イシガ・オサム関連資料【更新日:2024.06.04】
【兵役拒否・平和主義】
【図書】
石賀修(1970)『Heiwa o motomete』私家版.
イシガ・オサム(1971)『神の平和:兵役拒否をこえて』新教出版社.
イシガオサム(1975)『預言者的敗戦主義』私家版.
イシガ・オサム(1977)『35nen-meno Apologia』詳細不明. (典拠:『戦争拒否:11人の日本人』の参考文献、『反戦短編集』の広告欄、『無教会史』の年表)
イシガ・オサム(1978)『イシガ語有理』未見.(典拠:『岡山のエスペラント』、神村(2024)、「エスペラント博物館よこはま」所蔵)
イシガ・オサム(1983)『たのしい散書法:たよりにかえて』NES.
イシガ・オサム(1985)『小・生・書:最後に読む本』NES.
イシガオサム(1992)『神の平和:兵役拒否をこえて』(藤巻孝之による解説あり)日本図書センター.
【雑誌】
石賀修(1966)「憲兵と兵役拒否の間:神を信じて生きるよろこびについて」『文芸春秋』44(3)[1966.3], pp.252–262.
石賀修(1972)「兵役拒否をこえて」『潮』158[1972.9], pp.190–191.
イシガ・オサム(1984)「兵役拒否と敗戦主義」『わだつみのこえ』78[1984.7.15], pp.?.(1983年12月4日の「わだつみ会の集い」で行われた講演の記録。→再録:「兵役拒否と敗戦主義」(1995)わだつみ会[編]『Peace!Peace!Peace!:わたしたちに戦争責任はないのか』pp.97–106. 情況出版.)
『福竜丸だより』
http://d5f.org/report
74[1984.6.15]p.3に、新会員として「イシガオサム」の名前あり。
イシガオサム(1986)「点から線へ」(「ひとことメッセージ」内)98[1986.6.15]p.6
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【『特高月報』】(→復刻版:政経出版社, 1973)
内務省警保局保安課「文字と言語運動(ローマ字運動)関係者取締(内偵・検挙)の状況」昭和14年4月分.
内務省警保局保安課「文字と言語運動(ローマ字運動)関係者取締(内偵・検挙)の状況」昭和14年10月分.
内務省警保局保安課「基督教信者の点呼不参事件検挙」昭和18年10月分.
【参考資料】
阿部知二(1969)『良心的兵役拒否の思想』岩波書店.(イシガについては、第三章---五「日本における苦難の歩み」内のpp.159-163)
ゆりはじめ(1971)「非国民!と呼ばれた人たち」『潮』139, pp.164-170.(政池仁「平和を求めて(イシガ・オサム氏日記紹介)」『聖書の日本』から引用して紹介)
「にんげん(20)兵役拒否の実践者イシガ・オサムさん」(1972)『朝日ジャーナル』14(33)[701], pp.26–27.
平野邦雄, 飯田久雄(1974)『福岡県の歴史(県史シリーズ, 40)』山川出版社.(イシガについては、「7戦争と平和の時代」内のpp.301-302)
山村基毅(1987)『戦争拒否:11人の日本人』(「点呼に答えまい」pp.63-88)晶文堂.
寺島俊穂(1992)「兵役拒否の思想」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』40, pp.17–31.
笠原芳光(1992)「良心的兵役拒否を考える」『思想の科学』492[1992.8], pp.4-11.(→再録:佐々木陽子[編著](2004)『兵役拒否』pp. 19–32. 青弓社.)
村上百合子(1995)「イシガオサム氏の講演を跡づけて」福岡婦人団体交流会編『福岡大空襲50周年:語りつぎ 6・19平和のための福岡女性のつどい』pp.28-30. 福岡婦人団体交流会.(1983.6.18「平和のための福岡婦人のつどい」での講演「昔話、兵役拒否」の回顧録。)
きど・のりこ(1998)「人類人イシガ・オサムの抵抗:「わたしである」ことを貫いたキリスト者」『戦争責任. 第二期』1[1998.10], pp.5–31.
久保田昭三(2001)『だれもが無事であれ』(イシガから送られた平和賀状の文面あり。)鳥影社.
稲垣真美(2002)『良心的兵役拒否の潮流:日本と世界の非戦の系譜』(「イシガオサムの場合」pp.141-161.). 社会批評社.
刀根博愛(2011)「戦争反対の一人の勇者とひとが人を殺さないことを」『木綿間:岡垣歴史文化研究会年報』pp. 64-66.
羽原清雅(2018)「戦争というもの(8):徴兵制(兵役)拒否を再考する」『オルタ広場[メールマガジン]』5[2018.9.20]. http://www.alter-magazine.jp/
(→再録:『日本の戦争を報道はどう伝えたか:戦争が仕組まれ惨劇を残すまで』2020、書肆侃侃房)
【高良とみ】
高良とみ(1983)『非戦(アヒンサー)を生きる:高良とみ自伝』(「石賀事件」pp.106-108)ドメス出版. (→増補改訂版:1999)
高良とみ(1964)「「友和会解散通知」のいきさつ」『友和』142, pp.?-?.(→再録:『高良とみの生と著作. 7』pp.182-187. ドメス出版, 2002)
高良留美子(2002)「解説. 六:石賀事件を考える」『高良とみの生と著作. 7』pp.426-429. ドメス出版.
【水野広徳】イシガが水野に揮毫依頼したものを含め、少なくとも水野の書を3枚所蔵していた。
「百年の後にぞ知らん今の世は 欣ぶべきか慨くべきかを」(イシガ自宅)
水野広徳(1995)『水野広徳著作集. 第7巻: 評論IV/日記/書簡』(昭和14年の日記にイシガのことがいくつか)雄山閣出版.
「聖福寮を忘れない 引き揚げ孤児と保母<下>「家庭のように」愛情注ぎ」『西日本新聞』2009 年 8 月 16 日
「国雖大好戦必滅」(イシガが家永三郎に恵贈)
家永三郎(1998)「水野広徳の反戦平和思想」『家永三郎集. 第4巻: 近代思想史論』pp.307-326(p.325-326に追記(一九七〇年四月十九日補筆)に、恵贈された旨。初出の『思想』519号、再録の「反戦平和を説く海軍大佐 水野広徳」『日本平和論大系. 7』には追記なし)
家永三郎(1993)「反戦平和を説く海軍大佐 水野広徳」『日本平和論大系. 7: 水野広徳 松下芳男 美濃部達吉』pp.342-363. 日本図書センター.(p.342に恵贈された旨)
家永三郎(1975)「書評 遠藤三郎著『日中戦争と私』」『日中』5(5)[1975.5]pp.58-60(正しくは『日中十五年戦争と私』)
「戦傷の大和魂無知の勇 明知の勇は君にあり」(皓星社所蔵)
藤巻修一(2020)「むかしばなしII」http://www.libro-koseisha.co.jp/about/mukashibanashi2/
【著書『神の平和』について】
藤田若雄(1971)「イシガオサム著『神の平和』」東京通信, 107[1971.8].
https://id.ndl.go.jp/bib/000000028702
宮田光雄(1981)「再読味読『神の平和―兵役拒否をこえて』」『朝日ジャーナル』23(2), p.71.
新藤謙(2016)『体感する戦争文学』(「キリスト者の抵抗と転向:イシガオサム『神の平和』」pp.143-173)彩流社.
【海外で紹介】
Hunter, Allan A. (1951) Courage in both hands. New York, Fellowship of Reconciliation. (p.7 “This Japanese wasn’t killed”)
【エスペラント】
【雑誌】
『エスペラント:Esperanto lernanto』略称:EL
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 1: 幼年」5(1) [昭12.1], pp.28–31.
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 2: 少年」5(2) [昭12.2], pp.32–35.
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 3: 青年」5(3) [昭12.3], pp.24–27.
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 4: Lingwe Uniwersala」5(4) [昭12.4], pp.36–40.
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 5: Sionismo」5(5) [昭12.5], pp.32–35.
石賀修(1937)「若きザメンホフ. 6: Meĵdunarodnyj Jazyk」5(6) [昭12.6], pp.36-40.
『La Revuo Orienta』略称:RO
石賀修(1936)「Malgranda Enciklopedio Japana」17(12)[昭11.12], p.31.
『エスペラント:La Revuo Orienta』略称:RO
[I]siga-Osamu(1939)「集会税の提案」7(4)[昭14.4], p.43.
イシガオサム(1939)「わき道の値打と作法」7(10)[昭14.10], pp.24–26.
Isiga-Osamu(1939)「11月號を讀んで」7(12)[昭14.12], pp.37-38.
Isiga-Osamu(1940)「バトンを渡したい」8(1)[昭15.1], p46
イシガオサム[問], 三宅史平[答](1941)「意味の一般性と特殊性と」9(4) [昭16.4]pp.29-31.
イシガ・オサム(1942)「Orienta Esperanto」10(6)[昭17.7], p.18.
イシガオサム(1943)「日本文化宣揚のために」11(1) [昭18.1], p.18.
イシガオサム(1943)「Esp. によつてスエーデン語を学ぶ」11(5)[昭18.5], pp.4–5.
イシガ・オサム(1966)「昭和18年にまちがいありません」34(7)[昭41.7], pp.16–17.
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(1933)14(8) [昭8.8]「Koresponda Fako. Osamu Isiga」p. [通し232].
(1936)17(8)[昭11.8]「Koresponda Fako. S-ro O. Isiga」p.40. dez. kresp. kun Hitleranoj k. kontrauxhitleranoj en Germanujo.
(1939)7(1)[昭14.1]p.39に『Betulehemu no Osanago』の広告
(1939)7(3)[昭14.3]のp.31「和文エス訳研究室 (3)」の成績発表に「Fantomo Etiopia」
(1939)7(4)[昭14.4]のp.27「和文エス訳研究室 (4)」の成績発表に「Fantomo Etiopia」
伊藤己酉三(1939)「和文エス訳研究室 (5)」7(5)[昭14.5]p12-15.(p.15「成績発表」にIsiga-Osamuの名)
(1939)7(6)[昭14.6]のp.33「和文エス訳研究室 (6)」の成績発表に「Fantomo Etiopia」
(1940)8(1)[昭15.1]のp.43「学力検定合格者」のI高等に「イシガオサム(福岡)」
【イシガ論争(Orieta Esperantoへの反応)】
福地誠一(1942)「イシガオサム氏の「東洋のエスペラント」に反対」10(9)[昭17.9], p19-20.
淵田多穂理(1942)「Esp. 報國のために」10(10)[昭17.10], p.19.
石川宅十郎(1942)「国際語はひとつ」10(10) [昭17.10], p.19-20.
木戸又次(1942)「Orienta Esp. の持つ意義」10(11)[昭17.11], pp.18-19.
[無記名](1943)「出版文化とEsp.」11(3)[昭18.3], p.20.(同ページ「消息」欄にもエルサレム翻訳のこと)
三宅史平(1966)「石賀修さんについて」34(4)[昭41.4], pp.16–17.
Hatiya tizuo, Yosida Masanori[protokolas](1975)「Oficiala Protokolo de la 61-a Kongreso de Japanaj Esperantistoj」43(3)[昭和50.3], p.9-17.(イシガの講演内容は「Prelegoj」p.12).
朝比賀昇(1987)「右翼の北一輝と徴兵拒否者石賀修」55(10)[昭62.10], pp.20–22.
朝比賀昇(1994)「イシガオサムさんを悼む」62(11)[平6.12], p.19.
『文字と言語』
石賀修(1938)「エスペラント運動におけるザメンホフ主義」13[1938.5], pp.32–37.
『Latinigo』
Isiga-Osamu[訳];Tanakadake Aikitu[田中館愛橘](1937)「La evoluo de latiniga skribado en Japanujo kaj la decido de oficiala ortografio」1[昭和12], pp.2-6.(日本語訳が『社会言語学』2018, 18, pp.120-122. に掲載あり)
エス訳の元は、「日本に於けるローマ字書きの發達及び正字法の制定」『学士会月報』1937.3.20(588)pp.11-14.(英語原文:Development of Romazi Writing in Japan and its Standardization. In Mélanges de linguistique et de philologie offerts à Jacq. van Ginneken : à l'occasion du soixantième anniversaire de sa naissance, 21 avril 1937.1 . (pp.357-361))
いずれも『葛の根:田中館愛橘論文抜集』(日本のローマ字社, 1938)に収録
『エスペラントの世界』
イシガ・オサム(1978)「言語生活の合理化」4(1)[1978.5], p.2.
『La Movado』略称:LM
イシガ・オサム(1985)「新刊旧刊 Ni vivos !」407[1985.1]. p.10.
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「日本大会講演に石賀修氏と瓢鰻亭主人・前田俊彦氏」(1974)284[1974.10], p.9.
「第61回日本エスペラント大会報告」(1974)286[1974.12], pp.8–9.
『La Vinberbranĉo』日本基督教エスペランチスト連盟の機関誌。初号は『La Vinberuja Branĉo』か(?)。
Iŝiga, O.(1935)「基督教の言語 ―カンダス「原始基督教の環境」より―」1[1935.4], p.?.
Isiga-Osamu(東京)(1935)「基督者エスペランチストの仕事について」3 [1935.9], pp.4-5+p.3.
Eljapaniĝis Osamu Isiga(1936)「De Nordo al sudo –Leteroj de iu flegistino」1(1)[1936.1], pp.2-4+17.(原文:「北より南へ:ある看護婦Nさんの手紙」『日本MTL』57[昭10.11], pp.4-5(→復刻:補巻17))
Isiga-Osamu(東京)(1936)「Kristana Esperanto-Korespondado」1(2)[1936.4], pp.6-7.
KELI-ano[目次はO. Isiga](1936)「K.E.L.I.について」1(3)[1936.7], pp.7-8.
Osamu Isiga(1936)「De Nordo al sudo 2」1(3)[1936.7], pp.9-11.
[無記名、イシガの文かは不確か](1937)「K.E.L.I.に参加せよ!」2(2)[1937.10], ページ付無.
O. Isiga(1938)「KELIだより」3(2)[1938.7],p.3
Yasui-Kaoru, trad. Isiga-Osamu(1938)「”Savinto” de Pekingo」3(2)[1938.7], pp.4-6.(原文:北京の「救世主」→初出:『帝国大学新聞』1938[S13]1月か?→「若い日本の一つの動向」(『日本評論』第30巻20号1938.9)内で全文引用→『道 : 安井郁生の軌跡』(「道」刊行委員会編, 法政大学出版局, 1983.8)に収録)
Osamu Isiga(1939)「Vortokurucigo」4(1)[1939.1], pp.6-7.
Isiga-Osamu(1940)「エスペランチストとローマ字」5(3)[1940.12], pp.10-11.
イシガ オサム(1941)「国定ローマ字」6(2)[1941.6], pp.9-10.
Kido-Mataĵi, Rim. de Isiga(1941)「Pri la vortosencoj de Eseperanto」6(3)[1941.7]. pp.12-15.(文中・文末に、イシガのコメントあり)
H. Richter, Trad. Isiga-Osamu(1941)「La tago hodiaŭa」6(3)[1941.7]. p.16.
Isiga-Osamu(1941)「K.E.L.I Informilo」6(3)[1941.7]. p.18.
O. Isiga[trad.](1943)「En Jerusalemo el “Vojaĝo de pilgrimo” de Tokutomi Kenzirô」7(2)[1943.8], pp.1-2.(原文:徳富健次郎『順礼紀行』「エルサレム及び附近の十二日」>「名残の夜」内
「何ぞ死にたる・・・」(初出:『順礼紀行』警醒社 1906年、再録:『蘆花全集. 第七卷』蘆花全集刊行会, 1929、最新:『順礼紀行』(中公文庫)中央公論社 1989.10. pp.81-82.)
Kanzô Uĉimura, Trad.-Osamu Isiga(1939)「Kiel mi fariĝis kristano. antaŭparolo, Enkonduko」4(1)[1939.1], pp.2-4.
Kanzô Uĉimura, Trad. O. Isiga(1939)「Kiel mi fariĝis kristano. Ĉapitro1 Idolanismo」4(2)[1939.7], pp.4-8.
Orig.-Kanzo Uĉimura, Trad.-Osamu Isiga(1939)「Kiel mi fariĝis kristano. Ĉapitro1 Idolanismo (daŭrigita)」4(3)[1939.10], pp.2-5.
Orig. Kanzo Uĉimura, Trad. Osamu Isiga(1940)「Kiel mi fariĝis kristano? Dua Ĉapitro」5(1)[1940.1], pp.11-13.
Orig. Kanzo Uĉimura, Trad. Osamu Isiga(1940)「Kiel mi fariĝis kristana. Interpromeso de Kredantoj je Jesuo」5(2)[1940.7], pp.6-7.
Kanzo Uĉimura, [目次にIsiga](1940)「Kiel mi fariĝis kristano (Daŭrigo) Ĉapitro2」5(3)[1940.12], pp.[12-15].
[無記名](1937)2(2)[1937.10], ページ付無.「個人消息」にイシガの移転
O. Isiga(1938)「Eatimataj kunfratoj…」3(1)[1938.1], Hejmpaĝo内p.9-10.
S-ro Osamu Isiga(福岡)(1939)4(1)[1939.1], Hejmpaĝo内p.10.「……, la ĝustatempa apero de …」
[M. Ozaki](1939)4(2)[1939.7], Hejmpaĝo内p.15. 宇都宮正にかわり石賀修を外国への代表通信者として選定.
O. Isiga(1939)4(3)[1939.10], Hejmpaĝo内p.11. Nemotoへのお礼
イシガ オサム(1940)5(1)[1940.1], Hejmpaĝo内p.14.「ヤハリ原稿ガ集ラナイ様デスネ。・・・」
石賀 修(1940)5(1)[1940.1], Cirklero内pp.21-22.「回文は良い思ひつきです。・・・」
Isiga(1940)5(1)[1940.1], La dua cirklero内p.附2.「grupoがさヽやか乍らも・・・」
石賀修(―福岡市)(1940)5(2)[1940.7], Cirklero内p.17.「回状拝見して一筆・・・」
O. Isiga(1941)6(1)[1941.3], Hejmpaĝo内p.8.「Estas bdaŭre, ke mankis artikolokj.・・・」
(S-ro O. Isigaノ報告ニヨル)(1941)6(1)[1941.3], Hejmpaĝo内p.9. KELIの代表を宇都宮・石賀から上田に変更。
イシガ オサム(1941)6(2)[1941.6], Hejmpaĝo内p.16.「KELIのこと・・・」
イシガ オサム(1941)6(3)[1941.7], Hejmpaĝo内p.11+10.「De via interrompita klopodo・・・」
Isiga(1943)7(1)[1943.3], Hejmpaĝo内p.8「V.B.ノ復活-イヤ継続を・・・」
イシガ オサム(1943)7(2)[1943.8], Hejmpaĝo内p.7「V.B.之なら殆ど従前通りで・・・」
Alois Ramschak(1948)「Esperanto kaj stenografio」『Aŭstria Esperanto-Revuo』3(3-6), pp.52-53.
(1936年の” Österreichische Blätter für Faulmann'sche Stenographie”誌に、イシガの手紙が載った。)
https://archive.org/details/AuxstriaEsperantoRevuo_1948_n04-06_apr-jun/page/52/mode/2up?q=%22isiga%22
(1933)『Svenska Esperanto-tidningen : La espero』(9), p.159「El la "Revuo Orienta" ni prenas kelke da adresoj por korespondado : 1) Osamu Isiga, (23-jara studento, filatelisto) Takami-tyo 5 , Jawata-si, Japanujo.」https://dlibra.kul.pl/Content/43598/48667_V-19793_La-Espero---officiel.pdf
【参考資料】
内務省警保局[編](1937)『エスペラント運動の概況. 上・下』 (→復刻版:『外事警察資料. 第17・18輯』不二出版, 1994)
竹内次郎(1939)『プロレタリア・エスペラント運動に付て』司法省刑事局 (→復刻:社会問題資料研究会編「社会問題資料叢書〈第1輯〉」第77回配本, 東洋文化社, 1978. )
大島義夫,宮本正男(1974)『反体制エスペラント運動史』(「兵役拒否→転向:イシガ・オサムのこと」pp.245-254)三省堂.(→新版:1987, pp.271-280)
岡一太(1983)『岡山のエスペラント』(「イシガの平和」pp.128-133)日本文教出版.
初芝武美(1998)『日本エスペラント運動史』(「イシガ論争」pp.126-127)日本エスペラント学会.
柴田巌, 後藤斉[編](2013)『日本エスペラント運動人名事典』(「石賀修」p.32)ひつじ書房.
朝比賀昇,萩原洋子(2017)『日本エスペラント運動の裏街道を漫歩する:「人物」がつづる運動の歴史』(「エスペラントを通じて「非戦の思想」を:『ベツレヘムのおさなご』を訳した石賀修」pp. 108–114)エスペラント国際情報センター. (←初出:『エスペラントの世界』1976.9)
後藤斉(2015)『人物でたどるエスペラント文化史』(「兵役拒否をこえて:イシガ・オサム」pp.)日本エスペラント協会. (←初出:『La Movado』第718号[2010.12]-720号[2011.2]. 加筆版)
神村和美(2024)「戦時下におけるエスペランティストの平和実践 ―イシガ・オサムの場合―」『城西大学語学教育センター研究年報』16, pp.29-52.
Kimura, Goro Christoph. (2014). 【Speciala Prelego】Kiel Esperanton en Orienta Azio instrui? In La 4-a ILEI-Seminario en Orienta Azio (pp. 9–12).
Kimura, Goro Christoph. (2011). Utimura Kanzo antaŭ 150 jaroj naskiĝis. Monato, 2011.6, 23.
Kimura, Goro Christoph. (2017). Kiel Esperanton en Orienta Azio instrui? Internacia Pedagogia Revuo, 2017.1, pp.4-11. Retrieved from http://www.esperanto.re.it/post.php?id_post=35 (リンク切れ)
Kimura, Goro Christoph. (2008). Ĉu eblas deeŭropigi Esperanton? In Japana Esearo (Vol. 4, pp. 83–39). Libroteko Tokio.
Kimura, Goro Christoph. (2010)「おもしろがって大喜びで学べるエスペラントのために:4つの心得のすすめ」. LUCERNO : Bulteno de La Japana Sekcio de ILEI, 1, pp.2–3.
Kimura, Goro Christoph. (2018). Isiga Osamu – kristana esperantisto kiu proponis “Orientan Esperanton“, tradukis Lagerlöf kaj rifuzis militservi. In Gotoo Hitosi, José Antonio Vergara, Kimura Goro Christoph (Ed.), En la mondon venis nova lingvo: Festlibro por la 75-jariĝo de Ulrich Lins. Mondial.
KIMURA Goro Christoph (2020) Ano de Kristanujo kaj Esperantujo militrifuzas. Militrakonto.
https://mondmilito.hypotheses.org/3695
Malfacila laboro en japanujo.(1937). La Militrezistanto, 42[1937.8], p.17.
【斎藤秀一との関連】
斎藤秀一(1936)「エスペラントとローマ字化との関係」『国際語研究』16, pp.106-123.
森馥(=斎藤秀一?)(1937)「國字論者とエスペランチストの連携」『文字と言語』12, p.?(「森馥」は斎藤秀一の筆名でない可能性が高い。安田(2018))
小林司(1978)「言語差別と闘った先駆的エスペランチスト斉藤秀一」『朝日ジャーナル』20(50) [1978.12.15], pp.86–91.
佐藤治助(1997)『吹雪く野づらに:エスペランティスト斎藤秀一の生涯』鶴岡書店.
工藤美知尋(2017)『特高に奪われた青春:エスペランティスト斎藤秀一の悲劇』(イシガに関する記述は「一九三六年から三八年にかけての膨大な研究著作」pp.185-190.)芙蓉書房出版.
安田敏朗(2018)『ことばのとらえ方をめぐって』(第6章「「ひとつのことば」への道からみえるもの—斎藤秀一編『文字と言語』をめぐって」pp.201-305. 三元社.
田中館愛橘;イシガ オサム[要約エス訳], 青山徹[日本語訳](2018)「翻訳 日本におけるローマ字表記の変遷と公的な正書法の決定について」『社会言語学』18, pp.120-122.
萩原洋子(2018)「斎藤秀一編『Latinigo』(1937-1938)翻訳にあたって」 (翻訳 斎藤秀一編『ラティニーゴ』)『社会言語学』18, pp.113-119.
【ローマ字・かな文字】
【雑誌】
『Rômazi No Nippon』
Isiga-O.(1938)「Sina-事変とRōmazi-運動」14? [昭13.5.1], p.?.(典拠:『国語運動』2(7)[昭13.7], p.63切抜帳)
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU」256[1974.7], p.1.
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU (2) Protest」257[1974.8.], p1.
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU (3) Kamakiri to Sensya」258[1947.9], pp.2–3.
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU (4) Zasetu」259[1974.1], p.1.
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU (5) Tatakawanai Heisi」260[1974.1], pp.2–3.
Isiga-Osamu(1974)「MINNA DE IKIRU (6) Heiwazin」261[1974.1], pp.2–3.
『Rōmazi Sekai』
S.ラーゲルレーヴ, イシガオサム訳(1939)「墓の文字」29(10)[昭14.10],pp.6-13+19.(原著名:Gravskriften)
イシガオサム(1939)「願ふこと一つ叶へば又一つ」29(12)[昭14.12],pp.2-4.
Isiga-Osamu(1940)「Watasi no Hatuyume」30(1)[昭15.1], p.?.(典拠:『国語運動』4(3)[昭15.3], p.55国語・国字問題の調査・研究資料「ローマ字が勝つまでの記録。2660年に小学校で教授、2690年分ち書き、2720年仮名遣、2800年縦書が衰える、2900年ローマ字國字となる、3000年日本とシナ支那の國字となる」)
Isiga-Osamu(1940)「Kanamozi ni taisite」30(9)[昭15.9], p.?.(典拠:『国語運動』4(11)[昭15.11], p.55国語・国字問題の調査・研究資料「ローマ字が洋服ならカナは和服を改良したものというよりも洋服に似たアッパッパである、アッパッパの経て来た経路を考え、カナモジ運動に注意を拂い、これを助けてよい」)
Isiga-Osamu(1940)「はや読みのために」30(12)[昭15.12], pp.3-7.
Isiga-Osamu(1941)「Kanamozi no Neuti」31(1)[昭16.1], pp.16–20.
Isiga-Osamu(1941)「Kanamozi wa Teki ka?」:31(4)[昭16.4], pp.17-20.
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Yasuhara-Hirosumi.(1950)「Omoide」『Rōmazi Sekai』40(7), pp.9–13.
『学士会月報』
Fantomo Etiopia(1937)「「持てる國」と「持たざる國」」587[昭12.2.20]
【キリスト教】
【雑誌】
『独立』
イシガ・オサム(1949)「癩園の窓」7, pp.28–30.
イシガ・オサム(1949)「神の平和」8, pp.9–11.
イシガ・オサム(1950)「平和の論 平和の生」18, pp.34–35.
『生命の光』
イシガ・オサム(1949)「逆立ち雑記」2-2-5, pp.27-28.
イシガ・オサム(1949)「海外の無教会精神」2-4-7, p.18+17.
イシガ・オサム(1949)「矢内原先生の嘉信」9, pp.30–34.
『日本メソヂスト時報』
石賀修(1939)「改称無用論」2461号[昭和14年9月8日], 6面.
『興文』
イシガ・オサム(1971)「読者と共に真理の道を探り求める姿勢===高橋三郎著『絶望と希望ー若人に語る 』」158, p.20.
【図書】
イシガ・オサム(1953)「非戦論の読みかた」『内村鑑三著作集. 月報2(2巻付録)』pp. 6–8. 岩波書店.
イシガ・オサム(1964)「教会のない(無教会の)自由と独立」『矢内原忠雄全集. 月報17(第17巻付録)』pp. 11–12. 岩波書店.(→再録:南原繁 [ほか] 編『矢内原忠雄:信仰・学問・生涯』岩波書店, 1968.8. pp.589-592)
イシガオサム(1968)「ある母親の証言」山口はな子『コスモスの花びら』前文. 私家版.
イシガ・オサム(1973)「神を信じて生きるよろこびについて」オカノ・ユキオ[編]『資料戦時下無教会主義者の証言』pp. 508–529. キリスト教夜間講座出版部.
イシガ・オサム(1978)「あとなる者はさきに:松尾道晏さんをおくる(告別の辞)」松尾道晏[著]『深い淵から』pp.225-226. 聖燈社.
イシガ・オサム(1982)「「キリスト教」出門」秀村範一[編]『矢内原忠雄先生昇天廿周年記念福岡講演』pp.?. 天神聖書集会福岡聖書研究会.
イシガオサム(1984)「弔辞」松尾達子遺稿集編集委員[編]『神は愛なり : 追想・松尾達子』pp.43-45.
イシガ・オサム(1988)『神を信じて生きるよろこび』NES. 詳細不明(典拠:井藤道子「イシガ・オサム先生」。『だれもが無事であれ』によると、文芸春秋の手記を本にしたもののようだが、分量を考えると『資料戦時下無教会主義者の証言』からか。)
【参考資料】
政池仁(1967)「日本友和会とは何か」『聖書の日本』371, pp.7–27.
政池仁(1967)「応召と拒否との間」『聖書の日本』373, pp.16–18.
政池仁(1971)「平和を求めて(イシガ・オサム氏日記紹介)」『聖書の日本』416, pp.10–14.
藤尾正人(1972)「戦時下キリスト教迫害関係資料について」『参考書誌研究』5[1972.7], pp.1-18.
[石賀修][回答](1948)「石賀修<無協会>」『昭和日本における基督教迫害に関する資料1937年~45年』(→『特高資料による戦時下のキリスト教運動. 2: :昭和16年→17年』に収録。p.314)昭和23.11.21回答提出(藤尾(1972)で引用されている。)
矢内原忠雄(1965)『矢内原忠雄全集. 第29巻: 書簡・補遺・年譜』(イシガ宛、妹の信子宛の書簡あり) 岩波書店.
無教会史研究会[編著](1993)『無教会史. 2: 継承の時代』(「イシガオサム」pp.292-295. ほかにも2~4巻にイシガに関する記述いくつか。4巻末に人名索引あり。)新教出版社.
土肥昭夫(2004)『日本プロテスタント・キリスト教史』(「矢内原忠雄の思想と行動」pp.391-400) 第5版. 新教出版社.
吉本浩三(2006)「イシガオサムの兵役拒否と賀川豊彦:資料紹介を兼ねて」『阿波牧舎』3, pp.17–19.
石浜みかる(2007)『変わっていくこの国で:戦争期を生きたキリスト者たち』(「わたしは兵役に服するよりは懲役に服したい:イシガ・オサム」pp.157-170.) 日本キリスト教団出版局.
東京帝国大学学生キリスト教青年会(1935)「会員動静. 石賀修氏」『東京帝国大学学生キリスト教青年会会報』17.
日本友和会[編](1967)『良心的兵役拒否:その原理と実践』(「11-3日中戦争および第二次世界大戦」pp.202-217)新教出版社.
日本友和会(2015)「日本友和会戦争責任告白」「友和会戦争責任告白文書の公表にあたって」「日本友和会戦争責任告白(2015年)背景資料に関する略年表」. Retrieved from http://jfor.a.la9.jp/Senso Sekinin2.html
笠原芳光(1981)「兵役を拒否したキリスト者:明石真人の場合」思想の科学研究会[編]『埋もれた精神』 pp. 155–177. 思想の科学社. (←初出『思想の科学』1970.10)
高田哲夫(1965)「『良心的兵役拒否』について(資料・キリスト教関係)」『わだつみのこえ』29[1965.8], pp.36–41.
日本基督教聯盟年鑑部[編](1936)『基督教年鑑. 1937[昭和12年]』(「日本基督教エスペランチスト聯盟」pp.119-120. 国際基督教エスペランチスト聯盟との連絡委員として、石賀修の名前が挙げられている)
MOROI, Yuichi(2018)「Christian Pacifism and Conscientious Objection in Japan, Part II -Ishiga Osamu-」『明治大学国際日本学研究』10(1), pp.71-83.
【石賀信子】(イシガの妹)
上坪隆(1979)『水子の譜』(「石賀信子と保母たち 「聖福寮」の孤児たち/引揚港・佐世保」pp.)現代史出版会.
陳野守正(1992)『大陸の花嫁:「満州」に送られた女たち』梨の木舎. (p.191に信子のこと、イシガにも言及)
下川正晴(2017)『忘却の引揚げ史 : 泉靖一と二日市保養所』(「石賀信子と保母たち」pp.211-236)弦書房.
いしがのぶこ文 ; むらせかずえ絵(1989)『聖福寮の子どもたち』石風社.
【賀川豊彦】
布川弘(1997)「1930年代における賀川豊彦の平和運動」『日本史研究』424[1997.1], pp.55–76.
遠藤興一(2017)「転向と懺悔:賀川豊彦における戦前と戦後の接点」『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』147, pp.63–142. Retrieved from http://hdl.handle.net/10723/3038
河島幸夫(2011)「賀川豊彦と太平洋戦争」賀川豊彦記念松沢資料館[編]『日本キリスト教史における賀川豊彦:その思想と実践』pp. 191–220. 新教出版社. (←初出:「賀川豊彦と八・一五」『福音と世界』45(9) →再掲:『賀川豊彦と太平洋戦争』中川書店, 1991.)
【ハンセン病】
【図書】
イシガ・オサム[編](1951)『神の非常手段:<いのち>抄』三一書房.
イシガ・オサム[編](1951)『ライト先生追慕:<いのち>抄』三一書房.
イシガ・オサム[編];井藤道子(1953)『道子のいのり』(はしがきp.5, あとがき[1952.8.21付], pp.243-247)三一書店.
【雑誌】
『光の子供』
イシガ・オサム(1948)「ここにみんなの忘れている世界がある:父母のライになやむ子供たち(鹿児島県カノヤ市星塚敬愛園)」2(6), pp.30–32.
『姶良野』星塚敬愛学園患者自治会機関誌
イシガ・オサム(1949)「聴く耳ある者は聴くべし」1(11) [昭和24年4月1日], pp.3–4.
イシガ・オサム[訳];ジヨンシレエンステイエルナ(1949)「(第四回國際らい会議―一九三八年―提出論文)スエーデンのらい」2(1) [昭和24年6月1日], pp.8–10.
イシガ・オサム(1949)「ハワイの療園」2(3) [昭和24年10月1日], pp.8–?
イシガ・オサム(1949)「星塚の療園」2(4) [昭和24年12月1日], pp.16–?
イシガ・オサム(1950)「年頭所感のぬた」3(1) [昭和25年2月1日], pp.1–?
イシガ・オサム(1950)「論文選後評」3(3) [昭和25年8月7日], pp.53–?
イシガ・オサム(1950)「隨筆選評」3(3) [昭和25年8月7日], pp.57–?
イシガ・オサム(1950)「らい園の美しい看護婦」3(4) [昭和25年8月30日], pp.32–?
イシガ・オサム, 山田善作(1950)「兒童文藝<作文>『一等』すいっちょ」3(5) [昭和25年11月30日], pp.54–?
イシガ・オサム(1951)「死のつぐのうもの」4(4) [昭和26年8月30日], pp.11–?
イシガ・オサム(1954)「コトバをだいじに」7(4) [昭和29年4月], pp.4–6.
イシガ・オサム(1954)「ことし見たこと聞いたこと」7(12) [昭和29年12月], pp.2–4.
イシガ・オサム(1955)「読後感」8(5) [昭和30年5月], pp.4–?
イシガ・オサム(1955)「巻頭言 自治療養区の構想」8(6) [昭和30年6月], p.1.
イシガ・オサム(1955)「自治療養区の空想」8(8) [昭和30年8月], pp.7–10.
イシガ・オサム(1956)「アンケート(1956年に望む)」9(1) [昭和31年1月1日], pp.11–?
イシガ・オサム(1956)「不信をのぞくために―「自治会の言い分」を読んで―」9(2) [昭和31年2月1日], pp.23–?
イシガ・オサム(1956)「<寄稿>社会への通用切符を」9(11) [昭和31年11月1日], pp.2–?
イシガ・オサム(1958)「アンケート(一)」11(1) [昭和33年1月1日,通巻125号], 12–?
イシガ・オサム(1958)「社会へひらくひとつの窓に―「生きてあれば」を読んで―」12(3) [昭和33年6月1日,通巻126号], pp.9–?
イシガ・オサム(1959)「すて石のあゆみ」13(3) [昭和34年6月1日,通巻132号], pp.2–5.
イシガ・オサム(1961)「こどもの心を動かすもの」15(6) [昭和36年12月1日], pp.29–30.
イシガ・オサム(1962)「みんなの元気さ」16(1) [昭和37年2月1日], pp.24–25.
イシガ・オサム(1963)「<新春随筆集>いろはくずし」17(1) [昭和38年2月1日], pp.10–11.
イシガ・オサム(1964)「「友達」を推す」18(6) [昭和39年12月1日,通巻165号], pp.51–52.
イシガ・オサム(1965)「希望の明るさ」19(6) [昭和40年12月1日,通巻166号], pp.73–74.
イシガ・オサム(1978)「老兵のきえかた」31(3) [昭和53年7月1日,通巻189号], pp.19–21.
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神山南星(1956)「癩園に於ける二つの性問題論文の対照 ―イシガ・オサム氏惜別の言葉に代えて―」9(7) [昭31.7.1], pp.11–?.(→再録:『ハンセン病文学全集. 5: 評論』)
井藤道子(1956)「イシガ先生をお送りして」9(7) [昭31.7.1], pp.?–?.
南幸男(1956)「柔和なイシガ先生」9(7) [昭31.7.1], pp.?–?.
神山南星(1956)「イシガ・オサム惜別」9(7) [昭31.7.1], pp.?–?.(「癩園に~」と同一?)
『解放教育』
イシガ・オサム(1983)「ハンセン病療養所を反戦療養所に」174[1983.12], pp.193–197.
『愛生』
イシガ・オサム(1953)「ある療園通信」7(4)[通巻第174号][昭和28年4月], pp.26–?
『つうしん』
http://www.hansen-dis.jp/opac/book/detail.php?recid=17543
イシガ・オサム(1955)「入園者との結婚について」1955.11[昭和30年11月]
『火山地帯』
イシガ・オサム(1978)「《書評》「〈『ひとつの世界』〉鎮魂のヨナ」34[昭和53年4月], pp.33–?
『楓の蔭』(→復刻:近現代日本ハンセン病問題資料集成. 補巻18-19)
イシガオサム(1949)「MOLのまぼろし」218[昭24.12.1], p.2.
イシガオサム(1950)「活ける水は腐らず」223[昭25.5.1], pp.1-2+5.
イシガオサム(1951)「義人の碑を飾るなかれ」237[昭26.8.1], p.2.
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【参考資料】
星塚敬愛園入園者自治会(1985)『名もなき星たちよ:星塚敬愛園五十年史』星塚敬愛園入園者自治会.(イシガに関する記述は、p.190, 271, 296)
星塚敬愛園キリスト教恵生教会(1986)『恵みに生かされて:国立療養所星塚敬愛園恵生教会創立50周年記念誌』 星塚敬愛園キリスト教恵生教会.
塩沼英之助(1994)『らいとキリストとの出会い』キリスト教図書出版社. (「汝等互いに相愛せよ」pp.78-88)
井藤道子(2001)『星塚随想集』野の花通信社.
井藤道子『野の花通信: 自第1号1981年(昭和56年)至第30号1997年(平成9年)』(イシガに関する記述が散見)
島比呂志(1996)『片居からの解放:ハンセン病療養所からのメッセージ』(「平和・差別:最近出会った二冊の本と著者と」pp.67-79)増補版. 社会評論社.( ←初出:『火山地帯』52, 1982)
武谷安光(1958)「看病」星塚敬愛園慰安会[編]『南風:星塚敬愛園児童作品集』pp.64-70. 私家版.(→再録:『ハンセン病文学全集. 10: 児童作品』皓星社, 2003. 鶴見俊輔による「解説」中に、付記としてイシガへの言及あり)
【ラーゲルレーヴ】
【図書】
Isiga-Osamu yakusu ; Hurukido-Masaru egaku(1938)『Betulehemu no Osanago』私家版.(エス訳からの重訳: La Infanoj de Betlehem, el la sveda tradukis Oscar Frode. - Stockholm: Eldona Societo Esperanto, 1933. - 32 paĝoj.)
イシガ・オサム[訳](1942)『エルサレム. 第1部(岩波文庫)』(はしがき[1942.5.1付] pp.3-11)岩波書店.
イシガ・オサム[訳](1952)『エルサレム. 第2部(岩波文庫)』(あとがき[1952.6.14付] pp.475-478)岩波書店.(巻末に附録として短編「神の平和」収録)
イシガ・オサム[訳](1955)『キリスト伝説集(岩波文庫)』(あとがき[1954.7.31付] pp.222-227)岩波書店.(収録作品:「聖なる夜」「皇帝のまぼろし」「博士の泉」「ベツレヘムの子ら」「エジプトくだり」「ナザレの里」「神の宮」「聖ヴェロニカのハンカチ」「むねあかどり」「わが主とペトロ聖者」「ともしび」)
イシガ・オサム[訳](1983)『キリスト伝説集(岩波クラシックス, 53)』(あとがき[付] pp.)岩波書店.
イシガ・オサム[訳](1984)『キリスト伝説集(岩波文庫)』(あとがき[1984.6.20付] pp.275-279)改版. 岩波書店.
イシガ・オサム[訳](1981)『ポルトガリヤの皇帝さん(岩波文庫)』(あとがき[1981.2.2付] pp.315-317. 田丸卓郎『ローマ字国字論』への言及あり)岩波書店.
イシガ・オサム[訳](1983)『ラーゲルレーヴ反戦短編集』(あとがき[1982.1.5付] pp.128-131)NES.(収録作品:「ローマ人の血」;戦時のこころ「ラケルのなげき」「廃寺院」「霧」「少年船員」「星」「かがり火」;(附録)「君主の会見」「バビロニアの王女」「たましい」)
イシガ・オサム[訳](1984)『木の聖書 ラーゲルレーヴ短編集』(あとがきpp.134-135)NES. (収録作品:「自伝」「木の聖書」「一九〇〇年一月一日」「墓碑銘」「フレドリーカの君」「神の平和」)
イシガ・オサム[編訳](1986)『ラーゲルレーヴの「エルサレム」ものがたり』NES.
【再録】
イシガオサム[訳](1957)「むねあかどり」石井桃子ほか[編]『世界童話宝玉集. 下』pp.215-223. 宝文館.
イシガオサム[訳](1994)「イングマルソン一族」鶴見俊輔[ほか編]『新・ちくま文学の森. 3: 人情ばなし』筑摩書房.
イシガオサム[訳](2010)「ともしび」『星(百年文庫, 51)』ポプラ社.
【雑誌】
イシガ・オサム[訳](1948)「こま鳥の胸はなぜ赤いか」『光の子供』2(8), p.14-19.
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【参考資料】
中丸禎子(2010)『「周縁者」たちの近代 : セルマ・ラーゲルレーヴ『イェスタ・ベルリングのサガ』、『エルサレム』、および日本とドイツにおけるラーゲルレーヴ受容に関する考察』東京大学. 博士論文.
中丸禎子(2010)「日本における北欧受容:セルマ・ラーゲルレーヴを中心に」『北ヨーロッパ研究』6, pp.51–60.
中丸禎子(2021)「無教会の北欧受容 : 香川鉄蔵、イシガオサムのラーゲルレーヴ受容を中心に」『北ヨーロッパ研究』 17, pp.65-78.
中丸禎子(n.d.)「北欧文学の訳者10選・6 イシガ・オサム」. Retrieved March 5, 2018,
【人物事典など】
朝日新聞社[編](1990)『「現代日本」朝日人物事典』(「イシガ オサム」p. 127)朝日新聞社.
近代日本社会運動史人物大事典編集委員会[編](1997)『近代日本社会運動史人物大事典. 1』(「イシガ オサム」p. 216)日外アソシエーツ.
上田正昭ほか[監修](2001)『日本人名大辞典』(「イシガ オサム」p. 136)講談社.
「平和人物大事典」刊行会[編](2006)『平和人物大事典』(「イシガ オサム」p.38-39)日本図書センター.
【新聞記事】
「インタビュー『神の平和―兵役拒否をこえて』を書いたイシガ・オサムさん」(1971, August 2)『朝日新聞』 朝刊12面.
「平和祈り自費出版 福岡の翻訳家イシガさんが3冊目」(1984, August 2)『朝日新聞. 大坂版』朝刊13面.
イシガ・オサム(1985, April 10)「エスペラントの独習もまた楽し」『朝日新聞. 西部版』朝刊5面「声」内.
「戦争は罪悪である:エスペラント語の抵抗」(1969, November 6)『読売新聞』朝刊9面.
井上良雄(1971, July 30)「兵役拒否者の記録:イシガ・オサム著『神の平和』」『読売新聞』朝刊17面.
宮田光雄(1971, August 15)「八月十五日に思う:良心的兵役拒否の自覚を」『読売新聞』朝刊17面.(→再録:「国民的兵役拒否の精神」『参加と抵抗:同時代史を共に生きて』pp.144-148. 日本YMCA同盟出版部, 1972.8)
「昭和点描 福岡県の60年 兵役拒否」(1985, July 12-13)『西日本新聞』.
【ウェブサイト(雑多なもの)】
鈴木範久;浅井靖子[ききて](2017)「宗教改革の精神・平和を紡ぐ」(平成29年3月19日に、NHKラジオ第二の 「宗教の時間」に放送されたもの). Retrieved March 26, 2018, from http://h-kishi.sakura.ne.jp/s-169.htm(・・・戦後もイシガ・オサムのガリ版刷りで書いた小冊子に『平和』というのがあります・・・)
「内村全集 藤井・矢内原全集に 書棚は満つれど わが霊はいかに」
http://kyouandou.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-7190.html
「今週の礼拝」
http://matsuyama-church.my.coocan.jp/liturgy.html
「戦時中の生徒図画集が出来ました。」筑陽学園ブログ
http://www.chikuyogakuen.ed.jp/blog/chikuyo/chikuyo_post16176/