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富士の高嶺から見渡せば

脱中華の東南アジア史 ③

2018.03.06 08:23

                        ~東南アジア4か国世界遺産の旅から考えたこと~

東南アジアの歴史に関心をもつようになったのは、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスの4カ国を駆け足で巡り、各地に残る世界遺産などを見て回ったことがきっかけだった。東南アジア4カ国をめぐったのは、2016年8月、全行程10日間の旅だった。訪ねたのは順番に、①ミャンマー・パガンの仏塔群、②タイ・スコタイ王朝の王宮と寺院跡、③アユタヤ王朝の仏教寺院、④カンボジア・アンコール(クメール)王朝の遺跡群、そして⑤ラオス南部チャンパサック県にあるクメール王朝時代の王宮・寺院跡のワット・プーである。

最初に訪れたミャンマー・バガン王朝の仏塔群は、アンコール・ワット、ボロブドゥールと並ぶ三大仏教遺跡のひとつで、47平方キロもの広大な平原に2000以上もの僧院や仏塔群が広がる風景は、当時の人々が幸せを祈って仏塔を寄進するため、営々とレンガを積み上げたエネルギー、信仰が持つ迫力を感じさせた。しかし実は、このバガンの仏塔群は、ユネスコの世界遺産には登録されておらず、ただ一つ、11世紀にスリランカから仏教が伝来したこと伝える古代パーリ語やピュー語、モン語など4つの言語の碑文を刻んだ高さ2mの石碑(「ミャーゼディ碑文」、別名「ビルマのロゼッタ・ストーン」とも言われる)が、2015年にユネスコの「世界の記憶」として初めて登録されただけだ。

ところで私たちがバガンを離れて3日後、タイに入ったところでマグニチュード6.8の地震がパガン地方を襲い、仏塔にも大きな被害が出たことを知った。実は、バガン遺跡は1975年にも地震被害を受け、今回損壊した400にのぼる仏塔の多くは、その地震のあと再建されたものだといわれる。ミャンマー軍政府は過去に何度もパガン遺跡の世界遺産登録を試みたのだが、世界遺産登録が認めらなかったのは、軍政時代の修復方法に問題があったためだとされる。そのため、アウンサン・スーチー女史は地震の直後に、今回被害を受けた仏塔の再建方法は慎重に検討すると表明している。

  

     バガン仏教遺跡群          

                        8月24日の地震で損壊した仏塔

六~七十歳代の年寄りばかり十数名による旅行社の企画ツアーだったが、ミャンマーからタイ、タイからカンボジアへの出入国は国境を徒歩で渡り、行程の大半はバスで陸路をひた走るという移動だった。その分、この地域の距離感や関係性を、その空気感とともに実体験することもできた。途中、ミャンマーからタイ国境までの道路は、雨の中、しかも夜間の暗い山道を、われわれが乗った韓国ヒュンダイ製のマイクロバスはかなりのスピードで突っ走り、スリリングというか、向こう見ずadventurousというか、ちょっと身の危険を感じる旅でもあった。またタイ・ミャンマー国境の手前からタイ、カンボジアまで抜けるルートは、「AH1」という道路標識があちこちに見えた。つまり「アジアハイウェイ1号線」というハノイからヤンゴンまでを結ぶ「東西経済回廊」の一部で、片側2車線のよく整備された幹線道路を行きかうトラックやバスの交通量の多さからも、この地域の国境を越えた活発な経済活動とASEAN域内の物流ネットワークの規模、そしてASEANとしての経済的・地域的なまとまりを目撃することができた。いずれは、EUと同じように、パスポートも関税もなく、ヒトやモノが自由に行き来する、そんな地域統合も夢ではないかもしれない、そんな淡い期待を抱かせた。

駆け足の強行軍ではあったが、東南アジア4カ国の世界遺産を一挙に訪ねる旅の意味について、当初はそれほど深く考えたわけでもなく、旅の成果として多くを期待したわけでもなかった。しかし、それぞれの旅先で、現地の日本語ガイドの話を聞き、それぞれの遺跡が持つ歴史的背景や変遷に触れることで、いままで、この地域の歴史について、あまりにも知らなさすぎたことに愕然とし、同時に、もっと知りたいという思いに俄然、駆り立てられた。

旅から戻ったあとも、東南アジア史に関する本をいくつか読み漁り、ネットで検索して関連資料を調べるうちに、今回訪ねた遺跡群は、地政学的にも文化的にも相互に深いつながりを持ち、パガンの仏塔群やアンコールワットの遺跡群、それにスコータイやアユタヤの王宮・寺院跡など、これら巨大建造物を造った各王朝が、互いに勢力を競って攻め込んだり 滅ぼされたりする関係でありながら、ヒンドゥー文化や仏教文化を互いに受け渡したり、受け継いだりしながら、独自の文化圏を発展させ、この地域の人々の交流と文化のネットワークを作っていった様子を垣間見ることもできた。

今回の旅で訪ねた各地の史跡や世界遺産の関係について、とりあえず簡単に整理しておきたい。

パガン王国は紀元2世紀初めから14世紀まで55代に渡って続いたといわれるが、最初に統一王朝を築いたのは11世紀、アノーヤター国王(在位1044~1077年)の時代といわれる。このころにスリランカから三蔵仏典が伝わり、上座部仏教(テーラヴェーダ)が国民に広く信仰されるとともに、不幸からの解放を願う人々によって盛んにパゴダ(仏塔)の建造と寄進が行われた。(日本語解説書『バガン』Asia publishing House 2004/12)

クメール人(「米を食う人々」の意味)は、もともとはタイ北部の山岳地帯に暮らしていた民族だったとみられる。彼らが最初に作った王国「プノム」(扶南)は「山の王国」という意味で、クメール人は山岳信仰の民族であったことがうかがえる。

プノムのあと600年から800年ごろまでこの地域を支配したのが「チェンラー」で、漢籍では「真臘」と表記される。ここまでが「プレ・アンコール」(アンコール前期)と呼ばれる時代であり、このチェンラーの時代にヒンドゥー教が伝わったといわれる。

西暦802年~1431年まで続いたアンコール王国(クメール王朝)のなかでも、「大きな都市」を意味するアンコール・トムを建設したジャワバルマン7世の時代(12世紀末)に、アンコール王国は最盛期を迎え、その支配地域は現在のタイ東北部、ラオス、ベトナムの南部、マレーシア半島の一部まで及んだ。この国王の時代に、それまでのヒンドゥー教から上座仏教に改宗し、アンコール・ワットなどの寺院を上座仏教の中心地とし、各地からの留学僧を集め、仏教文化を一帯に広める役割を果たした。

     アンコール・トム 

                            アンコール・ワット

 

    樹木に覆われたタプローム

ラオスのワット・プーはカンボジアのアンコール・ワットとは200キロの街道で結ばれ、同じクメール王朝の版図に属していた。両方とも、最初はヒンズー教寺院として建立されたものが、のちに仏教寺院に改修されている。ワート・プーに残る参道のナーガ(竜)像や算盤の珠に似た連子窓の建物などは、アンコール・ワットの建築方式と全く同じであることがわかる。ワット・プーの「プー」は山の意味で、背後の山全体を信仰の対象とし、いまもラオス全土から多くの信者が参拝に訪れ、祈りを捧げる姿があった。

    ラオスのワット・プー遺跡 

                        仏教寺院として今も信仰の場

パガン王朝は、1287年に元軍(モンゴル軍)の侵攻を受け、やがて衰退していく。同じころ、古くは中国南部(現在の雲南省)にいたシャム人(現在のタイ人)やラオ人らもモンゴル軍に追われて南下し、シャム(タイ)人の最初の王国として「スコタイ王朝」(1233年~1448年)が成立し、またラオ人は「ランサーン王国」(1354年~1707年)を築いた。これらの王国は、もともとはクメール王朝の支配地域から独立を勝ち取ってできた王国だった。スコタイ王朝の勢力は、最盛期には西はビルマのパゴーから東はメコン川流域まで及んだ。現在のスコータイ歴史公園に残る寺院の仏塔の形を見ても、釣鐘型のスリランカ・スタイルとトウモロコシ型のカンボジア・スタイルの両方が混在している。テーラヴェーダ(上座部)仏教がスリランカとカンボジアからそれぞれ伝わり、この地域一帯に根を下ろしたことがわかる。

  

  スコタイ遺跡の釣鐘型仏塔       

                        スコタイ遺跡のカンボジア式仏塔

その後、タイにアユタヤ王朝(1351年~1767年)が興隆し勢力を蓄えると、スコタイ王朝を吸収し、さらに弱体化しつつあったクメール王朝の首都も攻め、1431年アンコール・トムはアユタヤの軍によって陥落し、クメール王朝は滅びることになる。このころ、アユタヤ王朝は、3代目ラムカーン王の時代に最盛期を迎え、マレーシアやラオス、ミャンマーの一部、それにベトナム南部を含めて、一時期はインドシナ半島のほとんどを勢力下に置いたこともあった。

スコタイ王朝もアユタヤ王朝も上座部仏教を国教化し、王都には王宮のほか数多くの寺院群を建造したが、それらは1767年のビルマ軍の侵攻によって完全に破壊された。破壊された寺院からは建物に使われたレンガも運び去られ、王宮都市は完全な廃墟となった。またラオスのランサーン王国は1779年、アユタヤ王朝の後継であるトンブリ王朝の支配下に入った。この時、ビエンチャンはタイ軍によって焼き払われ、寺院の仏像も持ち去られた。バンコクのエメラルド寺院にある仏像は、このときビエンチャンから持ち去った仏像が祀られているといわれる。

ついでながら、ベトナム南部には、古い記録では2世紀ごろからチャンパ(占婆)という名の王国があり、途中、何度かの消長はあったものの17世紀ごろまで続いたことが知られる。この王国は、数多くの遺跡を残しているが、そのほとんどはヒンドゥー文化の影響を色濃く残したものだった。このチャンパ王国は12世紀には隣のアンコール王国に攻め込み、一時期はアンコール王国の都を支配した時期もあるが、そのあとは逆にアンコール王国やアユタヤ王国に攻め込まれ、消滅しかかった時期もある。

アンコール・ワットなど高度な石造建築技術と彫刻文化の集積である巨大建造物が、その後むなしく廃墟となり、忘れ去られた裏には、これらの建造物を築いた各民族・各王朝が互いに覇を競って領土を侵略しあい、相手の王都を灰燼に帰すまで徹底的に戦った攻防の歴史があった。

平和の宗教であるはずの仏教を信じる王国同士が、なぜこれほどの破壊と殺戮を繰り返すのか、疑問とするところだが、権力者たちの統治手段、選ばれた少数者による民衆支配の道具として利用された上座部仏教の思想的限界がそこにあるのかもしれない。

今回の旅で、実感したことは、この地域が、中華文化でもなくインド文化でもなく、ひとつの歴史共有圏、独自の文化圏を形成しているということだった。