温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第107回】 高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮選書,1981年)
個人情報の取り扱いが今ほど厳しくなかった時代、時折、本の裏表紙に著者の現住所を堂々と記載しているものがある。私が10代の終わりに買い求めた『文明が衰亡するとき』(高坂正堯・新潮選書)もそうした一冊だ。裏表紙の著者プロフィールの末尾に「現住所・京都市左京区・・・」と番地まで含めて記載されている。なんというか、寛容だった時代を象徴するような感じがする。なお、同書の著者プロフィールは、「高坂正堯、昭和9年京都生れ。京都大学法学部卒。昭和38年「現実主義者の平和論」を発表。理想主義的発言の目立つ戦後の論壇に衝撃を与え、以後、国際政治学の第一人者として内外に知らる。京大教授・・・」とある(平成8年没)。
国際関係における勢力均衡、力による平和、そこから派生してくる日米安保条約の重要性は、今ではかなりの理解を得るようになった。ただ、一昔前ではアカデミズムにおいてこうした主張を堂々とするのは大変な時代でもあったようだ。国際政治学者としての高坂の論文などは著作集に納められているが、もう少し軽い気持ちで書かれた本などにも面白いものがある。『文明が衰亡するとき』などはそうした一冊だ。映画のオムニバス形式を意識して、ローマ、ヴェネツィア、アメリカを題材とし、文明の衰亡といった現象をテーマに書かれている作品である。同書の「あとがき」には次のような言及がある。
「・・・何よりもこの書物は、比較的軽い気持で書いたということである。すなわち、衰亡の現象を過去の歴史に当たって解明しようという大それた気もないし、現在の工業文明に衰亡の兆が見られることについて警鐘を発しようという強い目的意識もない。・・・それに、目的意識などを前面に打ち出すならば、私は嘘をつくことになる。そのようなことで、私はこの書物を準備したのではなかった。初めにあったのは、漠然とした知的好奇心であり、ローマについては子供のときからそうした関心があったような気がする・・・」(あとがきより)
このエクスキューズの通り、同書における高坂はかなり自由な叙述スタイルをとっている。第一部ではローマがなぜ衰亡していったのか、ギボン、ウェーバー、ハンチントンなどが唱える色々な学説を紹介していきつつ、自分の見解も加えていく。ただ、どの学説がどういう理由で良いなどと細かなことをつらつらと言及せず、過去の賢人たちがその知力を振り絞ってどのように真摯な知的探求をしたかを軸に展開する。それらは、ローマが衰亡した原因として一般的に言われる蛮族の侵入に始まり、ローマ帝国を統治するエリートの質的変化、気候の変化、専制政治、大衆社会化、ローマ軍団の弱体化、経済格差、財政の崩壊、など様々な要因に触れている。
さて、10代で読んで以来となるが、本棚から同書を取り出してパラパラと読み返してみた。高坂の手によって同書が書かれたのは昭和56年の冷戦構造真只中、私が初めて読んだのは冷戦構造が終焉を迎え、ロシアに対して比較的寛容でいられた時代だった。今では当時から時代様相もまた大きく変わった。ロシアはウクライナに侵攻し、当初の勢いを失い防勢に転じ、多くの犠牲者(戦死者)を出しながらも、プーチン大統領は予備役30万を動員して戦争継続に固執している。ロシア軍の弱体化や構造的問題が度々指摘され、予備役への動員を拒否する男たちが大挙してロシアから去っている事態は幾度も報道されている。こんな最中であるから、私は同書のローマの軍隊が弱体化していく過程や原因のあたりにフォーカスして読んだ。
ローマ帝国後期の常備軍の数は30万前後だといわれているが、これは定数の上での話にすぎない。その末期には兵力不足が常態化して、蛮族の侵入に対して防衛線が破られることが増えていく。ローマが帝国になる以前の共和政の下では、ローマ軍は、ハンニバルに率いられたカルタゴの侵入に対して、一度の戦いで10万もの犠牲を出しながらも、その後、短期間で軍を再建して戦い、撃退している。紀元前3世紀、当時のローマは人口が数百万に過ぎなかったにも関わらず、それだけの軍隊を再建可能な国力があったことになる。ただ、帝国下ではその数倍の人口を有していたにも関わらず、軍隊はその動員に苦しむことになった。
帝国下で軍隊の動員力が低下した原因は色々あるが、その一つはローマ軍が市民兵から私兵へ体質が変化していったことによる。ローマはイタリアを軸とした領域に限られていた紀元前のある時期までを境に、その版図が急速に拡大していき、それらの防衛のために軍隊を方々へと派遣駐屯させなければならなくなった。このことが軍隊の事情を大きく変えていく。ローマ軍は歩兵(正規軍)に加えて、騎兵、弓兵、投石兵などの技能を有した正規兵と、ほぼ同数の非正規軍で構成される建前であり、正規軍はローマ公民権を有しているのが条件であった。ただ、次第に非正規軍については辺境で集められることが増え、正規軍もまた入隊時に能力があれば公民権を付与し、それで条件を満たしたとの体裁を取り始めた。このような軍隊を徴募・維持していくためには待遇の改善が必要であり、それが帝国の財政を大きく蝕むことにもなった。
「職業軍隊化の当面の帰結は軍隊の「私兵化」であった。実際、民兵と徴兵がもっとも社会との結びつきが深く、逆に傭兵が将軍の「私兵」となり易いということは常識であるが、それはローマの場合、きわめて顕著に現われた。彼らはローマのためよりも、彼らを率いる将軍のために行動した。戦利品の獲得や掠奪、さらには兵役終了時の土地の割り当てといった利益は将軍のみが与えるものであったことから、それは理解されうるであろう」(第一部 巨大帝国ローマの場合)
変質していくローマ軍が戦争に勝てなくなった分水嶺はどのあたりか、軍事史的には色々な考え方があるようだが、本書では紀元9年、アウグスティヌスの治世下で起きた戦いを挙げている。ローマの3個軍団が、辺境の森林地帯においてゲルマン人の奇襲に遭って全滅している。ただ、これはローマ軍が弱体化していたことだけに帰せられるものではなく、ローマ帝国の守るべき国境線が当時2万キロ近くとなり、その膨張が限界に達していたことなども理由とされている。馬車などの技術が未発達で兵站力が限られ、ライン河をまたぐと森林・沼沢地帯が増え、大規模なローマ軍が野戦で本領発揮ができる地形でもなくなっていた。そして、さらに時代が下ると、軍隊の弱体化が原因でローマが勝てなくなる現象が起こってくる。
紀元378年に起きたハドリアノポリスの戦いにおいて、ローマは大敗北と向き合うことになった。ここでは蛮族の重装騎兵が行う突進に、ローマ軍の歩兵隊が隊形を維持できずに崩壊している。騎兵の突進に対して、槍と盾で防壁をつくり、その衝力を一度受け止めつつ吸収し、あとは騎兵を各個に突き崩して落馬させれば歩兵が圧倒的に強くはなる。そのためには、最初の突進を凌げるかが全てとなるが、それを成し得るためにはローマ兵の互いの絆や規律が大切な要素になってくる。ただ、このとき既にローマ軍は蛮族出身の者たちで多くが構成され、その中身が変質してしまっていた。高坂は、ある軍事史家の言葉として次の引用をしている。
「シーザーの軍隊であれば、ゴート人やゲルマン人の騎兵集団に対抗しえたかも知れない。しかし、後期帝国の歩兵は、蛮族出身であり、規律に欠け、文明化されていなかったので、レジョンの要求する困難な戦闘方法を実行しえなかった、と言ってよいであろう」
ローマ軍が市民兵から私兵へと変質していった根本的な原因や理由について、同書ではさらに色々と考察を続ける。共和政の崩壊、専制政治、市民道徳の低下、政治・文化の頽廃、大衆社会化と、軍隊が社会から遠い存在に成り下がっていた事情を絡めて言及していく。
なお、著者が本書を書き上げる際の目的意識の無さを真似るわけではないが、私自身はローマ帝国の軍隊の変質といった歴史と、今日のロシア軍の問題を比較して何かを具体的に論じようという気持ちがあるわけではない。ただ、なんとなく、ウクライナに侵攻する前の定数101万(実勢90万)、そのうち徴兵(1年)25万、職業軍人21万、契約軍人(期間限定)40万程度で構成されていたロシア軍が、社会からどのような存在として受け止められていたかを漠然と考えているだけなのだ。そんなときにローマ帝国の衰亡の理由の一つに軍隊の弱体化があったことを思い出しただけのことだ。そして、軍隊の弱体化にはそれ単体の問題ではなく、もっと複雑な社会的原因があったことに思いを馳せているにすぎない。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。