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練馬区 01 (08/10/22) 上練馬村 (1) 貫井/高松

2022.10.09 05:06

上練馬村 貫井 (ぬくい)

上練馬村  高松 (たかまつ)


今回の東京滞在は娘たちがいる練馬区貫井に泊まる事にした。滞在中は免許更新、定期検診、各種健康診断のためで、滞在期間中は連日、これに半分以上費やすので、滞在地近辺の練馬区の文化財巡りを始める。家の周辺地の旧上練馬村から始める。東京に到着した10月5日の夕方に図書館から練馬区史などの資料を借り、6日、7日は雨で自宅で資料に目を通し、8日から訪問を開始した。連日、健康診断や定期検査などがあり、なかなか終日使える日が少なく、時間があまりとれないので、旧上練馬村、旧下練馬村は何日かに分けて訪問した。



上練馬村

かつての上練馬村は現在の貫井、光が丘の一部、田柄、高松、春日町、向山を含んでいた。上練馬貫井村とも称していた。練馬の地名語源には、いくつかの説があるが定説はない。

  • 古代宿駅の名に由来する乗瀦 (のりぬま) 説。
  • 土器の材料となる粘土をねった練場 (ねりば) 説。
  • どろぼうが馬を盗んできては訓練したという馬調練説。
  • 石神井川が豊水期にあったころ、豊島園付近が広大な沼であったろうとする根沼 (ねぬま) 説。

上練馬村の小名 (こな) は海老ケ谷 (えびがやつ)、中ノ宮、高松、貫井、田柄の5つであった。これらの地名は、1639年 (寛永16年) の上練馬村検地帳に記載があるので江戸時代以前から存在していた。戦国時代、豊島氏の没落後、練馬城は海老名左近という武将の居城になった事に由来している説や台地や丘陵が海老形に湾曲するのでという説もある。中ノ宮は現在ではその所在は不明。高松、貫井、田柄は旧小名がそのまま残っている。



貫井

貫井は練馬区の南部に位置する地域で、北部を高松、南部を中村北と中野区、東部を向山、西部を富士見台と接する。旧上練馬村の小名 (こな) で、江戸時代の上練馬村は今の田柄、春日町、高松、向山、一部光が丘を含む大村で、上練馬貫井村とも称して一村の形をとることもあった。むかし弘法大師がこの地を訪れ、水不足に苦しむ村民の姿を見て、持っていた杖で大地を突いたところ、泉が湧き出した。これが地名の由来だという。昭和7年板橋区成立のとき練馬貫井町となり、昭和22年練馬区独立後、練馬の冠称をとって貫井町となった。富士見台駅は貫井にあり、大正14年鉄道開設当初は貫井駅といったが、昭和14年現駅名に改めた。

貫井村の変遷を見ると、江戸時代から明治時代は江戸東京への街道であった清戸道を中心に集落が造られていた。当時は武蔵国豊島郡上練馬村に属し、西貫井、中貫井、本貫井、北貫井、東貫井の5つの小字で構成されていた。1925年 (大正14年) に貫井駅 (1933年富士見台駅に改称) が開業してはいるが、戦前は集落は以前とそれほど変わっておらず、鉄道沿いはまだ発展していない。1932年(昭和7年)の東京市成立時には当時の板橋区に属して同区練馬貫井町となり、字東貫井、北貫井、本貫井、向貫井、中貫井、田嶋、東田嶋、西貫井、南貫井に区分けされていた。1949年(昭和24年)1月1日に冠称を外して貫井町となった。貫井が発展したのは戦後になり、1965年には貫井全土が住宅で埋め尽くされている。

1965年(昭和40年)4月1日に住居表示が実施され、現行の貫井一丁目から五丁目となった。貫井一丁目には旧中村北四丁目の一部、貫井三丁目には、谷原町一丁目の一部、貫井四丁目には高松町一丁目の一部、貫井五丁目 にも高松町一丁目の一部が編入され、旧貫井町の一部が向山四丁目に編入されている。戦後の高度成長期 (1955年~1973年) は順調に人口は増え続け、特に1950年代の人口増加は顕著で二桁の伸びを示している。高度成長期が終わって、人口は横ばいから、僅かに減少傾向に転じ、2000年以降は僅かに増加傾向になっており、現在もその傾向は続いている。世帯数は戦後から現在まで一貫して増加を続けている。戦後、暫時都市でのライフスタイルの変化が如実に表れている。


練馬区史 歴史編に記載されている貫井内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 円光院
  • 神社: 須賀神社、御嶽神社、須賀神社、秋葉三尺坊大権現、伏見稲荷神社
  • 庚申塔: 7基 馬頭観音: 7基

まちづくり情報誌「こもれび」

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


貫井訪問ログ



庚申塔 (44番)

まずは家のある貫井地域から始める。練馬には多くの庚申塔が残っている。約130体確認されているそうだ。庚申塔は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて江戸時代初期 (寛永期以降) 頃から建てられた石塔。庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫 (さんしちゅう) が、庚申の日の夜に寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされており、それを避けるため、庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。家の近くにも庚申塔があった。1798年に作られ、方形タイプで青面金剛像が刻まれており、道しるべにもなっている。いつも見ていたが庚申塔とは気付かなかった。左のものが庚申塔で隣には二つ地蔵尊が置かれている。


庚申塔 (45番、46番) [移設 貫井4-30]

庚申塔 (44番) の北側の環八通り近くに二つの庚申塔 (45番、46番) があるのだが、結局見つからなかった。ここは自宅のすぐ近くで何度となく通っていたのだが、わからなかった。45番は1704年 (宝永元年) に方形笠付 青面金剛像で、46番は1692年に作られた板駒形で青面金剛像が刻まれているそうだ。インターネットにあった写真が下のもの。現在は全く様相が変わっており、表示されていた住所周辺を廻ってみたが、見つからなかった。昔から住んでいる人に聞かないとわからないだろう。

この後、円光寺を訪れた際に、資料では記載されていない二基の庚申塔があった。後でよく見ると無くなっていた二基の庚申塔 (上の写真) と全く同じなので間違いないと思う。


須賀神社

庚申塔の近くに須賀神社がある。この須賀神社は日本全土に多数存在する。素鵞神社とも書かれ、牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社になる。名は日本神話でにおいて、須佐之男が八岐大蛇を退治して櫛名田比売を妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するそうだ。ここの須賀神社もその一つだろう。


庚申塔 (50番)

須賀神社の隣にも庚申塔が置かれていた。1702年に作られ、方形笠付青面金剛像になっている。


南池山貫井寺円光院、庚申塔 (49番)、馬頭観音 (29/30/31番)

目白通りに出て東に進んだところに円光院がある。円光院は、南池山貫井寺といい、真言宗豊山派 (豊島八十八ヶ所第十一番札所) の寺。昔、寺の南に大きな池 (貫井中学校グランド辺) があったので「南池山」と号し、土地の名が貫井であるので「貫井寺」と称した。伝承では1585年 (天正13年) に没した開山の円長法師が密法修行の折に腰痛を患い、治療を施したが効果がなく、七日間の断食で、武州大鱗山の子聖権現を遙拝し平癒を祈願した。その満願の日、霊夢により霊石を得て患部を撫でさすると快癒したので、感きわまり、ここに堂舎を建て貫井寺と称し、その近くに子聖大権現を勧請して霊石と共に奉安したという。子聖権現は12年に一度、子の年子の月・子の日に開帳され、また観音堂に安置された観世音菩薩は子聖観世音と称し、馬の護り本尊として信仰を集め、毎年春に境内で「馬かけ」の行事が行なわれ賑わった。1945年 (昭和20年) 5月の戦災で本堂などを焼失、1963年 (昭和38年) に再建され、1980年 (昭和55年) には、観音堂、境外仏堂 (地蔵堂) などが修復再建されている。 山門は鮮やかな朱塗りに施され、その両脇には、この付近に散在していたのだろうが、地蔵尊、板碑、庚申塔 (1693年、方形笠付青面金剛像)、馬頭観音碑 (写真左中の左側の三つの塔 29番 1901年 方形 文字、30番 1922 方形 文字、31番 1939 方形 文字、写真右下にもう一つ方形文字馬頭観音がある) などが集められて祀られている。住宅地開発で行き場が無くなった物だろう。写真右下には庶民信仰の中心だった三つの庚申塔が置かれている。登録されているのは49番だけで、1693年に造られた方形笠付青面金剛像で一番左のものだろう。左側にある二つの庚申塔は見つからなかった45番と46番の様に思える。以前道路を整備していたことがあり、その時にここの円光院に移設したのだろう。

境内にも幾つもの板碑 (多くは記念碑) や観音像、弘法大師像も置かれている。

境内の建造物としては観音堂、鐘楼、そして本堂になる。本堂には本尊の不動明王を祀っている。


東高野山道道標

円光院の西側、目白通りの歩道に東高野山道道標が保存されている。清戸道から東高野山長命寺へと向かう旧道の分岐点に建立された道標が二基置かれている。向かって左側は、1799年 (寛政11年) に再建された道標で、正面に「東高野山道」と刻まれている。右側も、同年に貫井村の都鄙講中により建立された道標で、正面上部には「東高野山」と書かれ、左側面には「左 高野山十八丁」、 右側面には「右所さいちくぶ道」と刻まれている。いずれも東高野山長命寺への行き先を示す道標になっている。


おさる坂 [2023年1月18日 訪問]

清戸道は東高野山道道標があった所まで東からは目白通りと一致し、東高野山道道標で北に方向が変わり、清人道を北に進むとなだらかな下り坂が石神井川に向かっている。この坂はおさる坂と呼ばれていた。昔は、この坂の左手の丘の上に草に埋もれた二基の庚申搭があった。それぞれは1669年 (寛文9年) に造られた板駒形文字型で三猿が浮き彫りにされている庚申塔 (74番) と、1773年 (安永2年) 造立の方形笠付型で青面金剛像が浮き彫りされた庚申塔 (75番) だった。三猿が刻まれていたことから、おさる坂といわれるようになったと伝わっている。祝儀の際、花嫁が通ると「さる (去る) 」という坂は縁起が悪く離縁になるといわれ通らないようにしたそうだ。現在、この二基の庚申塔は春日町のに安置されているそうだ。


御嶽神社・貫井弁財天 [2023年1月18日 再訪]

円光院のすぐ南の草が生え放題の空き地の奥に神社があった。左の朱色の鳥居の方が御嶽神社、右側が貫井弁財天の祠になる。元々は弁財天が建っていたが、後に御嶽神社が造られたそうだ。

2023年1月18日にここを通った時に、草綺麗に刈られていたので、中に入り祠近くまで行くことができ、写真撮影。



清戸道

御嶽神社から南に目白通りに向かうと清戸道碑が立っていた。清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長 約15km、区のほぼ中央を横断している古道で、東に行くと目白を経て神田川に架かる江戸川橋に達し、西に行けば、保谷、東久留米を経て清戸 (清瀬市) に着く。練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道だった。江戸時代から練馬の百姓は、朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には下肥を運んで帰って来た。日帰りができる距離だった。その下肥は、中農以上の百姓は馬で、 それ以下の百姓は天秤棒で運んでいた。このように清戸道は、農産物輸送の重要な道路だった。


須賀神社

清戸道碑が置かれた石垣の上に、貫井では二つ目の須賀神社がある。


庚申塔 (48番)

更に目白通りを練馬方面に進むと庚申塔がある。1707年に方形笠付のタイプで青面金剛像が刻まれている。


馬頭観音 (26番)

庚申塔のすぐ近くには馬頭観音 (26番) もある。1844年 (天保15年) に駒形 馬頭観音像で造られたもの。馬頭観音は仏教における菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身になる。馬頭という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られている。この馬頭観音の石仏が多く置かれるようになったのは近世以降で、国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった頃。馬が急死した路傍や芝先 (馬捨場) などに馬頭観音が多く祀られ、次第に動物への供養塔としての意味合いが強くなったそうだ。庚申塔の青面金剛像と同じように見えるのだが、馬頭観音は馬に乗っている様子が異なっているそうだが、これは馬に乗っているのかどうかはよくわからない。


庚申塔 (47番)

中村橋駅前の商店街の中に祠があり、庚申塔が祀られている。これは1752年に建てられ、駒形タイプで青面金剛像が刻まれている。奉納の石柱には高松村の住民の名が刻まれている


馬頭観音 (27番) [2023年1月18日 訪問]

庚申塔 (47番) の近くに馬頭観音 (27番) があると資料に書かれていたので、探すが見つからなかった。この中村橋への商店街は中杉通りで、江戸時代には人通りが多かった地域だ。1859年 (明治6年) に作られた方形文字タイプ。後日、インターネットで探すと、この馬頭観音が見つかった。次回東京に来た際に再訪する予定。2023年1月17日に再訪し、この馬頭観音を見学。


秋葉三尺坊大権現

馬頭観音 (27番) から西に向かい住宅地の中に秋葉三尺坊大権現の祠があり、地元では秋葉様と呼ばれている。秋葉様は越前の国大野郷 (現在の福井県大野市) の大野城城主土井家の守護神として吉祥院に祀られていた。昔から火の神様として多くの信仰を集めてきた秋葉様は 観音様の化身と言われ、今から1300年あまり前に信州で 生まれ七歳の時に出家、後に優れた高僧となった。火の難を救うと共に、全ての苦しみから人々を救う為十三もの大願力をもっているとされている。御本体は秋葉の火祭りで知られる秋葉総本殿 (静岡県 袋井市) からの法縁と伝えられており、昭和44年に、 この地に本殿を模して建立し遷座したもの。


伏見稲荷神社

秋葉三尺坊大権現から少し西側に伏見稲荷神社があった。資料では東伏見稲荷大神とも書かれていた。ここの場所は現在建物工事中で、元々は角にあったのだがビル建設で、祠が新調されてこの場所に移されている。この神社の詳細は見当たらなかった。



貫井から石神井川を渡ると高松地域に入る。



高松

高松は練馬区の中部に位置する地域で、住宅が立ち並び、今でも耕作地も多く見られる。高松一丁目から高松四丁目までは北部が光が丘と隣接し、光が丘の南西部を包み込むように高松五丁目と高松六丁目が伸びた独特の形をしている。高松五丁目・高松六丁目は北部が土支田と旭町と隣接し、南部は貫井、東部は春日町、西部は谷原と隣接している。

江戸時代は上練馬村の小名 (こな) の一つで、村内にこずえの高い松があったから高松と呼ばれたとの説がある。高松には高松と大門 (現在の高松の北西地域) の二つの小字があった。むかし、富士大山街道に面して高松寺 (こうしょうじ) という寺があったが、明治初年、廃寺になって春日町の愛染院に合併された。この愛染院の門が大門の由来という説もある。

高松は明治時代から1969年 (昭和44年) の区画整理までは現在の光ヶ丘の一部を含んでいた。明治時代の地図では旧街道 (ふじ大山道、清戸道、長久保道) 周辺にいくつもの小さな集落が点在している。大門山、平松、高松、高松前、西高松、東高松、中高松、南高松の集落名が見える。戦前までは、これら集落がわずかに拡張したぐらいで、現在の光ヶ丘の場所が昭和18年に旧日本陸軍の成増飛行場 (高松飛行場) となり、その影響があるのか、この時期の地図では、民家が減少している。戦後は連合軍に接収され、無期限使用施設としてアメリカ空軍の家族宿舎グラント・ハイツ住宅地区となった。この時期に、戦前民家が減少していたが、民家も増え始めている。ただ、1973年 (昭和48年) に全面返還されるまでは、練馬の他の地域と比較して発展速度は遅く、まだまだ畑が多い地域だった。急速な発展は一部返還された返還跡地に1957年 (昭和32年) に光ヶ丘団地が開発され入居が開始され、その好影響が出始めてからになる。

1932年 (昭和7年) の板橋区成立時に練馬高松町一丁目・練馬高松町二丁目となる。1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分離、1949年 (昭和24年) に冠称を外して高松町となった。他の地域同様に高松も高度成長期 (1955年~1973年) に大きく人口増加がみられる。特に前半期は高い人口増加率を示している。1969年 (昭和44年) に住居表示が実施され、高松町は現行の高松一丁目から高松六丁目となり、高松五丁目には旭町の一部、高松六丁目には土支田町の一部が編入され、光が丘は田柄町一丁目の全域、田柄町二丁目の全域、旧高松町一丁目の一部、旧高松町二丁目の一部、旭町北東部で構成されることとなった。この時の人口は前年から12.6%と突出しているのは、この住居表示実施で編入地があったことによる。人口データが入手できていない1980年から2001年までの約20年間で1979年に比べ50%の人口増加している。近年は人口は横ばい状態に変わっているが、世帯数は増加が続いており、人気の高い地域になっている。


練馬区史 歴史編に記載されている高松内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 氏神八幡神社、稲荷神社、若原稲荷神社、高松御嶽神社
  • 庚申塔: 7基  馬頭観音: 2基

まちづくり情報誌「こもれび」- 高松


高松訪問ログ



大日如来虚空藏菩薩下の堂、延命地蔵尊、庚申塔 (81番)

高松地域の中にある墓地の奥に祠がある。大日如来虚空藏菩薩下の堂と呼ばれているそうだ。ここには延命地蔵尊が1802年 (享和2年) に建立されている。祠の前に笠付角柱型庚申塔が置かれている。先程までの庚申塔とは異なり、厳しい青面金剛像が彫られている。奉待庚申供養とも書かれている。庚申塔は供養も兼ねた庚申供養塔も多い。この庚申塔はl1733年 (享保18年) に造られているので約300年前のものだ。


宮田橋敷石供養塔/高松庚申塔 (80番)

環八通りを東側に渡ると、ここにも庚申塔が置かれている。案内板が置かれている。それによれば宮田橋敷石供養塔/高松庚申塔とありり、右側の石柱が敷石供養塔は1807年 (文化4年)、清戸道の寄進した敷石の完成記念と交通安全を祈願して建立された供養塔になる。むかし、この元宮田橋付近は石神井川沿いの湿地で、野菜や肥料などの運搬に難渋しており、敷石を敷き詰めた事で感謝して埼玉方面の人も寄進したという。庚申塔は1715年 (正徳五年) に上練馬村高松の住民26人によって方形笠付で造立されたもので、主尊は六臂の青面金剛で、力強く天邪鬼を踏まえ、下には「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が 彫られている。この塔は練馬区内に現存するものでは一番大きいもの。


氏神八幡神社

少し道を東に行くと氏神八幡神社があり、当社創建は1060年代康平年間に源頼義公奉し、国家安泰、勝運安泰祈願し、先に鷺宮八幡をたて、つづいて、この氏神八幡神社を建立し、若宮八幡と称し、現在では、高松、貫井、向山他の氏神となっている。応神天皇( ほんだわけ大神) を祭神としている。鳥居をくぐると境内への階段がある。その斜面に大山講の氏子たちによって、1803年 (享和3年) に建立された石坂供養大山大聖不動明王 (左下) が祀られている。大山に参詣する人は、氏神とこの不動明王を拝んでから石神井川 で身を清めて、大山詣でに出発したと伝えられている。斜面の反対側には鳥居が置かれて富士講碑 (右下) が建っている。富士塚の形ではないのだが、東京の富士塚に登録されている。(23区内には73基の富士塚、富士信仰神社9社、12の石碑がある)

階段を上がると境内になる。手水舎 (左下)、神楽殿 (右下) があり正面に狛犬 (1891年 明治24年) に守られた拝殿、その奥に本殿 (中下)がある。

拝殿の向かって右には五社宮があり、高木神社、稲荷神社、須賀神社、春日神社、熊野神社が祀られて、韓信の股くぐりの額がかかっている。その前には太平洋戦碑と夫婦社があり階段の下には道祖神が作られている。

本殿の向かって左裏には須賀神社がある。今日二つ目の須賀神社だ。祠の前には石造りの小さな祠が二つと日露戦役記念碑がある。

須賀神社の隣には二つの祠があり境内末社がある。境内には末社として、御嶽神社、天満菅原神社、須賀八雲神社 (須賀神社)、稲荷神社、春日神社、髙木神社、熊野神社、お不動社ほかあると書かれていたが、五社宮で祀られていない主要なものは御嶽神社、天満菅原神社なので、この二つの祠がそうでないだろうか?


高松板碑型庚申塔 (66番)

高松氏神八幡神社の東側テニスコートの角にも庚申塔が保存されている。今日見てきた庚申塔とは少し異なり板碑形式になり、正面中央には青面金剛像ではなく三猿の浮き彫りがある。申は干支で猿に例えられる事から、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫るようになったという。中国発の庚申信仰は日本では独自に発展している。板碑の上部には寛文3年 (1663年) と陰刻があるので、約350年も前に造られている。石造庚申塔の初期の形態になる。もとは現在地の北側約50メートルの辻に建てられていたそうだ。庚申塔は村の境界に建てられ事も多いという。ここは丁度高松と春日町の境なので、その目的もあったのかも知れない。


?稲荷神社

環八通りを北に渡ったところ道沿いに祠がある。Google Map では「祠」となっているのみで、名前は書かれていない。鳥居には名がかけられているのだが、敷地はフェンスで囲まれて中には入れず近づいて見れない。稲荷神社とはあるのだが、その上は判読不明。個人宅の祠の様な気がする。この辺りを走ると個人宅の敷地内に祠が置かれている場所を幾つか見かけた。


長久保道跡

名称不明の祠の西側の道に旧道跡の碑が立っていた。長久保道と書かれている。長久保道は先に貫井で訪れた清戸道の旧元宮田橋付近 (先程訪れた宮田橋敷石供養塔/高松庚申塔あたり) でこの道の起点として分かれ、富士街道を横切って、光が丘の南西の隅、土支田通りを横切り、白子川の別荘橋を経て、膝折 (朝霞市) で川越街道と合流する。長久保は旧新倉村の字名で、現在の大泉学園町7~9丁目付近にあった。いつ頃から長久保道と呼ばれ始めたかは明らかではないが、明治初期の文献に記載がある。


練馬大根漬物用大樽 (とうご)

長久保道跡碑の裏側のわかみや公園に大きな樽 (左) が置かれている。練馬大根漬物用の大樽 (とうご) という。写真右は、道の向かいにあるみやもとファームの入り口にある大樽。

練馬大根は練馬の特産物。江戸時代に作り始められた大根で、栽培の最盛期は元禄期だった。この頃はまだ古い品種の練馬大根を栽培しており、古い品種の練馬大根に北支那系の品種 (小石川薬園の大根種) を交雑させた新種の練馬大根は享保期以降に栽培されるようになった。練馬大根の興隆期は江戸中期から明治前期で、この頃に日本一の名声を博し、生大根、干大根、沢庵漬としての生産が著しく向上した。その後、国外にも輸出されるなど練馬大根の栽培が大幅に拡大した最盛期が明治後期から大正期にかけてであった。しかし、隆盛をきわめた練馬大根も、昭和期に入るとともに、モザイク病 (昭和8年)、戦後の沢庵漬大口需要の減少、食生活の洋風化、都市化進行による生産用地減少などの理由で、徐々に衰退していき、昭和20年には練馬大根栽培地は全盛期の三分の一にまで減少し、昭和58年には、戦時中の人手不足、農業資材の不足、肥料の不足などが重な更に昭和20年か98%も減少し、ほとんどその姿を消してしまった。練馬大根誕生には二つの伝説がある。一つは「綱吉説」で、少し疑わしいのだがこの後に訪れる綱吉御殿 (北町) で徳川吉綱が将軍になる前の右馬頭の時、脚気の療養中にその庭で近所の百姓に栽培させたとある。もう一つが篤農又六説。小石川お薬園で、北支那系の大根品種があり、これを上練馬村の住人の叉六が入手して毎年栽培を続けているうちに、たまたま古い練馬大根に自然交雑し変異したものを発見し、のちの練馬大根の原種となったと伝えられている。


稲荷神社

わかみや公園の向いには練馬では有名な宮本食品がある。その西側の路地沿いに稲荷神社が置かれていた。


若原稲荷神社

北に進んだ所に若原稲荷神社が置かれている。何度も通った道だが、ここに神社があったとは気が付かなかった。商売繁盛、五穀豊穣稲荷神、宇迦之御魂神、倉稲魂命を祀っている。


庚申塔 (79番)

若原稲荷神社のすぐ近くにも庚申塔が祠の中に祀られていた。1692年に作られ、方形笠付で青面金剛像が刻まれている。


稲荷神社

業務スーパーの敷地内駐車場に稲荷神社が置かれいる。


八雲神社

庚申塔の道を西に進んだ所に八雲神社がある。詳細は見つからなかったが、祠が二つ並び、向かって右が八雲神社で左が稲荷神社になる。二つの祠の間には護摩壇が置かれている。京都の八坂神社を総本山とする八雲神社は各地にあり、練馬区にも幾つかある。牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社で、祇園信仰に基づく神社としては、八坂神社、祇園神社、広峯神社、天王神社、須賀神社、素盞嗚神社がある。須賀神社も練馬区にはいくつもある。日本神話でスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因み八雲神社と呼ばれている。


馬頭観音 (51番)

八雲神社から北に進んだ所に馬頭観音が置かれている。1809年に舟形馬頭観音像形式で建てられ道しるべにもなっていた。地元住民に大切にされているのだろう、祠内にはいくつもの絵馬が置かれ、正面は綺麗に掃除がされて花が供えられていた。


庚申塔 (78番)

八雲神社の南側にも庚申塔があった。駒型で青面金剛がショケラ邪鬼 (三尸虫) を踏みつけている像が彫られている。


高松御嶽神社、服部半蔵奉納仁王像

庚申塔のすぐ西には高松御嶽神社がある。練馬区にある三つの御嶽神社の一つ。(末社を含めると10社以上) 木曾御嶽神社から勧請した国常立尊、大己貴尊、少彦名尊の三神を祀っている。木曽御嶽山への登拝の為に新たな道が天明期 (1781~89) に開かれ、その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、は一山行者が信仰を広めた。その一山行者を講祖に祀る一山社 (写真中右) が境内にある。むかし、この北の富士街道沿いに真言宗の高松寺 (こうしょうじ) があったが明治初年に廃寺となり、墓地は愛染院に合併され、本尊の薬師如来はこの地に移されている。 この薬師如来は目病に御利益があるとされている。

御嶽神社境内鳥居脇には高松寺にあった石仁王 (服部半蔵奉納の仁王像) が祀られている。石造の仁王像二体は1706年 (宝永3年) 伊賀衆の寄親服部半蔵、もしくはその関係者が高松寺へ寄進したという。伊賀衆は、幕末まで橋戸村 (現在の大泉町) を給地としており、この場所は江戸屋敷 (四谷伊賀町) と給地橋戶村との往還道になる。


庚申塔 (77番)

高松御嶽神社から南に道を進むとここにも庚申塔が置かれている。1698年に建てられた方形笠付で青面金剛像が刻まれている。


清戸道跡

庚申塔 (77番) の側には清戸道の案内板が置かれていた。この道がかつての清戸道だった。江戸の江戸川橋から目白を通り、今日訪れた貫井の須賀神社前を通ってここに来る。更に保谷、久留米を経て清戸 (清瀬市) に至る15Kmの街道だった。


馬頭観音 (50番)

清戸道を少し西に行った所に馬頭観音 (50番) があった。1924年 (大正13年) に建てられた方形文字タイプの馬頭観音で、この時代ににもまだ馬頭観音信仰が続いていた。


八雲神社 [2023年1月18日 訪問]

更に北側、光が丘公園の西側、光が丘第一中学校側にも、もひとつ八雲神社があった。新しく建て替えられたいるようだ。牛頭天王 (こずてんのう) を祀っている。


庚申塔 (82番) [2023年1月18日 訪問]

八雲神社鳥居の側に庚申塔がある。この庚申塔は見落としていたので、2023年1月にもう一度探し見つけたもの。1711年 (正徳元年) に作られた方形笠付タイプで青面金剛像が浮き彫りされている。


御嶽神社 [2023年1月18日 訪問]

八雲神社から笹目通りを東に渡った所、ここにも御嶽神社がある。高松地区には御嶽神社が二つある。いずれも、江戸時代にブームとなった木曽御嶽を崇拝する一山講の行者により創建されている。ここの御嶽神社にはその由緒の説明書があった。それによると、明治13年に初代先達の篠田直次郎が木曽御嶽登拝を重ね、地域の安寧を祈るために、この地に一山講の宮として創建し、主祭神を木曽御嶽大神 (御嶽山座王大権現)、稲倉魂命 (権兵衛稲荷)、摂社 一山霊神、脇仏 不動明王を祀っている。一山開闢講社 (いっさんかいびゃくこうしゃ) が維持管理をしている。



高松地域の史跡巡りの次は東隣の向山地区に移動する。向山の訪問記は別途。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)