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ZIPANG-6 TOKIO 2020 楊貴妃は生きていた 炎の祭典 10月22日(土)長門市向津具半島にて開催!

2022.10.18 06:30


世界三大美女とはクレオパトラ、小野小町、そして楊貴妃なんだってね!
誰が決めたのかな~
「あれ!私の名前はないのですか?」なんて仰られる歴女諸姉もおられるかも知れません、お許しあれ、🐸これは古のお話なんですよ…これまで当サイトに、クレオパトラや小野小町は登場しておりますので…本号は最後のお一人、何と無く神秘性を感じさせる楊貴妃をご紹介いしたいと思います。


世界三大美人 楊貴妃


楊貴妃「炎の祭典」 二尊院に山伏現る!まさか、八咫烏の故郷「熊野」から・・・?


楊貴妃「炎の祭典」
御弓始め。弓矢で邪気や陰気を祓い陽気を迎える神事

楊貴妃「炎の祭典」山口県長門市 二尊院



楊貴妃伝説


楊貴妃の里
龍伏山 二尊院



楊貴妃が漂着し、祀られた楊貴妃伝説のパワースポット!

五輪塔(県指定文化財) 「楊貴妃の墓」のお参りは、「安産・子宝・縁結び」美麗な子どもを授かるご利益ありと、全国から参拝者が訪れます。

その由来は、楊貴妃伝説にあります!


世界に二つの楊貴妃像


お墓がある二尊院と中国の陝西省馬嵬坡の楊貴妃像は、共に没年齢38歳にあやかり、高さ3.8mの「漢白玉」大理石製です。台座は2.5メートル、頭にボタンの花冠を載せ、ハスの花の胸飾りを付けています。制作:中国・西安美術学院


楊貴妃伝説1

楊貴妃は生きていた。




唐の玄宗皇帝の愛妃楊貴妃は、安禄山の乱により処刑されたはずだった。
しかし、嘆き悲しむ玄宗皇帝に心打たれた近衛隊長の陳元礼が、仏堂で首を絞め殺したと見せかけ逃がしていた。


その後、侍女と共に小舟に乗った楊貴妃は、天平勝宝八年(七五六)七月、向津具半島の唐渡口(とうどぐち)に漂着したが、まもなく亡くなったのでした。里人たちが寄り合い、当寺院の境内に埋葬したそうです。


楊貴妃伝説2

玄宗皇帝の贈り物 二尊仏




長安にいた玄宗皇帝は、夢で幾夜も「日本に漂着して死去した。」と現れ続ける楊貴妃に、愛情が溢れ出し追善供養の為として唐朝でも秘蔵の霊仏、阿弥陀・釈迦の二尊仏と十三重の大宝塔を届けるよう命じました。


その後、日本に渡海した白馬将軍陳安は、漂着地が分からない為、二尊仏を京都のお寺に預けました。その後、日本に二つと無い二尊仏に大衆が集まるうちに、楊貴妃の墓が、長門国のお寺(現在の二尊院:山口県長門市油谷向津具)にある事が明らかになりました。


楊貴妃伝説3

安産・子宝・縁結・美人になる二尊院


中央の五輪塔が楊貴妃、両脇が侍女のお墓と伝わっている


朝廷から二尊仏を移す勅命が出た後、朝廷に京のお寺が二尊仏を京に残す嘆願をした為、朝廷は名仏師に命じて同じ二尊仏を彫刻し阿弥陀・釈迦の一躰ずつを分け合い安置することになりました。


こうして、朝廷より二尊院という院号を賜り「皇城鎮護・天下泰平・国家安全・五穀豊穣の祈願怠慢なく修行すべし。」と勅命を受けたと伝えられ、いつともなく二尊院にお参りすると安産・子宝・縁結のご利益があり美人になると信仰を集めるようになりました。中央にある大きな五輪塔が楊貴妃、その両脇にあるのが侍女のお墓と伝えられています。


楊貴妃の里 

~日中友好のシンボルと地域おこしの願い~




1993年、山口県長門市(当時は油谷町)では、中国・玄宗皇帝の妃、楊貴妃が国を逃れて流れ着いた伝説を基に「楊貴妃の里づくり」を進め、長門市油谷向津具久津シンボルとなる楊貴妃像をはじめ、楊貴妃の墓のある二尊院周辺一・五ヘクタールを整備しました。


中国風休憩所、あずまや、中国風トイレ、ミニ華清池、楊貴妃桜の散策路など「日中友好のシンボルとともに地域おこしを願ってつくられました。完成時、山口県知事、章金樹・駐日中国大使館公使参事官、油谷町長ら関係者、町民約二千人が集って、盛大な落成式が行われました。





長門市向津具半島 楊貴妃 炎の祭典 10月22日(土)に開催


まずは、山伏の火渡りから…まだ火が燃え盛っていますけど⁉
これしきの事、山伏修行の賜物なんですよ…😓

まだ、炭火が真っ赤ですけど…お願い押さないで!本当に大丈夫ですか🌞


あんな若い女の子でも渡ってんだから、ビクビクしないで皆後ろからついておいで…

僧侶・快川(かいせん)曰く「心頭滅却すれば火もまた涼し」信長公もそんな気持ち❓


火渡り神事

なんといっても、楊貴妃 炎の祭典のメインイベントはコレ!
楊貴妃門答が見れるのは、日本全国でこの楊貴妃の里だけ。楊貴妃鎮魂の思いを込めた炎の道を渡ると、愛と美のパワー、良縁に恵まれると言われています。勇気を出して炎の道を渡って、よいご縁をいただこう!


燃え盛る炎とともに蘇える楊貴妃伝説

楊貴妃炎の祭典は、長門市の地域おこしNPO「フューチャー長門」が、かつて行われていた文化芸能「楊貴妃の火渡り」を復活させ、祭りとして地域内外のみなさまに親しんでいただけるよう平成23年から始まったものです。


最大の見所である火渡りでは、桧葉に覆われたやぐらがごうごうと燃え盛る中、山伏たちが楊貴妃問答を繰り広げ、炎の中をくぐります。森のエネルギーを含む煙がうねりをあげ、天地のパワーとともに会場を包み込む様子はまさに圧巻。


山伏の先導により、ご来場のみなさまも、火渡りにご参加いただけます。愛と美の象徴である楊貴妃とご縁を結べば、きっとその徳にあやかることができるでしょう。



楊貴妃に願いを


お札に願いを・・・

お札に願い事を書いて炎にくべると、その願い事が天に舞い上がり、楊貴妃に届くと言われています。願い札は、その後のくじ引き抽選会にも参加できる特典付き!( 1枚300円 )


「火渡り神事」修行体験・地域の子どもたちによるお遊戯や太鼓演奏、地域の屋台も出店予定 コロナで3年ぶりの開催


地域おこしNPO「フューチャー長門(所在地:長門市西深川、代表者:上手一行)の協力団体であり、地域内外の交流・滞在人口の増加を目指すむかつ国で遊ぼう協議会(所在地:山口県長門市油谷向津具下、会長:北川昌弘)は、10月22日(土)、長門市油谷向津具下の楊貴妃の里にて「楊貴妃炎の祭典」を開催いたします。



楊貴妃炎の祭典


楊貴妃の里 小学生による伝統芸能「油谷太鼓」が楊貴妃に届けとばかり秋空に鳴り響く 

第10回目となる今年の楊貴妃炎の祭典では、日本古来の山岳信仰などが複雑に混り、成立した修行の一つであり、火をつけた薪の上を歩く「火渡り神事」の修行体験することができるほか、地域小学生による伝統芸能である油谷太鼓の演奏や、地域の飲食店の屋台も出店し、地域住民だけではなく、域外から多くの来場が見込まれています。


楊貴妃炎の祭典は、過疎化・高齢化に歯止めのかからない日本海に面した限界集落である向津具半島で、地域活性のためには、地域内外の交流や滞在人口の増加が不可欠であるとの考えから、江戸時代よりこの地で行われてきたとされる火渡りと、この地に眠るとされる楊貴妃伝説を融合させ、2011年より地元の若者有志らの発案で始まったお祭りです。


<火渡りと融合した楊貴妃伝説>

この地で漂着後に息絶え、里人によって祀られ天女となった楊貴妃の安らかな眠りを妨げようと、秋になると、厄が邪鬼となって楊貴妃の里にやってくるといわれています。


向津具半島を見渡す地にある高滝山の山伏が、積み上げたやぐらに火をくべ、煙と炎が空高く舞い上がるなか問答し、邪鬼を払いこの地の安寧を取り戻します。


本祭典では山伏の支援のもと、誰でも火を渡ることができ、願い事を楊貴妃に念じて渡ると、願いがかなうとされており、同祭典の目玉となっています。


<楊貴妃炎の祭典 概要>


楊貴妃炎の祭典開催場所


●開催日時:2022年10月22日(土)11:00- 15:00

●開催場所:楊貴妃の里 長門市油谷向津具下久津3539

●スケジュール

11:00 開会式

11:20 向津具小学校伝統油谷太鼓 / 向津具保育園お遊戯

11:50 箏と尺八「胡笳の歌」

12:20 即興表現家 にしかわくみこ

12:30 和太鼓 鼓波会(こなみかい)

13:00 火祭り神事/火渡り修行体験

14:30 マサーヤン&サキエLIVE

15:00 閉会式


お問い合わせ先

むかつ国で遊ぼう協議会
山口県長門市油谷向津具下3521

email: info@mukatsukuni.com



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(敬称略)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


集落には、里の人たちが大切に護る徐福神社がひっそりと佇む・・・(熊野市)

徐福神社の解説では・・・

徐福伝説

秦の始皇帝の命により、徐福は蓬莱山にあるといわれる不老不死の妙薬を求めて数十隻に及ぶ船団を組み、東方へ向かって船出した。途中台風に遭い、徐福の船だけがこの地、矢賀の里に流れ着いた。当時そこには3軒の家しかなく、与八・文吉・三郎兵衛が交代で世話をした。帰国を断念した徐福は紀州への永住を決意し、やがて窯を設け焼物を3人に教えたという。今の残る窯所、窯屋敷という地名はこのことを伝えている。この地、徐福は土木、農耕、捕鯨、医薬などの中国文明を里人に教えたと言われている。このことからこの地は秦住(はたす)と呼ばれ、後に波田須という地名になったという。

徐福の宮

ここ丸山は矢賀の蓬莱山と呼ばれている。徐福の墓の石碑は稲荷神社と合祀されているこの小祠の後にある。御神宝は直径20cm余りの小さな擂鉢である。また、不老不死の薬こそ当地に自生する天台烏草だとされている。

天台烏草【くすのき科】

●暖地にはえる高さ3mになる常緑樹

●早春、淡黄色の小花を密生させる。

●根は長い塊状の暗褐色で薬用にする。

補足

波田須町は、徐福の渡来伝承の残る全国20か所以上の中でも有力とされています。またこの地域には徐福が探し求めていた不老不死の仙薬とされるアシタバや天台鳥薬の木が茂っています。徐福の宮の参道修復中に数枚の古銭が発掘され、2002年に中国の学者が鑑定したところ、中国秦の時代の古貨幣「半両銭」と判りました。「半両銭」の出土は国内でも大変珍しく貴重なものです。


ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 世界遺産 熊野古道のまち『熊野市』伊勢路を行く(続編-1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6664947


対馬 阿麻氐留(アテルマ)神社 神事

古代航路の拠点に鎮座する古社です。
祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされています。

日本書紀によると、5世紀、遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを磐余(奈良県)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させています。対馬・壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったのかもしれません。

中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話がありますが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る神事が伝えられており、その関連が指摘されています。


ZIPANG TOKIO 2020「暴風神スサノオが出雲、太陽神アマテルが対馬、月神ツクヨミが壱岐の出身だとすると【寄稿文その3】 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3334046


秋田県秋ノ宮 毎年2月、小野小町の故郷で開催される
かだる雪まつり(小町娘とミニかまくら)「かだる」は秋田弁で”参加する”の意味。 会場作りもお祭りのイベントもたくさんの人に”かだって”もらって盛り上がるお祭りです。


ZIPANG-4 TOKIO 2020 第99代内閣総理大臣 菅義偉の故郷&同郷生れの小野小町も愛でた温泉郷~秋田県湯沢市秋ノ宮を訪ねて〜(その1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10301876


旧雄勝町の小町堂


ZIPANG-4 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その22)小野小町ゆかりの地に建つ小町堂と奪衣婆の石像・・・【寄稿文】廣谷知行
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10517556


伊勢志摩 天照大神の隠れ家伝説 恵利原の水穴 天の岩戸


伊勢志摩国立公園内の逢坂山の中腹にある洞窟から湧出しており、志摩用水の源水となっています。涸れたことのない清い水は、天照大神が隠れ住まわれたと伝えられる伝説の場所。天の岩戸の伝説とともに、古くから地域内外の人々の信仰を集めています。

天照大神が隠れ住まわれたと伝えられる伝説の場所。水穴の近くには雨乞いにご利益があると言われている水神が祀ってあります。

現在の参道は大正時代に真珠王の御木本幸吉氏が、一人でも多くの方に訪れて頂けるように改修したと言われています。


ZIPANG-2 TOKIO 2020「天照大神の隠れ家伝説 天の岩戸 恵利原の水穴(志摩市)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4435926


                   斎王


伊勢神宮は大小のお社を併せて125社から構成されていますが、 その中心となるのは天照大神をお祀りする皇大神宮(内宮)と豊受大神をお祀りする豊受大神宮です。両大神は初めから伊勢の地でお祀りされていた神ではなく、他の場所から伊勢へお遷しされました。

その起源を繙くと、天照大神は第十代崇神天皇六年の八月まで宮中でお祀りされていましたが、同年九月に皇女豊鋤入姫命によって初めて宮中の外でお祀りされることになりました。

その後豊鋤入姫命は天照大神の御心に叶う御鎮座地を求め各地を御巡幸されましたが、途中で第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命にその任務をお引き継ぎになり、最終的には倭姫命が伊勢の地に皇大神宮を創祀されました。 

「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。

また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。

「海部家は豊受大神を祀った彦火明命の血脈であり、丹波道主の子孫にも当たり、また海部家の直系の女性が「八乎止女」を襲名し、豊受大神をお祀りしていたことが伝えられています。」つまり、雄略天皇の御代、「丹波国の丹波道主の娘の八乎止女が祀っていた豊受大神」とは、奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)の豊受大神であり、「元伊勢」としての由緒が明らかとなっています。 

他にも「元伊勢」伝承を有する神社はありますが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒にお祀りしたのは籠神社だけで、特別の「元伊勢」として崇敬され続けています。


ZIPANG TOKIO 2020「元伊勢 天照大神 ~ 伝説と神話 ~(籠神社 その参)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3422087


大神神社摂社 檜原神社(ひばらじんじゃ)

祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)社祭日 8月28日

この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。

大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。 境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。

万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

その後、それに就いては、興味が出てきて、調べたところ、檜原神社はまたの名を(日原社)とも呼ばれていたようです。しかし、その関係性迄を言及する資料が見当たらず、答えは未だ掴めておりません。察するところ、この聖域は山の辺の道にあって、奈良盆地を一望出来る特別な台地だそうですから、当然太陽の日の出から日の入り迄の軌跡(天照大神の御姿)が追える最適な場所。すなわち、それは「日の原」と見立てたのでは?という素人の勝手な解釈なのですが、如何でしょうか?  その手掛かりは、三輪山の山頂に祀られる高宮神社(日向神社)にその鍵があるようです。そのご関係者のお話を、抜粋引用させて頂くと、次の如くでした。

ー・ー高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。 ・・・(中略)・・・三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。・・・(中略)・・・記紀伝承が“海を光して依り来る神”というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。日神が伊勢のアマテラス(天つ神)に集約されて皇祖神化し、オオモノヌシ(国つ神)から日神的神格が払拭された後の祭神であろう。ー・ー とありました。こうしてみると、結論的に最初の三輪山の成り立ちは太陽信仰のお山であったことがうかがえます。この最後の部分にあるように、そうでもしなければ、天照大神を奉ずる天孫族として、大国主大神(大物主大神)に国譲りを迫った大義名分が立たなくなるのでしょうね。


ZIPANG TOKIO 2020「二つの『元伊勢』さま 【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」
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