平家物語の時代 6.挫折と焼亡
治承四(一一八〇)年一一月二六日、安徳天皇平安京に還都。
同日、高倉上皇が平頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。
後白河法皇は平教盛の六波羅邸に入る。
これで正式に平安京への帰還が完了したこととなる。
もっとも、福原に移住していた貴族や庶民は福原から徐々に平安京に戻って来ている途中であり京都の賑やかさはまだ戻っていない。建物を取り壊して福原に移築させた影響もあって、それまで建物がひしめいていた土地が荒れ果ててしまっている。おまけに近江国が制圧された影響もあって市には商品が並ばず、並んでいるのは職や住まいを失い、その日の食糧にも事欠くようになった庶民の姿であった。
福原に滞在していた頃は夢にまで見ていた京都はすっかり寂れてしまっていた。それでも再移築と修繕による活況は見られ、京都の復活に希望を見いだす人は多かった。
その希望は日を追う毎に壊れていった。
一一月二七日、源氏討伐が期待されていたはずの延暦寺から、僧兵の多くが近江の源氏方に付くとして延暦寺を脱出しているとの報告が届いた。
一一月二八日、それまで噂されていた若狭国から、源氏方として挙兵する者が続出したとの正式な報告が届いた。若狭国は平経盛の知行国であるが、若狭国の在庁官人の多くが平家を見捨てて源氏に呼応したのである。
一一月二九日、未確認情報であるが近江国の源氏が数千騎という単位で園城寺に入ったという情報が六波羅に届いた。
さらに詳細な日時は不明であるが、伊予国の豪族である河野通清(かわのみちきよ)が反平家で起ち上がって伊予国府を制圧したという知らせも飛び込んできた。
さらに、同じく詳細な日時は不明であるが、河内国で石川義基こと源義基が興福寺と結んで河内国で反平氏の動きをみせているとの知らせも飛び込んできた。源頼政が以仁王に決起を促した際に河内国の清和源氏として挙げた武蔵権守入道義基のことである。既に第一線を退いて出家した身であり、また従五位下の位階を得ていたことも判明しているため、キャリアの終わりを考えていたところでのこの知らせだ。なお、平家物語での源頼政は石川義基の息子のことを石河判官代義兼と述べているが、その他の資料だと石川義基と、河ではなく川の字を用いている。このあたりは平安時代によく見られる漢字の混在使用というところか。
さて、平清盛が京都に帰還したのは、まさに園城寺に源氏が数千騎という単位で入ったという知らせのあった一一月二九日のことである。六波羅でその知らせを耳にした平清盛は、比叡山に任せて琵琶湖を取り戻すのではなく、平家が勢力を結集して軍勢を組織し近江国を取り戻す必要があると決断するに至った。
平清盛はどこかで小さな反乱だと甘く見ていたのだろう。反乱鎮圧ではなく戦争になると口では言っていても、実際には自分たちの勝利に終わり源氏方は壊滅すると確信していた。それが実際には源氏方が東国各地を制圧する勢いになっており、平維盛に命じて出撃させたような程度では済まない規模の軍勢を組織しなければ対処できないことを悟ったのだ。遅きに失したが。
治承四(一一八〇)年一一月三〇日、朝廷は事態を東国逆乱と捉え、挙国一致体制を敷くために治承三年の政変の白紙撤回も含めた検討に入った。
その結果、体調を崩しており上皇としての政務が執れないでいる高倉上皇に代わって後白河法皇の院政を復活させること、および、追放処分となっている前関白松殿基房を復帰させることを決定した。その上で、大納言徳大寺実定から、近江の反乱軍を平定すれば、美濃以下も帰伏すことになるという意見が賛同を集め、追討が本格化することになった。
治承四(一一八〇)年一二月一日、総大将平知盛の率いる数千名からなる軍勢が近江国に派遣され、山本義経と柏木義兼の兄弟の率いる軍勢と合戦に至った。
なお、吾妻鏡でも、平家物語でも、近江国でのこの戦いについての記載は詳しくない。そもそも、吾妻鏡では一二月一日のことと記しているが、平家物語では一二月二三日のことであったとしているなど日付ですら違っている。平家物語は琵琶に合わせて物語を謳うときの盛り上がりを考えて出来事の順番を入れ替えることが多々あるのと、平家物語の記す一二月二三日説はこのあとで鎌倉において発生した出来事を考えると辻褄が合わなくなるので、吾妻鏡の一二月一日が正しいと判断すべきであろう。
この戦いの様子を伝える資料は少ない。その少ない資料を集めると、平知盛は全軍を三つに分けて、近江国への焦土作戦を展開したようである。平知盛自身は琵琶湖沿いに東山道を進み、平資盛の率いる軍勢は東海道へ進み伊賀国方面へ、平清綱率いる軍勢も同じく東海道を進み、途中で分かれて伊勢国方面へ向かう。一団となって近江国の源氏勢力と正面衝突しなかったのは、伊賀国と伊勢国に分かれて進むことで伊勢湾を渡って三河国に渡るという、濃尾平野を挟み撃ちにする形での反乱鎮圧を狙っていたからである。さらに平家は源頼朝討伐の第二陣として、平重衡、平清房、平貞能らが率いる軍勢を結集させつつあった。後続部隊の進軍路を確保することも平知盛は画策していたのである。
ただし、その後として計画していた源頼朝討伐の第二陣の出陣は取りやめになった。一二月二日に平重衡らは途中で引き返してきたのである。平維盛は富士川まで行って戦わずに帰ってきたが、平重衡らが率いる第二陣についてはそこまで行軍することもなく京都へと戻ったのだ。
理由は明白で、兵糧が無い。
もとからして平維盛が略奪しつくしてしまっていた。ここで平維盛と同じルートを通って源頼朝を討伐しに行こうとしても平維盛より先に兵が飢えてしまい戦争にならなくなることは明白であった。ならばまだ兵の命を保つことのできる段階で戻った方がマシだ。
平維盛が逃げ帰ってきたことについては激怒した平清盛も、平重衡らに対しては怒りを見せていない。怒りを見せる前に現実を見せつけられて茫然自失としたというところであろうか。
ただし、平家にとっての朗報も届いてきていた。越後国の城資永(じょうすけなが)から、信濃国と甲斐国の源氏を討伐する用意ありとの連絡が届いたのだ。城資永は桓武平氏の子孫で越後国の中で広大な所領を持つ有力武士団である城一族を統率していた。
現在でこそ新潟県は米どころであるが、この時代の越後国はお世辞にも潤沢な収穫を見込むことのできる土地ではなかった。それでも自給するレベルまではどうにかなっていたのだが、この年の不作は越後国の食糧事情を危機的状況に追いやっていた。
そこに飛び込んできたのが源氏の挙兵である。これは城資永にとって食糧問題を解決する絶好の口実が飛び込んできたことを意味する。源氏を討伐するという名目で侵略し、侵略先の食糧を手に入れるのだ。目的は食糧でも反乱の鎮圧という名目があれば正々堂々と動くことができる。
平家は城資永からのこの申し出に対し、城資永を越後守に任命することで答えとした。城資永が国司としての権限を行使しうる限りにおいて、その行動に法的規制は掛けられないとするものである。なお、平家物語では城資永の越後守任命を翌年二月一日のこととしている。
焦土作戦はさすがに山本義経と柏木義兼の兄弟を慌てさせた。反平家で決起する理由は平家政権によって生活が困窮した人を救うためである。そもそも平維盛の編成した討伐軍が富士川に行くまで繰り広げた略奪が平家に対する反感を強めているからこそ山本義経と柏木義兼の兄弟に対する支持が集まっているのである。焦土作戦は、被害を受ける側に立つと、家を燃やされた上で残された最後の食糧も失うことになる作戦だ。ここで山本義経や柏木義兼が助けに来てくれるなら支持はさらに強固な物となったであろうが、山本義経も、柏木義兼も、平知盛らの軍勢に追い詰められている状況で助けに行ける状況ではない。
記録によると、治承四(一一八〇)年一二月四日には近江国の三分の二を平家は取り戻し、近江国の多くの武士が源氏を捨てて平家方についたという。その上、奥州藤原氏が源頼朝を討伐するために起ち上がって東北地方を南下しているところであるとの情報まで届くと源氏方の勢力は一気に衰滅していった。奥州藤原氏の挙兵については六波羅の流したデマであったことが後に判明するが、この時点の近江国の源氏の武士の立場で考えると、あり得ることとして信じてしまいたくなるデマであった。ただでさえ源氏を見捨てて平家方に流れる兵士が続出している。ここで平家方に流れる方が身の安全を図れるのではと考えているところでこのまま源氏方に留まることのメリットを破壊する情報が流れたら信じてしまってもおかしくない。苦境にあり、かつ、苦境が無意味なのではないかと考え出しているときに、その考えを後押しする情報が届くと、その情報を人は信じてしまいやすくなるものである。
情勢が悪化した近江国の源氏は隣国である美濃国の源氏と手を結ぶことを画策する。美濃国の源氏と合流されると現時点で手にしている兵力差を失ってしまうため、平知盛は源氏の軍勢を追いかけ、一二月五日には早くも近江国と美濃国の国境の近くである柏原に到着。同地で両者の合流を阻止し、平知盛は軍勢を分けて自身は近江国の返事を討伐することに専念し、もう一方の部隊に美濃国へと進軍させている。ちなみに、柏原の東の隣にあるのが後に有名になる関ヶ原であり、律令制の制定直後は東山道から攻め込む軍勢を防御するための不破関(ふわのせき)が築かれていて、この時代は防御機能がかなり劣化してきてはいたものの、それでもこの地点を封鎖することが美濃国と近江国の間を封鎖することをそのまま意味する地理上の重要拠点であった。ただし、美濃国と近江国の間を封鎖することは、そのまま東山道での物資搬入を封鎖することを意味する。ただでさえ飢饉が懸念されているところでの交通路封鎖は、軍事的には意味があっても、経済的には大打撃を与える行為でもあった。
平知盛らの軍勢によって美濃国の源氏との合流を断念させられた近江国の源氏は、園城寺と手を結ぶべく移動を開始。ほぼ同じ頃、比叡山延暦寺が、源氏の仲介のもと園城寺と合流して六波羅に夜討ちをかけることを計画。また、奈良からは近江の平家軍を攻撃すべく興福寺の僧兵が動き出したとの情報が入った。
治承四(一一八〇)年一二月一〇日、山本義経と柏木義兼の率いる軍勢が園城寺に入り、延暦寺からの援軍と合流した後に六波羅へ攻撃を掛けることを決断。ただし、その決断の前に平家の軍勢が立ちはだかった。園城寺を舞台とする激しい戦いが発生し、各地で血が流れ、安寧を願う場であるはずの寺院が死体の並ぶ空間へと変貌してしまった。源氏も園城寺も六波羅侵略については断念するも、平家軍の前には抵抗を続け、平家の軍勢が苦戦しているとの情報が六波羅へと飛んだ。
治承四(一一八〇)年一二月一一日、平清盛は平重衡に軍勢を率いさせて園城寺へ派遣した。平清盛からの指令は園城寺の壊滅である。園城寺に籠もろうとした源氏の軍勢や反平家で起ち上がった僧兵を処罰するのではない。園城寺そのものをこの世から抹殺するのである。さらに、園城寺を破壊した後は軍勢をそのまま東国に向かわせ美濃国と尾張国の源氏の軍勢を討伐するようにも命じた。
既に記したが、平重衡らは既に一度出陣し、兵糧不足を理由に引き返した。一二月二日のことである。実際、この時点で平家の用意できた兵糧は乏しく、第二陣として再編成を試みた軍勢も人数が少なかった。この現実に対し、平清盛は耳を疑う指令を出した。諸国に対して兵糧の供出、貴族に対しては兵士の徴発を命じたのである。この不作の中にあって食糧を持って行かれたらどうなるか、いかに農閑期であるとはいえ働き手を兵士として連れて行かれたらどうなるか、わからない人はいない。しかも兵士を出せと命令しながら報奨は全く用意しない。荘園領主に対して報奨を私的に出すように奨励するのみである。これが受け入れられるかどうかわかりそうなものだが、平清盛はそれを指令した。反乱軍の存在が現在の問題の全ての原因であり、責任は全て反乱軍にあるとしたのだ。反乱鎮圧とは言うが、実際には戦争である。戦争で勝った後にどのような暮らしになるのかを明示することなく、ただ戦えと命じる。これで平清盛への支持率が上昇したらそのほうがおかしい。
平重衡らは園城寺の壊滅を命じられていたが、それでも堂塔などの宗教上重要な部分には手を付けぬよう命じられていた。
だが、戦場というのはそこまで理性の働く場所ではない。攻め込まれている側は懸命に抵抗するし、抵抗を受けた側はさらに攻め込もうとする。塀を挟んだ双方から弓矢の応酬が続き、塀を挟んだ双方とも弓矢で射貫かれた遺体で埋め尽くされてきていた。つい先ほどまで隣で戦っていた仲間が、つい昨日まで一緒に歩いていた仲間が、つい先日まで一緒に笑っていた仲間が遺体となってしまったというのに、これでどうやって冷静になれというのか。
この時代、夜でも明るいなどということはない。赤外線スコープなどあるわけがない。いかに月明かりがあろうと、戦闘が夜まで及ぶと、人影を把握することまではできてもその人影が味方なのか敵なのかわからなくなる。
最悪なことに、まさに夜に園城寺の門が突破され平家の軍勢が侵入してきたのである。怒りと怒りのぶつかり合いの末に、文化財を守る意識よりも先に敵味方の区別をするという意識が働いた。
放火だ。
確かにこの時代の夜襲は火をつけるのがルールであったから当事者としてはルール通りのことをしたという意識であろう。また、宗教上重要な部分に手を付けぬように命じられているとは言え、その場に敵の僧兵が忍び込んでいることも考えられる。
だが、ルールを守った上で戦闘において優位に立つためにした愚かな行為が、園城寺の内部だけで六三七棟の建物の炎上、さらには園城寺の門前町にも飛び火して、一八五三件の民家が火の海に飲み込まれるという大災害を生みだしたとなると、とてもではないが誉められたものではなくなる。慎重に慎重を重ねた末に火を放ったという証言もあり、また、金堂に火が終え移った際には戦闘を中断して鎮火に努めたという証言もある。さらに言えば放火なら源頼朝だってやっているではないか、山木兼隆の邸宅を燃やしたのは放火でなくて何だと言うのだという反論もあろうが、無関係の一般人が戦乱に巻き込まれないように山木兼隆の邸宅に火を放つのと、火を放って周囲の民家を燃やし尽くしたのとでは、同じ火をつけるという行為であっても同列に並べることはできない。
なお、平家物語ではこのときの園城寺襲撃について以仁王を討ち取った直後としているが、園城寺に残っている記録では治承四(一一八〇)年一二月のことである。
この後の園城寺の復興は源実朝まで待たねばならない。
万事休すとなった山本義経と柏木義兼の兄弟はどうやら脱出したらしく、吾妻鏡によると一二月一〇日には山本義経が鎌倉に到着したとあるが、九条兼実の日記によれば一二月一六日に山本義経が立て籠もった山本山城が陥落したとあるので、一二月一〇日に山本義経が鎌倉まで逃れてきたという吾妻鏡の記述には難がある。ただし、山本義経が鎌倉まで逃れて源頼朝と面会したのは事実であり、この後の源氏の軍勢の中に山本義経は含まれている。なお、柏木義兼の消息は一時的に不明となるが、源平盛衰記によると木曾義仲とともに行動したという記述があることから脱出には成功していたであろうことが推測される。
時間は前後するが、ほぼ同時期に脱出することに成功した人が一人いる。その人の名を中原親能という。中原親能は前年の治承三年の政変の直前まで権中納言であった源雅頼の家人であった。その中原親能が源雅頼の邸宅から逃亡したのだ。
中原親能がなぜ逃亡したのか?
検非違使別当平時忠が、中原親能を容疑者として逮捕するという話が出たからである。
この人は相模国の波多野氏のもとで育った人物であり、源頼朝との接点はゼロではない。
波多野義常(はたのよしつね)はたしかに源頼朝から決起に誘われたものの、源氏を見限って平家のもとについた末に、自らの選択の過ちを認め自害している。しかし、波多野義常の自害と波多野氏の消滅とは同じでは無い。波多野義常の死後は弟である波多野義景(はたのよしかげ)が波多野氏を継ぎ、今では波多野氏全体が源頼朝に仕える武士団の一つとなっている。
吾妻鏡には中原親能の逃亡の記録は無いが、九条兼実の日記によると、逃亡したのが治承四(一一八〇)年一二月四日で、中原親能を捕らえるために平家の軍勢が源雅頼の邸宅に来たのが一二月六日であるから、中原親能はギリギリのところで命拾いをしたこととなる。
平時忠が中原親能を捕縛したところで得られた情報などは無かったであろうが、平時忠が中原親能を捕縛しようとしたことは源頼朝に大きなメリットをもたらした。自らの身の危険を感じた中原親能は、平家の手から逃れることのできる可能性のもっとも高い土地、すなわち鎌倉に逃げることを選んだのだ。その時点での京都の最新の学説と、持ちうる限りの書物とともに。
源頼朝のもとに集うのは、スタート時こそ基本的には関東地方の武士であったが、今や関東地方だけでもなければ武士だけでもなくなった。中原親能のように鎌倉に逃れてきた者を迎え入れることもあったが、源頼朝自身がスカウトすることもあった。時系列が逆転するが、上総国に流罪となっていた阿闍梨定兼を治承四(一一八〇)年一二月四日にスカウトして鶴岡八幡宮の供僧職、すなわち鶴岡八幡宮の上から二番目の役職に任命したのもその一環である。鶴岡八幡宮に限らず、石清水八幡宮にしろ、宇佐八幡宮にしろ、この当時の八幡宮は神仏混交の神社であり、トップである別当は神官が就くが、上から二番目の役職は僧侶が務めるのが決まりである。この、上から二番目の役職を務める僧侶のことを供僧という。なお、供僧のことを上から二番目の役職を務める僧侶と書き記したが、供僧は一人というわけではなく複数名おり、鶴岡八幡宮は後に二五名の供僧を置くのが慣例化した。ただし、治承四(一一八〇)年時点ではそこまでの人数がおらず、鶴岡八幡宮所蔵の歴代の供僧についての記録である「供僧次第」には、一人、また一人と源頼朝がスカウトしていったことが記録に残っており、阿闍梨定兼もそうした僧侶の一人である。阿闍梨定兼だけ吾妻鏡に特別に記録に残る栄誉を得たのは上総国に流罪になっていた僧侶をスカウトしたという特筆すべき背景があったからであり、ごく普通の日々を過ごしていた僧侶を源頼朝がスカウトしたというケースは、それが当たり前だったからなのか吾妻鏡に記録が残って折らず、鶴岡八幡宮自身の記録しか残していない。
近江国で合戦が繰り広げられていた頃、鎌倉は新しい権力が現在進行形で誕生していることを示す式典が開催された。
源頼朝はそれまで上総介広常の邸宅を間借りして住んでいたが、治承四(一一八〇)年一二月一二日の亥刻、現在の時制にすると午後一〇時頃に、源頼朝が新しく建設された邸宅である大倉御所に移ったのである。これを新邸移徒という。新邸移徒は普通であればただの転居であるが、源頼朝はただ単に移り住むのではなく新邸移徒をイベントにした。
現在と違って夜は暗い。夜道を歩くときは松明(たいまつ)を用いるのが普通だ。鎌倉に住んでいる庶民にとって、夜中に大量に松明が照らすという光景だけでも人生で何度体験できるであろうかという出来事である。いつもなら寝ている時間であるが、大量の松明に照らされる道を源頼朝が中心となる武士たちが馬に乗って行進するとあっては、多くの人が眠らずに起きている。ついでに言えば見物は自由と事前に伝えている。
新邸移徒の行列の先頭は和田義盛がつとめ、加々美長清が源頼朝の左に、毛呂季光が源頼朝の右に従い、以後、北条時政、江間義時、足利義兼、山名義範、千葉常胤、千葉胤正、千葉胤頼、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、工藤景光、宇佐美助茂、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱といった面々が続いて、最後に畠山重忠が従う。畠山重忠は当初源頼朝に対抗していた武士であったが、今では源頼朝の軍勢の一翼を担うまでになっている。錚々(そうそう)たる面々が揃っているだけでなく、たとえかつては敵となっていようと源頼朝のもとに集うならば仲間として受け入れるという寛容さをアピールする効果も持っていた。
また、こうした行列を京都で見るとすれば、邸宅を移る貴族は牛車に乗るか輿に乗るかして移動するものであり、庶民の目に貴族の姿が見えることはない。行列に武士がいたとしてもそれは周囲を固めるボディーガードとしての武士であって貴族と対等な立場ではない。平家の行列でもそれは例外ではなく、自身のことを武士でもある貴族と自任している平家は平時の行動様式の基礎を従来の貴族と同じ観点に置いている。しかし、新邸移徒のときの源頼朝は他者と同様に馬上の人である。姿が見えぬ牛車や輿ではなく誰の目にも止まる馬上の姿を見せることは、鎌倉を中心に新しく構築しつつある権力というのがそれまでの貴族とは違った、より庶民に近い存在によって構築されつつある権力だと示す効果があった。しかも源頼朝のことのきの格好は平時の武士の正装である水干(すいかん)だ。水干は確かに平時の武士の正装であるが、本を正せば庶民の日常の衣服である。素材の違いはあったであろうが、源頼朝は庶民と同じ格好で新邸移徒をするというアピールにもなったのだ。
大倉御所への新邸移徒は確かに庶民向けのアピールであったが、大倉御所は庶民の暮らしとはほど遠い。
大倉御所は源頼朝の私的な邸宅であると同時に源頼朝の軍勢全体の基地となるべく建設された邸宅である。敷地だけで東西二七〇メートル、南北二〇〇メートルに達する。東京ドームも甲子園球場も中にすっぽりと収まるサイズだ。しかも、この時代の邸宅の基本形でもある貴族の寝殿造りを基本としてはいるものの様々な箇所に武士としての最適な施設となるように設計されている。
たとえば馬の飼育小屋である厩(うまや)の大きさがそれだ。横幅がおよそ三〇メートルという類を見ない敷地面積であり、大倉御所への新邸移徒時は源義経を通じて奥州藤原氏より手に入れたこの時代の最上級の名馬が三〇頭も並んでいた。馬を並べるぐらいは多くの貴族の邸宅で見られたことであるが、武士だからこそわかる戦場において頼ることのできる名馬を揃えたことは、源頼朝がいかに貴族としての教育を積んできたと言っても、やはり源頼朝は武士なのだと認識させるに充分であった。それに、功績を果たしたが所領を得られるほどの功績ではないときの報奨として馬を拝領することもあるだろうという期待も抱かせた。
また、厩(うまや)だけでなく建物としての侍所は柱と柱の間が一八もある横長の構造になっていたことも大倉御所の特色として挙げられる。柱と柱の間が一八もあることから侍所の通称が「十八間」となったほどである。京都の貴族の邸宅にも侍所はあるが通常は三間。それが大倉御所ではその六倍のサイズである。ちなみに、柱の間が一八もあると言っても縦横に広いわけではなく京都の三十三間堂のような横長の構造である。
なぜ横長になるのかというと、大倉御所の侍所という場所は武士たちが二列に並んで座ることを想定して作られるものだからである。もっとも二列に並んで座ることそのものは京都の貴族の邸宅でも普通に見られることで、通常ならば三間であるというのはそれだけの敷地があれば侍所の全ての官人を収容できたからである。それが、この日の大倉御所の侍所は通常の六倍である一八間。しかも、それだけの大きさがあっても収容しきれない人数の武士が詰めかけたのだ。何しろ三一一名という大人数だったのだから。
ただし、こうした巨大な侍所という構造は大倉御所が最初では無い。治承三(一一七九)年の一月に平清盛が相模国松田の波多野氏の邸宅の中に二五間という巨大な侍所を建設させた記録があり、実現はしなかったものの、富士山や鹿島神宮への参詣を計画していた平清盛を迎え入れた際に、東国の平家の武士たちを平清盛の前に一堂に会させるために建設させたという。波多野氏の邸宅に設けられた侍所がその大きさを活かす侍所として実際に利用されることは無かったが、平清盛の建設させた侍所よりは小さな、しかし、一般の侍所よりははるかに大きな大倉御所の侍所は、自分たち自身の組織の巨大さを認識させる効果を持っていた。我々はこれほどの大きな侍所ですら入りきらないほど巨大になったのか、と。
さて、治承四(一一八〇)年一二月一二日の大倉御所への新邸移徒の際に三一一名もの武士が侍所に二列に並んで座ったのであるが、三一一名という数字は奇数であり、誰か一人が余ることとなる。余ったのは侍所別当の和田義盛だ。かといって和田義盛だけが誰も居ない壁を相方として座ることになったわけではなく、和田義盛は源頼朝の座る上座の近くに自らの席を置き、誰が出仕したのかを確認している。誰が出仕したのかを確認するのは和田義盛に限らず、貴族の邸宅において侍所別当となった者であれば例外なく実施する職務である。そもそも、平時では誰が侍所にいてその日の業務に誰を充てることができるのか、緊急時には誰がどのような作戦に従事できるのかを確認するのが侍所別当という役職だ。伊藤忠清は関東八ヶ国の侍所別当という称号を平清盛から得ただけで実際の職務は何ら着手しなかったが、和田義盛は着任初日に侍所別当の職務を果たしたのである。
和田義盛がすぐ近くにいるとは言え、基本的には源頼朝が一人で上座に座り、その他の武士たちは源頼朝と向かい合っている。つまり、一目瞭然の形で源頼朝と主従関係になったわけである。研究者の石井進氏は、この瞬間が御家人の誕生であるとしている。御家人という用語の誕生について実際に具体的な日付が判明しているものではないが、石井進氏の意見を裏付けるかのように治承四(一一八〇)年一二月一二日以後に御家人という用語が頻出するようになっている。
さらに研究者の中には、この瞬間を以て鎌倉幕府の成立としている人もいる。この時代はまだ一部地域に限定された権力であり、実際に鎌倉幕府の成立と断言して良いかどうかは躊躇するところがあるが、後の鎌倉幕府の根幹はこのときに誕生したというのは間違っていない意見と言えよう。
なお、吾妻鏡の吾妻鏡の治承四(一一八〇)年一二月一二日の記載によると、このあとで御家人たちが大倉御所の近くを選んで住まいを構えるようになったという。また、鎌倉は元々辺鄙なところであり漁師と百姓しか住んでいる人がいなかったと記しているのは吾妻鏡の同日のこの箇所であるが、前者はともかく後者の記述は他の史料と発掘調査から否定されている。だいいち、そうでなければ源頼朝が大倉御所に向かう行列に人が詰めかけることもできない。ただし、この日以降という言い方は正しくないにしても、大倉御所への新邸移徒と鶴岡八幡宮が契機となって、鎌倉という都市が、地域の中では大規模である都市から、時代を代表する巨大都市へと発展する基盤ができあがったという言い方であれば、正しい。
その後、一二月一四日に、武蔵国在住の武士たちの多くに対し、代々知行している所領については元のとおり認めるとの正式な命令が出された。このときは北条時政と土肥実平の両名が担当となり、藤原邦通がこの命令書を発行した。この時点では、侍所は組織としてできあがりつつあったが、政所はまだ成立していない。武士以外の人も源頼朝のもとにやってきているとは言え、まだまだこうした事務作業を成り立たせることのできる人材は不足していた。それでも大倉御所で事務作業が始まったことは大きかった。単に武力で暴れ回る集団ではなく、平家に取って代わる新たな権力機構が、そして、朝廷と対等に渡り合える基盤を持つ権力機構が、鎌倉に現在進行形で誕生しているのだと内外に示す効果があったのだ。
鎌倉ができつつあるのと比例するかのように京都は壊れつつあった。
確かに福原遷都の痛手はあった。多くの建物が福原に移築するために壊された影響で、治承四(一一八〇)年一二月初頭時点では建物を復旧させている途中であった。ただ、壊れたものを元に戻そうとしているのだから、本来ならばこの時点の京都を形容するとすれば壊れつつあるという形容とするのはおかしいはずである。しかし、この時点の京都は壊れつつあるとしか形容できぬものであった。
首都が平安京に戻ったことを、九条兼実は治承四(一一八〇)年一二月三日の日記に京都に都が戻ってきたおかげで反乱軍の勢いが衰えてきているとまで記しており、具体的に何月何日のことであるかはわからないが、興福寺と結んで河内国で反平氏の動きを見せてきていた石川義基が家人である源貞弘に討ち取られたとの知らせも入ってきている。ただし、実際の戦況として源氏方敗北を実感できるのはこれだけである。そして、日付が進むにつれて悲壮感が増していく。平清盛が諸国に対しては兵糧の供出を、貴族に対しては兵士の徴発を命じたというのは既に記した通りであるが、それが一二月一五日に至るとさらに度合いを増し、皇嘉門院藤原聖子と右大臣九条兼実の所領を全て没収して武士に与えるとしたのである。源頼朝は平家方の武士を討伐し、それまで平家方の武士が所有していた所領を没収して功績のあった武士に分配したが、平清盛はそれをしなかった、いや、できなかった。関東地方の平家方の武士の所領は源頼朝とともに戦ってくれた武士たちに分け与えることができるだけの広さを持っていたが、京都近郊だけでなく近江国や美濃国にまで広げたとしても、源氏方の武士の持つ所領は平家方の武士に分け与えるほどの広さなどない。皇嘉門院藤原聖子にしても、九条兼実にしても、明白に平家方でないという理由だけでいきなり自分の持つ所領を没収するというのであるから黙っていられるわけがない。とは言え、反抗する手段は無い。面と向かっての口論だけで済むならどうにかなろうが、相手は弓矢を構え刀剣を手にした軍勢である。
京都の貴族たちにとって、平家の手によるこうした所領の没収を前に執りうる手段は二つしか無かった。一つは平家の積極的な協力者となること、もう一つは自分より平家への協力の姿勢が乏しいと見られる者を糾弾することである。
そんな中、平家への協力の姿勢を見せなくても許される人物が二人、京都に復帰した。厳密に言えば復帰することが決まっていたのが、ようやく正式に復帰できたと言うところだ。まず、一二月一六日の夜に松殿基房が配流先の備前からようやく京都に戻ることができた。いや、治承三年の政変で太宰府へ追放される途中に出家したので、正式には法名である善観と呼ぶべきか。また、京都に戻ったと言っても平安京の中ではなく、平安京の北西の嵯峨の地だ。いつでも松殿基房に戻って京都に戻ることはできるが、今はまだ一人の僧侶である善観であり、今はまだ京都に戻っていないという言い方はできる。
そして一二月一八日、後白河法皇の院政が復活した。既に高倉上皇の体調は回復の見込みがなく、摂政近衛基通は二二歳という若さからくる経験の無さが如実に表れて混迷を生みだし、安徳天皇の年齢を考えると天皇親政などありえず、選択肢としては後白河法皇の院政しかない。ただし、後白河法皇はちょっとした嫌がらせも受けている。後白河院の財政基盤となる知行国、いわゆる院分国として、讃岐国と美濃国が選ばれている。後者は今まさに反乱が起こっていて鎮圧中の国であり、前者は保元の乱で敗者となった崇徳上皇が流された国だ。それでも鎮圧後は有力な財政基盤となる美濃国はいいが、崇徳上皇怨霊伝説の残滓がなお健在である時代であるのに崇徳上皇が流された讃岐国が院分国となったのであるから、さすがに世間の注目を集めずにはいられない。
治承四(一一八〇)年一二月中旬、平安京で貴族間の疑心暗鬼が広まっているのとは対照的に、鎌倉は賑わいを見せていた。一二月一六日に大倉御所に次ぐ第二の拠点である鶴岡八幡宮に鳥居が立って一般公開が始まったのである。なお、八幡宮は神仏混交の神社であり境内の中に神宮寺を設置しているのが通例であるが、治承四(一一八〇)年一二月時点の鶴岡八幡宮はまだ神宮寺を内部に設けておらず、この時点では最勝寺が鶴岡八幡宮の神宮寺の役を果たしている。
鶴岡八幡宮の鳥居の一般公開開始の日、最勝寺の僧侶たちは鳥居完成を祝い鎌倉の安堵を祈る読経を一日中続けた。読経を拝聴するというのは、ありがたい経を聞くというのもあるが、日常にBGMなど存在しない時代、寺院より聞こえる読経は男声合唱団のコーラスを聴くような音楽鑑賞であり、参詣だけであればそれなりの頻度で体験できても読経の声の聞こえる参詣となると滅多に味わえない娯楽でもあった。
源頼朝は水干を着て立派な馬に乗って参詣しているが、この日に参詣したのは源頼朝だけではない。もう一度記すが一般公開だ。鎌倉にいる武士たちも、鎌倉に住む庶民も、鎌倉の新しいランドマークである鶴岡八幡宮に集って祝祭に包まれた。
この百年間に京都を離れた場所に誕生している新しい都市に未来を見いだした人は数多くいた。まず奥州藤原氏の平泉、次いで平家の福原、そして源頼朝の鎌倉はこうした都市だ。いずれも全くのゼロから都市を造ったのではなく既に存在していた集落を利用し、集落の利用する交通路を拡充させて大都市を創りだしたという点で共通している。新しい都市というのは野心溢れる人を惹きつける魅力がある。リチャード・フロリダ氏の著書にもあるが、既存の都市に居続けるのでは手にできない成功でも、これから興隆しようとする都市に身を寄せ、都市が発展していくのに合わせれば、実現は不可能ではない。
それでいて、平泉と福原と鎌倉とでは迎えた運命があまりにも違いすぎる。平泉を治める奥州藤原氏は地域の権力者であろうとした。奥州藤原氏の滅亡で灰燼に帰したが、それが無ければ都市機能は残っていたであろう。ただし、京都に取って代わるほどの都市にはなれなかった。福原を治める平家は天下を握った。そして、福原を平家の本拠地という枠を越えて京都に取って代わる存在にさせようとして失敗した。では、鎌倉は?
鎌倉はあくまでも地方の都市であり、相模国の境域を越えて関東地方全体に対して君臨することはあっても、京都に取って代わる存在であろうとはさせなかった。ただし、鎌倉を治める源頼朝は平家打倒を明言している。平家を打倒すると言うことは、平家のように朝廷を乗っ取るとまでは言わなくとも、否応なく日本国の中軸に自らも加わることを意味する。そのようなとき、鎌倉もまた否応なく地方の一都市以上の存在へと意識させられることとなる。
それでいて鎌倉は京都から遠い。福原は京都のすぐ近くであり、京都から簡単に移住できる。福原でダメなら京都に戻ればいい話だ。一方、鎌倉は京都から簡単に来ることも京都に簡単に戻ることもできない。鎌倉時代に入れば整備されるが、この時代はまだそこまでは整備されていない。しかも鎌倉を治める源頼朝は、朝廷に言わせれば反逆者だ。鎌倉に行くと決意するのは亡命にも似た覚悟を必要とする。
その覚悟を必要としても、鎌倉を選ぶ人は多かった。
吾妻鏡はそうした人たちを伝えている。
まず、治承四(一一八〇)年一二月一九日、平知盛に仕えていた橘公長が長男の橘公忠と次男の橘公成とともに鎌倉に入った。平重衡の率いる軍勢に加わるよう平宗盛に命令された際に、自分たちが加わる軍勢がどのような運命を迎えるかを考えて鎌倉に来ることを選んだのだという。良かれ悪しかれ平家は平清盛からのトップダウンである一枚岩の組織だ。本人としては平家の誰かに仕える武人であるという意識であっても、たとえばこのときの橘公長のように本人は平知盛に仕える武人であるという意識を持っていたとしても、平家の誰かに仕える武人であると言うことは、誰に仕えているのかなど関係なく平家の命令一つで平家の展開する作戦に従事しなければならなくなることを意味する。近代国家の組織的な軍隊というものは、いや、これは古代ローマでも古代ギリシャでも言えることであるか、国家の軍隊というものは自分の上官が誰であるかを選ぶなどできない。軍の命令で配属が決まり軍の命令で作戦に従事する義務がある。しかし、この時代の武士にそのような感覚はない。自分は日本国の軍人の一人という意識は国外から侵略されたとしたら芽生えるであろうが、基本的にはどの所領を有する武士であるかという意識、そして、どこの誰に仕える武士であるかという意識の方が先に働く。橘公長の例で行くと、平知盛に仕える武士であるという意識ならばあるが、平家全体に仕える武士という意識は無く、意識の外にあるところからの命令に従うぐらいならば仕える主君を変えるという感情が生じる。その結果が、源頼朝だ。
味方以外を全て敵と遇する平清盛と違い、敵以外は味方と見なすだけでなく、ついこの間まで敵であった人でも自らのもとに出向いてきた人は全て味方と遇するのが源頼朝という人だという評判は既に流れてきていた。当然ながら、この時点でも源頼朝と梶原景時との密約については極秘である。事情を把握している人は何が起こって石橋山の戦いかの敗戦からここまで来ることができたかを察していたであろうが、口にする人はいない。そこで、橘公長は息子たちとともに知り合いの縁で頼って加々美長清に仲介を頼み、源頼朝と面会して御家人として取り上げられることとなった。
橘公長は自らの意思で京都を捨てて鎌倉を選んだ人であるが、やむを得ず鎌倉を選ばなければならなくなった人もいる。治承四(一一八〇)年一二月二二日の新田義重がそれだ。新田義重は平家方として起ち上がり、近隣の平家方の武士でもある足利俊綱の自滅もあって、上野国で自らの勢力を築くことに成功しつつあったが、そこに信濃国から木曾義仲がやってきた。後に木曾義仲が何をやったかを知っている人からは信じられないであろうが、このときの木曾義仲は上野国の庶民にとっては解放者であった。木曾義仲の圧力に圧倒されていた新田義重のもとに安達盛長がやってきて源頼朝のもとに降るように促され、鎌倉まで足を運んで源頼朝に従うこととした。なお、源頼朝と直接の戦火を交えてはいないが、仕方なしに源頼朝のもとに降るという姿勢を隠さなかったのと、上野国の寺尾館になお軍勢を待機させていることもあって、ただちに鎌倉に入ることは認められず、鎌倉の北にある山ノ内に留め置かれている。
新田義重はやむをえず源頼朝のもとに降ったという態度を隠さなかったために山ノ内に留め置かれたが、新田義重が山ノ内に留め置かれたのと同日に、新田義重の孫である里見義成はすんなりと源頼朝のもとに面会でき源頼朝の御家人となっている。里見義成はもともと京都にいたが、祖父の新田義重と共に源頼朝を討伐するため上野国に帰るという名目で京都を脱出して、討伐ではなく源頼朝の御家人となるために東海道を東へと進んだ。なお吾妻鏡によると、里見義成は鎌倉に向かう途中、現在の静岡県沼津市にある千本松原において、平家の一員に加わるために上洛している途上の斎藤実盛と瀬下広親と会ったという伝承がある。源氏の一員となるべく鎌倉に来る者がいれば受け入れ、あくまでも平家の一員であろうとする者がいるなら京都に行くことも止めなかったという視点から挿入されたエピソードであろう。ちなみに、斎藤実盛は富士川の戦いでの平家の陣営で東国武士の勇猛さを語ってしまい平家の軍勢を意気消沈させてしまったその人である。
新田義重が源頼朝のもとに降る理由となった木曾義仲についての動静は治承四(一一八〇)年一〇月一三日から二ヶ月以上にわたって不明であるが、上野国にいたことは間違いない。
一二月二四日に木曾義仲が上野国を去って信濃国に戻っているのである。なお、木曾義仲の信濃国帰還を伝える吾妻鏡の記録では源頼朝の勢力が木曾義仲を圧倒してしまっているので信濃国に待避することにしたとなっている。
ところが、少し視点を変えると別の理由も見えてくる。関東地方における源頼朝の勢力が強くなっていて上野国の木曾義仲では太刀打ちできなくなっているのは事実であるが、信濃国における木曾義仲の立場を脅かす出来事も起こっていたのである。
越後守城資永(じょうすけなが)が信濃国に侵攻する気配を見せたのだ。
実際の行動は現実的では無い。何しろ一二月だ。越後国から信濃国に侵攻しようものなら雪に阻まれる。しかし、雪で信濃国と越後国との間の国境が封鎖されていることと、侵攻準備をストップすることとは一致する話ではない。いや、雪のおかげで交通が遮断され情報のやりとりが乏しくなっているからこそ極秘裏の作戦が展開しやすくなる。雪が解けて交通路が再開されたと同時に信濃国に侵攻するのだ。
城資永が信濃国に侵攻する理由は、名目は越後国司として朝廷に刃向かっている源氏方の武士を討伐するため、実際の理由は兵糧の略奪目的だ。不作は越後国も例外ではなく越後国の食糧事情は厳しくなっている。しかし、残された数少ない食糧は、来年の収穫までの一〇ヶ月間を耐えることができるかどうかを考えるから乏しくなるのであり、雪が解けて信濃国に侵攻し食糧を奪い取ることができるまで、具体的には半分の五ヶ月間を耐えることができるかどうかで考えれば、どうにかなるという答えに行き着く。雪が解けるまでの三ヶ月と、信濃国を制圧するまでの二ヶ月さえどうにかすれば飢えに苦しまなくていいとなれば、絶望が希望に代わる。
越後国にとっての希望は信濃国にとっての絶望だ。前述の通り、越後国と信濃国の情報のやりとりは乏しくなっている。乏しくなっているのであり、ゼロではない。情報のやりとりが乏しくなっている状況というのは、それも物理的に情報連携ができなくなっている状況というのは、厳選された情報が届く状況でもある。源頼朝のようにどのような情報があろうと、あるいはそもそも連携するような情報が無い平穏な日々であろうと、京都と伊豆との月に三度の定期連絡を欠かさなかったというのは例外中の例外だ。上野国の木曾義仲の元に届いたのは、越後国の城資永が信濃国に侵攻する気配を見せたというこれ以上なく重要な情報である。理論上は、上野国にいる木曾義仲ができうる限りの軍勢を率いて上野国から越後国に攻めていけば、城資永の計画を断念させることができるばかりか越後国の制圧も不可能ではない。だが、現実的では無い。既に記した通り、この時代の上野国から越後国に抜けるルートは、存在しないとまでは言わないが整備されていない。ましてや雪に覆われているのだから命懸けの大冒険旅行になる。木曾義仲にできることは、一刻も早く信濃国に戻って城資永の侵攻に対抗する準備を整えることである。
木曾義仲が上野国から信濃国に舞い戻っている頃、京都では平家の勢いが盛り返してきていた。もっとも、それと支持率の回復とは全くつながっていない。
たとえば、近江国を平家の支配下に取り戻したことで北陸道の道程確保の目処が立ったことから、平維盛を指揮官とする軍勢を結成し、若狭国の反乱鎮圧とその東の越前国までの北陸道の道程確保を命じて出陣させたことについては理解できる。治承四(一一八〇)年一二月二二日のことで、富士川の戦いでの汚名返上の意味も含まれるにしても、北陸道の交通路復活と平安京の飢饉を未然に防ぐ対策だと考えれば理解できる。
問題はその後だ。
富士川の戦いは平家にとって、より正確に言えば平清盛にとってよほどの痛事であったのか、一二月二四日、平清盛は何の前触れもなく、このとき左兵衛尉として京都にいた武田有義の妻子を殺害させただけでなく、その首を門前に晒すといった暴挙に出ている。武田有義は武田信義の子であるが、本人は父と違って平家の軍勢と戦ったわけでなかったばかりか、福原や京都で平家政権下での一武官として職務を遂行していたのである。それでも平清盛は怒りを隠せなかったのか、本人ではなく家族を殺害した。当初は何者かによる犯行と見られていたものの実際には平清盛の命令による殺害であり、犯人の取り調べどころか捜索すら行われることなく放置された。
これだけでもただでさえ低くなっていた平家への支持率が限界まで下がる出来事が、その翌日の一二月二五日に始まった。いや、始まってしまった。平清盛の命令により、平重衡を総大将、平通盛を副将とする南都討伐軍勢の派遣が決まってしまったのだ。
平家物語は南都討伐の軍勢派遣をやむをえないことであったとする。
以下は平家物語に記された、南都討伐の軍勢派遣の契機となった事件である。
園城寺が破壊されたという知らせを受けた奈良の興福寺は、次は自分たちが破壊されてしまうとして平家打倒に起ち上がった。興福寺は藤原氏の氏寺であり、興福寺で起こったことの情報は、どこよりも先に藤原氏のもとへと届く。このときも摂政近衛基通のもとに真っ先に届き、近衛基通は興福寺蜂起の知らせが平家の元に届く前に鎮静化しようと使者を派遣した。
興福寺は藤原氏の氏寺であり、摂政近衛基通の派遣した使者であるのだから通常であれば興福寺は使者を受け入れるところであるが、このときの興福寺は違った。僧兵たちが牛車の前に立ちはだかり、藤原摂関家からの使者であろうと平家の飼い犬であろうと通さぬとしただけでなく、牛車の側を歩く供の者のうち二人が烏帽子を脱がされ髻(もとどり)を切り落とされたのである。この時代、烏帽子を脱がされるということは現在で言うと下着を見られるに等しく、髻(もとどり)を切り落とされるというのは下着を脱がされるに等しい恥辱である。考えていただきたい。今でも反政府デモはある。そして、デモの面々と話し合いをしようと使者を派遣することもある。その上で、使者の言葉に耳を貸さないだけでなく、使者たちのうち二人の服をはぎ取って下着姿にさせただけでなく、その下着も脱がして公衆の面前に晒したとしたらどうなるか。言っておくが、下品なバラエティ番組の話をしているのでは無い。蜂起した群衆と話し合いをしようとした結果の出来事なのである。これで平然としていられるであろうか?
また、興福寺では毬杖(ぎっちょう)、今で言うフィールドホッケーのようなスポーツをすることがあり、寺院でスポーツをすること自体は特に問題ないのだが、毬杖(ぎっちょう)で使うボールを「平相国の頭(こうべ)」、すなわち「平清盛の頭」と名付けて「うて」「ふめ」と言いながら毬杖(ぎっちょう)をしているという話まで伝わった。こちらの場合は今でも似たようなことが見られる、あるいは、今のほうが酷い光景が展開されているので何も言わないでおく。
さすがにここまで来ると平清盛のもとまで情報が届く。それでも平清盛は話し合いによる解決を模索して瀬尾兼康を大和国の検非違使に任命した上で興福寺への使者として奈良に派遣した。瀬尾兼康は五〇〇名ほどの軍勢を率いて興福寺に向かったが、この軍勢には特色があった。誰一人として武装していないのだ。鎧も兜も身につけず、弓矢などの武器も持たず、たとえ興福寺の僧兵から何をされても何もせずに耐えていることが厳命されたのである。
結果は興福寺の僧兵たちからの一方的な襲撃である。およそ六〇名が興福寺の僧兵に捕まり、捕らえられた者は一人一人首を切り落とされ、首が猿沢の池の端に並べられたのだ。
さすがにこれを聞きつけた平清盛は激怒し、平重衡と平通盛の軍勢を指揮させ、およそ四万という軍勢で南都に向けて出発させたというのが平家物語の伝えるところの南都討伐の軍勢派遣に至る経緯である。
実は、摂政近衛基通の派遣した使者の髻(もとどり)を切り落としたという事件、毬杖(ぎっちょう)のボールに平清盛の名をつけたという事件、そして、瀬尾兼康をはじめとする使者のうちおよそ六〇名も殺害され首が並べられたという事件、こうした事件を伝えるのは平家物語だけであり、その他にこれらの事件を伝える記録は無い。
ただし、興福寺の僧兵が武士たちと連携して平安京に向かってきている、あるいは、延暦寺の僧兵が六波羅へ襲撃を掛けようとしているというデマが広がっていたのは事実であり、治承四(一一八〇)年一二月一六日に鎮静化のための軍勢出動があったことは記録に残っている。
九条兼実は一二月二二日の日記に、平清盛が「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅すべし」と述べた上で奈良への軍勢派遣の準備をしていると記しており、平重衡も、平通盛も、このあとで平清盛の命令を愚直に遂行したことが読み取れる。なお、平家物語はこの南都討伐軍の軍勢を四万としているが、権中納言藤原忠親の日記では数千とある。実際に派兵できた軍勢は後者の数字であろう。
平家物語によると一二月二五日の出陣からただちに戦闘に至ったかのような描写であるが、実際には一二月二五日に出陣してその日のうちに宇治に到着して一泊。悪天候のため宇治にさらに一泊追加となり、一二月二七日に宇治を出発して木津へ到達。木津で軍勢を分け、平重衡はそのまま南下して奈良へ、平通盛はいったん奈良坂を経由して北東から奈良へと進軍した。なお、九条兼実は河内方面に展開した部隊が興福寺の派遣した軍勢の攻撃を受け三〇名ほどが戦死したと日記に記しているが、そのあたりの詳細は不明である。
一二月二八日、興福寺は平家の軍勢を迎え撃つべく抵抗を見せるも、木津川河岸、奈良坂、般若坂と徐々に前線は興福寺に近づくようになり、戦況としては平家側が有利で興福寺が追い詰められる状況になっていたのであるが、それでも最終的な決着とはならずにいた。
かつて平城京のあった奈良の市街地での戦闘となるも興福寺の抵抗は激しく、平家軍も興福寺も多くの戦死者を生みだしていた。戦いは日が暮れても続き、太陽光の代わりに炎灯りが戦場を照らすこととなった。
いわゆる「南都焼討」である。
平家物語によると平重衡の命令により民家に火をつけたのが興福寺にも飛び火したとあるが、実際には先に興福寺に火をつけたようである。もし平家物語の通りだとすれば平重衡の行為は到底許される話ではない。夜襲時に火を放つのは、攻撃対象であり、かつ、戦乱に巻き込まれる庶民が逃げ込む可能性のある建物であればやむをえないとされるのに対し、戦闘と無関係の民家に火を放つとなるとマナー違反などというレベルでは済まない話だ。
それだけでも問題であるが、その後がもっと問題になった。いかに平清盛から興福寺を消滅させよと命令されていたとは言え、被災範囲があまりにも酷すぎたのだ。興福寺だけならばまだしも周辺の寺院や民家にも飛び火し、奈良という都市の多くが灰になってしまったのである。
このときの火災の被災状況を列挙すると、まず東大寺の建物としては、中門、回廊、講堂、東塔、東南院、尊勝院、戒壇院、八幡宮、そして大仏殿が挙げられる。何れも東大寺の中枢を担う建造物であり、被災を免れることができたのは正倉院などごく一部の建物だけであった。大仏殿の火災で大仏は頭部と手が焼け落ちて胴体の前後に落ち、火災後の東大寺に足を運んだ人は大仏が壊れている姿にこの世の絶望を見た。東大寺の言い伝えである「天下が栄えればわが寺も栄え、天下が衰えればわが寺も衰える」から、多くの人がまさに天下が衰えていることを悟り、天下を握る平家が滅亡へ歩み出していることを噂しあうようになったのである。
平家の軍勢の攻撃が最も激しかった興福寺は、受けた被災が東大寺以上であった。五重塔、二基の三重塔、中金堂、東金堂、西金堂、講堂、北円堂、南円堂、僧坊、さらには興福寺の権勢の拠り所でもある大乗院と一乗院もこのとき焼けたことが当時の日記に記されている。
また、建物だけでなく、東大寺の所有する仏像、仏具、経典の多くも失われ、その中には藤原冬嗣をはじめとする歴代の藤氏長者たちの納めてきた仏像や経典も含まれていた。
東大寺と興福寺以外の被災状況についてであるが、春日社、新薬師寺、ならびにその周囲の民家は無事出会ったことが判明している一方、東大寺や興福地の西に広がっていた集落は火災を免れることができずに焼け落ちたとされている。
このときの火災による死傷者の数は、平家物語が三五〇〇名ほどとしているのに対し、吾妻鏡は一〇〇名ほどとしているなど大きな違いがある。特に、平家物語で一七〇〇名以上の死者が出たとされる東大寺大仏殿での死者は、吾妻鏡では三名だ。おそらく平家物語は火災から逃げようとして悲劇を迎えた庶民や僧侶のことを誇張して書き記したのであろう。
たとえば、以下に記すのは平家物語にある有名なエピソードであるが、実際の話であった可能性は低い。
平家物語では、火災を目の当たりにして、歩ける者は奈良の南にある吉野やさらに南にある十津川まで逃れていくことを選んだが、歩くことのできない老いた僧侶や、奈良に残って仏門に励み続ける決意をした修行僧、寺院内の稚児、また、周辺に住む女性や子供の多くが、平家の軍勢が攻め込んでくることはないであろうと考えた東大寺大仏殿の二階に逃れ、さらに平家の軍勢が追いかけてこないように階段を取り外してしまったという。このとき東大寺大仏殿の二階には一七〇〇名以上の人が逃げてきたというのが平家物語での記載だ。
ところが、大仏殿まで炎が飛び移ってきた。
階段を取り外してしまったために大仏殿の二階から逃れることができず、一七〇〇名以上の人が生み出す阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されてしまったのだ。
地獄絵図は東大寺大仏殿だけではない。平家物語の伝えるところにとると、興福寺での死者も八〇〇名はおり、別の御堂で五〇〇名、さらに別の御堂で三〇〇名が亡くなり、民間人の被害者だけでも三五〇〇名以上、さらに戦場に散った興福寺の僧兵が一〇〇〇名を越えるという。平重衡らは何名かの興福寺の僧兵の首を般若坂にある般若寺の門前に飾り、また別の僧兵の首を京都まで持ち帰ったというのが平家物語の記すところだ。
平家物語の伝える悲劇は誇張したところがあるとは言え、真実を隠しているわけではない。東大寺大仏殿をはじめとする奈良の大火で炎に包まれて亡くなった人がいたのも、戦乱に巻き込まれて亡くなった人もいたのは事実であり、損害の大きさについて寺院そのものが記録に残しているほか、当時の人の日記にもその被災の惨さが書き記されている。九条兼実もこのときの奈良の被災を知り、湧き起こる思いを言葉にすることも書き記すこともできず親を亡くしたときよりもつらいと日記に記している。
平重衡が討ち取った興福寺の僧兵の首を持ち帰って帰京したのは平家物語だけでなく当時の日記にもある話であり、本来であれば戦争で討ち取った敵の首は晒し首になるのが決まりであったが、このときは晒し首とならず溝や堀に捨てられたというのが平家物語と当時の日記の双方とで合致する記載である。これで仏罰から逃れられると考えたのか、それとも自分は関係ないとでも考えたのか、前者ならば都合良すぎる話であり、後者ならば無責任極まりない話である。
この南都焼討のもたらした衝撃は、総大将である平重衡個人にも、そして平家だけでも受け止めきれるものではなかった。特に、平重衡は南都焼討の総大将であったという過去がこの後の人生を決定づけるポイントとなるのである。
南都焼討によって奈良が灰に消えたことを源頼朝はまだ知らず、治承四(一一八〇)年一二月末の源頼朝は次々と源氏方に加わる者がいることの対応に追われている。たとえば、治承四(一一八〇)年一二月二六日には佐々木義清の処遇を定めている。源頼朝の蜂起後最初の戦いとなった山木兼隆邸の襲撃で、襲撃前の作戦として伊豆から現在の神奈川県大和市まで馬で往復させたのは佐々木四兄弟であるが、彼らは四人兄弟ではなくその下に弟がいる。佐々木秀義の五男が佐々木義清だ。佐々木義清は四人の兄たちと違い石橋山の戦いで大庭景親の側に立って参戦した。このことからいったんは拿捕されていたが、最終的には三男の佐々木盛綱のもとに預けられることが決まった。
このように、敵であったが源頼朝のもとに降伏した者の処遇のうち、近親者が監視できるという場合は問題が簡単であった。厄介なのは、人知れず源頼朝と手を組んでいた人である。要は梶原景時のことだ。
梶原景時は土肥実平を頼って源頼朝のもとに降伏してきた。梶原景時と言えば、公的には大庭景親の副官であった人ということになっている。だが、実際には源頼朝が大庭景親の軍勢の中に紛れ込ませたスパイのようなものである、あるいはスパイそのものである。とは言え、大庭景親はもうおらず、梶原景時にしてみれば役目を果たしたのであるから、相応の褒賞、最低でも現在梶原景時が保有している所領の本領安堵は示してもらいたいというのは当然の主張だ。
もっとも、そんなもの公表できるものではない。石橋山の戦いで失われた命の多さを考えると、いかに梶原景時の策謀があったことで朝廷軍の進行が遅れ、それから四ヶ月間の猶予を得て鎌倉を本拠地としてここまでの勢力を築くことができたといっても、それは納得できる話ではない。
自分のために仲間を見捨てたと、いったい誰が公表できようか。
もっとも薄々感づいている人は多かった。源頼朝は梶原景時と手を結んでいて、だからこそ石橋山の戦いのあとの「しとどの窟」で梶原景時は見逃したのだと。具体的に一二月の何日に梶原景時が源頼朝と公的な場で顔を合わせたのかはわからない。
判明しているのは、この時点では保留であり、正式な回答は年が明けてからだということである。