賢者の石
2022.10.14 13:20
「自然価格は、諸商品の価格がたえず引きつけられる中心価格である。種々の出来事が、時としては、市場価格を自然価格のかなり上にとどまらせ、また時としては、幾らか下にさえ押し下げるにかもしれない。しかし、市場価格が休息と滞留とのこの中心に落ちつくことを妨げる障害がどうあろとも、市場価格はつねにこの中心に向かう傾向をもっている。」アダム•スミス
ここでスミスの自然価格を本質的価値と置き換えたい。価格と価値とはまったく別のものである。価格は価値の特殊形態であるとはいえ、関連性は薄いどころか互いに独立している(無関係に動く)。これは価格の生じるあらゆるものについて同様のことが当てはまる。はじめに価格があるのではなく、ある価値についてその価値を見越して算出された数字が価格である。だから価格とは二次的なものであって、その前に一次的な価値がある。アダム•スミスがいう自然価格とは、ここに市場価格が収斂するという普遍性をもった価格のことだからこれを価値と言い換えてもいい。価値というだけでは曖昧なので、本質的価値という方がなお適切である。問題になっているのは、市場価格と本質的価値との関係である。Aという商品があるとする。Aには本質的価値と市場価格とが同時に存在する。そしてほとんどの場合において両者は一致しない。
Aという商品の市場価格が、本質的価値よりも上にある場合を考えよう。このとき価格移動の圧力は、本質的価値の価格水準まで下がるであろう。すなわち下降圧力が掛かり価格は安くなる。ではAという商品の市場価格が、本質的価値よりも下にある場合はどうであるか。このとき価格移動の圧力は上昇に向かう。なぜなら上にある本質的価値を価格に換算したものの方に価格を戻そうとするからである。つまり価格は高くなる。もし利益という観点からこの現象を見るならば、後者の場合に着目するに違いない。Aという商品を、その本質的価値よりも市場価格が低いときに購入するのが賢明であることに気づく。そうするならば価格の上昇が見込めるからだ。ただし問題は、A商品の本質的価値についての判断を自分で決めなくてはならないことにある。市場価格がその本質的価値からあまりに乖離したものを自分で探さなければならない。また本質的価値というのは理論的に仮定されるものであるけれども、応用については別と考えてほしい。
ところでマルクスを読むとすぐに理解できることであるが、それは労働力という商品の特殊性である。つまり労働力という特殊商品の最大の特徴は、その価格がつねに価値を下回るということである。労働力の市場価格はつねに、その本質的価値よりも下にあるので、理論的に労働力の価格は上昇圧力を受ける。これはどうゆうことかといえば、労働力はつねに買いであるということを意味する。労働時間のなかに必要労働と不払労働(剰余労働)とが混在しており外見からは区別がつかない。この労働力の曖昧さがひとつの原因となって、労働価格を(常に)押し下げているのではないかと推察する。