こんなにすばらしい救いを
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。ヘブル2:1
ペンテコステのあと、ペテロの説教によって3千人のユダヤ人たちが救われていきました。しかし、彼らの中には、ユダヤ教(社会)に再び戻ろうとする人たちが(当時)いたことが(うかがえ)ます。彼らはクリスチャンになったとは言え、以前からのユダヤ教の習慣がなおも彼らをしばっていたことがわかります。クリスチャンになっても律法を守ることで救いを得ようとする傾向が残っていたり、神殿礼拝をしたりと、古くからの習慣から抜け出せなかったわけです。また、同じユダヤ人たちからキリストを信じる者として迫害を受けることにより、彼らの中には再びユダヤ教に戻る者がいたようです。ヘブル書の記者=(おそらく)パウロは、(キリストを受け入れて救われた)彼らが再びユダヤ教に戻ることがないよう(ヘブル人に手紙を書いて)励ましました。
救われる前の自分に戻っていく危険は、現在のわたしたちにも起こりうることかも知れません。例えば、イエス様を信じて洗礼を受けてクリスチャンになっても、イエスさまから目を離してしまうと(すぐに)心配と不安に陥ってしまう私たちです。そして、イエスさまのすばらしい救いが(いつまでも)わからずにいると、人はイエスさまから離れてしまうことになるので気を付けなければいけません。ヘブル2章1節で、「押し流されないようにしなければならない」と言っている通りです。では、どのようにすれば、イエスさまから目を離さずに、世にも押し流されないようになれるのでしょうか。その秘訣は「私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留める」ことです。私たちが聞いたこととは、3節後半にあるように、「主イエスさまが(約3年)使徒たちと共に過ごす中に彼らに語って聞かせた福音や、主が見せて下さった力ある御業(奇跡)のことです。それが、使徒から弟子に語り継がれ、当時のヘブル人(ユダヤ人)にも伝えられ、時を経て、現在のわたしたちにも届いているわけです。
福音とは、イエスさまが神から離れていた「あなた」や「わたし」の罪が(神の前に完全に)赦されるために、主が身代わりになって十字架で死んでくださった出来事です。わたしたちは、イエス様が「わたし」の罪が赦されて消し去られるために(わたしに代わって)十字架で死なれたことと、それが間違いない確かな証拠として主が復活されたことを明確に「信じる」ことで、わたしたちは「福音」を(確かに)自分自身のものにすることが出来るのです。そして、イエスさまから目を離さずに生きられるようになるのです。3節に「私たちが、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、」とあるように、わたしたちがいただいている「福音」は「こんなにすばらしい救い」なんですね。わたしたちは、どんなことがあっても、決してこの救いを手放してなりませんね。