「宇田川源流」【日本万歳!】 10月20日は上皇后陛下の誕生日・国民を上げてお祝いしよう
「宇田川源流」【日本万歳!】 10月20日は上皇后陛下の誕生日・国民を上げてお祝いしよう
皇后陛下の誕生日のことを「地久節」という。「地久」は老子の「天長地久」より採られている。令和時代における日付は、今上天皇の后雅子の誕生日にあたる「12月9日」である。
さて、では、上皇后陛下の誕生日について、何か固有の言い方はあるのであろうか。実は、昔からそのようなものはない。しかし、この日は国民がお祝いすることは当たり前なのではないかと思う。
さて本日は、特に記事が長い。そのために、全文はあまりなく、記事を読んでいただきたいと思う。
令和4年10月20日:上皇職
上皇后さまは、今年、米寿をお迎えになります。
本年4月、約2年間お住まいになった港区高輪の仙洞仮御所から赤坂の仙洞御所にお移りになりました。ご移居当日は、港区長はじめ周辺自治会長等のご挨拶、ご交流のあった保育園児や多くの地元の人々のお見送りを受けられました。
ご散策の途中でしばしばご交流になった近隣の人々、木々や花々に彩られたお庭の四季の移ろいなど、高輪で過ごされた日々は、静かで温かな地元の人々の迎え入れへの感謝の思いと共に、これからも懐かしい大切な思い出として振り返えられることと思います。
保育園児から贈られた園児の摘んだ「ふうせんかずら」の種は、いま仙洞御所で大切に育てられています。
この一年も、新型コロナウイルスの感染拡大が続きました。
特に、本年は年初から新規感染者数が急増し、2月には全国で10万人を超える第6波、7月には20万人を超える第7波による爆発的な感染があり、陛下と毎日その推移を追われながら、感染者を気遣われていらっしゃいました。
また、今年3月16日の夜中に発生した震度6強を観測する福島県沖地震では、東北新幹線が脱線し、東北地方を中心に大規模な停電が発生しましたが、すぐにテレビをつけ、陛下とご覧になりながら被災地の状況を案じていらっしゃいました。各地で発生する地震、噴火、大雨等の自然災害には常に目を向けられ、被災地の様子を見守っていらっしゃいます。
沖縄復帰50年に当たる今年は、6月に、陛下とご一緒に、東京国立博物館で沖縄復帰50年記念特別展「琉球」を、国立公文書館で特別展「沖縄復帰50周年記念特別展・公文書でたどる沖縄の日本復帰」をご覧になりました。また、7月には平成10年から新型コロナウイルスが感染拡大する前の令和元年まで、毎年のようにご臨席になった小児がん征圧キャンペーン・チャリティーコンサートをご鑑賞になりましたが、その他のお出ましは、恒例の御用邸等でのご静養を含め、お控えになりました。外部の人とお会いになることも極力見合わされました。
約30年ぶりに戻られた仙洞御所では、いつも通り規則正しくお過ごしになり、陛下との朝夕のご散策、ご朝食後の音読をお続けになっています。音読は、東宮御所時代から続けられており、寺田寅彦の「柿の種」、中谷宇吉郎の作品などに続いて、現在は陛下初等科時代の国語教科書をお読みになっています。(陛下は初等科1年を尋常高等小学校、2年からは国民学校で学ばれ、上皇后さまは小学1年から国民学校に通われましたが、当時の教科書は全国一律に使用する国定教科書でしたので、両陛下は小学2年以降、同じ教科書で学ばれています。)
また、日課として朝夕の新聞をご覧になっていますが、両陛下は、お手許に上がる6紙の半数ずつに目を通され、興味深い記事を互いにお伝えになっておられるようです。無事にご移居をお済ませになったことのお祝いや、ご高齢になった両陛下のご体調を案ずるお手紙など、ご移居後も様々な人々から書状が届き、また、ご本、音楽CD等も多く寄せられ、日々のご生活の潤いとなっています。
ご散策中には、季節の移ろいと共にお庭に咲くバラ、ヒツジグサ、ハスの舞妃蓮、はるかのヒマワリ、ユウスゲなどを、それぞれにまつわる思い出と共に愛おしそうにご覧になっているご様子をお供する人たちから聞いています。午後のご散策で通られる赤坂御用地の大池等では、アオサギ、カイツブリ、カルガモ、セキレイの季節による行動を興味深そうに追っていらっしゃると伺っています。
沖縄県慰霊の日、広島・長崎原爆の日、終戦記念日並びに阪神淡路大震災及び東日本大震災の発生日には、今でも陛下とご一緒にテレビ中継をご覧になりながらご黙祷なさっています。また、宮中祭祀が行われる間は、いつも陛下と共にお慎みになっていらっしゃいます。
この一年もご交流のあった人々とのお別れがありました。
今年1月には、児童文学者で東京子ども図書館を設立した松岡享子さんが亡くなりました。長年にわたるIBBY(国際児童図書評議会)の活動を通して、静かに友情を深められ、敬愛をもって交流された大切なご友人でした。東京子ども図書館には幾度も行啓になりましたが、亡くなられる少し前に、上皇后さまとお話したいとのお気持ちに喜んでお応えになり、心深いお会話を交わすことがおできになったと伺っています。ファッションデザイナーの三宅一生さん、森英恵さん、元内閣官房副長官で恩賜財団母子愛育会会長であった古川貞二郎さん始め多くの人々との別れを惜しまれました。
9月には英国女王エリザベス2世陛下が崩御され、深いお悲しみのうちに、陛下と共に在りし日の女王陛下のお姿を思い起こされ、これまでの長きにわたるご親交に感謝なさりつつご冥福をお祈りになりました。
ご体調につきましては、一昨年5月から午後にお熱が上がるご症状は今もおありで、心不全の診断指標であるBNP値は、正常を超える数値が続いています。7月には、東大病院において右眼の後発白内障に対するレーザー後嚢切開術をお受けになり、また、8月には右膝下の静脈に血栓が認められ、「深部静脈血栓症(末梢型)」の診断を受けられました。
昨年12月に愛子内親王殿下がご成年をお迎えになり、今春、悠仁親王殿下が筑波大学附属高等学校に入学され、今年6月に崇仁親王妃百合子殿下が白寿をお迎えになったことは、陛下共々、お喜びのことでした。
ここ3年、お誕生日行事をなさらずに来られましたが、今年は上皇職の進言をお受けになり、新型コロナウイルスの感染予防に配意された簡素な形で祝賀をお受けになります。
当日は、仙洞御所において、天皇皇后両陛下、皇族代表としての皇嗣同妃両殿下、元皇族及びご親族の代表、宮内庁長官及び職員代表としての宮内庁次長、元宮内庁長官等及び元側近奉仕者の代表、皇宮警察本部長及び上皇護衛課側衛官並びに上皇職職員による祝賀をお受けになる予定です。
宮内庁ホームページより
https://www.kunaicho.go.jp/joko/press/r041020.html
「涙が出るほど美しい」――世界が感動した、上皇后・美智子さまのスピーチ秘話
2022年10月20日に88歳のお誕生日を迎えられた上皇后・美智子さま。読書家としても知られる美智子さまが、少女時代の読書の思い出を語り、世界中を感動させた講演がある。1998年にインド・ニューデリーで行われたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会にて実現したビデオによる講演だ。
美智子さまのお言葉に、「涙が出るほど美しい」と感激する人が続出したこの講演だが、実現するまでには奇跡のような出来事と感動の秘話があるという。
今回、美智子さまが上梓した一冊『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を手がけた絵本編集者の末盛千枝子さんの自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる』(新潮社)より、抜粋してお届けする。
※敬称等は、本作品の単行本が刊行された2016年3月当時のものです。
***
ニューデリーでのIBBY世界大会では美智子様の基調講演をビデオで流したのだが、その収録でお世話になったNHKの元会長でいらした川口幹夫氏が、二〇一四年十一月に亡くなった。私の最初の夫、末盛憲彦は、川口さんのもとで「夢であいましょう」などの番組を作っていて、テレビに活気のあった幸せな時代だったとは思うけれど、五十四歳で突然死した。そのとき、放送総局長だった川口さんは、ちょうど郷里の鹿児島に帰省中で、そこで、末盛の訃報を受けとられた。そして、すぐに電報を下さった。それは本当に心のこもったあたたかい電報で、こんなに長い電報というものが世の中にあるのかというほど、思いやりに充ちたものだった。
また、ご自身の死から二十年前に奥さまを亡くされた時、花の写真を撮っておられた奥さまの写真の数々を使って、とても美しいたくさんのテレホンカードを作り、配ってくださった。川口さんの奥さまを思う気持ちが、優しく伝わった。そういう人だった。そんな川口さんの人柄と存在が、緊急を要した大変な中での、美智子様のビデオによる基調講演を可能にしてくれたのだと思う。
一九九八年のIBBYニューデリー世界大会にて皇后美智子様に基調講演をお願いしたいというインド支部の四年にわたる熱心な申し出に、どうにか美智子様のまわりの情況も応えられそうになっていた矢先、インドが核実験をするということがあった。私は新聞の一面に特大の活字でそのニュースが報道された朝のことが忘れられない。ああ、これで、美智子様のインド行きはなくなってしまったと、とっさに思った。そして、案の定、美智子様に行っていただくわけにはいかないという政府の決定がなされた。
しかし、その決定は大会の直前まではっきりとはなされなかったので、この世界大会のテーマである「子どもの本を通しての平和」にそって、美智子様は不安がおありだったとは思うけれど、黙々と原稿の準備を進めておられた。それだけに、二週間ぐらい前になっていよいよ不可能になったという時、美智子様は、大会初日の基調講演に穴をあけることになると、長い間忍耐強く待ってくれていたインドの人たちに申し訳ないという困惑の思いを強く抱かれ、心を痛められた。
そんな美智子様のお姿に、いてもたってもいられず、島多代さんと私は、この時代、ビデオによる講演という方法があるのではないですかと美智子様にお話しし、この人に頼むしかないと、NHKの会長を退いたばかりの川口さんに会いにいった。かいつまんで事情を伝え、美智子様からお預かりした原稿を見せると、彼はその場で目を通し、「わかった。どういう方法をとるのがいいか急いで極秘に考えるから」と言ってくれた。本当に時間がないということも話したので、きっとその時すぐに、どのような方法をとるのがいいか、頭の中で組み立て始めていたのだと思う。
翌日には川口さんの指示で、当時の放送総局長に会いに行った。放送総局長は、そのとき、「私が新聞の編集局長だったら、この文章は、全文このまま掲載しますね」と言われた。美智子様の原稿は本当に率直に、ご自分にしかお書きになれない、ご自身の体験から感じ、考えられた思いに充ちた素晴らしいものだったから、私も総局長と同じ気持ちだった。しかも子どもの読書についての深い思いも込められていた。大至急、少人数の担当クルーが極秘に編成され、不思議な力が働いたとしか思えないように、すべてがうまく運んだ。
数日後収録の手はずがすべて整う頃、ニューデリーでIBBYの次期会長に立候補することになっていた島さんは、立候補演説の準備のために、自分自身も大変だった。ここまで道を付けたのだから、後はお願いねと言うように、自分の仕事にかえって行ったので、私は収録の全てに立ち合うことになった。
収録を二日後に控えた朝のこと、収録を担当することになったディレクターの若い女性から電話があり、美智子様の原稿にある、新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』の出版の時期が、美智子様の原稿と合わないのではないかと言ってきた。彼女は念のため原稿のすべてを校閲していて、『でんでんむしのかなしみ』は、基調講演の中心をなす部分なのだけれど、美智子様が書いておられるようなお小さい時には、まだその本は出版されていないはずだ、というのだ。そして、収録にかかる前に、そのことを美智子様にお伝えしてくれというのだ。私がそれをお伝えしなければならないのか……、と頭の中が真っ白になるようだった。
でも、ここで逃げたり、いい加減にしたりするわけにはいかないとわかっていた。至急皇后様に見ていただいてください、と要点を書いたファックスを女官に送り、ご連絡を待った。美智子様は、お小さい時にお家のどこでその話を叔父さまか、叔母さまか、どなたかにお聞きになったと、かなりはっきり憶えておられるようだった。しかもその話を中心に据えてご講演を進めようとしておられたのだから、美智子様にとって、どんなにショックでいらしたかと思う。私もショックでファックスに何か気休めを申し上げたと思うけれど、役には立たなかっただろう。
しかし、美智子様はそのことをすぐに陛下にご相談になり、陛下は、「その本が出版された時期と、実際に新美南吉が書いた時期とは違うかもしれないから、まずそれを調べてはどうか」と沈着にアドバイスされたとのことだ。そして、新美南吉が書いた時期は、美智子様がそのお話を聞かれた時期と齟齬がないということが確認された。ほっとして、同時になんと良いご夫婦なのだろうかと思った。あの時期、南吉は一ヶ月に三十篇もの童話を書いていたようなので、何かの雑誌に載ったのを、叔父さまか叔母さまがご覧になったのかもしれない。あの収録のころ、私自身大きな歴史の大事件に立ち会っているという緊張感と高揚感とがあった。
川口さんのお通夜の日、別室で待機している際に席が隣になったのは、あの収録の時のプロデューサーだった。あまりの偶然に驚きながらも、長い待ち時間にあの時の思い出を小声で語り合った。お互いに、一生忘れられない思い出で、大変な隠密作戦を一緒に戦った同志のようでもあった。
後にすえもりブックスで『橋をかける』という本にさせていただいたのだけれど、あのご講演は、本当にすばらしいものだった。子ども時代の読書について、後にも先にもあれ以上のものは考えられないと思うくらいであり、そして世界中の子どもの本に関わる人たちにとって、皇后美智子様はかけがえのない大切な存在になった。
忘れられないのは、川口さんがあの原稿に目を通した直後、美智子様について「あの方は三十年以上もの間、これだけ豊かなものを心に秘めてこられたのですね」と嘆息ともいえる深い感慨を口にしたことだ。川口さんらしい優しさと美智子様のご苦労に対しての深いいたわりだった。
そして、いよいよ英語と日本語との両方が御所で収録された。ご自分の英語が使いものにならなかったら困るという美智子様のお気持ちをお察しして、用心のために日本語でも収録した。その時すでにインドへの出発まで一週間を切っていた。御所にテレビカメラが入るのは初めてのことだっただろう。ちょうどその頃、予定されていた国賓の来日が取りやめになるということがあり、両陛下は数日のあいだ時間がおありだった。こんなことは、滅多にないことに違いない。
打ち合わせのために、収録の前日、NHKの人たちと一緒に御所に伺うと、それまですべての相談に乗ってくださっていた侍従長、渡辺允さんが、「わからないことはなんでも皇后様にお聞きなさい」と言ってくださった。その日は、カメラをどこに据えるかというような打ち合わせだけだと思っていたのだが、だいたいの段取りがついた時に、なんと皇后様がお出ましになり、テーブルを囲んで、担当の技術さん達にも、ご自分からいろいろと質問なさった。特に印象的だったのは、皇后様が「途中で休憩がはいった時に、誰かと話をしてしまうと、気持ちの流れが変わるから、誰とも話はしません」と言われたことだ。加えて、言い間違えなどがあり、言い直す時には、その言葉からではなく、その段落の冒頭に戻って言い直しますともおっしゃった。時間がないなかでの、編集作業のために、それはどれほど有り難いことだっただろうか。担当者たちは、どんなに助けられたことだろう。
翌日の収録本番は、緊張感につつまれるなか、皇后様はていねいにお話をなさった。休憩の時には、すこし御髪を直されたり、お水を飲まれたり、伸びをなさったりされた。とても初めてとは思えないようなお姿で、私にとってはまるで夢の中にいるような信じられないことばかりが続いた。
途中の休憩が終わって、次が始まるときのこと、かの女性ディレクターが「申し上げます。いままでのところは、すこし悲しいお話でしたが、ここからは楽しいお話ですので、ニコニコニコっとなさって下さい」と言ったのだ。みんなあっけにとられ、さすがの美智子様も笑いをこらえておられた。
収録が無事に済むと、皇后様のビデオが流されるニューデリーの会場にどのような機材が準備されているかわからないので、技術担当者が会場と連絡を取って丹念に調べてくれ、ホールには大きなスクリーンを用意してもらい、それでも心配して、念のためにと三種類のビデオテープを用意してくれた。そして、それは機内に私が持ち込み、責任をもって、ニューデリーの空港で通関を終え、そこで担当者に手渡しするという段取りだった。そして全てはそのように運んだ。
収録の間ずっと、私はいつか、日本中のすべての人にぜひこのご講演を聞いてもらいたいと心から願っていた。そしてそれは、思いのほか早く実現した。会場でビデオが滞りなく上映されたことを宮内庁とNHKに電話で報告すると、それを受けてすぐに、日本では、今度は隠密ではなく、民放にもビデオを提供した上で、NHKはその放送のために急遽番組予告を流し、数時間後には、五十二分というご講演をノーカットで放映し、日本中に見てもらうことができたのだった。
しかも、夜中近くの時間としては異例の五パーセントという高視聴率だったそうで、再放送希望の電話も五百本はあったとのことだった。反響が大きかったので、これを何回も放送し、一度などは英語のバージョンに日本語のテロップをつけて放送した。これは外国人だけでなく、聴覚障害の方たちのためでもあった。とにかく、皇后美智子様の想いがたくさんの人に届いただろうことが本当に嬉しかった。
それにしても、あの時の会場の様子は忘れがたい。入り口で、在インド日本大使館が用意してくれたご講演の原稿のコピーを受け取って、会場に入った人達は、静まり返って、食い入るように大きなスクリーンに映し出されるご講演に聞き入っていた。時々、ペーパーをめくる音がするだけで、ゆっくりと丁寧に語りかける皇后様のお言葉は、心の奥底にしみ入っていくようだった。ご心配の英語も素晴らしく美しかった。
お話が終わったとき、「涙が出るほど美しい」と感激している人たちがたくさんいた。日本人と見ると握手を求められた。そのペーパーを大事に持って、「これが何よりのインド土産だわ」という人もいた。無事に上映されたことを見届けて、同じホテル内の自分の部屋に急いで戻り、待ちかねている日本の関係者に電話で報告した時のことは、今思い出しても、ドキドキする。
会場には、あまり事情を知らずにたまたま取材に来ていた共同通信の若い記者がいて、皇后美智子様のご講演にびっくり仰天して、私が自分の部屋に戻るのを追いかけてきた。「これって大変なことじゃないですか」と叫んでいたのも忘れられない。
興奮冷めやらぬうちに美智子様とは直接お話が出来、大成功だったことを申し上げた。島さんと私が大騒ぎのあげくに、二人とも遠くインドに行ってしまって、心細く思っていらしたご様子だった。
川口さんのお通夜の席であのときのプロデューサーと、三本のビデオテープを機内に持ち込んだときのことや、収録の時のカメラマンや音声の担当者、それに若い女性のディレクターのことなど、いろいろなことを話した。なんだか川口さんが計らってくれたようだった。お通夜は無宗教でチェロとピアノだけで行われ、まるで音楽葬のようだった。いかにも川口さんを送るのにふさわしい温かく幸福な人生の報告会のようだった。
物事は、ときになんと不思議な展開を見せるのだろうか。もし、あの時、皇后様が予定通りインドをご訪問になっておられたら、新聞でもテレビでも「皇后様はインドでご講演をなさいました」というニュースで終わってしまったのではないだろうか。ところが、インドにおいでになれなかったために、ご講演が急遽ビデオに収録され、日本中の人が美智子様のお話を直接テレビで聞くことができた。その上、本にもなった。あのご講演によって、美智子様が、どのようなことを考えておられる方かが多くの人に伝わったと言えるのではないだろうか。
本の発売後、感想が書かれた読者カードがたくさん寄せられた。それまでは、もっぱら女性週刊誌などで、ファッションのことが取り上げられるばかりでもの足りない思いをしていた人が多かったと思うが、今回は、「何となく、ものごとをそのように考える方ではないかとひそかに思っていたけれど、やっぱりそうだった」という喜びの声が圧倒的に多く、出版した者としては、我が意を得たり、という思いがした。
お話の中で、美智子様は読書を通して、他の人の悲しみを知り、喜びを知り、愛と犠牲が分ちがたいということを知ったこと、そして、誰しも、何らかの悲しみを背負って生きているということを小さい時に知ったと、『でんでんむしのかなしみ』を引用して語っておられる。そして読書には、人間を作る「根っこ」と喜びに向かって伸びようとする「翼」があり、ご自身が、外に内に橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げながら育っていくときに大きな助けとなった、と日本の神話にも触れてお話しになられた。本当にすばらしいご講演だった。
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※『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』(2021年新潮文庫刊)より抜粋。
末盛千枝子
1941(昭和16)年、東京生れ。慶應義塾大学文学部卒。至光社、G.C.PRESSで編集者として勤務。1986年『あさ One morning』でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年、すえもりブックスを立ち上げ独立。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、美智子さまの講演録『橋をかける 子供時代の読書の思い出』などを手がける。2010(平成22)年から岩手県八幡平市に移住。2011年から10年間、被災地の子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。
Book Bang編集部 2022年10月20日 掲載
https://news.yahoo.co.jp/articles/905826b35986fb2daedf101777e65d688cafea6e