ヨハネ福音書8章31-41
~そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」~
ここで31節から~イエスはその信じたユダヤ人たちに言われた~と書いてあるように、『信じたユダヤ人達』と論争しているんです。信じていない者ではなく、イエス様が長い間説教をしていて、そしてイエス様の言葉は何と権威のある言葉だ、と言って信じたユダヤ人、信じなかったユダヤ人ではなく、信じたユダヤ人と今、論争しているんです。でも、何を論争しているかというのは、誰が、アブラハムの末裔、子孫なのか。という論争です。これは、案外とユダヤ教とキリスト教の間の、ずーっとこの後も続く神学的論争なんです。感情的論争ではないんです。そして、今に至るまで、アブラハムの子孫とは一体誰なのか、という神学的な論争を今、繰り広げているんです。それが誰と論争しているかと言うと、イエス様のみ言を聞いて、信じた者達です。でも、イエス様はその後その信じた者達に、こう言うんです。「あなた方はわたしを殺そうとしている。」2度おっしゃるんです。2度も。
信じたクリスチャンですから、当然イエス様の話は正しい、本当に素晴らしい教えだ。と聞いていた人達のはずなんです。だけど途中からイエス様はスイッチを変えて、まるで敵に、自分を殺しに来る敵に話してるかの如くに、スイッチを変えていくんです。この短い文章、短い時間の間に、信じたユダヤ人達が振るいにかけられていくんです。そしてイエス様は全く違う話し方に変えてしまうんです。信じてた者に対して話すのではなく、信じてもいない、自分を殺そうとする相手に話す、という話し方にイエス様自身が変えてしまうんです。その論争の中心にあるのが、アブラハムの末裔とは一体誰か。という事なんです。それは、私達信じていると自称しているクリスチャンには、今日はすごく肝に銘じて聞かなければならないメッセージなんです。アブラハムの子孫とは一体誰か?です。
~もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。~
と、ここにアブラハムの子孫とは一体何かというのを第一に語っています。あなた方の中に私のみ言葉が留まるなら、あなた方はアブラハムの子孫、わたしの弟子です。と言っています。そして、ここの『信じた』というのは、正確に翻訳すれば、『ある特定の時信じた』です。『信じ続けた』っていう言葉ではないんです。ある特定の間信じた。という意味なんです。特定の間だけ信じた者、に向かって、わたしの言葉が留まるなら、とおっしゃってる、その『留まる』に於いても、ここは、『根を下ろす』という意味です。根を下ろすとは、心を開く。そして心を開くというのは、心を完全に空っぽにし、何の残す事もなく、それを受け入れ、委ねて依存するという意味です。だから、そういう留まる。一時的にこの信じた者の中に、自分の心を完全に開放し、その中に何にもない程に空っぽにし、それを受け入れ、委ね、根を下ろす者がわたしの弟子です。と言っているんです。そして、そのアブラハムの子孫は一体誰なのか?という論争が始まっていくんです。これは本当に私達が信じた、ある一時的に信じて、次はイエスを殺そうとする者になるのか。留まり続けるのか、という論争なんです。その事によってアブラハムの子孫は一体誰なのか。そして、そうでない者は一体誰なのか。という事なんです。これが本当にクリスチャン達が真剣に捉えなければ、必ずどこかで、こうなるんです。イエス様と親しく交わっていたかなと思っていたら、イエス様と敵対する間になって、イエス様がスイッチを変えてしまうんです。それを私達は、このヨハネの福音書の中で、本当に肝に銘じなきゃならないんです。
何故なら、ヨハネ福音書は1世紀末に書かれたんです。その1世紀末は、すでにキリスト教が何十年も継続され、持続されている時代です。教会が異邦人の中にも建て上げられている時代。その中でヨハネがこの福音書で強調したかったのは、大勢の弟子がもう離れて行っている状態でこれを書いているんです。大勢の、イエス・キリストを見て話した、弟子になると告白した者達が、大勢離れている状態の中で、このヨハネ福音書が書かれていて、これが強調されているんです。
第1ヨハネ2章6節にこう書いてあります。
~神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。~
というのも、神のみ言葉があなた方に留まっていなければ、と言っているのです。そして、4節でも
~神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。~
と、このヨハネ第1の手紙もその事を強調しているんです。そして、大勢の者が私達から離れて行きました。それは元々私達の者ではなかったからです。と続きます。元々私達の仲間ではなかった。だから彼らは元々、始めから、留まってもいなかったし、み言葉とは何の関係もなく、ただある時一定な時間信じた者であった。と、ヨハネは1世紀末にこの事をものすごく強調しているんです。何故なら現実に大勢の弟子が離れていっているからです。
九州の佐賀で開拓伝道した、あの厳しい偶像礼拝の町でした方が、24年の間に千人以上に洗礼を授けたんです。でも、その教会は、そんなに千人もいない、そんなに大きくない教会です。だから大勢の者から非難を受けるんです。誰にでも受洗させる、という。そして、ちゃんと選別して厳選の末に洗礼を授けるべきだ、と同じキリスト教から非難を受ける先生がおられて、でも、その先生の本にはこう書いてあるんです。「わたしは人形作りをしているのではない。わたしも厳選の末に洗礼を授けるべきだと思っていたけれども、途中から考えを変えた。それは、受洗したい、洗礼を受けたい、キリスト教になりたい、信じたいと言う者が、それを願うなら、私は授ける以外に方法がない。しかし、洗礼受けた後、いつまでも私は責任を負う事はできない。」と言っているんです。そして榊原先生も、教会から、40%が除名されているんです。洗礼を受けただけではなく、教会に属します。教会員として名前を記した者の中に、統計から40%の者が教会から出ているんです。或いは信仰から離れた人。でもその数字は決して小さくはない、とおっしゃっています。当然です。40%と言えば、半分近いんです。半分近い者は、教会に入って来たけど、教会を出ていく。もちろん、牧会の気配りが足りなかった、という点で無罪とは言えないけれども、でも、この結果を見ると、イエス様がユダヤ人に対して語る時にも、「何て酷い教えだ。」と言って、イエス様が直接語っているにも関わらず離れて行った者達が大勢いるならば、むしろ私達がこの40%除名して、教会から離れて行ったという数字は、むしろ私達がみ言葉に忠実だったという事も言える、とその先生は言うんです。だから、洗礼を授けた後も礼拝に参加せず、キリスト教から離れて行く人に責任は負えない。何故なら、そこからは自分の責任だからだ。と、どちらの牧師も語られているんです。
これが、今日行われている『アブラハムの子孫とは一体誰だ』と論争している相手は、ユダヤ人だったし、神からいつも、神はどういう存在かと教えられている者だったんです。その者と論争して、アブラハムの子孫は一体誰だと言う時に、信じた者が、留まれなかった者と、留まれた者との別れ道に、今論争の焦点があるんです。そしてイエス様がその後におっしゃるには、
~そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。~
「真理はあなた方を自由にします。わたしの言葉を聞けば、あなた方は死を見る事もないし、あなた方は自由になります」と言った時に、ユダヤ人達は大変怒るんです。何故なら、自分達は律法を守っている、という自負があります。そして血肉から言えば、アブラハムの血の子孫である。という誇りとプライドを持っています。そしてユダヤ人の中で律法を守ると言う事はどういう事かというと、『国からの圧政から自由になる』『罪から自由になって救われる』という概念を持って律法を守っている。だから、私達は誰の奴隷になった事もない。律法を守っている私達は自由である。自由をあなたから貰う必要はない。と、今答えているんです。彼らは、自分達が自由だと言っているけど、物理的に本当に自由かと言ったら、そうではなかったんです。「カイザルだけが我らの王である。」と告白しているように、彼らはローマ支配下の中にあって、隷属なんです。ローマの支配下にあって、ローマの奴隷だったんです。だから、自由など無かったんです。では、霊的な面からして自由だったかというと、彼らは、いつも偶像礼拝を繰り返しました。荒野で、神の前で初めて導かれた時もそうでしたし、その後も、神を知らされていながら、いつも偶像礼拝を作ってきた民族だったんです。そのせいで、アッシリヤに滅亡させられ、そして最後にはバビロンに滅亡させられ、そして今はローマの支配下に陥っているんです。何故?偶像礼拝を続けているからです。偶像礼拝する者は罪の奴隷なんです。だから自分達は奴隷でありながら、自分達は奴隷でない、自分達を自由とする事は、アブラハムの子孫であり、誰からの強制を受けているわけではない。私達は自由だ。何故?律法を守っているから。と、イエス様と今論争しているんです。
~奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。~
これは、アブラハムの子供には、奴隷のハガルの子供イシュマエルと、約束の子、正妻のサラの子供イサクが居たんです。そして、この奴隷の子イシュマエルは、ハガルと共に家から追い出されたんです。何故?奴隷だったから。父の家を継ぐ事ができなかったんです。この父の家を継ぐのは、相続をできるのは、本当の子供でなくては継げなかったんです。これを神様は言っているんです。神の家、神の国というものは、奴隷がいつまでも留まる事はできない。必ず追い出され、必ずここから出ていく。本当に神の家にずうっと留まり続けるのは、神の子供しか居られない。その神の子供は、神のみ言葉が留まっている者である。という意味なんです。だから、罪の奴隷であるならば、決してこの神の家に留まる事は出来ない。と言っているんです。だから、この罪の奴隷っていう概念をこの人達は全然知らないんです。自分達は自由だ。何一つ罪の奴隷にはなっていない。マルティン・ルターはこう言っています。「悔い改めなさいという神の召しがきた時に、悔い改めるという事は、口で誰かに告白するものとか、心の中で後悔するのとは違うという事です。実際に生活で、実際の表に見える所で変わっていなければ、単なる後悔であり、悔い改めではない。それは心の中で、本当に悪い事をした、本当にこれはもうしてはいけない、と言っているだけなら、決して悔い改めではない。その悔い改めは決して、神から受け入れられないんです。留まっていないんです。本当の悔い改めなら、その人の人生全てを悔い改めるべきであり、一部分、ある部分、失敗した部分、劣っている部分を悔い改めるんではなく、人生そのものを悔い改めるべきだ、と言っているんです。
それはどういう意味か?今まで見てきた罪の、その見方が変わるんです。今までは容認し、罪だとも思っていなかったし、この位大丈夫だと思ってきたものが、神のみ言葉が留まると、それは罪であり、憎んで、嫌気が差し、嫌悪をし、そして絶対止めるっていう、その過程が本当の悔い改めだって言っているんです。それが、留まっている者の、本当の印なんです。ここで言っている罪と言うのは、1度或いは2度犯した罪、という事ではないんです。ここでは、罪を犯し続ける者というのが、本当の翻訳なんです。だから罪を犯した者ではなく、罪を犯し続けた者です。それは、変わらなかった者、生ぬるい者、罪に対して見方が変わっていない者。或いは何1つ生活習慣が変わっていない者です。罪の生活を続け、罪の習慣を続けている者、です。そういう者に真理はないんです。罪の奴隷なんです。ハガルの子なんです。だから神の家に留まる事はできないんです。いつか必ず神の家から出るんです。そして神の家を継ぐ事は決してない。何故?神の子供ではないからです。それをヨハネの福音書はもちろん、ヨハネの手紙第1は、何度もこの事を強調しているんです。何故なら、それが現実に実際に起きていたからです。それは、パウロにしても同じなんです。この時代でもう既にたくさんの者がイエス様から離れているんです。
そしてヨハネの手紙第Ⅰ3章6
~だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。~
ヨハネの手紙第Ⅰ3章8-9
~罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。~
神のうちに留まっている者は罪を犯す事ができない。罪を犯しているのは、もう既に悪魔の子で、そして、決してキリストを知ってもいない。と言っているんです。これが留まるという事です。全ての心を、自分の考えや生活習慣、体験、そしてやりたい事、思ってる事、考えてる事を完全に失くし、イエス様のみ言葉だけが正しいのであって、受け入れるに値する、価値のある、喜んで幸せなことだ。それを受け入れた者が、神の家を相続するんです。これが留まるという意味です。そしてヨハネはこの事を強調しています。信じたとは言っても、それは右から左に聞いて、少々感動し、そして左に抜けていった人達です。決してその言葉がその人の内に留まっていないんです。それは必ずイエス・キリストの家から離れていくんです。そして或いは審判を受けるんです。決して神と交わる事はないんです。何故?罪の奴隷だからです。ここがすごい重要です。罪の奴隷なんです。いまだ罪の奴隷なんです。いまだサタンの子供なんです。決して神の子供じゃないんです。この地上は、神の子か、悪魔の子かの2種類しか居ないんです。だから、神の支配を受けるか、悪魔の支配を受けるか、この2種類しか居ないんです。それは、アベルとカインの時から真っ二つに人類が分かれたのと同じです。そして、留まっているか、留まっていないか、という今論争です。この罪の奴隷のままでは、決して神を見る事も、知る事も、留まる事も何にもできないんです。何故?その悪魔から出ているものを恋い慕って、欲しているからです。そういう風にいつも誘惑されるのではなく、その誘惑そのものが好きだからです。そしてその感情が大好きで、自分の思い通りに、自分の願っている通りに生きたいんです。それが悪魔の子で、罪の奴隷です。自分の自力では、決してここからは出られないんです。だから、カルヴァンやウェストミンスター教会の信仰告白の内に、イエス・キリストの救いと言うものは、罪からの解放、サタンや暗闇の力の支配からの解放、罪の断罪からの解放、この罪による神の怒りからの解放。これをもし、イエス・キリストの十字架の血によって受けて、神の霊を受けた者が、決して留まらず、堕落し、そして離れる事は、決してない、です。イエス・キリストを本当にアバ父と受け入れたのなら、決して堕落しない、です。
パウロも言っているんです。「私達は奴隷の霊を受けたのではない。神の霊を受けて、アバ父と呼んだのだ。」とローマ書に書いてあります。だから、そういう風に告白した者が留まらずに堕落する筈がない、と。これは教理的に決して覆されることない真理中の真理。現実の中で起きている事。イエス様が必ずその人を留まらせる、です。神の霊を受けたからです。だから、真理は必ずあなたを自由にする、です。これは絶対悪魔でも、この世でも覆せない力なんです。絶対的な権威と権力と権利を持っているんです。だから、留まらない者は、初めからイエス・キリストの者ではなかったんです。初めからイエス・キリストを受け入れてもいなかったんです。初めからイエス・キリストの真理がその中に入ってもいなかったんです。初めから、このイエス・キリストが十字架に架かって死んで罪を赦したっていう事を信じてはいなかったんです。こういう事は起こります。その多くの者が教会に通っているんです。そして多くの者が自称クリスチャンなんです。そして多くの者は自分は天国へ行くって言ってるんです。でも、その後分かるんです。キリストの家から出ていくんです。神の家の相続権を持つ事ができないんです。必ず奴隷は出て行きます。家からです。神の国から。出て行くんです。今論争しているのは、そういう意味なんです。
だから、イエス・キリストを本気で受け入れて、本当にその教えは素晴らしい、教え全てで生きていく、その教えに私の人生、そのままを委ね、私の考えも、習慣も、好き嫌いも、全部、私はもう絶対断絶する程捨てる、としていない限り、留まれないんです。そしてみ言葉がその中に入っていかないんです。そして、初めから主の者でなかった。そして初めからイエス・キリストを知ってはいないんです。救われていないって事です。救われていないのに、教会に通い、救われていないのにみ言葉を聞き、救われていないのに祈っているんです。そして救われてないのに、本当にたくさんの奇跡を行ってしまうんです。祈りに答えがくるんです。でも、留まってはいないんです。み言葉がその人の内に留まっていないからです。目に見える兄弟を愛せない者が、目に見えない神を愛せる筈がないんです。それが、今、アブラハムの子孫とは誰かっていうことです。ユダヤ人とキリスト教は、後にこの事が論争中の論争になっていくんです。何故ならこのユダヤ人達が改宗して、律法主義的なクリスチャン、アブラハムからきた、ユダヤ人的なユダヤ教的なクリスチャンが大勢教会の中に入ってくるんです。このユダヤ教対キリスト教の闘いだって、今、本当に頻繁にあるにも関わらず、です。このユダヤ教から改宗した人達、それでも、律法主義にまだ陥り、そして自分達はユダヤ教の思想から、抜けださない自称クリスチャン達が教会の中にたくさん入ってくるんです。その論争の回答をしなきゃならなかったんです、その当時のキリスト教徒達は。その中でヤコブの手紙が代表的で、『行いによって明白になる』と言っています。だから、律法主義のクリスチャンにこう言うんです。では、あなたは行いを見せてみなさい。イエス・キリストが救い主、神である事は、悪魔さえ知っている。それを知っていると、告白するだけでは、神の弟子ではない。あなたが神の弟子と言うなら、イエス・キリストを本当に救い主と告白するなら、その『行い』によって判断をすることができ、その『実』によって、判断をすることができる。これは、ユダヤ教主義的なクリスチャン、律法主義的クリスチャンに対する回答だったんです。
何故なら彼らは異邦人に福音が行く時に、割礼を施すべきだ。ユダヤ人と同じ律法を守るべきだ。そうしなければ救われない、と言っていたからです。だから、パウロは特に強調して、「いいや、行いではない。信仰によって義と認められたんだ。そして私達は信仰によって恵みによって救われたのだ。」とパウロは、このユダヤ人達に論争しているんです。これ程に、本当に激しい火花が散っていたんです。このクリスチャンと言えども、ユダヤ教的な律法主義的なクリスチャンが、この律法を行わなければ、私達は誰も救われない、という事を教会の中にものすごく入れてくるからです。でも、ヨハネはそうではない、と言い、弟子達は戦っているんです。「違う」って。イエス・キリスト本体に留まっていなければ、誰も救われない、です。それを救い主だ。神だ。復活して昇天した神を見た、そういう目撃者だって、悪魔でもそんな事は知っている、です。実際にそれを見て信じたと言う人達。実際に復活したイエス様を見た人達。実際にたくさんの奇跡を見た人達が、「彼は神だった。」と言う事は、誰でもできるんです。悪魔でも出来たんです、それは。だけども、留まってはいないんです。み言葉が留まるというのは、決して罪の習慣が続けられるはずがない、です。罪の奴隷になっているはずがない。自分でこれを押さえつけ、肉を殺せない筈がない、です。罪を見る角度が変わって、罪に対する嫌悪感と憎しみが、このようにハッキリと分かるようになった者に、『犯し続けるはずがない。』キリストのものでは初めから無かった、だから離れて行くのは当然だっていう結果なんです。これが歴史上で現実に起きていることです。そして史実なんです。そしてイエス様もその事を語り、パウロも語り、ヨハネも語り、そしてマタイ、マルコ、ルカにおいても、「バプテスマヨハネが、あなた方はアブラハムの子孫などと心で思っても決していけない。あなた方は決してそうではない。だから、悔い改めなさい。」です。でも、その悔い改めも心で思う、そんな悔恨とか、涙を流した悲しみであったら、「悔い改めではない」と言ったのがルターです。また、カルヴァンもそう言っています。それは後悔であって、悔い改めではない。悔い改めと言うのは、神の召しがある間に、神がドアをノックしている間に受け入れなきゃならない事である。人間側が後で、人生を振り返るとあんまり酷く、人生を振り返ると実りがなく、そして報いもないのを見て、後悔して泣いて・・・これは悔い改めではないです。ただの悔恨と後悔です。悔い改めは、神の赦しを受ける。真理を受ける、み言葉を受ける。聖霊が働くという、そういう事です。だから、その作業がないのに、罪の赦しがあるはずがないんです。その人は今をもって、神の奴隷ではなく、悪魔の奴隷なんです。だから、初めからイエス・キリストの救いなんか受けていないはずだ、です。それは、ロイド・ジョンズも同じ事を言っているんです。もし、あなた方に聖霊の実が結ばれないなら、救われたかどうか確認しろ、です。元々救われてない、だから、離れていく。これは理論的に当然だって事です。留まれない。み言葉が中にない、これも当然なんです。決して明け渡してないんです。決してイエス・キリストが最優先ではないんです。決してイエス・キリストの命令が第1になんか全くなっていなく、私の考え、私の体験、私の趣味、私の好き嫌い、私の感情、私の全ての理想論が先なんです。これはある意味霊的な事でもあるんです。これを続けているという事は霊的な事なんです。全く分からなくなるんです。罪は増長していくんです。増大していくんです。初めにカインが怒りを治めろと言われた時に治めなければ増大して、手に負えなくなるんです。そして一生涯み言葉が留まらないんです。それは、いつまでもイエス様がここに留まっていない。「いつまでもわたしがここに居るわけではない。わたしは去っていきます。」です。「わたしは必ず去って行って、父の元に戻ります。」。だから、福音が知らされている間に、神の召しがある間に、やらなければ決して受け入れられない。だから、神を畏れるのは知恵のはじめなんです。
私達が自由になったのは、本当にイエス・キリストの十字架の血で信じて、完全な罪からの解放なんです。2度とサタンと暗闇の力が私を支配できない。そういう力です。そしてそれは、本当に今まで罪を恋い慕った、そこからも解放されるんです。だから、「アバ父」と呼ぶんです。聖霊が内受した者は全て、天の父を、『父』と呼べるんです。でも、そんな天の父を崇めた人は、堕落はしないんです。何故?聖霊が私を必ず留めてくれるからです。これがすごい力だと言うんです。だから、絶対的な解放、絶対的な自由なんです。この自由は、この世の自由とは違うんです。逃げ回って、ビクビクして、奴隷のようにしがみ付く様な、恐怖ではないです。ここには喜びがないからです。奴隷ですよ。自由とは、どんな迫害があっても、絶対変えられない心です。これが、聖霊が内受して、み言葉が留まり、聖霊が働く仕事です。留まらないと、ビクビクして奴隷のようにしがみ付くけど、留まってはいないんです。これは、明らかに神の家から何時か出て行くんです。
そして、「あなた方はわたしを殺そうとしている。」イエス様は完全にスイッチを替えているんです。信じてはいるけれども、あなた方はわたしを殺そうとして、受け入れてはいないじゃないですか。あなた方が本当にアブラハムの子孫だというなら、アブラハムの業を行いなさいってイエス様が言ったんです。アブラハムは何をしたんですか?マムレの木に居た時に、イエス様と天使が来た時に、歓迎し受け入れたんです。天から下って来た者達を本当に歓迎したんです。羊を屠り、パンを焼き、足を洗い、彼らが休めるように受け入れ、歓迎したんです。天から下って来た者、天から遣わされてきた者、一目で分かり、そしてその言葉が留まるように、自分の家に招き、完全な受け入れパーティーをしているんです。これが、留まる、です。「あなた方はアブラハムの業を行ってはいない。受け入れてはいない。天から下って来た者を決して受け入れず、あなた方はわたしを殺そうとしているではないか。」です。アブラハムは決してそんな事をしなかった。アブラハムがどれだけわたしを歓迎し、受け入れ、どれだけ幸せで、天から下って来た者をどれだけアブラハムは待ち望んで喜んだ事か。これがアブラハムがした業なんです。あなた方はそんな事をしなかったじゃない。聞いて、興奮した時だけ信じて、そして自分よりイエス様を優先した事も歓迎している事もないんです。ただ一時的に信じて、それだけども、未だに罪の方を恋い慕っていて、イエス様の命令より自分の持っている習慣、自分の持っている生活、自分の持っている考えが最優先しているではないか。だからあなた方はアブラハムの子孫ではない、と言っているんです。こうやってヨハネの福音書は何故これを、強調しているんですか。余りにも多くの者がこうしたからです。1世紀末に。そして2世紀経っても、3世紀経ってもこの事は変わらないんです。ずーっとこうやって、このようにキリスト教は論争しているんです。留まる、留まらない、真理が自由にする、解放するっていう事はどういう事、救いはどういう事、それをパウロがあまりにも深い教理をもって語っているんです。真理とは何か、教理とは何か、救いとは何だったのか、です。本当に罪からの解放だったのに、あなた方は何故そんなに罪をまだ恋い慕い、手足に残っているこの罪の奴隷となっているのか、です。治めろと言った時に何故治めない。肉を何故殺さない?何故自分の感情を殺してまでイエス様に従わない?です。自由になりたいっていう者は、本当に恵みを理解している者です。本当に救われた。イエス・キリストの十字架の血で、本当に私は解放され、サタンや暗闇の力はもう2度と私に手を出せない、何ていう喜び、何ていう幸せ、何ていう偉大な真理、何ていう偉大な神。そうすれば自分の中にある罪を容認しませんよ、絶対に。憎み、嫌悪するんです。決して、それを留めておく事をしないんです。闘って、闘い抜きます。何故?嫌いだから。でも、罪が好きな者は闘えないです。注意深く、自分の心に罪を容認しない。そしてそれを憎み、嫌悪して、絶対私はここを殺す、絶対私はここの罪を治めてみせる。これが神の国に属する神の子供達ですよ。
いつかはなんて、そして弱いんだから、この人はまだ信仰が足らないんだから、今言ったって理解できないからと言って、明日を誇れる人間が居るんですか?明日は明日、神の福音は明日に延ばして何とかできるもんですか?自分はまだこんなに弱いから。性格がこうだから。だってまだ出来ないし、やろうと思ってもまだ出来ないから、弱いから、なんて。だったら、留まれない、ハガルの子になるしかないんです。留まりたかったら、イサクになるしかないんです。神の相続者、神の子供、絶対的にアバ父と呼ぶ子供です。その子供達は自分が今どんな罪を犯しても、大胆に神の前に行くんです。何故なら、自由と言うのは権利という意味でもあるんです。この自由は神に近付く特権です。イエス・キリストの十字架の血は神に近付く権利を与えているんです。どんなに罪深い者でも、どんな者でも、神に近付く権利をもらったんです。だから、アバ父と呼べるんです。だから絶対的な神への服従っていう、その自覚の無い者は、神の前に大胆に近寄れるはずがないでしょ。アダムのように隠れるしかないし、カインのように怯えているしかないんです。何故?従う気がないからです。明日、隣人を愛せる自信がないから、今は神に近づけない。これは謙遜とは違います。私は肉を殺す、決して同じ習慣、同じ生活を送らない。同じ性格でもいないし、同じ態度も取らないし、同じそういう否定的な言葉も語らないし、人に害毒を流さないし、その暗い顔も止めるし、絶対的に止めるって言った人は、大胆に神の前に、アバ父と呼ぶんです。何故?イエス様の命令が嬉しいからです。イエス様の命令を第1にしているからです。これが大胆に神の元に行く人です。でも、そうでないなら、隠れるしかないでしょ?ビクビクして奴隷のように神の前に隠れるしかないんです。留まらないってそういう事です。
だから、あなた方の霊的な闘いは、肉の闘いじゃないんです。隣の人と闘っている訳じゃないんです。私の中にある罪と闘っているんです。自分の中の怒りに怒り、この自分の中の妬み、嫉妬を怒り、否定的な思いに怒り、人を愛せない、自分の心に嫌悪するんです。これがみ言葉に留まっている人。これが聖書に書いている論争なんです。ユダヤ人対イエス様の、パウロ対ユダヤ人の。そして、本当に古代のクリスチャン達がこの論争で、打ち勝って宗教改革を起こし、殉教しても神の国を第一に願ってきたんです。2千年の間。
これが、私達キリスト者の立場です。甘い、この地の幸せになるために、存在してはいません。初めっから神とサタンの闘いの場なんです。霊的に闘わなければ天国に誰も入れないんです。そういう次元で生きているんです。教会は悩み相談室でも、保育園でもありません。職業訓練する場所でもないんです。どちらかといえば、病院ではなく、戦場です。神の国のためにどんな役割を果たすか、それが重要なんです。私は絶対に罪と闘う。私は絶対に神の国に役立つものになる。この気持ちが必要です。いつも寂しいとか、苦しいとか言っているような教会であってはいけないです。何の魅力も、何の力も現れません。そんな教会を、私達はそんな一面をノンクリスチャンに見せてはいけないんです。そんな弱弱しい無能な姿をノンクリスチャンの前に表してはいけないんです。私達は神の子供で、絶対このままで終わらせるわけにはいかない。自分に負けるような、そんなキリスト者ではだめです。絶対に闘う。これが私達キリスト者じゃないんですか。そして、「私からいい物は何一つ出て来ない。」でも、神の恵みにより、神の子となったので、私は勝利し、決して負けない。これが真理です。アーメン。