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奈良大和路ほんまもん観光相談センター

龍(竜)田川と楓(かえで)・紅葉(もみぢ)の事

2018.03.08 04:12

 〝龍(竜)田川〟と楓・紅葉の関係について昔の人には大変くどくなるが現代人に、ほんまもん(真実)を記しておかなければなるまい。

 奈良県北西部の生駒郡(明治30年~)を流れる竜田川は、生駒谷の北奥に発源して生駒川と称し、馬鍬(まんぐわ淵)瀬渓谷から平群谷に入って川名を変え、南下して大和川に注ぐ一級河川。旧大和国添下郡+平群郡(生駒郡)のこの河川は、古代以来「平群川」と呼ばれており、全体を竜田川と称されるのは近代〔明治の大日本帝国陸軍陸地測量部仮製二万以後〕になってからからの事で、中世以降特に椿井橋から流路を大きく東に迂回する峨瀬から下流を「龍田の川」として龍(竜)田川と呼んだ事を確認しておく。現在、県名勝にも指定されている龍田川はこの部分(峨瀬から御幣岩附近まで)である。

 ここで注意しておかなければ成らないのは、崇神天皇・文武天皇記の龍田大明神(奉幣二二社の一、天御柱命・国御柱命、延喜式祀神は龍田比古・比売神)御幸記事などに見る、古代の龍田川(立田の川)大和川七瀬である亀ノ瀬~磐瀬~紅葉瀬・久度瀬辺り迄をそう呼ばれたらしい。

 持統天皇・文武天皇・平城天皇の御歌を通じて、八稜楓に代表される紅葉の名所として天下に喧伝する事となり、平安歌人に“紅葉の龍田”として詠まれ、多くの和歌集に採録される事となっている。極め付けは、百人一首にも納められている在原中将こと在原業平朝臣の「千早振る神代もきかず立田川唐くれなゐに水くくるとは」『古今和歌集』と能因法師の「嵐ふく三室の山のもみぢ葉は立田の川の錦なりけり」『後拾遺和歌集』であろう。歌は遊び事の空想の世界であり現地に赴いているわけではない事を認識すべきで、歴史史料とは無縁の物である。これらの歌を現在の竜田川を指すとするのは、全くの無知誤解の産物であって、歴史的事実を無視するお伽噺話である。

 現在の県名勝龍田川は、峨瀬附近からの蛇行流路を藩主片桐且元(1556~1615)が、慶長6(1601)年以後元和にかけて龍田城惣構え築城(単なる陣屋如き物ではない。衆徒龍田政所入道の龍田古城とは別物。誤認多し。)に際し、人工的に大きく東に川筋を変え龍田の西にほぼ真直ぐに改修し、外堀とした。下流も御幣岩から東方に蛇行して稲葉の西辺から南流して大和川に流入していたものを現在の如く単に南流させたのである。河口は、三百㍍西に移動し神南の南東で注ぐようになり、河口から舟入をさせるように変えられている。

 旧流路の痕跡を住宅化以前の地図や「御油田地指図・坪付」でも容易に確認でき、車瀬の集落もこの時に移転していると考えられる。

 紅葉の名勝にしたのは、江戸期の寛政12(1800)年以後並松の国学者藤門周斎が、龍田の住人と共に中宮寺宮に謀って、増殖保護に努めてからであることも認識しなければなるまい。

 では、なぜ斑鳩の龍田の川が萬葉以来の“名所龍田川”に成り得たのだろうか。その考証は此処では控えるが、結論から言えば、平安後期以降・中世期、聖徳太子に対する太子信仰の高揚発展と同時に、興福寺(大和国守護職)の大和一国支配荘園化(末寺化)が進む中で、神仏混淆は、法隆寺自己の地位を強固にする既得権拡大の為に、バーチャル世界を演出したと考えられるのである。

 龍田(たった)の地名の起こりの話(降雨を願った田に雷(龍人)が落ち、旱魃が無くなり龍田と称した伝説)は別にして、龍田大明神-社(現生駒郡三郷町立野)の勧請と併せ、龍田の川名だけではなく、立田山・三室山の山名、毛無岡・磐瀬の瀬・杜名、三室の岸の地名総てを含んでいる。遠飛鳥の神南備山・「神南ジンナン」・神岳社も同じく存在し法隆寺・龍田社一体化が信仰の中心的存在となって「郷」が形成されている事実がある。

 蛇足ながら、興福寺と春日社との神仏混淆の現象の具現化として、春日第五殿である若宮社の大和国祭「春日若宮おん祭」であるが、祭礼に際して大和武士集団長谷川党などの祭礼禊祓ミソギハライ(龍田垢離タツタゴリ)場が、ここ龍田川磐瀬(御幣岩)であった事にも表出され、その後国中の村々の宮座頭役の水垢離が近代まで続いていたことも興味深い✤。

 世間に論争して認知させたのは嘉永2(1849)年、京の国学者六人部是香(むとべよしか)が『龍田考』に平群川下流一名塩田川を龍田川にした事に始まるだろう。一方平田篤胤没後の門人渡邊重春(わたなべしげはる)が明治7年官幣大社龍田神社大宮司に就任して、龍田川は廣瀬川と塩田川が合流した大和川本流より亀ノ瀬までの地点を言うのだと『龍田考辨』を誌している。

 「龍田川楓樹の由来」

 [龍田川の紅葉は人皇十代 崇神天皇龍田明神に行幸あらせられ年穀豊稔を祈らんため龍田川に御祓ありし時上流より殊に秀でたる八稜の楓葉浮び来り 天皇之れを取らしめ當祠に納め神寶となされ給ふ其の後 文武天皇龍田川に行幸あらせられ、流るゝ紅葉の風趣を激賞し給ひ 

       立田川紅葉乱れて流るめり  わたらば錦中や絶江なむ  

と御製を賜はりし以来龍田川は紅葉の名所として 天下に喧傳せられ紅葉と言へば龍田川を聯想せらるゝやうになつた

 持統、文武、平城の諸帝を始め平安朝時代の歌人文客は拳つて、龍田川の紅葉を詠じ勅撰集に於ける龍田川の和歌は、實に数百首に上つて一つゝゝ述べる暇はない位である。中にも百人一首の  

       千早振る神代もきかず立田川  唐くれなゐに水くぐるとは 在原朝臣

       嵐ふく三室の山のもみぢ葉は  立田の川の錦なりけり   能因法師

などは三歳の小児も口にする名歌で、如何に龍田が古来紅葉の名所として名高かつたかと證するに餘りあるのである。然るに星移り物変り龍田川の楓樹も幾多の変遷を経、寛政年間に至り更に近隣並松の國學者藤門周斎等が龍田の人々と共に、中宮寺に謀つて大いに増殖し保護して今日に至つたのである、それで中宮寺と龍田川とは、関係も深く其後しばゝゝ宮家からも楓樹を下賜された、  近くは明治二十四年  昭憲皇太后の行啓を辱ふし 有栖川宮 北白河宮家よりも幾多の楓樹の下賜を添ふした、 近年龍田保勝會があつて・益々・楓樹の増殖と風致の保存とに勉めたので一層美観をなし、往時の龍田川に復し年々観楓客多く紅葉の名所として天下に冠たるに到つたのである。] 「保井芳太郎 龍田案内1924 引用」

   現代の県名勝龍田川は、昭和33年「県立竜(龍)田川公園」として朱塗りの橋が架けられ人工的な植栽整備が行われている。しかし、名勝に指定された龍田川の清流も高度経済成長期以後の生活排水の流入による水質の悪化、大規模な河川底の掘削・コンクリート護岸、風船ダムの構築で風物詩の蛍・鮎も早くに姿を消し、御幣岩をも削岩され、水没せしめた。龍田の住人が育てて来た楓数本が現存するものの、岸部の乾燥化は年々樹の枯死と紅葉すらしなくなっている。また、浅はかな智恵による雑木と人口桜染井吉野の大量植樹は、名所竜田川を変貌させている()。

 初出典:田中一廣「唐揚げの“竜(龍)田揚げ”考 2013/4/4」より抜粋

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