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藤村邦&渡辺俊之の日々

桜流し

2022.10.16 06:40

 境界例の依頼原稿を書いているが、あまり筆が進まなかった。しかし、この一週間で一気に書いた。境界例、境界性パーソナリティ障害は国際精神疾患の分類であるICDーXIから名称が消えた。ただ、その特徴的なパターンである見捨てられ感情、衝動性、突然の気分の凹みなどはボーダーラインパターンとして残っている。

 原稿を書いていると、いつも向き合うことになるのが亡くなった狩野力八郎先生の論文や、先生が紹介してくれた著作になる。

 忘れている時代が、悲しみやら落胆と一緒にやってくるので、「執筆抵抗」が生じていたのだと思う。なんとか書いているうちに元気も出てきた。締め切りを1ヶ月以上過ぎたが、なんとか書きあげた。

 以前はに先生に書き上げた原稿を送っていた。今は、それが出来ない。先日、学会委員会の先生が、今でも顕在の先生との書簡のやりとりを教えてくれたが、ただただ羨ましかった。

 生きていれば。伝えたい事、見せたい事、話したい事がまだまだ沢山、私にはあった。恩師だけでなく、母親、祖父母に対しても、そうだ。

 仕事帰り、久しぶりに新宿の岐阜屋に行った。兄貴のような存在だった「シンチャン」はいない。どこかで「よお、先生元気か」と言ってるような気もした。墓参りにいかないと。

 宇多田ヒカルさんが人間宣言で休職期間を経て発表した桜流しを聞いていた。

 2年後に母が亡くなることを予感していたような内容で泣ける。藤圭子さんについては色々言われるが、ヒカルさんは母親から幼少時期に愛情をもらい、母親は彼女を自分のコピーにもせず、才能を開花させる愛と母性があったからだと思う。

 だからヒカルさんはこういう歌が書ける。

 ほんとうに生きていてくれれば「話しもできたし」「伝えたいことも伝えられた」のだと思う。