下ノ罰金ヲ附加ス
第二百三十四条 賄賂ヲ以テ投票ヲ為サシメ又ハ賄賂ヲ受ケテ投票ヲ為シタル者ハ二月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ三円以上三十円以下ノ罰金ヲ附加ス
第二百三十五条 投票ヲ検査シ及ヒ其数ヲ計算スル者其投票ヲ偽造シ又ハ増減シタル時ハ六月以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ四円以上四十円以下ノ罰金ヲ附加ス
第二百三十六条 調書ヲ造リ投票ノ結局ヲ報告スル者其数ヲ増減シ其他詐偽ノ所為アル時ハ一年以上五年以下ノ軽禁錮ニ処シ五円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス
・刑法施行法(明治四十一年法律第二十九号)
第二十五条 旧刑法第二編第四章第九節ノ規定ハ当分ノ内刑法施行前ト同一ノ効力ヲ有ス
・絞罪器械別紙図式(明治六年太政官布告第六十五号)
絞罪器械別紙図式ノ通改正相成候間各地方ニ於テ右図式ニ従ヒ製造可致事
絞架全図 実物 六十分ノ一
本図死囚二人ヲ絞ス可キ装構ナリト雖モ其三人以上ノ処刑ニ用ルモ亦之ニ模倣シテ作リ渋墨ヲ以テ全ク塗ル可シ
凡絞刑ヲ行フニハ先ツ両手ヲ背ニ縛シ紙ニテ面ヲ掩ヒ引テ絞架ニ登セ踏板上ニ立シメ次ニ両足ヲ縛シ次ニ絞繩ヲ首領ニ施シ其咽喉ニ当ラシメ繩ヲ穿ツトコロノ鉄鐶ヲ頂後ニ及ホシ之ヲ緊縮ス次ニ機車ノ柄ヲ挽ケハ踏板忽チ開落シテ囚身地ヲ離ル/凡一尺空ニ懸ル凡二分時死相ヲ験シテ解下ス(凡絞刑云々以下ハ原文絞架図面ノ後ニアリ)
(以下図面等は省略)
・最高裁判例昭和32年7月8日 第15巻7号1106頁
「元来太政官布告は法令の形式からいえば法律、命令等あらゆる形式の法令に該当するものを含み、実質的内容からいえば法律事項であるものと法律事項でないものとを含むものであるから、単に形式からいつて太政官布告六五号が法律として
効力を有するのであるか、法律以外の法令として効力を有するものであるかは必ずしも明白でないのであるが、前記布告の内容が生命を剥奪する絞首刑の執行方法であつて基本的人権に重大な関係を有する事項を規定したものであるから、その名称の如何を問わず旧憲法下においても法律を以つて定むべき事項を定めたものであると解すべきことは前記のとおりであり、従つて旧憲法七六条一項により法律として遵由の効力を有していたものと解すべく、また、新憲法の下においても、右布告六五号の内容は憲法の条規に反しないものであり、同法九八条により法律として効力を有しているものと解すべきであるから、昭和二二年法律七二号一条の適用を受けないものというべきである。従つて右布告は現に法律と同一の効力を有するものとして有効に存続しているものと解する」(同判例 奥野健一判事による補足意見書より)
・太政官制について(本記事筆者による解説)
太政官制は明治初期に中央政府がとった政治の体制の一つであるが、その内実は時勢に応じて極めて流動的に変化しており、これが太政官制である、という明確な体制は無い。が、ここで扱う布告が出された明治6年から18年に至るまでの時期には、天皇が親臨し、太政大臣・参議・各省の卿がこれを輔弼する体制が整えられ、明治後期から大正にかけての藩閥政治の原点が形作られていた。
紹介した布告の中で2番目に古い絞首刑装置の発布された明治6年の9月には、大久保利通を内務卿とする内務省が創設され、2年後の明治8年には立憲政体の詔書が発布され、元老院・大審院などが創設され、明治18年の廃止に至るまでの政治体制が確立された。