『怪僧』グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン
奇妙な逸話が多々あり、その風貌から『怪僧、怪物』と呼ばれる。
大酒飲みの破戒僧と名高いが、ラスプーチンの娘によれば、彼はいたって粗食で酒は晩年になってから初めて飲むようになったのだという。敬虔なクリスチャンで、毎朝決まった時間にミサを行い、皇室や上流階級と交流するようになってからも、華美になることはなく粗末な衣服を着ていたと言うが、信憑性は薄い。
またロシア帝国崩壊の一因を作った。
出生から目覚めるまで
シベリアのポクロフスコエ村生まれ、当時学校に通わない子供が多く、ラスプーチンも同じであり、 読み書きができなかった。
しかし、彼は幼少期から不思議な力があったという。 人や動物の「病気治療粉」、無くしものを探し出す「千里眼」、また「予知能力」などもあった。
1887年に結婚 、1892年唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。
(一説では、野良仕事をしているとき聖女マリアの啓示を受けたといわれている)
そこから数か月間修道院で過ごし、そこで出会った「ミハイル・ポリカロポフ」に強い影響を受け、村に帰ってきたときには熱心な修行僧になっていた。
またその影響か、彼の不思議な力も高まり「心霊治療」を開業した。
帝都進出
1903年、再び数か月ほど巡礼の旅に出かけ、カザンではその治療などで司教や上流階級の人々の注目を集める。 サンクトペテルブルクを訪れた際、人々に心霊療法を行い『神の人』と呼ばれるようになった。
当時ロシア貴族の間では神秘主義が浸透しており、ミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹やアレクサンドラ皇后も例外ではなく、着実に信者を増やしていく中、ついに大公妃姉妹から寵愛を受けるようになった。
1905年、この姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に会う。
1906年、ニコライ2世の要請で、テロに巻き込まれ負傷した大臣会議議長の娘の治療にあたった。
流石に医者たちは心霊治療に疑いを持っていたが、ラスプーチンが治療(祈祷)をした翌日には状態が改善されていたという。また血友病も治療している。 (これはアスピリンを使用した鎮痛治療だったと推測されている) この治療から皇帝夫妻から絶対的な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々、主に侍医はラスプーチンをペテン師だと考えていた。
暗殺
暗殺が2回ほど行われた。
1回目は自宅。腹部を刺されるも自宅から飛び出し、落ちていた棒で反撃。
2回目はモイカ宮殿。青酸カリ(噂では10人分とも)を盛ったケーキと紅茶でもてなすも毒が効かなかった。 その後ワインを飲ませ泥酔させ、後ろから銃で心臓と肺を打ち抜いた。 ラスプーチンは倒れこみ暗殺は完了したように思われたが、なんと再び立ち上がった。
そして「目を見開き、自らの危機を知った」と言ったという。 驚愕した実行犯は中庭へ逃げ、駆けつけた仲間がもう4度、ラスプーチンを銃撃した。 銃弾は一つだけ命中し右腎静脈から背骨を貫通した。 再びラスプーチンは雪の上に倒れこむ。
念のためと靴でラスプーチンの右目を殴り、額を拳銃で打ち抜いた。(この際男性器も切り取られた)その後、氷の張る川に遺棄。
後日、死体が発見され、犯人も逮捕された。 しかし、死体解剖の結果、アルコールは検出され、毒は検出されなかった。 そして遺体の大半の傷は死後に付けられたものだという結果がでた。
彼は死んだ後に犯人を追いかけたのだろうか。
予言
また彼は自身の死を予言していた。
「もし、私が平民に殺されたのならば、ロシア帝国はこれからも安泰でしょう。でももし、私を殺す者のなかに皇帝陛下の一族の方がいたならば、私の死後2年以内に皇帝陛下とその一族は悲惨な最期を遂げ、ロシアにはその後も多くの血が流れることになりましょう」
事実、実行犯には皇帝陛下の一族が居り、暗殺されてから1年と経たないうちにロシア革命が起こり、皇帝一家は全員銃殺処刑され、森に埋められた。
予言は的中したのである。
荒れ狂う女性関係
また忘れてはいけないのが女性関係。『性で女性を魅了した』と言っても過言ではない。 小汚い風貌であるが、常に女性が近くにおり花束やお菓子のプレゼントで埋もれていた。
また巨根で絶倫、一晩で複数の女性を何回も相手にすることができたという。 信者の中には夫を捨てた者も居り、まさに男性に嫉妬される人物であった。
よく彼への嫉妬でとんでもない逸話を付けられたりしているが、この性に関する話は本当らしい。
またラスプーチンのパンツは高値で売買され、ロシアのエロチカミュージアムにはホルマリン漬けに
された「ラスプーチンの男性器」があるようだが、それも本物かどうかはわからない。