2022年10月8日
たとえただの紙切れでも、人がそれに手を合わせ、祈りを捧げてきたものには、人の思いが入ります。
一人二人の思いでも、長い間、祈りを捧げれば、もうただの紙切れではないのです。
同じように、神社仏閣、祠、石像、仏壇なども、多くの人の思いが渦巻き、一つの形になっています。
思いは見えませんし、一つ一つは重みもありません。
しかし、思いも積み重なればその重みを感じられるようになります。
敏感な人なら、それを感じる事ができるのです。
見えませんが、何か形になって「そこにある」のです。
ただの紙切れだからといって、人が手を合わせてきたものを粗末に扱えば、10人中8人ほどは何かしらの影響を感じられます。
元々はただの紙切れ、今でも見た目はただの紙切れ、それなのになぜそんな事が起こるのでしょうか。
それが「きっかけ」というものなのです。
目には見えなくても、人が必死に願いを込めて手を合わせてきたものに対して、無礼な自分があれば、あなたの魂が許さないのです。
魂も同じく目には見えない存在です。
目に見えない存在を軽んじる自分であってはならない、という警告ですね。
人が手を合わせるものにあなたも手を合わせなさい、という事ではなく、人それぞれに思うことがあって手を合わせてきたのですから、それに対して敬意を払える自分でなければ、「バカらしい」とか「ただの紙切れじゃないか」と軽視する心が問題になるのです。
あなたの大切なものをゴミとして捨てられる、これはあなたにとっては悲しいことではありませんか。
それと同じように、人が手を合わせてきたものに対しても、あなたの捉え方で「つまらないもの」だと言っては、相手が悲しむだけではなく、あなたの中の魂も悲しむのです。
人はその願いを叶えて欲しいと願うばかりに、様々なものに手を合わせてしまいます。
ただの紙切れでも、多くの人が長年願いを込めていけば、もうただの紙切れではなくなるのです。
しかし、人の心は移ろいやすく、今まで願いを込めてきたものも、ある時を境に不要なものになる事もあります。
処分しなければならなくなった時、それがまた問題になります。
ゴミとして捨てる、それでは何かしらの影響もあるでしょう。
供養してもらうにも、果たしてそれがそのものに対して正しいのかも判りません。
不用意に何かに願いを込めるものではありません。(後々誰かが困る可能性が高い)
手を合わせることが悪いことではありませんが、願う時間があるのなら、人間が努力していく方がいいのではないでしょうか。
もちろん、神に力を借りなければできないことはありますが、その神はいつもあなたの中にいるのです。
それが魂なのです。
この世に存在する様々な神を否定するのではなく、それはそれで「ある」のですが、そうだとしても、その神々は人間の欲望を叶えるために存在しているのではないのだ、と肝に銘じておくことです。
もちろん、魂という名の神も、あなたの欲望のためにあなたに宿っているわけではないんですよ。(何のために宿っているのかは、以前の記事から学び取ってください。)