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一号館一○一教室

モーム著『雨』

2022.10.16 03:56

雨には

魔物が棲んでいる


436時限目◎本



堀間ロクなな


 今年の夏から秋にかけて、幼い子どもの不可解な失踪事件があいついだことは記憶に新しい。まず8月20日に富山県氷見市で2歳の男児が自宅から姿を消し、15日後に富山湾の沖合で遺体が発見され、ついで9月23日に千葉県松戸市で小学1年の女児が公園に向かったまま行方不明となって、11日後に江戸川の下流で遺体が発見されるという、どちらも最悪の痛ましい結末を見た。



 非常に謎めいていたのは、双方のケースとも家族がほんのわずか目を離したすきに子どもが消息を絶ち、行動半径はかぎられていたにもかかわらず、連日の大がかりな捜索によっても杳として行方が知れなかったことだ。共通していたのはそれだけではない。雨だ。富山県の事件は大雨警報の発令のもとで、また、千葉県の事件は台風15号が接近するなかで発生している。当然ながら、悪天候は慣れ親しんだ近隣でも、とくに水路や河川ではたちまち危険を生じさせよう。しかし、わたしは考える。雨がもたらすのは、そうした物理的な危険だけだろうか。ことによったら、われわれの情緒にも影響をおよぼす精神的な危険も含まれているのではないか。そんな疑いを覚えたのは、サマセット・モームの短篇『雨』(1921年)を思い起こしたからだ。



 マクフェイル博士はじっと雨を眺めている。漸く神経がじりじりしかけてきた。あのしとしとと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。降るというよりは流れるのである。まるで大空の洪水だ。神経も何もかきむしるようにひっきりなしに、屋根のナマコ板を騒然と鳴らしている。まるでなにか凶暴な感情でも持っているかのように見える。人々は時々、これでまだ止まないなら、何か大声にわめきたてでもしなければいられないような気持ちになる。かと思うと今度は骨まで軟かくなってしまったように、急にぐったりとなるのだった。もうどうにでもなれといったみじめさだ。(中野好夫訳)



 英国人の医師マクフェイルは太平洋の船旅の途上、赤道近くに浮かぶ小島パゴパゴで検疫のため足止めされる。他の旅客たちと地元の商店に宿を得たものの、雨季のタイミングで長雨に祟られた心境が上記のとおり記述されている。この原作をもとにルイス・マイルストン監督が制作した映画『雨』(1932年)では、しのつく雨が砂浜やら常緑樹やら原住民の家屋やらにえんえん降り注ぐ場面が映しだされ、確かに息苦しいまでの圧迫感があるのだが、しかし、それはいまや日本列島でも見受けられる光景だろう。むしろ、最近ニュースを騒がせる線状降水帯の映像などに較べたら、ごく慎ましやかとさえ言えるかもしれない。



 こうした雨のもとで、精神に異変をきたしたのはマクフェイルではなく、同行の宣教師デイヴィドソンのほうだ。英国の教団本部から派遣されて、南洋の島嶼一帯を伝道の受け持ち区とするかれは、同じ簡易宿泊所にハワイの歓楽街から流れてきた娼婦サディを見出すと、風紀上の判断に立って追放を働きかける一方で、彼女を回心させようと連日部屋を訪れてはせっせと教誨に努めた。そのうち、やがてマクフェイルらに向かってこんな言葉を口走るようになる。



 「実に驚くべきことです」ある日夕食の席で言った。「本当の生れ変りです。夜のように暗かった彼女の魂が、今ではまるで新雪のように清純になっています。私の心はただもう謙遜と、懼れでいっぱいです。今までの一切の罪に対する彼女の悔い改めは実に美しい。私などはあの衣の縁に触れることさえふさわしくない人間です」



 あばずれの娼婦サディに対してイエス・キリストを見出したかのようなセリフは、すでに正気を失いかけた人間のものだろう。果たして、デイヴィドソンはこのあと破局へと真っ逆さまに転げ落ちていき、ついに溺死体となって海から引き上げられるに至り、それもこれもすべて雨が作用した結果だと告げて小説は終わるのだ。いまだ「日の沈まぬ帝国」であった19世紀の英国に生を享け、みずからも南太平洋をはじめ世界各地をめぐった稀代の旅行者モームにとって、この作品に描かれた主題は絵空事ではなく、実際の深刻な体験にもとづくものだったはずだ。



 今日、地球温暖化によって日本列島が毎年過去に例のない降水量を記録し、あたかも熱帯の気候へ近づきつつあるかのように見えるとき、われわれはここに教訓を読み取るべきではないだろうか。もし南洋の雨がひとに凶暴な感情を抱かせたり、あるいはタガが外れたように昂ぶらせ、美の幻と出会わせたりするものならば、将来に向けて十分警戒する必要がある。あくまでひとつの仮説だが、富山県氷見市の男児や千葉県松戸市の女児はまだ幼く柔らかい感受性を持っていただけに、あの日、雨に棲む魔物に唆されてあてどなくさまよったのではなかったか。わたしはそんな可能性についても考えている。