平家物語の時代 9.養和の飢饉
治承三年の政変で成立した平家政権がほころびだしていることは鎌倉でも感じ取ることができることであった。
年が明けてしばらく経過した養和二(一一八二)年一月二三日、平時家が源頼朝の家人となったのである。これまでのパターンで行くと、平という姓であっても平家とは関係ない人物と思うかも知れないが、今回はパターンを裏切る。
何しろ平時家は平時忠の息子だ。平時忠は現役の権中納言兼検非違使別当である人と評すよりも、平家の権勢を示すかのような「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉を言ったとされる人と評したほうがわかりやすいであろう。武士ではないが平家の中軸を担っている一人であり、例えば武士として生まれながら貴族としての教育を受けてきた平宗盛と違って、平時忠は生まれながらの貴族である。確かに平時忠は悪評を多く受ける人物であるが、清濁併せ持つ貴族界において平家がやっていくことができているのも平時忠の存在があるからこそである。
そんな人の息子が平家を見限って源頼朝に臣従するようになったのだ。
平時家が関東地方にいた理由であるが、治承三年の政変で上総国に追放になったからである。継母との折り合いが悪かったことから継母の讒言を受け入れた平清盛が治承三年の政変時にドサクサに紛れて平時家を追放したらしいが、平家の中における何かしらの対立の結果もあったのであろう。そうでなければ源頼朝に臣従したりしない。
上総国に追放になったとき、当時は上総国の武士団の一人である以上の意味を持たなかった上総介広常のもとに預けられることとなった平時家は、京都に於いては普通の人であっても関東に於いては異彩な人となった。源頼朝も一三歳まで京都で過ごし京都の洗練された文化を身につけた人であったが、平時家は二年前まで京都の官界に身を置き、右近衛権少将も伯耆守も経験し、従四位下の位階も持っている。蹴鞠や管弦といった貴族としての娯楽だけでなく、貴族界における礼儀作法にも精通している平時家の存在は、京風趣味を捨てきれずにいた源頼朝にとって大きな物があった。
しかもこの人の父親は放言癖のある人で敵も多く作る人であったが、平時家は父と反対に敵の少ない人であった。その数少ない敵が継母であったのが、治承三年の政変時はこの人にとっての不幸、それ以後はこの人にとっての幸運であった。平時家は父の元に戻るのではなく、このまま関東に残り、上総介広常の娘と結婚して源頼朝のもとで人生を過ごすことを選んだのである。
それにしても、平時家なぜ源頼朝のもとに仕えることを選んだのか?
これは平時家だけでなく源頼朝と共に戦うことを選んだ全ての武士に共通している。
端的に言うと、源頼朝には正統性(レジティマシー)があるからだ。平家に正統性(レジティマシー)が無いと言っているのではない。平家にも源頼朝にも正統性(レジティマシー)があるのだ。
地方の武士が勝手に暴れ回ることに正統性はない。京都の平家に言わせれば、源頼朝は鎌倉を根拠地にして勝手に暴れ回っているだけの反逆者だ。しかし、源頼朝という人は、父をたどると清和源氏嫡流の血筋で、母系をたどると熱田神宮につながる血筋だ。上西門院統子内親王に仕えていた過去を踏まえても朝廷との結びつきも希薄とは言い切れず、平家に匹敵とまでは言えないにせよ、中央政界の貴族として捉えた場合、平家政権前の政治体制が復活したならばその政権に加わるに充分な充分な正統性を持っている。
ここでいう正統性とは何か?
法と天皇だ。
日本という国でもっとも強いのは法である。そして、法と天皇の権威とは深く結びついている。全ての法は天皇の名で出されるが、天皇ですら法には従わざるを得ない。しかし、法案を作るのは貴族でもできるが、法を発する権威は天皇にしかない。そのため、いかにして天皇の権威を取り込むかが、イコール、立法権となる。
対立する何かしらの問題が発生した場合、天皇の権威を手にする者が正しく、天皇の権威を利用できない者は反逆者と位置付けられてきたのがこの国の歴史だ。天皇の権威を利用できる者の元には立法権があり、敵対する側は法に逆らう反逆者となるのだから、誰もが天皇の権威を手に入れようとし、立法権を手に入れようとする。仮に天皇の権威を否定したとしても、天皇の権威が法に結びついている以上、天皇自身で天皇の権威と法とを離別させる法を示さねばならないが、そのような法は日本史上一度として存在しない。仮に絶対的な権力を手にして皇室の廃止を定める法を示すことに成功したとしても、その法に従う者は極めて少ない。天皇の権威を認めないという意見を言論の自由として認めたとしても、その意見は、日本国民の過半数はおろか、一割の支持を得ることすらできない。仮に強権をもってそのような法を示すことに成功したとしても、待っているのは、その法に従う時代ではなく、日本国民の9割以上が参加する大規模な暴動と、そんな法など無かったことになる日本国の国政の正常化への動きだ。
天皇の権威が日本国民の間に統治における正統性(レジティマシー)として存在し、法がその正統性(レジティマシー)に裏付けを与えているという構造は、少なくとも律令制の導入からこれまで日本国を常に貫き続けてきた理念であり、この理念に反することは、言論の自由として認められはしても、権力としては認められないというのが日本国に存在してきたし、現在も日本国に存在している。裏を返せば、権力として認められるためには天皇の権威を取り込んだものとなっていることが重要だ。それで日本国民の九割以上から権力の正統性(レジティマシー)を確保できる。
では、いかにして天皇の権威を取り込むのか。
現在でこそ日本国憲法によって、選挙で勝利しさえすればどんな生まれであろうと天皇の権威に紐づいた法治が可能となるが、この時代はそもそも天皇の権威を利用できる者自体が血統によって限られていた。少なくとも朝廷の中枢に入り込めるだけの血筋が無ければ天皇の権威を利用することができないのがこの時代であったのだ。
全ての物事は法で定まり、法を定める立法権は天皇の権威と深く結びついており、天皇の権威を手に入れるのに必要なのが血統なのだから、この血統を持たずに生まれた者にはどうにもならない。血統を捏造することは珍しくなかったが、捏造された血統は嘲笑され罵声を浴びるだけで何の価値を持たない。例外を挙げるとすれば豊臣秀吉ということになるが、豊臣秀吉とて藤原氏のもとに養子に入ることで血統を手にして藤原秀吉と名乗ることができてようやく天皇の権威を利用できるようになったのである。天皇の権威を利用できない生まれの者は、天皇の権威を利用できる生まれの者を利用する以外に自らの行動に対する根拠を作り上げることはできなかったのだ。
平家はその血統があった。そして、源頼朝にもその血統があった。
平時家は平家から見捨てられた。すなわち、平家の一員たる人生を失った。しかし、ここで源氏の、源氏の中でも源頼朝の御家人となれば、平家の一員たるに匹敵する、あるいは平家の一員たる以上に天皇の権威を利用できる人生が待っている。源頼朝の持つ正統性(レジティマシー)はそれほどに強固なものがあったのだ。しかも源頼朝は本領安堵と新恩給付を約束している。現在でいうと私的財産の保証だ。平家は私的財産の保護など全く考えないどころか、私有財産の徴収も、無償強制労働も平気で展開している。統治者としての源頼朝とは何たる違いであることか。
国民の支持を権力の基盤に置くことは立法権を手にする第一歩である。このまま平家が国政の中枢に居続ける可能性と、源頼朝が国政の中枢に入り込む可能性とを考えたとき、高い支持率の元での安定政権を作る可能性は源頼朝の方が高い。平時家にしてみれば、人生を賭けた大博打ではあったものの勝算の高い博打でもあったのだ。
平時家が勝算の高い博打と考えた選択を選ぶことのできる環境にあった人がもう一人いた。
伊東祐親だ。
息子とともに富士川の戦いに加わるべく駿河湾を横断していたところを捕らえられた伊東祐親は娘婿である三浦義澄のもとに預けられていた。息子の伊東祐清は源頼朝から自分の元に加わらないかと誘われたが、平家の一員として戦うことを決めた以上、裏切って源頼朝のもとに降るつもりはないとして京都へと向かった。
息子は京都へと向かったが、伊東祐親はこのまま源頼朝の元に捕らえられそのまま死を迎える決意を固めていた。本来ならば。
ところが養和二(一一八二)年二月一四日に伊東祐親が釈放となったのである。伊東祐親の身に何かあったのではない。恩赦だ。北条政子の妊娠が明らかになったのである。この吉事を祝うためとして伊東祐親を赦免することが決まったが、伊東祐親は源頼朝の好意を受け取らず、自害を選んだ。
なぜ自死を選んだのか。
源頼朝に赦されることは屈辱以外の何物でもないからだ。
伊東祐親が京都にいる間に、自分の娘が源頼朝と勝手に結婚し子供まで生まれていた。京都から伊豆に戻った伊東祐親は激怒して娘に離婚するよう命じただけでなく、生まれた子を殺すようにまで命じた。一度目の孫の殺害命令は撤回されたものの、娘を源頼朝と離婚させることには成功した。そして、安元元(一一七五)年九月、伊東祐親は孫を殺害しただけでなく源頼朝の殺害まで計画したのである。そのとき、父があなたを殺害していようとしているとして源頼朝に逃げるよう言ってきたのが息子の伊東祐清である。それから六年が経過し、伊東祐親が殺害しようとしていた源頼朝が強大な存在となり、伊東祐親自身は囚われの身となっている。
源頼朝にとっては、我が子を殺され、妻と離婚させられ、本人も殺害させられるところであった張本人である伊東祐親は、これ以上無く憎い存在であるはずであり、また、挙兵の後も敵味方となり戦場において殺しあいをする関係になった存在である。
その存在を源頼朝は赦すとしたのだ。源頼朝はこれで喝采を浴びるだろう。
源頼朝が喝采を浴びれば浴びるほど伊東祐親がこれまで手に染めてきた悪行が思い出され、その中には源頼朝個人やその家族だけでなく、伊豆国の他の武士の所領を平家の権勢を背景にして強引に奪い取ろうとしたことも含まれる。このあとで仮に伊東祐親が自由の身となったときどうなるか。おそらく源頼朝の目が光っている間は命が保証されるだろう。しかし、それで生き続ける屈辱に耐えられるであろうか。
ここまで計算したとしたら、源頼朝は最高の栄誉を手にした上でなんとも陰険な復讐を果たしたものだ。
養和二(一一八二)年二月一日、京都に不穏な噂が流れた。源行家が率いる軍勢が尾張国に現れたというのである。これは不穏な噂ではなく鎌倉方は前年の段階で既に掴んでいた情報であり、そもそも東国に出発させたはずの平家の軍勢が予定通り進軍していればとっくに出会っていたはず。それなのに、年が明けた二月になってからようやく情報として伝わったということは、このときの平家の情報収集能力は、そして、京都の情報収集機能はかなり劣化していたであろうことが推測できる。あるいは源頼朝の情報収集能力が尋常ならざるものがあったとすべきか。
越後国の城一族との間とのやりとりはできているのだから平家だって情報網を構築しようと思えばやってやれないことはないのだが、京都と越後国との間には日本海沿岸航路が存在している。最悪でも近江国と若狭国さえ無事ならば、琵琶湖を縦断して日本海に出て海路で越後国に向かうこともできる。この情報のやりとりを阻害するためには、陸上をいくら制圧しても、それこそ寄港地になりうる港を全て制圧しようと、出発地と目的地の港さえ利用可能ならば、無寄港航海の危険性があるが、使者や書状のやりとりがやってやれないことはないというのが海路というものだ。ただし、ここには難点がある。出発地と目的地の間で起こっている情報を取得できない。
一方、源頼朝はどうやって情報を収集しているのか。結論から言えば東海道を何度も定期的に往復させている。それも一人の人ではなく何名もの人、いや何十名もの人を常時待機させておいての往復である。だいいち、一ヶ月に三度の京都と鎌倉との間の定期連絡だ。一〇日に一度の割合で情報を受け取るのであるが、京都から鎌倉までは往復一ヶ月は要する。一ヶ月間に三往復させるのはどうあっても無理だ。だから、往復する専門の人を複数名待機させ、一〇日ごとに京都を出発させて鎌倉に向かわせ、鎌倉に到着したら返書を持たせて京都に帰らせている。もしかしたら駅伝方式をとっていた可能性もあるが、実際の伝達については三善康信が弟の三善康清に託したように一人の人間が最初から最後まで書状を携えて移動したことしか記録には残っていない。一人が最初から最後まで移動するのはたいへんな距離になるが、途中で起こっていることの情報も加わるというメリットを考えると、あながち無視はできない。
要は情報というものをどれだけ重要視してきたかの違いだ。必要なときに必要な情報を得ようとするから情報収集手段を構築するところから始めなければならずに失敗してしまうのであり、必要か不要かに関わらず定期的に情報を手に入れていればそもそも情報収集手段の構築の手間も無くて済む。平家は、北陸道で、東山道で、東海道で何が起こっているのかを調べるのにゼロから情報収集方法を構築しなければならなかったのだから失敗もする。それでも何とか情報を手に入れたときにはもう手遅れになっている。
その手遅れを如実に示す事態が二月末に発生した。
それは突然の出来事であった。
養和二(一一八二)年二月二一日、三条高倉にある女御殿御所が炎に包まれたのだ。
火の不始末ではなく放火が原因の火災である。
先にも記したが、首都の治安というのは時代の執政者の統治能力を示す指標の一つである。確かに平安京はお世辞にも治安の良い都市と言えなかったが、平宗盛は平家の軍勢を派遣するにあたって平知盛をはじめとする主立った平家の武将を首都の治安維持目的で京都に留め置いたのだ。それなのに放火を許したのであるから、放火犯だけでなく治安維持を担当すると宣言した平家にも責任問題が及ぶこととなる。
治安維持は検非違使の仕事ではないかという言い逃れはできない。前年九月二五日に検非違使別当が平時忠から藤原実家のもとに移ったのも、本を正せば平家が検非違使の実働部隊を用意できなくなってしまったからだ。その責任の意味も踏まえて首都の治安維持目的のために平知盛らを京都に留めていたのである。それなのに放火を許してしまったのだから、責任追及が止まることは無かったのだ。
ただでさえ食糧がない、いつ餓死するかわからない、生きるためには犯罪に手を染めるしかないという人たちに犯罪を思いとどまらせるために必要なのは、餓死しないでいい暮らしを提供することである。平家はそれに失敗している。いや、そもそも存在しない食糧を提供するなどできないのだから、誰が執政者であろうと失敗する。そのときの次善の策が犯罪を強引に防ぐことである。全国各地で発生している反乱を鎮圧するために軍勢を派遣しながらも主力は京都に留め置いたのは犯罪を食い止めるためである。そのはずであったのに、失敗した。
ならばどうするか?
平安京への食糧供給が止まってしまっているのだから、地方からの食糧供給を復活させればいい。こう書くともっともなように思えるが、地方だって食糧事情が潤沢なわけではない。反乱が実際に起こっている地域に住む人も、自分たちを支配している人が実際には反乱者であることは知っている。朝廷に逆らう意思は無いと示し、平家を討伐するために戦っているのだという名目を掲げてはいても、実際にやっていることは国への叛逆だ。ただ、叛逆であるがために食糧を地元に留めておくことができているのだ。平家が支配している朝廷のもとに食糧を供出する義理はない、あるいは、食糧を供出しようとしているのだが平家が邪魔をしているから届けることができない、こうした名目で食糧の地産地消に成功しているのである。
養和二(一一八二)年二月二五日、平教盛を追討使に任命し北陸に出発するよう命じたのはその一環である。東国からの食糧供給ルートの大幹線である北陸道を平家のもとに取り戻すことで地方からの食糧流入を図ることが可能となると計算してのことである。実際に食糧が存在しているかどうかは関係ない。地方の食糧を奪ってでも京都に運び込んでくるのだ。
ただし、平教盛は追討使に任命されたものの、出発することなく留まっている。食糧を手にするために軍勢を派遣する必要があるが、軍勢を派遣するのに必要な食糧が無いのだ。食糧を現地調達でまかなおう、言い方を変えれば現地の略奪で軍勢を維持しようとしても無駄であると判明したのだ。前年に近江国で既にそれをやった。北陸道に向かう途中である近江国の段階で既に奪える食糧は無くなっていた。飲まず食わずに北陸道に行けと命じられても待っているのは餓死だ。
軍勢派遣を意図するも実際には派遣できなかったことの責任を取るとして、三月八日、平知盛が左兵衛督を辞任した。これにより平知盛の公的な武官の地位は喪失し、平知盛の意見は朝廷に仕える武官の意見ではなくかつて参議であった三一歳の無官の貴族が述べる感想になった。
ただし、朝廷内における平家の武官としての発言権が失われたわけではない。権中納言平時忠は左衛門督を兼任しているし、平知盛が左兵衛督を辞任した同日には、権中納言平頼盛が陸奥出羽按察使を兼任している。京都及びその近郊における武力発動は平時忠が存在し続けている上で、東国における武力発動は平頼盛がその職掌で遂行できるようになったのだ。特に平頼盛は陸奥出羽按察使として奥州藤原氏第三代当主にして前年八月一五日に陸奥守に就任した藤原秀衡の上に立つようになったことは大きい。陸奥出羽按察使には陸奥国司と出羽国司に対する指揮命令権が存在するため、平頼盛が藤原秀衡に対して関東地方まで軍勢を進めて源頼朝を討伐せよと命じる権限が発生するのだ。
実際に従うかどうかは別の話だが。
北条政子が妊娠したこともあり、源頼朝は都市鎌倉の本格的な整備に向けて動き出した。
養和二(一一八二)年三月中旬、吾妻鏡によれば三月一五日に、鎌倉を南北に貫く若宮大路の建設を開始したのである。
北条政子の妊娠と若宮大路の建設と何の関係があるのかと思う人もいるであろうが、実は関係がある。若宮大路そのものが北条政子の安産を祈願して建設された道路だからだ。鎌倉はそれまで中央に湿地帯があり、湿地帯の南北に民家が分散していた都市であった。その湿地帯を走る道路を建設して鎌倉を一つの都市とする必要は多くの人が感じており、その必要をここに来て現実のものへと動かしたのである。
若宮大路は平安京における朱雀大路に相当する都市鎌倉のメインストリートとなるべく設計された道路であるが、平安京の朱雀大路の北端にあるのは大内裏であるのに対し、源頼朝は鶴岡八幡宮を都市鎌倉の北端とし、相模湾の由比ヶ浜までまっすぐな道路を敷くことにした。なお、朱雀大路は北から南にまっすぐに走っているのに対し、若宮大路は鎌倉の地形に合わせて一五度ほど斜めになっている。
朱雀大路は純粋に都市計画におけるメインストリートを意図した道路であったが、若宮大路はメインストリート以外の機能も有していた。それが鶴岡八幡宮への参道である。北条政子が無事に出産できるようにと祈願し鶴岡八幡宮に参道を寄進したのだ。
現在の若宮大路の中央には盛り土された小高い道が通っている。これを段葛(だんかずら)という。先にも記したように鎌倉の中央部は湿地帯であり、若宮大路のあたりに至っては小さな川も流れていたほどだ。そうした土地を参道として利用できるようにと、土を入れ、石を置いたのが段葛(だんかずら)の始まりであり、若宮大路を単なる参道ではなく段葛(だんかずら)を有する参道へと昇華させたのが北条時政である。それも、北条時政が家臣に命じて土や石を運ばせてきたのではなく、自分も石を運び、土を運んで敷き詰めたのである。その中には江間義時もいたという。さすがに北条時政一人、あるいは、北条時政と江間義時の親子だけでできるものではないが、娘のために奮闘する父の姿、姉のために奮闘する弟の姿というのは、北条政子にも、多くの御家人にも深い感銘を与えるものがあった。
鎌倉は平安京のように綿密な条坊制による区画設定の設けられた都市ではないが、五味文彦氏は若宮大路を中心として、東に小町大路、西に今小路があり、実現はしなかったものの南北に長い条坊制による地割りが可能であったことを指摘している。
新しい都市が建設されていることを日々実感できる鎌倉と反比例するかのように、その頃の京都には不穏な空気が立ちこめていた。
治承三年の政変で官職を失った貴族たちが続々と京都に戻り、後白河法皇院政のもとでかつての職務に復帰しつつあったのである。朝廷内における平家の勢いは陰りを見せ、かつての院政が徐々に復帰しつつあったのだ。ただし、平家はなお六波羅に自らの軍勢を配備し続けており、なお京都に対する無言の圧力を展開している。近いとすれば、軍事クーデタがあった国が民政移管を宣言した後も軍が政権の中枢にあり続けている状況に近い。国軍が国の中枢にあって無言の圧力を示しているが、政権を操って国民生活を向上させる能力は絶無で、ならば軍としてはどうかとすると貧弱この上なく、政権に睨みを利かせる程度なるぐらいの軍事力はあるくせに、反乱軍を目の前にすると泣いて逃げ出すしかないという、敵とするには恐ろしいが味方とするには頼りない存在だ。
吉田経房の日記の養和二(一一八二)年三月二一日の記述によると、源氏の軍勢が既に越前国にまで進出しているという話が広がっていることがわかる。しかし、それだけである。木曾方の軍勢に対して平家が何かをしたとかの記録も無く、木曾義仲が源頼朝と別個に行動している武士であるとの認識もない。記録が無いのは吉田経房だけではなく右大臣九条兼実も同じで、日記を見るだけでは一見すると平穏な日常が過ぎていたかのようにしか感じ取ることができない。
いや、ここは現実逃避をしていたと言うべきか。
既に京都は飢饉を迎えていたのだ。
道には餓死者が溢れだし、亡くなった親の遺体にすがりつく幼児も、一杯の粥と引き替えに身体を売る少女も、少ない食糧を奪い合う大人たちも、もはや日常と化してしまったのだ。こんなときに源氏の軍勢が越前国までやってきたから何だというのだ。平家も、藤原氏も、後白河院もあまりにも無力だった。
そんな中、一つだけ光明が見えた。
四月のいつのことかはわからないが、肥後国で暴れ回っていた菊池隆直が、九州に派遣されていた平貞能に全面降伏したというのである。これで九州に平和が訪れたと多くの人は希望を見いだし、九州から食糧が届くのではないかという希望が生まれたのだ。
ただ、その希望は簡単に喪失した。
九州でもやはり飢饉が発生していて食糧を平安京に送るどころではないという知らせである。しかも、平貞能は軍勢を維持するために九州各地から食糧を略奪し、その食料は全て食べ尽くしてしまったというのだ。これで何の希望が持てようか。
この飢饉を養和の飢饉という。
貴族の日記の抜粋した百錬抄では治承五(一一八一)年六月の記録として「近日、天下飢饉、餓死者其の数を知らず。僧綱有官の輩も其の間あり」とし、養和二(一一八二)年一月には「近日、嬰児道路に棄て、死骸街補に満つ。夜々の強盗、所々の放火。 諸院蔵人を称するの輩、多く以て餓死し、其れ以下数を知らず。飢饉前代に超ゆ」とある。
吉田経房の日記にも養和二(一一八二)年二月二二日の記事として五条河原の付近で飢えた子が死者の肉を食べたという噂を書き記し、「人、人を食らう、飢饉の至極」とその感想を残している。
こうしたどんな記録よりも養和の飢饉の詳細を記しているのが鴨長明の方丈記で、鴨長明はこのときの飢饉を養和元(一一八一)年からの二年間であるとした上でこのように記している。
二年間に亘って食糧が欠乏した。
春と夏は日照りとなり、秋は台風と洪水を受け、穀物が全く実らず収穫は得られなかった。農民は土地を捨て、家を捨て、山に入って食糧を求めるようになった。朝廷は祈祷をしたが効果は無かった。京都は地方から物資を受け入れて成り立っている都市だ。地方から物資が入ってこないと京都は飢餓に襲われる。体裁を取り繕うなどと考える余裕も無くなり、売れるモノは何でも売って食糧を手に入れようとしたので黄金よりも栗のほうが価値を持つようになってしまった。道には物乞いが溢れるようになった。
年が明けても飢餓は収束せず、疫病も流行して以前の生活は跡形も無く、人々はわずかばかりの水しかなく苦しんでいる魚と同じだ。立派な格好をしている人も、家から家を巡り歩いて食糧を求めた。歩いているかと思ったら力尽きて倒れてしまう人も多かった。道のほとりの餓死者の遺体の数は数えきれず、腐臭が辺り一面に満ち、河原などは遺体が満ちあふれてしまい馬や牛車の往来する道も無くなってしまった。身分の低い者や山に逃れた者は力尽きていった。薪も不足してしまったので家を壊して薪にして市で売り出す者も出たが、薪を売っても一日分の食べ物を手に入れることもできなかった。売っている薪の中には赤い色が混ざっていたり箔がところどころについていたりするものもあり、調べてみると古寺に忍び込んで仏像や仏具を盗みだし、薪にするために割って砕いたものであった。
家族を大切にする者は自分よりも家族に食べ物を差し出すので先に亡くなり、親子の家庭では親が先に亡くなった。母がもう亡くなっているのもわからず、幼い子が亡き母の乳を吸いながら横になっている光景も見られた。
仁和寺にいる隆暁法院という人が、あまりにもたくさんの人が亡くなっていることを悲しみ、亡くなった人の首が見えるごとに、額に梵語の阿の字を書いて成仏させていった。死んだ人の数を知ろうとして養和二(一一八二)年四月と五月に数えてみたところ、平安京の北は一条大路、南は九条大路、東は東京極大路、西は朱雀大路の間に放置された遺体は四万二三〇〇を数えた。その前後に命を落とした者も多く、鴨川の河原や白河、朱雀大路の西、平安京の外を加えると京都中の死者は際限もないだろう。ましてや日本全国ではどうなのか。
この、鴨長明に記した飢饉の記録は何とも痛ましい。ただ、ここで割り引いて考えなければならないこともある。
平家物語も吾妻鏡もそうだが、鴨長明もまた数字を盛っている。福原から首都が戻ってきた直後の京都の人口は一〇万人ほど。どんなに多く見ても一五万人を数えることはできない。しかもこの一〇万人から一五万人という数字は地方から京都に流れこんできた人の数を含めた数字である。その人口で四万二三〇〇という遺体の数は多すぎる。さらに言えば、これは二ヶ月間で数えた遺体の数であり、実際に飢餓に苦しみ餓死した人は、鴨長明自身が書き記しているように、数える前も数え終わった後もたくさんいる。だとすれば、ガダルカナル島の戦いやインパール作戦はおろか、人類史上最悪の大飢饉であるスターリンのホロドモールすら上回ってしまう餓死者の割合だ。この翌年の京都に何が起こったかを考えても、養和の飢饉における餓死者の数は鴨長明の記した数字ではなく、第二次大戦時の日本軍よりはマシだった、あるいは第二次大戦中の日本軍と同レベルで酷いにしても共産主義よりはマシだったというレベルでないと説明できなくなる。
また、鴨長明はこの三年半後に発生した地震の後の被災者の様子を、震災での被災者の記録としてではなく、養和の飢饉の被害を伝える情景の中に書いている。仏像や仏具が破壊されて薪にされた光景がそれだ。どういうことかというと、震災被害を伝える当時の日記の中に仏像が破壊されて薪にされたことの記録はあり、その内容が養和の飢饉の被害の様子とほぼ同一なのだ。一方、まさに飢饉の最中にあるときの日記の中には、餓死者がたくさんいることは記されていても鴨長明の記した内容については見られない。貴族だから庶民のことなど気に掛けなかったからではないかという意見はその通りであるが、だとすれば、飢饉の最中では記さず、震災後になって記すことの理由が説明できない。
鴨長明は養和の大飢饉の様子を痛ましく記した。記してしまった。その痛ましさが甚だしいがためにかえって虚構を呼び、文学としては超一流でも史料としてはそのままにはできないという結果を招いてしまった。
ただ、ここで鴨長明を責めるわけにはいかない。鴨長明が記してくれなければ、貴族の日記にあるわずかな記載しか飢饉の様子を伝える資料がなくなってしまうのだ。平家物語にしろ、吾妻鏡にしろ、飢饉があったことは伝えているが、飢饉があったということだけを記していて実際の被害者の苦しみは伝えていない。苦しみを伝えてくれているのは鴨長明だけである。
この苦しみは養和二(一一八二)年五月二七日に一つの結末を迎えた。この日、寿永二改元となったのである。養和という元号を忘れてしまいたいかのように、治承から養和への改元から一年も経たずに養和の元号は捨てられ、寿永という新しい時代を迎えたのである。歴史用語としての養和は、源平合戦期の飢饉である「養和の飢饉」の他に登場することは無いとしてもいいほどだ。源平合戦についての歴史用語は「治承・寿永の乱」であり、歴史用語から養和の元号は外されているのだから。
さて、これまで本作では源頼朝を、何もかもが計画通りに進むだけでなく未来予知もできるスーパースターであるかのように記してきたが、実際には源頼朝もごく普通の人間である、いや、普通と呼びたくないマイナスポイントもある。
浮気性で、不倫を繰り返しているのか源頼朝だ。
源頼朝はただでさえ日本史上でも有数の美男子だ。しかも関東にあって京都の洗練された文化を身につけている。それでいて敵をも許す寛容さがあり、今や関東地方の覇者とも言うべき地位にあるとなれば、モテないわけがない。それでも妻の北条政子の恐ろしさの前にたじろぐ女性は多かったし、北条政子の恐ろしさは夫である源頼朝自身がイヤと言うほど理解しているが、北条政子が妊娠して以前のように頻繁に外に出てこないとなると、源頼朝は相手を探そうとするし、源頼朝に言い寄ろうとする女性も出てくる。
寿永元(一一八二)年六月一日、源頼朝は妻の北条政子が妊娠中であるにもかかわらず、あるいは妊娠中だからなのか、浮気相手の一人である亀ノ前という名の女性を、小坪に居を構えている中原光家の邸宅に住まわせたのである。小坪は現在の神奈川県逗子市であり、鎌倉からならさほど時間も掛からずに移動できる。
源頼朝と亀ノ前との関係は源頼朝が伊豆国で流人暮らしをしていた頃から続いていたようで、この年の春に鎌倉に密かに呼び寄せて密会を繰り返し、外聞を憚って小坪に転居させて密会を繰り返したようである。
それにしても、吾妻鏡はよくもまあ、このあたりのことを平然と記載したものである。吾妻鏡は鎌倉幕府の正史として編纂された歴史書であり、鎌倉幕府の成立に至る過程、そして、鎌倉幕府成立後の幕府についての正統性(レジティマシー)を記すのが目的だ。裏を返せば鎌倉幕府にとって都合の悪いことを記さなかったとしても、同意はできないが理解はできる。だが、鎌倉幕府を成立させた源頼朝についての失態とするしかないこの記述を載せて平然としているのはなかなかにできることではない。もっとも、都合の悪いことでも書き記すことは自己への正統性(レジティマシー)確立という点で強固に働く。司馬遷が史記を書き記すときに、漢帝国にとって都合の悪いことでも書き記したという故事を知っていたのだろう。
それに、源頼朝の浮気と不倫は問題でも、北条政子が妊娠し出産を控えている頃の源頼朝の行動は、浮気と不倫以外は充分に評価に値するものばかりだ。それまでの功績を見直しての本領安堵と新恩給付に、不正な所領取得の見直しと正当な持ち主への返還、武士たちの武芸鍛錬への同席、そして、病気で倒れた御家人の見舞いと、武士による集団のトップに立つ人として当然のことを繰り返している。ここで見舞いに行った帰りに浮気相手の元に通わなければ完璧であったろうに。
寿永元(一一八二)年七月一二日、北条政子が出産のために比企能員の屋敷に移った。比企能員は源頼朝の乳母であった比企尼の甥であり、源頼朝の妻が出産する場所として比企能員の屋敷が選ばれるのはごく普通の流れであった。
なお、出産直前ではなかったようで、実際に出産したのはそれからおよそ一ヶ月後のことである。陣痛が始まったのが八月一一日であり、夜になって北条政子に陣痛が始まると、源頼朝は妻の安産祈願のために奉幣の使者を関東各地に差し向けている。
それだけでもすごい話であるが、その規模がこのときの源頼朝の勢力を見せつけるに充分な規模であった。
伊豆国山走湯権現へは土肥遠平。
伊豆国箱根神社へは佐野忠家。
相模国一宮寒川神社へは梶原景高。
相模国三浦十二所神社へは三浦義連。
武蔵国大国魂神社へは葛西清重。
常陸国鹿島神宮へは小栗重成。
上総国一宮玉前神社へは上総介良常。
下総国香取神宮へは千葉成胤。
安房国天津神明神社へは三浦義村。
安房国洲崎神社へは安西景益。
奉幣の使者の派遣先を見ると現在の関東地方から栃木県と群馬県が外れる代わりに伊豆半島が加わっている。これが寿永元(一一八二)年八月時点の源頼朝の勢力圏であり、五畿七道でいうと見事に東海道に集中している。
翌八月一二日、北条政子が男児を出産。酉刻というから現在で言う夕方六時頃である。鳴弦三度、すなわち、矢をつがえないで弓の弦を三回鳴らすのは男児誕生の知らせであり、師岳重経、大庭景義、多々良貞義の三名が受け持った。また、男児誕生の知らせを受け、男児誕生を広く知らしめす鏑矢は上総介広常が担った。なお、子が生まれたときに弓の弦を鳴らすのも、鏑矢を鳴らすのも子供が無事に誕生したことを伝えるとともに悪魔払いの意味も持っている。
同日戌刻、現在の時制にして夜八時頃、比企尼の娘で河越重頼の妻である女性が呼ばれ、産まれたばかりの男児の乳母になるために初めて乳を吸わせる儀式も執り行われた。なお、彼女の素性は判明しているものの、本名は不明である。出家した後に河越尼と呼ばれるようになるまで彼女の名前はない。
源頼朝の嫡男である万寿、後に鎌倉幕府第二代将軍となる源頼家はこうして生まれた。
この後の吾妻鏡の記録は、後の源頼家こと万寿が生まれたことを祝すことの記述が延々と続いている。
寿永元(一一八二)年八月一三日、嫡男誕生を祝すとして、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛、梶原景時、梶原景季、横山時兼の七名の御家人が、御護刀(おんまもりがたな)を献上した。要は出産祝いだ。
御護刀(おんまもりがたな)の献上はそもそもかなりの資産を持ち、かつ、源頼朝に近い立場の御家人でないとできない話だが、そうでない者でも源頼朝に献上する方法はあった。馬を献上するのだ。馬自身が資産価値のあったことに加え、この時代の武士における馬は自らの戦場での活躍を左右する存在だ。馬を献上するというのは源頼朝に対する臣従を意味する。なお、このときに献上された馬は他の武士が功績を残したときの所領に次ぐ報奨となる。
翌八月一四日、万寿の生後三日を祝う三夜の儀が小山朝政の主催で開催された。
八月一六日、万寿の生後五日を祝う五夜の儀が上総介広常の主催で開催された。
八月一七日、万寿の産所から営中への移動が、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛桶、佐々木高綱の四兄弟が頼家の輿を担いで行われた。
八月一八日、万寿の生後七日を祝う七夜の儀が千葉常胤の主催で開催された。千葉常胤は息子六人を引き連れており、まずは千葉常胤だけが侍所の部屋の中に座り、長男の千葉胤正と次男の相馬師常が兜と鎧を持ち、三男の武石胤盛と四男の大須賀胤信が鞍を乗せて馬を左右で引き、五男の国分胤通は弓矢を、六男の東胤頼は太刀を手にしてそれぞれ庭に並んだ。七人揃って白い水干で統一されていることから武士としての凜々しさを生みだし、源頼朝は満悦し、見ていた者も壮観さに圧倒された。
八月二〇日、万寿の生後九日を祝う九夜の儀が万寿の祖父である北条時政の主催で開催された。これで万寿の生誕を祝う儀式が一通り終了した。
それにしても、寿永元(一一八二)年八月の記録は見事なまでに、後の源頼家こと万寿の誕生と、万寿誕生に関連する儀式の羅列である。考えてみれば当然で、万寿は源頼朝の後継者であることが決定しているのだ。源頼朝の弟、たとえば源義経も源氏の後継者の一人ではあるのだが、それはあくまでも万寿がいないときの話であり、源頼朝に男児が生まれたからにはその男児が次期当主決定なのだ。
万寿がどのような人物に育つかわからないではないか、優秀な人物を差し置いて万寿が源氏のトップに立つのは許されるのか、そのような考えは太古から存在する。そして、その答えは、万寿がどのような人物に育とうと、万寿が源氏のトップに立つのは許される。これが世襲というものだ。
世襲には批判すべき点が多々あるが、一点、どうしても認めなければならない点がある。後継者争いを完全に無くすことができるのだ。組織を永続的なものとさせるとき、世襲は極めて有効に働く。何しろ、本人の努力とか結果とかではなく生まれで決まるのであるから、最初から努力しても結果を出しても無駄であることが判明している。すなわち、優秀であると内外に示して組織を乗っ取ろうとする者が現れてもその者が組織を乗っ取ることが許されなくなる。できるのは組織の上層部の一員になるところまでであり、そこから上に行くことはない。
蘇我氏にしろ、藤原氏にしろ、そして朝廷を支配している平家にしろ、皇室との血縁によって自らを組織の上層部の一員とさせることに成功しているが、自分自身がトップに立つことは考えていない。トップに立ったところでそれまで皇室が手にしていた権威を自らが手にできるなど夢にも思えない。できるのは皇室の権威に自らを重ねることまでである。具体的には娘を皇室に嫁がせて男児を産ませ、その男児が新たな天皇となること、すなわち、自身が天皇の祖父になることである。
この構図は、規模を小さくしているものの鎌倉でも起こったのだ。源頼朝に男児が生まれた。その男児が成長すれば源頼朝の後継者になる。ここで源頼朝の男児のもとに付き従う姿勢を見せれば、皇室と藤原氏との関係を模した構図を作成できる。多くの者が鎌倉における藤原氏であろうと争ったが、その中で争いの様子を記録に残す栄誉を勝ち得たのは千葉常胤のみである。この時点で千葉常胤は他を圧倒していたと言っても良い。
鴨長明がその飢饉の様子を記した養和の飢饉は、改元して元号が養和でなくなったと同時に解決したわけではなく、寿永への改元となった後も解決しないままであった。それは鴨長明が飢饉の様子を書き記した京都だけの話では無く、たとえば越後国の城一族の本拠地である白河荘では、このときの飢饉で全体の三分の一を上回る三四・五パーセントもの田畑が収穫不能であったことの記録を残している。
ただ、潤沢な食糧に恵まれていたとまではいかなくても、そこまでの飢饉となっていなかった地域が二箇所存在した。奥州藤原氏の治める東北地方と、源頼朝の治める関東地方だ。特に関東地方は源頼朝の統治下にある地域とそうでない地域とが混在していたが、物の見事に、源頼朝の統治下であるほうがより高い生活水準の地域なっていたこと。
このことは、だんだんと京都の人にまで知られるようになってきていた。鴨長明が記したように京都という都市は地方からの物資を受け入れることではじめて成立している都市である。思いつくのは関東地方の物資、特に源頼朝の統治下の産物を何とかして京都まで運び込むことだが、それは関東地方への軍勢派遣を意味する。源頼朝が平家打倒を掲げて立ち上がっている以上、平家の統治する京都に関東地方から物資が届くことは期待できない。かと言って、軍勢を派遣させて物資を手に入れようにも、京都から関東に行くまでの軍勢の兵糧がない。一人二人の移動ならどうにかなっても、軍勢の移動はどうあっても無理だ。それでも無理をさせて軍事力で物資を手に入れたとしても今度は関東から京都まで食糧を運び込む輸送能力が無い。そして最も大切なこととして、源頼朝の軍勢に勝てる見込みがない。
純粋に輸送のことだけを考えると北陸道を取り戻す方がまだ可能性があった。北陸道の食糧を略奪するのかという批判はあるだろうが、物流路が完全に封鎖されているので食糧が入ってこないのに比べれば、少なくとも物流路は通じている方がまだマシだ。それは誰もが理解していたのだが、実際に北陸道へ軍勢を派遣できていたかとなると、その答えは否である。
九条兼実の日記にも、寿永元(一一八二)年八月二五日に、北陸道追討使が未だに出発していないことの苦言が書き記されている。無論、苦言を書いたところで北陸道へ軍勢を差し向けるなどできない。そんな軍勢を用意できる余裕などないのだ。
朝廷の貴族たちも、後白河院も平家に動くよう求めるが、動くよう言われたとしても平家にはどうにもならない。政界引退をした権大納言源資賢に代わって寿永元(一一八二)年九月四日についに平宗盛が権大納言に復帰したが、それとて情勢の回復にはつながらない。北陸道に向けて援軍を送り込むどころか、北陸道に送り込んでいた平家の軍勢は九月中に京都に帰還し、噂が広まっただけで現実のもとのはならなかったが、近江国が北陸道の源氏の軍勢のもとに陥落し、若狭国も不穏だという話まで広まったのだ。
今回の反乱はどのようにして始まったのか。突き詰めると平家に行き着く。治承三年の政変が直接の理由であるが、それより前、平治の乱の後の平家の権勢に対する反発が今回の反乱を生みだしているのだ。だから、平家に対して責任をとるよう求める声が強くなる。
ただ、責任があることと責任を取れることとは違う。平家が責任を取るとしたら、反乱を鎮圧することではなく、京都をはじめ全国各地で発生している飢饉を無くすために全ての人に潤沢な食糧を提供し、生活苦を全て解消するだけの豊かさをもたらし、時間を飢饉発生前に戻して飢饉で亡くなった人を一人残らず生き返らせることだ。そんなものできようがない。だから、せめて京都への物流はどうにかしろと平家への責任を追及しているのである。
さすがにヒステリックなまでの平家への責任追及は何も生まない。
後白河法皇は大嘗会の準備を名目とする北陸道追討停止の院宣を出した。これにより北陸道の復旧は後白河法皇の意思として断念することが決定となった。
もっとも、寿永元(一一八二)年一〇月三日の発表を知ると、後白河法皇の出した院宣に裏を感じる。
権大納言平宗盛、内大臣に昇格。
九条良通こと権中納言藤原良通、権大納言に昇格。
権中納言平時忠、中納言に昇格。
中山忠親こと権中納言藤原忠親、中納言に昇格。
権中納言平頼盛、中納言に昇格。
平知盛、権中納言に就任。
持明院基家こと藤原基家、参議に就任。
このタイミングでなぜ除目をしたのか。それも七名中四名が平家という異例とも言うべき割合での昇格をなぜさせたのか。
より高い役職にはより重い責任が発生する。ここで言う責任とは何か。現在進行形で繰り広げられている飢饉をどうにかすること、具体的には、食糧問題をどうにかして解決することだ。これまでは平家が実権を握っているといっても公的な役職に就いていなかったり、就いていたとしてもさほど高い地位ではなかったりした。しかし今は違う。平宗盛は内大臣であり、平時忠と平頼盛は中納言、平知盛は権中納言である。国の中枢を外から操るのではなく自分が国の中枢になって、責任を持って食糧問題を解決するよう命じられたのだ。平家物語では何の功績も残していないのに平家が出世した、特に平宗盛が出世をしたことを非難するように記しているが、何の功績も残していないからこそ出世させたのだと考えるべきである。責任をとらせるために。
その方法について後白河法皇は、北陸道追討停止以外に何も言っていない。
その頃鎌倉では大騒動が起こっていた。
寿永元(一一八二)年一〇月一七日、北条政子が子供とともに産所となっていた比企谷殿から大倉御所に戻った。同日、後に源頼家と名乗ることとなる乳児の乳母父に、比企能員が登用された。ここまでは何の問題も無い。
問題はここから先。
源頼朝の不倫が北条政子に発覚したのだ。
夫が浮気をしていると北条政子に伝えたのは、北条時政の再婚相手である牧ノ方と呼ばれる女性であるという。北条時政の前妻は伊東祐親の娘、あるいは伊東祐親の妹とされている女性であったが、この女性と離婚したのか、あるいは死別したのか、治承四(一一八〇)年の時点で北条時政は独身となっていた。北条時政が牧ノ方と結婚したのは治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵してからである。牧ノ方の生年は不詳であるが、北条時政とはかなり年齢の離れていた女性であったことは判明しており、北条政子にとっては父の再婚相手なのだから義母にあたるのだが、北条政子にとっては義母と言うよりも姉妹のような存在であった。また、あまり仲は良くなかったらしい。
牧ノ方の話によると、北条政子が妊娠して、出産して、ようやく母子ともに自宅に帰ることができたと思っていたら、その間に夫がかつての浮気相手を呼び出して密会を繰り返し、北条政子に見つからないように部下の家に住まわせて、部下を気遣う上司という体裁で浮気相手にもとに通っていたと知ったのである。どうやら北条政子には隠しておくように命じたが、もはや公然の秘密になっていたらしく、ここでようやく北条政子の知ることとなったのだ。
これで怒りを感じないとしたらそのほうがおかしい。
しかし、ここから先が北条政子の恐ろしいところである。牧宗親に命じて伏見広綱の邸宅を破壊させたのだ。単に壊しただけでなく邸宅に住んでいる者を引きずり出して殴る蹴るの暴行を加えた末に家に火をつけたというのだから何とも恐ろしい。もっとも、江戸時代までは黙認されていた風習として、夫が妻を捨てて別の女性と再婚したときに、前妻が親族や親しい人を集めて後妻のもとに襲撃を掛けるというものがあった。これを「後妻打(うわなりうち)」という。北条政子の場合は離婚をしておらず夫の浮気に対する制裁であるが、北条政子のように夫の浮気相手、第二婦人、妾に対する制裁として繰り広げられることもあった。ちなみに、令和三(二〇二一)年時点で「うわなりうち」を検索したときに真っ先に出てくる例は北条政子である。
亀ノ前はもともと中原光家の邸宅に住んでいたが、そのあとで伏見広綱の邸宅に移り住んだ。ただし、どのタイミングで亀ノ前が移り住んだのかはわからない。
伏見広綱は牧宗親の襲撃を受けて、亀ノ前を連れて脱出するしかできなかった。
牧宗親は牧ノ方の親族だ。牧宗親は牧ノ方の父親であるとする説と牧宗親は牧ノ方の兄である説とがありどちらが正解か判明していないが、父であるとすれば北条政子にとって義理の祖父に、兄であるとすれば北条政子にとって義理の叔父にあたる人物だ。牧宗親にとっては、牧ノ方が今をときめく源頼朝の妻の父の元に嫁いでこれで自分の未来は明るいと思っていたところに、牧ノ方が結婚したことで親族ということになった女性から命じられて、懇願されたのではなく命令されて、夫の不倫相手の家を破壊させられたのだ。不倫を是とするか非とするか問われれば非とするしかないが、その当事者がよりによって源頼朝なのである。
源頼朝が一部始終を知ったのは伏見広綱と亀ノ前が大多和義久の屋敷に逃げ込んだあとになってからである。ここで伏見広綱と亀ノ前を助け出し、大多和義久には人助けをしたことを誉めたのであれば源頼朝も誉められるものがあるが、大多和義久の屋敷を訪れた源頼朝は牧宗親と伏見広綱を呼び出し、伏見広綱に事件の全容を語らせた後、牧宗親に弁明の機会を与えた。
牧宗親は弁明できなかった。
繰り返すが、牧宗親は北条政子の義理の祖父、ないしは義理の叔父にあたる人物である。その人物を源頼朝は怒鳴りつけた。北条政子を尊重するのはいいが、今回のような件は、表向きは北条政子に従っても密かに源頼朝に知らせるべきとしたのである。その上で、いきなり伏見広綱の屋敷に行って破壊することは何事だと。さらに怒鳴り散らしただけでなく、牧宗親の烏帽子をはぎ取り、髻(もとどり)を切ったのだ。この時代、人前で烏帽子を外すのは現在で言うと下着姿になることに、髻(もとどり)を切るのは現在で言うと下着をはぎ取ることに等しい。想像していただきたい。牧宗親が何年生まれであるか不明であることから、現在確認できる資料を見る限りでは寿永元(一一八二)年時点で何歳であるかは不明だが、娘とも妹ともされる女性が北条時政と結婚したのだからそれなりの年齢であったはずである。それぐらいの年齢の男性が人前で下着一枚の姿にさせられただけでなく下着もはぎ取られて放り出されたらどうなるかを。牧宗親は泣いて逃げていったというが、恥辱に加え人生の破滅なのだから泣くぐらいおかしくないだろう。
この源頼朝の仕打ちに対して怒ったのが北条時政である。北条時政にしてみれば娘が妊娠し出産している間に婿が浮気していたというのだから許されない話だ。しかも、北条一族を連れて伊豆に帰ってしまった。
鎌倉中が騒然となった。
北条時政、謀叛。
安達盛長から北条氏が伊豆に戻ってしまったことを聞いた源頼朝は、梶原景時に江間義時の所在を確認させた。石橋山の戦いで嫡男の北条宗時が戦死してからは江間義時が北条時政の事実上の後継者になっていた。江間義時がどうなっているかが北条氏としての命運の分かれ道である。
結論から言えば江間義時は父と行動を共にしなかった。源頼朝は江間義時を大倉御所に呼び出して、江間義時が源頼朝の前に姿を見せると源頼朝は感激し、江間義時に向かって源頼朝の子孫も守ってくれる存在になると感想を述べた上で、あとで報償を与えるとしたのである。この件について細川重男氏は、江間義時は何もしなかったことに着目している。考えてみればバカバカしい話だ。夫婦ゲンカに嫁の父が口出ししてきて、ふて腐れて故郷に帰ってしまった。こんなふざけた話に付き合う義理などない。浮気されたことに怒るのは理解できても、家をぶち壊し、殴る蹴るの暴行を加え、さらには火をつけるなど許されることではない。京都からは、福原遷都の影響で延期され続けてきた安徳天皇の大嘗祭が無事に終わったという知らせも飛び込んできていた。京都の飢饉の知らせは相変わらず継続しているが、それでも最悪期の惨状からは脱したかのような知らせになってきており、京都における平家への支持率は、最低レベルから、ほんの少しではあるが上向いてきてもいた。そんなときに鎌倉で争っていては、それも夫婦ゲンカの延長で争っていては、勝てる戦いも勝てなくなる。
実はこのあと、北条時政と北条政子についての動静が乏しくなる。吾妻鏡の寿永二(一一八三)年の部分が欠落しているのも原因であるが、怒りを示して伊豆に籠もったものの、北条時政はしばらく伊豆に居続けるしかなかったのではないかと推測される。それに、源頼朝にとっても伊豆に北条時政が居続ければそれはそれで役に立つ。何しろ北条時政は甲斐源氏とのコネクションを持っているのだ。伊豆に北条時政がいれば北条時政を通じて甲斐源氏との共同戦線を構築できるし、東海道の制圧についても優位に働く。拗ねらせて伊豆にいる義父を許すとか許さないとか以前に、それはそれで放置しておいて利用してやろうというのも源頼朝の政治家としての力量の一つと言うべきか。
ただし、北条時政は源頼朝でどうにかなっても北条政子は源頼朝ではどうにもならない。北条政子は夫の仕打ちに怒りを持ち続け、伏見広綱を遠江国に配流させたのである。ただし、伏見広綱はもともと遠江国の武士である。配流という側面もあったろうが、東海道制圧における橋頭堡の役割も担ったと考えると、このあとの鎌倉方の行動が色々と説明できる。
年が明けた寿永二(一一八三)年一月、位階昇叙の大盤振る舞いと、前年一〇月に除目があったとは思えないレベルでの一月恒例の除目が展開された。
正二位内大臣平宗盛、従一位へ昇叙。
従二位権大納言九条良通、正二位へ昇叙。
正二位中納言平時忠、権大納言へ昇格。
正二位中納言中山忠親、権大納言へ昇格。
従二位権中納言藤原朝方、正二位へ昇叙。
従二位参議藤原家通、権中納言へ昇格。
正三位参議藤原実宗、権中納言へ昇格。
従三位参議藤原定能、正三位へ昇叙。
正四位下参議吉田経房、従三位へ昇叙。
正四位下藤原泰通、参議に就任。
正四位下平親宗、参議に就任。
いつもの年なら一月にこれぐらいの除目や昇叙があることは珍しくないが、前年一〇月と連続となると珍しい。しかも、前年一〇月の除目の対象となった人が連続して対象となっているのだから珍しさが二重になる。
さらに、公卿補任には記されていないが、既に右近衛中将を務めていた平資盛が右近衛中将兼任での蔵人頭に就いたことで頭中将となった。蔵人は天皇の秘書役で、蔵人頭はそのトップである。これは安徳天皇がまだ幼くても関係なく、文官から一名、武官から一名の計二名が選ばれるのが慣例だ。ところが、蔵人頭二名という体制は維持されつつも、このときの蔵人頭就任は異例だった。平資盛が右近衛中将を兼任していたことは既に記した通りだが、平資盛と同時に蔵人頭に就任した藤原隆房は左近衛中将を兼任していたのだ。つまり、文官から選ばれる蔵人頭である頭弁(とうのべん)が不在で、武官から選ばれる頭中将(とうのちゅうじょう)が二人いるという奇妙な体制になったのだ。
その理由は一つしか無い。今年こそ平家に京都の飢饉をどうにかさせるのである。それは武力の発動を前提としたものであり、事実上閉鎖状態になっている北陸道、東山道、東海道を物資搬入路として復活させることである。物資搬入路を復活させて、地方の物資、特に食糧をはじめとする物資を京都に運び込むことを暗に求められているが、そのために地方の物資を略奪してこいとはさすがに言わない。言わないが、従一位内大臣に求められているのはそれだ。
平家としては貧乏クジを引かされた思いであろうが、そもそも貧乏クジを生みだしたのは平家である。平家は戦争を命じられたことに対して抵抗を見せたものの、食糧がないという現実は、庶民の間に平家に対する激しい憎しみの感情を生みだしていた。今までは武力で民衆を制圧できていたが、もはや武力制圧が崩壊するのも時間の問題であった。平家が存在し続けるためには軍を組織して出兵する以外に方法はなかったのだ。
源頼朝と北条政子との間の夫婦ゲンカのゴタゴタはあったが、京都に比べれば関東はまだ平和だった。しかし、関東の全てが平和であったわけではない。何しろ平家の軍勢がいつまたやって来るかわからない上に、関東地方の中にも源頼朝に従っていない武士もいる。平家側である武士もいるし、反平家ではあるが源頼朝とは距離を置いている武士もいたのだ。
源頼朝は、東海道をやって来るであろう平家軍と、関東地方で源頼朝にまだ従っていない武士の双方ともに相手にしなければならないという、少し特殊な二方面作戦を余儀なくされていたのである。
二方面作戦というのは、文字通り軍勢を二分することを意味する。普通ならば総力を結集できないために持てる力を発揮できない戦況となるのだが、源頼朝の場合は特殊である。何度も記しているが、源頼朝は軍勢を指揮するのが下手くそだ。総力を結集するとなったら指揮は源頼朝の手に委ねられることとなるのだが、二方面作戦だと、源頼朝がどちらか片方の指揮を執るか、どちらの指揮も執らずに本拠地に待機して双方の戦況を見つめつつ後方支援をすることとなる。源頼朝に後者をさせることは言うまでもない。二方面作戦であるがために戦況を有利に働かせることができるという希有な例が誕生した。
源頼朝はまず、平家軍京都出発の知らせを受けた寿永二(一一八三)年二月一七日に、安田義定、和田義盛、工藤親光、宇佐美祐茂、土屋義清らに軍勢を指揮させて遠江国までに派遣した。遠江国では在地の武士である横地長重と勝田成長の軍勢と合流させたとあるが、おそらくここに、北条政子の命令によって遠江国に飛ばされていた伏見広綱も加わったはずである。伏見広綱は遠江国出身の武士であり、遠江国に所領を持っている。しかも、その所領は浜名湖と遠州灘との間の土地だ。
浜名湖は、現在でこそ海水と淡水が入り交じっている汽水湖(きすいこ)であるが、明応七(一四九八)年まで浜名湖は淡水湖であった。浜名湖が汽水湖になったのは明応七(一四九八)年八月二五日の明応地震で浜名湖と遠州灘との間の土地が陥没し、津波も発生して遠州灘とつながった結果であり、それまでは浜名湖と遠州灘との間には陸地があり、東海道の要衝でもあったのだ。何しろ陸路で東海道を移動するとき、浜名湖付近に来たら浜名湖と遠州灘との間の狭い陸地を通らねばならなかったのがこの時代である。ここを源氏が制圧できていることは大きい。
ただ、この軍勢派遣は無駄であった。
平家の軍勢がやってこなかったのだ。
平家軍が京都を出発したという情報、これは正しかった。ただ、出発しただけですぐに戻ったのだ。平家にしてみれば負ける可能性が高い戦いである。貧弱な軍勢を率いて出発したところで命を落とすだけだ。死に場所を求めているならまだしも、勝つことを考えて行軍しようというときに勝てないという現実を突きつけられたら、行軍を断念して引き返すのは戦術としても戦略としても間違っていない。世論の反発を受けるだろうが、最終的な勝利と世論の反発とでは、最終的な勝利を選ぶのは当たり前だ。
東海道に向けて軍勢が派遣されたという知らせは鎌倉だけが受けたのではない。関東地方にまだ残存している源頼朝に服従していない勢力も知らせを受けた。
これは絶好のチャンスとなる、はずであった。
何度も書いたが、このときの鎌倉方は二方面作戦を展開していたのである。軍勢を東海道に向けて派遣したことと軍勢が枯渇することとはつながっていなかったのだ。
互いに反発はしていても、源頼朝にも従わずに独自の路線を進むという点では意見を一致させていた者が二人いる。一人は常陸国の志田義広、もう一人は下野国の足利俊綱。志田義広は源義朝の弟で源頼朝から見て叔父にあたり、反平家である。一方、足利俊綱は以前から平家の家臣であり、新田義重との対立の末に上野国での勢力を衰えさせたものの、従来の本拠地である下野国では平家方の武士を束ねる立場であり続けていた。この二者が、反源頼朝という目的だけで手を組んだのだ。
寿永二(一一八三)年二月二〇日、常陸国で志田義広が挙兵。呼応するかのように下野国で足利俊綱が息子の足利忠綱とともに挙兵。両者は足利俊綱の本拠地である下野国で連合し鎌倉に向けて軍勢を進め始めた。この知らせを受けた源頼朝は、挙兵地に近いところにいる下河辺行平と小山朝政にその対応を託し、鎌倉に在駐していた小山朝政の弟の小山宗政に軍勢を率いさせて下野国へ出発させた。なお、この軍勢の中に源頼朝は一人の武士を帯同させている。
寿永二(一一八三)年二月二三日、志田義広から小山朝政に対して源頼朝をともに倒すべく協力を要請。小山朝政の方針は明白で、あくまでも源頼朝に従うというものである。しかし、志田義広のもとに平家方の足利俊綱の軍勢も連合していることは既に情報として入っており、この時点で小山朝政が用意できる軍勢では数で負けていた。そう、この時点であれば。
源頼朝という人の情報収集能力を甘く見てはならない。東海道に軍勢を派遣したのは二月一七日である。その三日後の二月二〇日に源頼朝のもとに常陸国の志田義広と下野国で足利俊綱が挙兵したとの連絡が届いた。つまり、情報は片道一日半である。二月二三日まで三日間の猶予があるということは、軍勢を結集させて小山宗政に軍勢を率いさせ、鎌倉から小山朝政のもとに援軍を派遣していることの情報を到着させるのに充分な時間だ。ただし、この情報は下河辺行平と小山朝政の両名のもとにしか届いていない。
小山朝政は、現時点では軍勢が整っていないが間もなく軍勢が集結することを把握している。そこで小山朝政は一芝居打った。志田義広の軍勢と合同すべくこちらに来ていただきたいとの書状を送ったのである。しかも、源頼朝に対して叛旗を翻す用意はあるが、平家の軍勢とともに戦うつもりはないとして、志田義広の直属の軍勢だけできてほしいとしたのである。志田義広はせっかく拡大させていた軍勢を縮小させることになった。もっとも、味方に引き入れてしまえばこちらのものと考えたのかも知れない。何しろ志田義広は源氏嫡流の人間だ。源頼朝を討ち取ったあとで源氏勢力のトップに立つ資格を持っている。自分の権威のもとに小山朝政は従うだろうとでも考えたとすれば納得できる。
志田義広の軍勢が野木宮、現在の栃木県下都賀郡野木町に至ったとき、小山朝政が忍び込ませていた軍勢が一斉に雄叫びを上げた。野木宮は河岸段丘が小高い高地を形成している土地であり、現在は住宅地になっているがその当時は軍勢を隠すことも可能な沢筋の入り込む地形であった。人が隠れているとは全く想像もつかなかった志田義広の軍勢は慌てだし、次々と物陰から繰り出される矢に慌てふためいた。
それでも志田義広の軍勢は抵抗を見せて火矢を放ち、周囲を燃えさせた上で小山朝政を落馬させることに成功する。このまま行けば志田義広の勝利に終わったかも知れなかったが、鎌倉から派遣されてきた軍勢がここで小山朝政の軍勢に加わったのだ。なお、愛馬が戦場からこちらに向かっているのを見た小山宗政は兄の小山朝政が戦闘で戦死したと考え、敵討ちとして戦地に到着してみたら兄が健在であったというエピソードも残っている。
一気に数で有利になった小山朝政は弟らとともに一気に志田義広を殲滅させることを狙ったが、燃えた灰が視界を防ぐこととなり、志田義広は西へと逃走し、後に木曾義仲のもとを頼ることとなる。
志田義広の逃走を確認した後、鎌倉方の軍勢は足利俊綱と足利忠綱の親子の討伐に向かった。このときの鎌倉方の軍勢の名を列挙すると、八田知家、下妻清氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田為成、湊川景澄、そして、源範頼の名がここに登場する。後に源氏の軍勢を指揮することとなる源範頼の名がここでいきなり登場するのだ。
このときの足利俊綱と足利忠綱の親子の様子は不明である。息子の足利忠綱は山陰道を経て九州まで逃れていったとの記録もあるがそこから先の記録はない。もしかしたらこれが足利忠綱なのではないかと思われる人物が壇ノ浦の戦いの一ヶ月後の記録に登場しているが、明確に足利忠綱であると断言できる記録はここで終わる。一方、父の足利俊綱はここで行方不明となったのち上野山上郷龍奥に籠もったらしいが、そのあたりの記録もよくわからないのが実情だ。
判明しているのは、これによって、源頼朝は関東地方から反源頼朝の武士を一掃することに成功したということだけである。
寿永二(一一八三)年二月二七日、小山朝光から源頼朝に対して戦勝報告が送られる。
寿永二(一一八三)年二月二八日、小山宗政、鎌倉へ凱旋。
鮮やかな完勝に鎌倉の街は活気づき、小山宗政の率いる若き軍勢は鎌倉の女性たちから黄色い歓声を一身に浴びた。その中で最も歓声を浴びたのが、源頼朝の弟でありこのときが初陣であった源範頼である。源義経の初陣は前年に予定されていたが中断されたため、初陣は兄の源範頼の方が先となった。
それにしても、いつの間に源範頼が鎌倉に到着していたのであろうか。
平治の乱の後、源義朝の子は殺害されたか、流罪になったか、出家させられたかのいずれかの境遇を受けているが、六男の源範頼だけは何の処罰も下っていない。
そこで着目されているのが、源義朝は六男の源範頼を息子として認知していなかったのではないかとする説である。源範頼の母は、遠江国池田宿、現在の静岡県磐田市の遊女であったとする説や、池田宿の有力者の娘であるとする説があり、母親が不明である。平治の乱の時点で源義朝に隠し子がいて、その子が遠江国で藤原範季のもとで育てられていることは公然の秘密になっていた。ところが、藤原範季は平凡な地方官ではなく平家政権のもとでの実務官僚として着実に出世していったのである。近江守、上野介、さらには陸奥守兼鎮守府将軍とまで登り詰め、位階もステップアップさせていったのである。ここで注意すべきは安元二(一一七六)年から治承三年の政変の直前まで陸奥守兼鎮守府将軍であったことで、藤原範季のもとで育っていた源範頼がここで弟の源義経と会っていた可能性はある。
その後、藤原範季の配置転換を機にそれまで育っていた遠江国に移り、現地で甲斐源氏と協力体制にあったと推測される。ただし、甲斐源氏とともに戦う武士たちの中に源範頼の名は無い。
源範頼の名がはじめて登場するのは、小山宗政の率いる軍勢の一人としてである。後のように自分で作戦を練って遂行させるのではなく、軍勢を構成する一人の武士としてである。志田義広は自分が源為義の息子で源義朝の弟であるという血統を自らの行動の正統性(レジティマシー)の根拠としていた人だ。そんな人のもとに源頼朝の弟という志田義広よりも強烈な正統性(レジティマシー)を持つ人物が敵として現れたら、志田義広は自らの主張の根拠を失うこととなる。一人の武士としての活躍はあったろうが、源範頼は存在するだけでも充分な存在意義を有していたのだ。
関東地方で反源頼朝の動きがあったことを京都は知っていたのか?
確認しうる限りにおいてそうした情報は無い。
存在するのは、平家がかなり追い詰められていたであろうことは推測できることだけである。
寿永二(一一八三)年二月二七日に平宗盛が内大臣を辞任したのだ。
さらに、平宗盛のもとに、平知盛、平重衡、平頼盛、平時忠、平親宗が集まって今後の協議をした。
ただ、そこで決まったのは、平宗盛の嫡男である平清宗と、平頼盛の娘の婚姻が成立したことだけである。これで平家の結束は強くなったが、それと平家の求めていた情勢挽回とは全くつながらなかった。
この頃の平家を、平家物語はかなり悪辣な存在として描いている。
北陸で敗れたことの重大さも自覚せずに平宗盛は大納言に復帰し、さらに内大臣にまで出世した。内大臣に出世したことの御礼のための参内には平家の公暁が一二名、蔵人頭一六名が行列の前を騎馬で先導した。東国や北陸で源氏が一斉に蜂起して今にも京都に攻め上ってこようという情勢なのに気にすることもなく華やかで、かえって不甲斐ないことだった。新年の宮中行事は平宗盛のもとでいつものように行われ、平宗盛は従一位に叙せられてすぐに内大臣を辞めた。奈良も比叡山も熊野も伊勢神宮もことごとく平家に背くようになっていた。宣旨を出しても院宣を出しても平家の命令だと悟られて誰も従わなくなった。これが平家物語における寿永二(一一八三)年初頭の平家の様子だ。
平家物語の通例であるが、話を盛っている。権大納言に復帰した後に内大臣に出世したのは事実だが、そこまですぐではない。従一位に昇叙してから内大臣を辞すまでの間は短いのはその通りであるが、平家物語のように昇叙当日に内大臣を辞任したわけではない。各種宗教施設が平家に逆らうようになったのはその通りでも、積極的な反発ではなく消極的抵抗である。宣旨や院宣はそのものが出てはいない。記録に残っていないだけで実際には出ていた可能性は高いが、この国は法治主義の国だ。議政官の中枢に平家が入り込んでいるのだから平家が何かをしたいなら、あるいはさせたいなら、宣旨や院宣に頼らなくとも、議政官の決議をもって法として広めることができる。法に逆らうような宣旨や院宣を出すとなると、摂政がいる安徳天皇には出せないので摂政近衛基通が出すか、あるいは後白河法皇の院宣となるが、その双方とも平家の意向に沿うような内容ではない。あるとすれば、議政官で平家に対して軍勢派遣を命令したものの後白河法皇に圧力を掛けて軍勢派遣を停止させる院宣を出させることで、これならば北陸遠征中止の院宣の例があるので間違いではないが、平家の命令だと悟られて従わないというのはありえない。
志田義広と足利父子を制圧したことで源頼朝が関東地方を制圧したのはその通りであるが、志田義広も、足利父子も、逃走したのであり、降伏したわけでも命を失ったわけでもない。寿永二(一一八三)年三月時点で目を向けると、特に志田義広が厄介であった。何と言っても関東から目と鼻の先である木曾義仲のもとに逃れたというのだ。木曾義仲が志田義広を奉じて、あるいは志田義広が木曾義仲を操って、鎌倉に向けて行動する可能性もある。
もっとも、木曾義仲の立場に立つと、志田義広が自分のもとに来るのは構わないが、これはこれで厄介な存在である。多くの源氏方の武士が源頼朝を源氏のトップであると認めていることは知っているが、全ての源氏方の武士が源頼朝を源氏のトップとは認めているわけではない。数で言えば少数派だが、源氏方の武士であっても源頼朝を源氏のトップと認めていない武士もいるのだ。そして、その中に木曾義仲は含まれている。
とは言え、木曾義仲が源頼朝と対抗できるかというと、その解答はイエスでもありノーでもある。そもそも軍事力が違う。木曾義仲が関東地方に攻め込んで鎌倉を攻め落とそうとしても、その途中で討ち取られるのが目に見えている。その意味で、源頼朝と対抗できるかという質問に対する答えはノーだ。ただ、今の木曾義仲に鎌倉に出向く理由そのものがない。木曾義仲は信濃国に根拠地を持ち北陸方面に向かっている最中である。一方、源頼朝は鎌倉に根拠地を持ち東海道に向かおうとしている。つまり、互いに接点を有さないことによって対決そのものを避けることができているのだ。対決しないことをもって源頼朝と対抗できると見なせば、質問に対する答えはイエスとなる。源頼朝との間に互いに干渉しないことが確約できれば、木曾義仲は源頼朝と別個の独立した勢力として存在することができるのだ。
これは源頼朝も同じである。志田義広も、足利父子も、源頼朝に反発しているために打倒したが、源頼朝に向かって攻め込んできたから討伐したのであり、源頼朝の側からすれば、関東地方で敵対する存在を叩くことは目的ではなく目的達成のために邪魔になっている存在を取り除いているだけである。鎌倉方の目的は平家打倒であり、平家を倒したあとのこの国をどうするのかを考えているのが源頼朝である。その道程に木曾義仲は存在しない。寿永二(一一八三)年三月時点の源頼朝にとって、木曾義仲は邪魔されるのは迷惑だという存在でしかなかったのだ。
源頼朝は木曾義仲に対し、逃げ込んだ志田義広と、木曾義仲のもとにいるらしい源行家の両名を鎌倉方に引き渡すように求めるが、木曾義仲は源頼朝の申し出を拒否。その代わり、源頼朝の元へ攻め込まないことを約束するとして寿永二(一一八三)年三月二五日に木曾義仲は嫡子である源義高を人質として鎌倉へ遣わすこととした。源頼朝は長女である大姫と源義高とを結婚させることを約束させ、ここに相互不可侵は成立した。もっとも、一〇歳の男児と四歳の女児である。ただちに結婚させるなどできないのは百も承知の話である。