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OKINAWENSE VOICE vol.002 前編

2022.10.25 01:00

OKINAWENSEを構成する「COMPANION」(仲間)が紡ぐ言葉たち。

第2回/アルベルト城間(アーティスト)


OKINAWENSEの第一弾アーティストであるアルベルト城間さん。音楽家としてだけでなく、アーティスト・デザイナーとしての顔を持つアルベルトさんに、創作活動に対する思いを伺いました。

後編の記事はこちら


−アルベルトさんが、日本に来たきっかけは? 

20歳までペルーにいました。日本に来るきっかけというのは、日本で歌手になりたかった。演歌、歌謡曲のね。ペルーの歌のコンテストで優勝して、そのご褒美で(飛行機)チケットを手に入れました。それが20歳。

最初は東京に行ったんですよ。そこで色々やって、2ヶ月半くらいで「このままじゃダメだな」って。お金がすぐになくなってしまう場所ですからね。たまたま、いとこが琉球大学に留学していたので、「沖縄に来なさいよ」と言ってくれて。東京で頑張りたかったという気持ちもありはしたんですけど、僕もどっちみち沖縄には行かなきゃいけないだろうなと思っていたので。東京での歌の先生も「アルベルトはおじいちゃんの故郷に行ってみたほうがいい。そこで何かできるかも」と。その先生はまた東京に戻って来られるように頑張って欲しかったと思うんですけど、それからは沖縄に留まったというか、ここにいなきゃという気持ちになりました。 


−小さい頃はどんなお子さんだったのでしょうか? 

……普通(笑)。学校では一般のペルー人の子たちと勉強していて、どちらかというとおとなしくて、真面目に勉強しているような子どもでした。そんなに目立つタイプでもなくて。歌を歌っていたので、14歳から大学に入るくらいまでは、日系人の間でちょっとだけチヤホヤされていたけど(笑)。いつもギターを持ってみんなと一緒に歌っていましたね。それ自体は普通のことなんだけど、「アルベルト、おじいちゃんの歌を歌いなさい」と言われて歌ったら、周りがおおっ!となるわけね。だから、ちょっと面白い、小さい“チノ”(チノ=中国人、アジア系の人はよくそう呼ばれていた)って感じでしたね。 

あとは絵が好きだったり……母がインテリアデザインの仕事をしていたから、色だったり、立体だったり、アートに関するものやデザインに関するものが好きで、それで大学は建築の道に進みました。向こうの建築は基本コンクリート。リマは大都会ですから、古くて立派な建物がいっぱいあります。大統領官邸はプラザがあって教会があって、昔のスペイン風、ヨーロッパ風の作りです。そういう建築を見ていて仕事にしたいなと。けど、心の中では「僕は歌手になりたい」っていつも思っていました。

 母は主にカーテン作りで忙しかったですね。日系人の人たちの家のカーテンを作っていました。日系人の人たちはみんな頑張ってお金を稼いでいるので、カーテンやジュータンにお金をかけるんですよね。ベッドカバーやソファカバーも作っていましたね。家の中には生地のサンプルがいっぱいありました。インテリアの仕事は植物を飾ることも考えるので、マクラメを父も母も一緒になって作っていて。父は全く違う仕事だったけど。とにかくなにかしらを作っている家でしたね。そう、絨毯も。あれは半分趣味だったかもしれないけど、壁に飾るような。手作りのものがある家で、家の中をきれいに飾ったりすることも日常的だったように思います。父も絵がうまくてね。何かを描いたり作ったり、そういうのが常にあったような気がします。

僕は、いとこたちのお下がりの服をもらうと、母のミシンでジジジ(ミシンをかけるふり)って直したりしていましたよ、10代くらいのときから。使い方は一度だけ習って。僕は身長が小さかったので、ズボンの直しは全部自分でやっていました。今考えてみればすごいなって思うよね(笑)。道具が周りにあったから、使えればいろんなことができたんですよね。カーテンや生地のサンプルだったり、そういうのを目にしていたから、色彩とか模様とか、そういったものが全て(今の自分に)影響しているのかもしれないね、無意識に。 


–昔から絵が好きだったんですね。 

今描いている模様ともつながってくるんですけど、子どもの頃に僕らが通っていたスポーツクラブがあって、小さい子どもたち向けにスポーツだけでなく文化系のレクリエーションなんかもやっていたんですね。母がそこのレクリエーション担当になった時に、クレヨンが入ったバケツを持って、それをテーブルにばあっと投げて、みんなに白い紙を渡して「絵の描き方を教えます」と。僕は家でもやっていたんですけど。そんな感じで子どもたちとクレヨンで遊んでいましたね、ずっと。で、みんなが描いた絵をひとつの壁にしたんですよ。なぜひとつにできたかというと、黒い線で枠を描いて、そのスペースに色を塗っていくんですね。そうすると似たような色彩ができるじゃないですか。それを結構大きな壁にバババーっと貼って、最後にニスで仕上げて。今はもうその壁はないと思いますけど、そういうことをやっていました。いつも絵を描いていたというか、ひとに見てもらうために描いたことっていうのはほとんどないですね。僕の絵をみて!っていうのはなくて、(そういうことをしていたから)色彩とか色の感覚というのが自然に身についたんだと思います。 




−現在は画家としてアート活動にも力を入れていますが、本格的に絵を描き始めたのはいつ頃でしょうか。 

転機は…。東京、六本木だったかな。たまたまある小さな画廊で、音楽家とアーティストのコラボの展示会があったんです。女性二人で、癌を克服したという共通のものがあって、一人は絵を展示して、もう一人はそこで歌を歌う。ただそれだけだったんですけど、それを見て、音楽とアートって素敵だなって思ったんですよ。その帰り際に、画廊のオーナーが、「アルベルトさん、絵を描かれるんじゃないですか?」と言われて。「まぁ好きですけど」って言ったら「一度ここで展示会をしてみたら」と。僕はそんなこと(自分が絵を描くこと)を話したことなかったんですけど、絵に興味がある人と思われたんでしょうね。「絵は好きだけど、ひとに見てもらうような絵を描いたことはないです」「いや、できると思いますよ」…この人、面白いこと言うなって。


あともう一つ。同じ頃、ディアマンテスにとって、とても悲しい出来事がありました。季節は冬で、僕らは夏に向けて音楽を作る時期(制作期間)なんですけど、なかなかそんな気持ちになれなくて。それで絵を描き始めました。だから絵に助けられた部分はありますね。そしたら、また別のひとに、「何かに出してみたら?沖縄にもコンクールがあるでしょう」と言われて。それで沖展(2012年)に出してみたら賞をいただけて話題になりました。 


その後、5曲くらいバーっと一気に作れたんです。なので、絵を描くことは僕にとって相当大きな力になったというのがすごくわかりました。癒されたのと…それだけじゃなくて、自分の中の元気な部分を引っ張り出してくれて、曲が作れた。それで久しぶりにヒットと呼べるような作品も生まれて。その中の1曲が「セバダ」という曲で、オリオンビールのCMにも使われました。事務所の人や他のミュージシャンからも「アルベルト、久しぶりにパンチのある曲ができたね、すごいな」って評価されて誉められましたよね。 


沖展に出したことはすごく大きかったと思います。絵を描き始めたときは、自分に欠けているものがあるような気がしていたけど、作品を描きながら、「これはひとに感謝しなければいけない」と。それでタイトルが「謝恩」になりました。当時は東日本大震災が起きた頃で、ボランティアに行く人もいたけど、自分がそこに行って何かできるとは思えなくて、歌うことも控えていました。自分のおじいちゃんやおばあちゃん、ペルーにいる日系人、沖縄、自分の中の日本とか、それらを改めて「何だったんだろう」と思いを巡らして、それで「謝恩」という言葉を思い出したんです。僕は日本に来た時、全く日本語が喋れなかったんですけど、ペルーではよく「謝恩会」が開かれていて、言葉を覚えていた。改めて「謝恩」ってそういう意味だったんだ、と思って。これは大事だなと。それで、ギターの模様を描いて、その中に四季を散りばめた作品で入選しました。誰かに見てもらうために描き、謝恩という気持ちを伝えたい、と思いましたね。 



−その気持ちを伝えるのが、音楽ではなく絵という形だったんですね。 

そうですね。絵って、静かなものじゃないですか。絵やデザイン自体は黙っていて、見るひとによって感じ方が違う。僕は絵を描くとき、音楽は何も入ってこない(聴かない)。ただ色とデザインだけに、エネルギーをぎゅっと突っ込んでみるという感じです。 



−本格的にアート活動始めて10年ほどが経ちますが、どういったときに絵を描くモチベーションが生まれるのでしょうか。 

すべて“縁“ですね。沖縄の人って、「いちゃりばちょーでー(一度会えばみな兄弟)」っていうくらい、縁は大事にするでしょう? それは音楽でも一緒ですよね。音楽を作る時に、「ウけよう、キャッチーなもの作ろう」という気持ちはもちろんあるし、絵を描く時も、「何か刺激的なものを」という思いはあるんですけど、ただそれだけだと空っぽな感じがするんです。何かをするときって、必ずそこに”縁“があるんです。僕の癖なんでしょうね、いつもアンテナを張っているんですけど、人とのちょっとした会話だったり、何かを見て感じたことだったり。それらも全て”縁“だと思っています。人との縁が一番強いかな。こういう仕事をしていると、いろんな人に会うんですけど、誰かと会った時に得られるものって必ずありますからね。そういう縁が、デザインにもつながっているし、音楽にもつながっている。縁ですね。 子ども食堂のアートピアノ(※1)もまさしく縁です。僕がプラザハウスで展示会をやったときに、ピアノを直している知り合いが、子ども食堂を運営している方を連れてきてくれて、「子どもたちに何かプラスアルファでやってあげくて、ピアノに絵を描いてほしい」と。じゃぁやります、ということで。自分が何か動いていると、縁がつながるんですよね。僕は自分で企画書を作ってプレゼンしてということはやったことないんだけど、それは人にやってもらうほうがいい。僕は歌って、絵を描いて、それだけのほうがいいね(笑)。 


※1 子ども食堂のピアノアート…アルベルトさんがライフワークにしている活動のひとつ。使われなくなったピアノにアートを施し、施設などに贈呈している。


沖展へ出すことは、今では自分のライフワークになっています。入選できたら嬉しいですけど、描くことが喜びですね。入選できたらね…出展に8,000円かかりますから(笑)。テーマはその時々で。12年前は震災だったり、悲しい出来事が個人的にもあったりして。その時の気持ちが全てです。けど、マイナスだけの気持ちではなくて、絵はその悲しい出来事もプラスのエネルギーに変えていくはずだから。見た人も何か感じていただける……共感ですよね。どんな絵でも見た人の気持ちを震わすというか、(絵と人を)つなぐスイッチみたいなものがあると思うんです。怖い絵でもなんでも。そういうスイッチがエネルギーになると思う。気持ちってハッピーだけじゃないでしょ。怖い、不安もあれば、ハッピー、最高っていう両方の気持ちがあるから。 


今回の作品(2021年出展のテーマ)もたまたま。北中城にあるコーヒー屋さんがペルーの豆を扱っていて、中城城跡の中に店舗を構えるというのを聞いて、僕も何かしたいなと思って。しかもその豆がマチュピチュの豆でね。世界遺産ですよ。世界遺産に、世界遺産のものを……これは見逃せないですよね(笑)。 まだ遊びの企画ではあるんですけど、僕はハードロックカフェみたいに、“シマロックカフェ”みたいなものを作りたいと思っていて。そのカフェを音楽とデザインをひとつにする場所にしたい。その流れで、グスクロックカフェっていうのがあってもいいな、っていう話をそのコーヒー屋さんのオーナーにしたら、「その名前を使いたい」と言ってくれて。それで、沖展に出展した絵をベースに、そのカフェの壁に絵を描きました。中城城跡の絵に護佐丸を描いてギターを持たせて、月の影の中にオスプレイを2基。護佐丸(※2)も前から描いてみたいと思っていて、そのパーツパーツが集まった感じですね。その絵をみると、人は絶対何か考えちゃう。なんで今護佐丸?どうしてギターを持っているの?護佐丸は反戦の歌を歌っているの?……とか。そういうのは(メッセージ)全くないけど、見た人は勝手に考えると思うんです。僕的には、「沖縄はこのままじゃ終わらないぞ」、というただの(シンプルな)メッセージ。どんどん進化していくぞ、護佐丸が見ているぞ、ていうね。 


これも縁ですよね。その土地の歴史とか、文化とか、それらは過ぎ去ったものではなく、そこから学ぶことっていっぱいあって、それをどうつなげていくかというのはクリエイティブな部分。音楽もそうですよね、1〜2時間かかるスピーチの内容を、3分の音楽で全部いっちゃえることもある。音楽の力ですよね。


※2 護佐丸…15世の紀琉球王国(中山)の按司で、中城城主だった。 

Profile 

 アルベルト城間(あるべると・しろま)/1966年生まれ、ペルー共和国リマ出身の日系三世。1991年にDIAMANTES(ディアマンテス)を結成し、ボーカル、アコースティック・ギター、パーカッションを務める。音楽活動だけにとどまらず、絵画「謝恩」で2012年沖展に初入選。壁画制作やピアノにペインティングを施す「アートピアノ」など、画家、デザイナーとしても活動の場を広げている。 https://www.diamantes.jp/