ヨハネ福音書7章53-8章11
~[そして人々はそれぞれ家に帰った。 イエスはオリーブ山に行かれた。 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「{主よ。}だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」]~
今、読んだヨハネ福音書の7章53節から8章の11節には、[ ]が付けられている。この[ ]が何故ここに取り入れられているからというと、これは、初めからヨハネの福音書に書かれていた物語ではないからです。これは5世紀頃からヨハネの福音書に挿入された、他の物語が入れられた所なんです。では、この物語は歴史上の史実ではなく、嘘の物語かと言ったら、そうではなく、2~3世紀頃に教会で、口頭で言い伝えられた物語であって、いかにもイエス様が為さることであり、パリサイ人達が、いかにもするような事であったので、5世紀頃からか、ヨハネの福音書のここに、挿入されてきているんです。ここに挿入されている訳と言えば、仮説なんですけれども、その前の仮庵の祭りの時に、ニコデモがイエスを捕えるには、2人、3人の証人が必要で、もう少し調べなければならない、それは「しっかり調べた後に裁くっていうのが、律法ではないのか?」と言った時に、律法学者、パリサイ人、全ての議員達が、「あなたは、ガリラヤから何もいいものが出ない事を知らないのか?」と言って、証人も立てず、調べもせず、証人を立てるという律法を犯していることへの皮肉ではないのか。と言って、ここに挿入されているんです。
何故なら今、姦淫の現場で捕われた女の人が、イエスの前に連れてこられたと、挿入された所は、彼らは勝手に証人も立てずに罪を裁いているっていう、証人説を皮肉ってここに入れているという理解からです。でも、これはヨハネが書いていない事は基本的には明らかにされているんです。これは、ヨハネが書いたものではなく、挿入されたものです。でも、ヨハネの福音書全般からみて、はみ出してはいないんです。ヨハネが書いているイエス・キリストと、かけ離れてもいなければ、これが、本当の実話だった事はほとんどの学者が認めている事です。だから、ここは[ ]はされてはいるけれども、ヨハネ福音書を読む時に、何の差し支えもないのです。
そして、今日この現場に捕われた女ですけれども、彼女が捕われて、結局連れて来られたのは、『姦淫をした』という、犯した罪を、今イエスの所に訴えようとしてやって来たんです。まず、この姦淫という所では、確かに律法ではこう書いてある、と彼らは訴えて来ているんです。モーセの律法はこうではないのか?と、彼らはまたあの時のように、ニコデモと争っていたパリサイ人達のように、聖書を引用しているんです。ベツレヘムから生まれてくるという引用を以前したように、また、ここでもモーセの律法はこう書いてある、と彼らは引用してきているんです。
確かにモーセの律法では、『姦淫を犯した者は石打ちだ』と書いてあります。じゃあ、当時のユダヤ人は、これを本当に守っていたかって言ったら、もうギリシャの文化が大分入ってきていて、ユダヤ教と言いながら、モーセの律法を信じるって言いながら、ギリシャの風習が、大分ユダヤ人の中には入り込んでいて、実際に本当に姦淫を犯して石打ちにしているっていう例がそれ程多くはなくなっている、そんなに徹底して死刑にはされていない。男が勝手に女を離婚する事は、この時代、もう起こっていたんです。その時に、姦淫を犯しても殺されてはいないんです。でも、確かにユダヤ人にとって、この法律はいい加減に済まされる問題でもありません。律法を守る事は、パリサイ人、そして律法学者、その権威を主張する者達にとっては、やっぱり、ルール、戒めを守る事は、当時だって厳しく罰せられる。そして、この女が現場で犯した罪で連れて来られたって言う事は、2~3人の証人がいるっていうことです。そうでなければ、訴える事は許されてはいないんです。しかも、この時の姦淫の罪と言うのは、部屋に2人きりでいた、或いは部屋から出てきた。では、証人にはならないんです。ここでいうモーセの律法が命じているのは、同じ布団に寝ていたら、もう駄目なんです。これはもう、本当に現場を押さえた、という証人が2人か3人居なければ、訴える事が不可能なんです。だから、これは意図的にされる事が度々あったんです。
何故なら、離婚は自由にしていたかもしれないけど、離婚する時に財産を分けなければならない。というのは、律法で命じられていますから、離婚をしても、女性であれ、男性であれ、財産は半分にされるんです。だからそれを避けるために、夫或いは妻が仕組んで、その2人、3人の証人を始めから用意して、それを訴えて、石打ちで殺すっていう事はあったんです。だから、この女の場合も、イエスを訴えるために仕組まれた事は十分あり得たんです。何故なら、その現場を捕えるってことは、簡単な事ではない。夫がそれを仕組んでいなければ、この女に姦淫の罪を被せ、そしてその財産を全部もらいながら、離婚をするっていう事を成し遂げるためには、この2人、3人の証人を始めから意図的に隠し、その目撃証人にするという事以外、姦淫の現場で捕える事は不可能なんです。だからこれは、あくまでもその夫が仕組んだものであり、そして当然イエスを訴えるために連れて来られたのは、間違いがないのです。
だから、ここで証人と言うのも、正しい証人ではないんです。悪人の味方をして、偽証してはならない、は律法の命令だったにも係わらず、彼らはこの律法の命令を守らず、ただ、姦淫の現場で捕われた、モーセの書では、それは石打ちにされる、と言っているここだけを引用してきているんです。
だから、さっき仮庵で争った時も、ベツレヘムから生まれるを引用し、他の個所、ガリラヤから栄光が現れるというのは見逃して、勉強不足の上に、2人、3人の証人を立てなければ裁いてはいけない、という証人説も犯しているんです。だからここで、また彼らは証人説を犯していて、モーセの律法だと言いながら、彼らは始めから仕組んで、偽証をしているという点でも、神の前で彼らは正しくはなかったんです。
そういう企みで、彼女は連れて来られているんです。そして、彼女を訴える口実として、彼らがこの女を死刑にするのか、死刑にしないのか、と単純に言ってる事ではなかったんです。何故なら、さっきも言ったように、離婚は横行していたんです。このケースだけではなく、他のケースでも離婚は、正当化されてはいないんです。今ほど正当化されてはいないけれども、そのまま石打ちにされることもないまま、離婚は、成立してしまっていて、ギリシャの風習は、ユダヤ人の中でもかなり蔓延っていたんです。そして、この現場で捕われている時も、それだけで訴えるには、弱過ぎたんです。この女は石打ちですか?そうではないのですか?と、イエスに訴えてきているんですけど、しかも、結婚前の女性が姦淫した時には、石打ちだけれども、結婚した後の姦淫は石打ちではなく、基本的には絞殺だったと言われているんです。だから、石打ちよりは軽い刑なんです。
で、この女を今死刑にするのか、死刑にしないのか、という事ではないですよ。何故なら、彼らユダヤ人は今、ローマの支配下にあって、死刑をする権利を持っていない。だから、イエス・キリストを十字架に架ける時だって、「あなたがたが好きにしろ。自分の律法通りすればいい。」と言って、ピラトに言われた時、「私達は死刑にする権利を頂いてはいません。」と答えているように、彼らは自由自在に、いくら律法だから、ユダヤ人だから、我らの宗教だからと言って、ローマの支配下の中で、見ている前で、死刑にする権利を持ってはいないんです。
だからここで、彼らがイエスに訴えていることは、彼女を使ってイエス・キリストを失墜させることだったんです。これは、ローマの風習では死刑に定められていないから、まあ、今風で離婚すればいいんじゃないですか。そんな風にローマに逆らうべきではないですよね。と、イエス様が言ったとすると、このイエス・キリストが今、聖書を語り、神を語り、神の権威を語って、神が遣わしたと、ご自身を証明しているように、その神から遣わされた者っていうことを失墜させようとしてるんです。そして民衆が、イエス・キリストから離れることを、民衆がもうこれ以上イエス・キリストの話を聞けないようにすること、そして誰からも信頼されないことを、これが、彼らの訴える一番の口実で、あわよくば死刑になればいいし、あわよくば、もっと失墜して、死刑にされればいい、と、思っていたかもしれないけど、それには、まだ弱いんです。ただ、姦淫をしたから、石打ちだ、石打ちではない、と答えただけで、イエス・キリストを殺すことにはなれない。でも、失墜はさせられるんです。十分にこのイエス・キリストの名誉を辱める事、そして民衆から離す事は、可能だったので、彼らは、それで、この姦淫の現場で捕えて、意図的に証人を立て、偽証させ、このイエス・キリストの方へ連れてきているんですよ。そういう境遇の中で、しつこく若いものから老人まで、女子供から全部が集まってこの女をイエスの前に連れてきて、大騒ぎになっているにも係わらず、イエス・キリストは地面に字を書いていらっしゃるんです。そして、聞く事もなく、ずうっと地面に書いたままで、彼らがヤンヤ、ヤンヤとまだ騒ぎ立てていても、それでもイエスはまだ、地面に字を書いているんです。
そして、この地面に字を書いたっていう所でも学者達には、みことばを書いたのではないか、エレミヤ書だったり、イザヤ書だったり、姦淫を犯した者がどのような罰を受けるか、或いは偽証の罪の裁きや、等々。愛は寛容であり、というものを書いていたのか、と色々な面白おかしく、こういうみこどではなかったか。或いはローマの習慣に倣って、罪状を書いて、それを証拠にして書類にしようと、していたとか、色んな事が言われているけれども、その地面に書かれた字が、どの聖書の句だったかは、そんな事は重要じゃないと、カルヴァンは言っているんです。カルヴァン曰く、ここで重要なのは何のみ言葉が書かれて、どんなローマの習慣に倣った裁判の記録をしてたか、そんな事が重要ではなくて、ここで重要なのはイエス・キリストが彼らを相手にしなかった。彼らを無視していた。彼らの言い分を聞いてはいなかった。彼らに一々答える価値も見出してはいなかった。これが重要だと言っているんです。
イエス・キリストが何を書いていたのか、何を地面にしていたか分からなくても重要なのは、イエスがこんな下らない事を相手にしていなかった。という事なんです。何故ならはじめから、偽証している事を知り、はじめから偽りを立てて、こうやってモーセの律法だと言いながらも、彼ら自身がこんな風に企んでいるのを知っているイエス様は、明らかに彼らに一々答える値打ちもないし、相手にする値打ちもなかった。とカルヴァンはそう説明していて、多くの学者がカルヴァン以降、これを訴えている。だからイエス様は相手にしなかったんです。でも、余りにもうるさくて、余りにもしつこく、彼らが訴えてくるので、イエス様がとうとう、「罪のない者から彼女に石を投げなさい。」と言ったんです。そしてイエス様はまた相手にしないで、地面に書き続けて、もう一々その事について、罪のない者が誰か、見渡す事もないし、誰が石打ちを始めにするか、そういう興味もないし、感心もないし、こんな偽証の訴えに何の興味も持たず、イエス様はまた、女にも目もくれず、です。地面にまた字を書き続けるんです。その位、こんな下らない事に目を上げることにも価値がない。という風な態度を取られているんです。
そしたら年長者から一人一人離れて行った。と書いてあります。
9節
~年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。~
イエスがそこに居られ、女はそのままに残された。が、本当の訳です。そしてこの、『残された』は本当の聖書では、もっと厳しい、きつい言い方で、『見捨てられた』という表現が、かなり近いと言われています。だから、女一人が見捨てられた。っていう状況なんです。だから、ただただ一人残されたんではなく、民衆はこの女を利用して連れてきたにも関らず、最後にはこの女は、この民衆から見捨てられているんです。
何故?良心の呵責です。ここも、『聞くと』彼らはそれを聞くと、ですけど、本当の訳としては『良心を責められて』なんです。彼らは自分の良心に責められて、良心の呵責で、女をそこに見捨てて行ったんですよ。そしてこの良心の呵責を最初に感じたのが老人だった。という事です。
ゲーテの台詞の一つでこういうのがあるんです。「もし、寛容になりたかったら、歳を取ればいい。」何故ならそれは全部自分がしてきたことだからです。或いは、する可能性を持っていたもの。だから老人は生きている時にその罪に見覚えがある。或いは、老人達にはチャンスさえあれば、状況さえ整えば、環境があれば、自分も必ずそれをしたことを知っているから、老人からそこを離れて行くんです。若い者は血気盛んで、最後まで訴えていたかもしれないけど、老人からそこを離れて行く。何故?彼らは自分もその罪に見覚えがあるからです。それが良心というものです。人間の中にある良心というものは、これは信じている者も、信じていない者も、誰でも持っているものですよ。でも、この良心というもは、ほとんど麻痺して、今のこの時代、誰が良心に訴えかけられ、誰が良心の呵責なんか感じるだろう、と言われるほど良心の麻痺は、はるかに酷い状態に陥っているかもしれないけど、でも、この時代の良心も老人からだったんですよ。何故?良心という意味は『自分と一緒に知っている者』という意味ですよ。『良心』っていう本当の意味は、自分っていう者を知っている、もう一人の自分っていう意味です。自分がその罪を犯した事があり、そういう自分の嘘を、自分の犯した罪を知っているもう一人の自分が、良心なんです。どんなに麻痺していたとしても、です。それは存在しているんです。だから、今でいう犯罪者は、大体否定しますよ。自分はやっていない。証拠が挙がらない限り、罪を免れる事なんか平気ですよ。高い弁護料を払って、金がある者はアメリカでは、正統に牢獄から出てきますよ。裁判に打ち勝って、優秀な弁護士を雇えば殺人してももみ消せる程ですよ。でも、良心だけはどうにもならないんです。そして彼らは、最初は違う違う、自分は犯罪なんかしてない。自分は殺すつもりは、なかった。殺したとしても、それは過失だった。自分に初めから殺意なんかなかった。という、そういう裁判が多い中で、でも、時間が経ち日にちが経って、振り返って、或いは刑事や周りの家族、残された者、そして被害者の家族などの情報や説得を持って、その人の良心は最後には屈服するんです。
何故か?この世の中では、良心の呵責によって、そのようになった事を正常に戻ったっていうんです。結局、もう一人知っているんです。私の事を。もう一人その現場に居た、隠せない、もう一人の私。に嘘はつけないんです。どんなに麻痺して、どんなに自分好きで、妄想で、妄信し、そこから離れない人間でも、説得され、現実を見せられ、現実を突き詰められ、証拠を突きつけられたら、その良心は、とうとう正常に戻るしかなくなっちゃうんです。正常に戻った人間に何があるんですか?罪の意識ですよ。罪の自覚です。とうとう、どんな犯罪者でも、余程の病人、余程の異常者でなければ、必ずいつか時間が経てば誰よりも自分を知ってるもう一人の自分、もう一人の良心が訴えてくるんです。その呵責によって、責められる事によって、罪の意識が生じ、罪の自覚が生まれてくるんです。それは正常な状態です。やっと正常に戻ったんです、ここ。
そして正常に戻った老人から若い者まで離れて行ったんです。彼らは自分に罪がないと思っていたから、この女を連れてくる事ができたんです。自分にそんな当てはまる罪はない。自分はそんな姦淫を犯した事はない。私は石打ちの罪も、神の前で裁かれる罪もない、と堂々とこの女を連れて来たんです。でも、「罪がない者がそれをしろ」と言った瞬間、誰も彼もがです、女、男、老人、子供まで誰も罪がないという、自信満々に手を上げる者がいなかったんです。その中には、イエスを裁き、殺し、捕えようとした律法学者達。偽ってでも、律法のその証人を無視してでも捕えようとした、あの律法学者、あのパリサイ人、あの議員でさえ、ですよ。去ったんです。
罪のない者は、イエスを訴えようとした、私には罪はない、このイエスにはあるけれども。イエスは神を冒涜して、私は神を冒涜しなかったけれども、と言って訴えてきた者が。イエスに「罪のない者が・・・」と言われた瞬間に、彼らは去らずにはいられなかったんです。彼らのもう一人知っている自分、もう一人知っている良心は罪がないっていう事は絶対に言えなかったんです。だから彼らはイエスを訴えようとして、何ですか?イエスに訴えられてしまうんです。これが良心です。
でも、カルヴァンはここをこう解説しているんです。『罪の意識、罪の自覚と、罪の悔恨は、天地ほど違う。』って。彼らは罪の意識、罪の自覚があったかもしれないけど、その挙句何をしたか?神から離れていったんですよ。意気消沈し、気落ちし、自分の罪に苛まれて、離れて行ったんです。これが罪の意識、罪の自覚です。でも、罪の悔恨ではないんです。悔い改めてはいないんです。もし、悔い改めているなら、彼らはそこを立ち去れないはずです。でも、彼らはとうとう良心が正常に戻り、現実が見えて、真実が見えて、自分の罪が見えたんです。でも、意識はしたものの、何一つ悔い改める気がないので、そこに留まる事はないんです。何故?彼らはそこから、神からも人からも離れるっていう選択をしたんです。
自分の罪を隠し、自分の罪が露わにされるのを避け、そして神の前でも人の前でも自分の罪を認めることを避けるために隠すために現実から逃げていったんです。だから、カルヴァンはこう言うんです。「罪の意識と罪の悔恨は天と地ほど、天国へ行き、地獄へ行くほどの差だ」って言ってるんです。
でも、この女はここに残されたんです。この女だけが残されたんです。そしてイエスがこう言うんです。「他の者はどうしたんですか。誰もいないんですか。あなたを罪に定めて石打ちにせよと、死刑宣告せよと言った者たちは、一体どこへ行ったんですか?」
と言ったけれども、この女は、「もう誰もいません。」とこの女一人残していったんです。
この女ははじめは強制的に連れてこられたんです。両腕掴まれて犯罪者の如く、引いてこられたんです。そして彼女を縛っていたのは、律法であり、彼女を縛っていたのはモーセの教えで、ユダヤ人の律法だったんです。彼女はその律法に縛られて、ここに連れてこられたんです。でも、良心の呵責、本当に責められて、もうどうにもならなくなった老人から今、離れて行ったんです。この女は絶対逃げれたんです。そして普通の人間はここで逃げますよ。何故ならもう誰も裁かないんですから、自分を。誰も自分を罪に定めていないし、もう、この女を死刑にしようっていう人もいないんです。だから、女がここから逃げるのは、全然かまわなかった。何故女はそこに見捨てられたっていう、聖書がそこで書かれたか。もう、この女に関っちゃいられなかったんです、他の人たちは。この女の罪を一々取り上げて、調べて、そして裁判にかける位の余裕がなくなったんです。もう民衆に。何故?自分の罪で手一杯だったんです。自分の罪が手一杯で、この女の事を構っちゃいられなくなり、それ程良心の呵責があり、良心的に、もうこの女を死刑に定めることもできない程気落ちし、構っちゃいられなくて、この女を見捨てていったんです。
これが、今、見捨てたという表現なんです。そして、この見捨てられた女は、律法にも縛られず、人から訴えられたからでもなく、そして罪の裁判をするために無理やり連れて来られたんではなく、自分の意志でここに残っていたんですけれども、これは、この女が自分の罪の意識を自覚してここに居たとは思えないんです。これはイエス・キリストが訴えられる側から、訴える側に変わっちゃったんです。人間だと思ってやって来て、裁判官の一人だと思ってやって来て、預言者の一人かと思って、イエスの前に来た者達は、イエスを訴えて殺そうとしたんです。でも、むしろイエスに訴えられてしまったんです。反対にイエスが裁く側にいってしまったんです。これは、神の権威が現れてしまうんです。人間の常識とか、人間のルールとか、人間の何かではないんです。もう、この女は罪に縛られて動きがとれないんです。自分の罪を見た瞬間、神の前に表れて身動きが取れない状態なんです。この女自ら悔恨の念を持ってここに居るというよりは、罪を持った者が神の前に出た時に、決して逃れられない、決して裁きを免れる事がない程に、この女はもう、罪に縛られて身動きが取れないんです。何故?ここに居る事が、いきなり神の権威、神の力を感じてしまうからです。たとえイエス様が肉体を着ていたとしても、訴えてきたものが、むしろ神に裁かれる側になって逆転をしてしまった力の関係で、この女の人がもう身動きが取れないんです。このイエス様が何を言うか、どういう裁きを下すか。この女の人はただ、それを待つ以外に逃げ道がない程に罪に囚われ、罪に縛られ、神の前の審判から逃げる事ができない、神と1対1に向き合ってしまった、そういう人間は、たとえどんな強盗犯でも逃げられないんです。何故?そこに神の力が働いてしまうから。神の力が否応なしに縛ってしまうんです。罪を。ここは、裁かれるっていうその現場にいってしまうんです。この女は、良心だなんだっていうへったくれを越えてしまってるんです。もう。神の前から逃げられない状態なんです。何故?1対1で会ってしまったんです。人間イエスとではなく、神を、罪を裁く側にまわってしまった、神の権威の前で、この女は一切の身動きがとれなくなっているんです。
そして、「あなたを裁く者はいないのですか。」って私を裁く者は、民衆の中にいなかった。「では、わたしもあなたを罪に定めません。もう罪を犯してはなりません。」とイエス様が言うんです。でも、ここで重要なのはイエス様がこの女の罪を赦してはいないんです。「わたしはあなたの罪を裁きません。」と言ったんです。「だから、もう罪を犯してはいけません。」イエス様は正確にはこう言っているんです。あなたの罪は赦されたなどは、言っておられないんです。わたしは罪に定めません。『今は』です。『わたしの時がきていないから』です。これが正確な答えです。イエス様に赦されたんではないんです、この女は。猶予を与えられただけです。執行猶予をつけられただけです。時間を延ばされただけです。そしてその執行猶予の間に「罪を犯してはなりません。」が条件なんです。続けてこの罪を犯すなら、執行猶予はなくなるんです。当然でしょ。
牢獄から出て仮釈放された者が、罪を犯したら、もう2度と仮釈放はないんです。猶予がなくなるのと同じです。この女は仮釈放だったんです。釈放されて、完全に罪を赦され、天国行くっていう保証を受けてる訳じゃないんです。仮釈放、猶予を与えますよ。
その間に罪を犯すのは止めなさい。これがイエス様がこの女に伝えた言葉だったんです。
これが、今私達の時代に、クリスチャンがまず、与えられてる事です。私達はいつかイエス様の前で、1対1で、あなたを裁くサタンや暗闇の力もなく、この世の律法もない、そんなイエス様と私だけが向き合う、必ず審判の席がくるんです。その時には執行猶予はないんです。今、私達が与えられている時間は、執行猶予なんです。「わたしは今、裁きませんよ。」イエス・キリストの十字架の血は、あなたを今裁く事はしません。あなたは、それを信じました。だから、あなたはもう罪を犯してはなりません。これが今、私達クリスチャンが審判の席に行く前に、与えられている執行猶予なんです。この猶予の間に、罪を止めるという作業をしなくてはならないんです。そして、本当の悔い改めは、ここなんです。変わる、です。完全な人格の変化です。完全な別人になる、完全な新しい人になる。これが悔い改めです。
だから、カルヴァンがこう言うんです。『罪の自覚と罪の悔恨とでは、天と地ほどの差がある。』天国と地獄の差なんです、ここ。この女が言われたことです。今は、裁きませんよ、今は教会から追い出しません。今は、留まる事も許しましょう。でも、『今は』です。だから罪を犯してはなりません、は、完全なる、絶対に犯してはならない、という事です。悔い改めは、完全な別人になるって事です。もう2度としない。2度とやらない。
罪の意識に苛まれ、人に指摘されたからしょぼくれて、「あぁ、もう止めなきゃ」は、イエスから去って行った、あの民衆です。決して悔い改める事をしない。悔い改めるっていう事は、さっき言ったように、もう1人知っている私。もう1人知っている私の中の聖霊様。この聖霊様は絶対罪を赦さないです。罪と交わることのない方だから。私の中に居る聖霊様は、私の良心にいつも訴えるんです。み言葉をもってです。聖書のみことばをもって、こうしてはならないっていう私の、もう1人の私に訴えてきますよ。その時に止めない罪は、裁判の時に持ち越されます。この執行猶予で止めなかったからです。そして、自分が落ち込んだからって悔い改め、自分がその落ち込みで泣いたから悔い改めたと思うのは、大間違いなんです。それは、ここから離れて、イエスの前でも人の前でも罪を認めなかった、ただ意気消沈した群衆の1人です。何故?まだその罪を抱えて止めようとしていないからです。まだ、その言動、行動、まだその言葉、行動をとっているからです。ここでの悔い改めは、「もうしません。」っていう口ではなく、実践の行動の変化を言っているんです。実際の行動の変化は、実際的な意志、絶対的な決心があるんです。これが、悔恨ですよ。これが本当に自分の罪が赦された者がする事です。これが本当に、砂漠まで落ち、水1滴のない、暗闇の中で自分の罪から逃げず、イエスにこの事を、本当に赦してもらおうと、本当にもがき苦しんだ人の結果なんです。意気消沈し、人から指摘されなきゃ自分の罪も分からないなんていう人間が、この悔恨がある筈がない、渇くはずがない。イエスの方にいく筈がないんです。
この女の現場が、ヨハネの福音書に何故、突然挿入され、突然、ヨハネが書いてもいないストーリーがくるのか。イエス様としては、イエス様側としては、聖霊側としては、『知れ』ですよ。この執行猶予の時間に。何故止めないんですか。何1つ悔恨がないんです。クリスチャンに於いては、罪の赦し、罪の悔い改め、これが恵みの教理です。
パウロが言ったこの恵みの教理は、命懸けだったんです。命を懸けた教理なんです。それ程混ぜ物が入ってはならないものです。この律法学者達のように、律法ではこう言っていると言いながら、もう1方の律法を守らないんです。こうやって、混ぜ物が入るみ言葉なんて、何の力もないです。イエスの前に連れて来られた女の人が何を見るんですか?神の絶対的な裁きですよ。絶対逃れられない神の裁きの前に、あの姦淫の現場の女は、どうしても動けないんです。この、イエス・キリストだけが罪を赦す権威を持って、そして、罪のない者が彼女を殺せと言った時、全員去ったんです。イエス・キリストだけが残ったんです。何故?わたしこそ罪を赦すもの、絶対的な力という宣言をしてるんです。もし、イエス・キリストも罪を犯しているなら、自分も去った事でしょう。ここに残ったのは、罪のない唯一の方。わたしは聖く、人を裁く立場にいるものだっていう事の、圧倒的な『エゴエイミー』なんです。『わたしが』です。全能者だ、全知全能の創造主の、神の神、わたしこそが唯一の神が、わたしに罪があろうはずが無い。という宣言をしてるんです。あなた方が訴える者ではなく、わたしが罪に定める、罪を裁くものだ。女は動けないですよ。絶対的な審判者なんです。絶対的に罪と対立する、この方の前に行った時には、この女のような状態です。誰も動けない、誰も弁明できない。誰も言い訳ができないんです。
「しょうがないですよ、性格だから。感情が沸き上がったから。」この言い訳は審判前では弁明にならない。この女を見てください。何も言えないんです。『絶対者』なんです。この神の前に出たら、誰でも被造物はこうなるんです。誰でも、です。天軍天使でさえ、神の前では震え慄くんです。神と被造物の差が、どれだけ明らかになるのか。神と被造物の差がこんなにすごいんです。なのに、私達は神の前で、平気で軽々しい言動をするんです。この律法学者達の様に、です。
50年前のアメリカは、本当に宣教する国でした。そして、5人の宣教師がエクアドルに行って、殉教した話は、50年前のアメリカの新聞に出たんです。彼らの共通点があります。5人とも1流大学を出ている。5人ともとても家庭が良かった。5人とも全員結婚して、妻が居て子供が居たんです。そして彼らは無残に体を切り刻まれて、ただ殺されたんではなく、手足がバラバラにされる惨い拷問の末に死んだんです。これがアメリカの新聞に出たんです。そして彼らは当然、その当時エクアドルが、原住民がキリスト教どころか、偶像礼拝しているところですから、キリスト教が入っていける状態じゃないから、当然家族からの反対も受けたんです。でも、彼らはこう言ったんです。「永遠なるものの為には、永遠でないものを捨てることは愚かではない。」と言ったんです。そして、彼らが死んで、奥さん達は悲しんだけれども、2年後、5人の奥さん達は子供連れて全員エクアドルに入ったんです。
今、色んな教会がエクアドルに入って、キリスト教的なクリスチャンが、たくさん生まれてきていますけど、50年前には、そういう国だったんです。50年前に宣教師達はこういう目に合ってるんです。身体をバラバラにされ、そして奥さん達は恐れることなく、子供達の手を引いてエクアドルに入って行ったんです。
彼らはこう言ったんです、最後に。「イエスから貰ったものを、私がエクアドルの原住民に返すべきだ。」彼らが行った理由は、生きがいの為でも、興奮でも、感傷的な事でも、何か犠牲精神や正しい事をしたかったからでもなく、私が赦されたなら、彼らも赦されるべきだ、です。これが本当の神への愛、そして隣人愛です。私達クリスチャンは自分の分量を超え、格好いい理想を掲げて生きるものではなく、生活の中で、罪が赦された、神の恵みと愛を感謝して、喜んで生きるものです。環境が厳しいからと、悲しんでうつむいてはいけません。イエス様から、自責の念で離れてはいけません。唯一私達の罪を赦すことができ、救ってくれる主なのです。アーメン。