「自分」と「みんな」のズレ①
数年前まで、私は『自分=みんなの一部』だと思っていた。
一般的・『みんな』と同じ。
私の中で、それは当たり前のこと。
そう信じていた。
でも正確には、そう在るために、最大限の努力をしていた。
『みんな』と違うことは、私の中で『悪』だったから。
『みんなと一緒』『常識』『◯◯で在るべき』という言葉が大好きだった。
↑の言葉が、大好きな時点で、ちょっとズレてることを認めれば良かったけど、私はそれを不思議にも思っていなかった。
『周りを見て、自分の意思を決める』
人に合わせることのできる自分。
それが何より大切だった。
でも、『みんな』って、難しい。
『みんなと一緒』って、どんなことだろう???
個々の常識がある中、『みんな』という集合意識的な『大多数が所属してそうな』言葉。
『みんなと一緒』。
正直まだ、あまり分かってないかも知れない。
とりあえず、価値観の合わない人とは付き合わなければ良い?
そうすれば『自分の常識』に近い価値観の人とだけ付き合えるから。
自分の周りにいる人とは『在る一定』で一緒。
大人になれば、それも可能。
そうしている人も多いと思う。
『いま』のプライベートな私は、コレ。
価値観の違う人が居ることを知っている上で、価値観の近い人と付き合う。
でも、学校や会社ではいろいろな価値観の人が集まっている。
そして、多くの人が集まれば集まるほど、よく出てくる言葉『みんな』。
『みんなそう言っている』=『常識を話している』
そう考えて、聞いている方が多いように感じる。
以前の私もそうだった。
しかし、結構な割合で『自分の常識』=『みんなそう考えている』と、思って話してしまっている方が多い。
私は、幼稚園で違和感を覚え、小学校に入学して、はっきりと自覚した。
『私の感じること・考えること』は少数派だと。
当時は、みんなと同じ意見が言えない、周り似合わせることの出来ない浮いた子供。
そう言われた。
同じ小学校に通う姉からも、『恥ずかしい』と言われた。
それが一番ショックだった。
そして、私は子供ながらに考えた。
『みんなと同じ意見をいうにはどうしたら良いか?』
導き出した答えは
『みんなの行動を見てから、動けばいい』
この考えは、私にとっては画期的だった。
コレなら、みんなと同じ行動が取れるし、同じことをいうことが出来る。
しかし、結果は
『何をするにも遅い』
『早生まれでもないのに、成長が遅いのではないか?』
『自分の意見を言わない』
そう言われるようになった。
自分を悪く言われているのは、何となく分かっていたけれど、それより、姉に恥ずかしい思いをさせない。
それが私のなかで、最優先だった。
そして、変に浮くこともなく、お友達グループに入ることができる。
良いことばかりに思えた。
最初は一生懸命考えて、周りに合わせていたけれど、そのうち、そんな事を考えて行動していることにも気が付かなくなっていった。
自分が『そう考えて・感じている』と無意識に認識をすり替えていく。
それが、大きな代償を払うとなる原因になる事を当時は知りもしなかったし、わからなかった。
~②へ続く~