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ヒゼキヤの信仰 第二列王記18:1-8

2018.03.10 05:59

2018.3.11         「ヒゼキヤの信仰」

第二列王記18:1-8、第二列王記19:35、 (第二歴代誌29:1-11)

 《今日は、2011年3月11日、東北震災によって、たくさんの命が失われた日です。》

本日は、ヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

まず、本日の聖書箇所の歴史的背景を考えてみたいと思います。これは、2,600年前の出来事であり、南ユダを支配していたヒゼキヤ王の年代記であります。そして、ヒゼキヤ王のそばには預言者イザヤが同年代の人物として同じ国で活躍していました。それでは、そもそもなぜ当時ヤコブの子孫であるイスラエルは、今の韓国と北朝鮮のように、北イスラエルと南ユダに分けられるようになったのでしょうか。その根拠は、第一列王記11章9-12節で確認できます。私が読ませていただきます。「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、他の神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。 それ故、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き抜こう。』」

 今、私が第一列王記11章9-12節をお読みしましたように、南ユダと北イスラエルの分かれの原因はソロモン王の時代に遡ります。その原因は何だったのでしょうか。それは、ソロモン王の偶像崇拝からなのです。即ち、全ての富と知恵、1,000人の女そばめと妻たちを持っていたソロモンは、残念ながら神様からの祝福を乱用し、挙句の果てには、700人の王妃を外国人の女性たち、つまり、偶像崇拝している人たちを彼の家族にすることにより、ソロモン王の晩年、彼が年を取り、力が弱くなった時に、彼女たちはイスラエルのアイデンティティを崩して、山の上の高い所やあちらこちらで、彼女たちの神々への偶像崇拝をし始めたのが切っ掛けだったのです。

 そこで、主なる神は、主の命令を守らなかったソロモンとその子孫たち即ち、イスラエルに対して、ソロモンの死後、ソロモンの家来より軍事グーテタを起こさせることによって、イスラエルの11部族はソロモンの家来が支配する北イスラエル側に、これがイエス様の時代にはサマリヤになるんですが、そして残り一つの部族は、南ユダに分裂されることになったのです。北イスラエルは、更なる偶像崇拝をすることにより、北の国アッシリヤから滅ぼされるようになります。そして又、南ユダも、残念ながら、真の創造主、唯一の神、即ちイスラエルをエジプトの奴隷から解放してくださった神様から徐々に離れ、外国の神々を受け入れることによって、主なる神は主から選ばれた最後の民である南ユダ王国をも又北の国アッシリヤを通して滅ぼされることを許します。しかし、その滅びは彼らが神に立ち変えてほしいという神からのご計画でもあったのです。 ところが、南ユダに幸いにも敬虔な信仰を持ったヒゼキヤが王様になることにより、つまり、彼は、偶像崇拝をやめさせ、エクソドスの神に立ち返るようにユダヤ人たちに訴え、彼らを霊的に目覚めさせることで、主なる神はヒゼキヤ王の側に立つことになります。 つまり、ヒゼキヤ王の敬虔な信仰が神の心を動かしたのです。

歴史的背景の説明が長くなりましたが。このように、エクソドスの神はヒゼキヤ王の行動を一部始終見ておられました。そこで、神は、南ユダがいよいよ北の国アッシリヤにより攻撃されようとした時、預言者イザヤを通して、神様の助けを強く求めることによって、南ユダを取り囲んでいたアッシリヤの軍人185,000人を、神様が送った一人の天使によって一晩で一掃されることになります(第二列王記19:35)。大体、このようなヒストリーは第二列王記18-19章、そして第二歴代誌32章、又イザヤ書36章にて確認できます。

 前触れが長くなりましたが、本日はヒゼキヤ王の信仰から学んでいきたいと思います。

では、第二列王記18:3-7節を一緒に見てみましょう。 

3 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。

4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

6 彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。

7 主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。

ヒゼキヤ王の信仰の一つ目は、3節にもありますように、主の目にかなうことを行なったことであります。 私を含めて皆さんはいかがでしょうか。何かをする時、今まで主の目にかなうことを行おうと努力したことはあるでしょうか。もしかしたら、主が喜ばれると勘違いして、自分の目にかなうことを行なってしまい、むしろ失敗した経験があったのではないでしょうか。

そして、4節に、彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシュラ像を切り倒し、モーセの作った青銅のヘビを打ち砕いたとあります。二つ目は、偶像崇拝です。まさに、私たちが住んでいる日本にも、そして、海外の到る所には今も、2,600年前のイスラエル人たちが偶像崇拝していたある物体を神々として崇め、伝統の名の下で私たちの風習や生活習慣にまで影響を及ぼしたりしてはいないでしょうか。例えば、日本の地域ごとに行われる祭りがそれです。

 聖書ははっきり語っています。つまり、これらに香をたいて、拝むことは偶像崇拝であると。

そして、形ある物に知らず知らずに手を合わせながら、二心を持ち、教会に来て礼拝することは神に喜ばれる行為ではありません。

即ち、私たちが主の前で祈りに祈ってもその祈りが天に届けられない理由は何でしょうか。それは、私たちの心のどこかに主の目に適うことよりも、自分の目に適うことを行なおうとしたりして、その二心が原因で、私たちの祈りが天の扉を開くことが出来なかったのではないでしょうか。 

 似たような鍵でも自分の家を空ける鍵が別にあるように、天の扉を開ける鍵も別にあります。

勿論、祈りは鍵です。しかし、間違った鍵で天の扉を開くことは出来ません。

 そして、三つ目、5節です。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」とあります。また、6節には、「彼は、主に堅くすがって離れなかった」とあります。正直、私たちは、どれほど主なる神に信頼し、堅くすがっているでしょうか。

讃美歌が思い出します。「主にすがるわれに 悩みはなし十字架のみもとに荷をおろせば歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ歌いつつ歩まん この世の旅路を」。アーメン

 この前の金曜日に、私が日本留学中に20年くらい前、京都でお世話になっていた方のお見舞いに行ってきました。その方は脳梗塞で入院中ですが、昔も今も相変わらず主に堅くすがっていました。と言いますのは、私が2時間も聖書を読んであげ、賛美をしたら、「うん、うん」と答えてくれました。

さて、ヒゼキヤ王は敵と戦うとき、このような気持ちで主に委ねて向き合ったのかもしれません。

 私たちがだれかを信頼しているならば、困った時はよくその人に電話をし、どうしたらいいか相談したりします。もし、私たちが主なる神を信頼していれば、ヒゼキヤ王のように敵が自分を苦しめる時に、主に自分の悩みを告白するようになると思います。これが祈りであり、主に信頼している証です。

 私たちは、ヒゼキヤ王の三つの信仰、即ち、一つ目は、主の目に適うことを行なうこと。二つ目は、偶像崇拝をしないこと。三つ目は、主に信頼し、堅くすがることを一緒に学びました。では、ヒゼキヤ王がこれらを行動で示すことで結果的にどうなったのでしょうか。

 第二列王記18章17節です。「主は彼と共におられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。」とあります。なので、アッシリヤの陣営185,000人がヒゼキヤ王の前でイスラエルの神を見下してバカにした時、ヒゼキヤ王は怒りに燃え、預言者イザヤを通して神様に強く訴えることにより、その祈りは天に届けられたのです。

一緒に、第二列王記19章35-37節を見てみたいと思います。

第二列王記19章35節にありますように、神は一人の天使を送りまして、アッシリヤの陣営185,000人を打ち殺しました。ここで、185,000人という数字的疑問がわきますが、日本の自衛隊の人数が24万人くらいです。しかし、その当時、小さな南ユダを侵略するために185,000人を送ったのは圧倒的軍事力だと考えられます。ヘブライ語原文を見ても、他の英訳を見てもこの185,000人は間違いありません。同じ内容を載せている第二歴代誌32章21節には、アッシリヤの陣営の数字は出なくて、「主は一人の御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた」とあります。しかし、そこには、第二歴代誌32章20節のヒゼキヤ王と預言者イザヤが祈りを捧げ、天に叫び求めたとあります。ここで、一人の御使いとは、主イエス・キリストではないかと考える学者もいます。 私たちは天使と言えば、かわいい赤ちゃんのような存在に思われがちですが、実は聖書に出て来る天使は裁き司の役割を持った力強い神の使いを意味します。 また、私たちが祈る時、静かに祈ることも時には必要ですが、ヒゼキヤ王と預言者イザヤのように主に叫び求める祈りも時には必要だと思います。聖書のイスラエルの先人たちがそうしたように、私たちも主に叫び求めることに挑戦するのはいかがでしょうか。その祈りは必ず叶えられると信じます。アーメン

 ともかく、ヒゼキヤ王の叫び求めた祈りに答えられた主は、今私たちが信仰している同じ神であることを忘れてはいけません。この神様がいつも皆さんと共にありますように。アーメン。

さて、ヒゼキヤ王の死後600年後、人の身体をもって聖霊によってこの世にお生まれになった方がいます。この方が主イエス・キリストです。この方は本来神でありました。

この主イエスは33歳の時、数千、数百のユダヤ人たちと異邦人であるローマの兵隊たちの前で、裸のまま私たちの罪を背負い、十字架にかかられました。そして、死んだだけで終わらすに、三日目に蘇りました。確かにこの方は、ヒゼキヤ時代にも働かれた神様であり、185,000人の敵を一人の天使を遣わして全滅させた神です。主イエスは十字架にかかられる時、数千、数百の群衆と兵隊たちを一人の天使を送って打ち殺すこともできましたが、あえて、そのようなことはなさらずに、私たちの罪のために十字架にかかられ、実は弱くない方が弱い体を持って死なれたのです。 そして、主イエスの弟子であるペテロは、主イエスを逮捕しに来た群衆、その中の大祭司のしもべに撃ってかかり、剣を抜いてその耳を切り落としました。その時、主イエスはペテロに向かってこのように言われました。

マタイ26章52-53節です。「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅ぼされます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団(72,000人)よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。』」

天使たちの力を動かすことができるこの方こそ、私たちの救い主です。そしてこの方はご自身の十字架の死によって、永遠のいのちへの希望とこの世においての信仰を私たちに与えられたのです。これを未信者の人に説明しようにも説明することは難しいのです。

なぜなら、私たちの信仰は神様からのプレゼントであるからです。  即ち、今から2,600年前に南ユダのヒゼキヤ王の祈りを聞かれた神、この神が主イエス・キリストであります。この方は聖霊によって今も私たちの信仰と信頼の故に働き続けられ、私たちがどこへ出陣しても勝利を与えてくださる方であり、さらに今も、秩序にそって、宇宙を司り、太陽と月を昇らせ、私たちが救われるまで、つまり、永遠のいのちが与えられるまで執り成しをし続けてくださる真の神であります。 本日は、ヒゼキヤ王の信仰から一緒に学ぶことができました。

皆さん、この主イエス・キリストに堅くすがって、この世の旅路を全うしようではありませんか。

アーメン