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沈没した神仙島の謎~完結編!幻の島はここだ!~

2022.10.26 09:25

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11125201/  【徐福伝承蓬莱の国・徐福と高天原伝説の国】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6416026/ 【五島高資 『蓬莱紀行』】


https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-251.html?sp 【沈没した神仙島の謎【第四部】~完結編!幻の島はここだ!~】「三神山」は「五神山」だった

さて、そろそろ本題に入ろうw

前回の三部作までで、徐福が探したという東海の神仙島「瀛洲・方丈・蓬莱」が日本の「九州・関西・関東」のことだという話をしてきた。今回はその続きである。

…のだが、実は、『列子』等のいくつかの書物によると、三神山には他にも「岱輿」(たいよ)と「員嶠」(いんきょう)というのがあって、もとは「五神山」だったというのだ。この二島はムー大陸とアトランティス大陸のように沈没して消えてしまったのだという。まさか、沈没した岱輿と員嶠というのはムーとアトランティス・・・?

ジャーン!(オープニング映像↓)

(※この画像は黒沼健『失われた古代大陸』の表紙↓。二大陸の海岸線のデザインは「どうせ架空だから」と適当に描かれることが多いが、これは神秘的で秀逸w)

失われた古代大陸_黒沼健

しかし・・・ホントかねw?

「員嶠」の「嶠」は険しい山の様子を表わすが要するに「山」だと言ってる。「員」はもともと「丸い」という意味だったが人間を数える言葉に変わったため新しく「圓」という字(「円」の旧字体)が作られた。その前は「員」の上の「□」が鼎の口を表わし、下の「貝」は「鼎」の字の省略形だった。「鼎」は三本足の器の象形文字。「鼎」は「魏呉蜀の三国鼎立」などというように「三」を表わす言葉としても使われる。「嶠」は山だから「員嶠」とは「三山」ということで、「瀛洲・方丈・蓬莱」の三神山の総称ではないかと疑われる。一方、「岱輿」の「岱」の字は単独だと普通は中国の山東省にある「泰山」という山の別名で、泰山は「五岳」という方角を冠した中国の神聖な五つの山の一つである。泰山の「泰」は「岱・大」と意味も音も同じ。「岱」は現代では見かけない字だが、「泰」と「大」が通用される例なら知ってる人も多いだろう。「輿」は乗り物だが万物を載せるものすなわち大地の意味があり「坤輿」とか「大輿」とかいう熟語はすべて大地の意。岱は大と同音同義だから「岱輿」はそのまま「大地」となる。大地といっても現代の地理学でいう大陸とは限らず、大陸も島もあわせて「陸地」の意味であり「沈んだ島」をむりやり固有名詞化したようにも思える。

つまり「員嶠」も「岱輿」も、架空の存在にむりやり固有名詞をくっつけるためにヒネり出した創作された名前じゃないのかという疑いが、ひょっとしてもしかしたら無くもない。

なんてことを言うと、「なに、おまえはムー大陸を信じないってのかよっ! 神様も宇宙人もUFOも霊魂もあの世も信じないのか、イリュミナティでフリーメーソンなのかっ! この唯物主義者の科学主義に洗脳された「と学会」の手先のレプタリアンめっ!」…とツッコんでほしいところだが、俺も夢みるこころを失った暗黒軍団の手の者ではない。確かに俺は「と学会」初期の全盛を楽しんだ世代ではあるが、けして堕落腐敗して邪教と化した後期「と学会」の支持者ではないし、UFOも幽霊もツチノコも超古代文明もネッシーも妖怪もサンタクロースもナマハゲも妖精のシルフィーちゃんもセーラームーンもデーモン小暮閣下の悪魔教もちゃんと信じてるキモオタ、じゃなかった、善良な一介の町人なのである。だから野暮なことはいわず、こころの方位磁針が示すまま、夢とロマンの大航海に船出しようではないかw さぁキミもワイの船に乗れw

…と、ここまでがウォーミングアップw

「沈没した島」の伝説はこんなに多い!

で、実際に日本に「沈んだ島」なんかあるのかというと、まず有名で誰でも知ってそうなのは大分県の瓜生島(うりゅうじま)と長崎県の高麗島(こまじま)だろう。この二つだけでなく、沈んだ島の伝説が日本にざっと10島もある。さすが島国だなw これらのうちのどれかが「岱輿」と「員嶠」に該当するかも知れない、とは誰でも考えるわけであり、まずは沈んだ島々を紹介していこう。

①「瓜生島」

大分県の別府湾にあったといい、『ウエツフミ』にもウリウノオハマ(瓜生の小浜)という名で出てくるし白石一郎の『幻島記』や京極夏彦の『後巷説百物語』という伝奇小説にもなって面白かったはw 文禄五年(1596年年)の慶長豊後地震で沈んだというが実は島でなく半島だったらしい。半島でも水没して海になった事実にはかわりない。

②「高麗島」

高麗島は五島列島の小値賀島の西、福江島の北にあった。昔NHKの番組で特集された時は「高麗曽根」(こうらいそね)という名で紹介されていたがこれはNHKの間違いで高麗曽根は島の名ではなく、島が沈んだ跡とされる複数の浅瀬の総称で、しかも現地ではコマソネといってたらしい。Wikipediaでは高麗島をコウライジマと読ませているが、そもそもコウライは音読みなのでコウライジマではなくコウライトウになりそうなもんだ。コウライジマなんて珍妙な読み方はNHKのコウライソネって読みに騙されて最近できた読み方じゃないの? 高麗曽根は現在ではgoogleマップでもその位置が確認できるのだが、koma-sone ではなく korai-sone になってるように、NHKとWikipediaのせいで今ではコウライジマとコウライソネというおかしな読み方が定着してしまった。しかし高麗曽根はコマソネと読むのが正しいのだから、高麗島も本来はコマジマと読まれてたはずだろう。

ただ、高麗島はいつ沈んだのか判然とせず、また本当にそんな島あったのか証明されておらず、存在を否定する説もある。

高麗島に関しては「みみらく島」という島の伝説についても語っておかねばならない。

『蜻蛉日記』の作者「右大将藤原道綱の母 」が聞いた話として

 「この亡くなりぬる人のあらはに見ゆるところなんある さて近く寄れば消え失せぬなり 遠うては見ゆるなり いずれの国とや みみらくの島となむいふける」

 (死者と会えるという場所があるんだが、近くに寄れば消え、遠ざかれば見えるという。「みみらくの島」という)

とあり。それで彼女が詠んだ歌が

 ありとだによそにても見む名にし負はばわれに聞かせよみみらくのしま 藤原道綱母

それをきくと兄の藤原長能も

 いずことか音にのみ聞くみみらくの島がくれにし人をたづねむ 藤原長能

と返歌したという。『蜻蛉日記』とはまた別に『散木奇歌集』には

 みみらくのわが日のもとの島ならばけふも御影にあはましものを 源俊頼

という歌もある。で、この島がどこにあったかだが、肥前国松浦郡の値嘉島(現在の五島列島)に「美彌良久(みみらく)の岬」という地名があったことが『肥前風土記』に出てくる。『万葉集』では同じ場所が「美禰良久(みねらく)の埼」になってるが今の五島列島の福江島に三井楽町(みいらくちょう)があり、福江島の西北の隅から北に突き出た半島地形だから美彌良久の「崎」という記述にも合ってる。ミミラクとミネラクでは前者の方が三井楽に近いし『蜻蛉日記』にもミミラクとあるのだから、誰でも「禰」(ね)の字は誤記で「彌」(み)が正しいと考えるだろうが、ここは即断できない。『万葉集』が正しく『肥前風土記』の間違いが後に広まって定着してしまった可能性もある。ともかく地名からみて「みみらく島」は福江島のことだという説も出てくるわけだが、近く寄れば消え失せるんだから未確認の未知の島であって福江島のことではありえない。

ではなぜ「みみらく」の地名が出てくるのかという話だが。『貞観儀式』 (875年) の大儺の祭文には疫病神を日本国外に追放するのに国境の四方の国境を「東方の陸奥、西方の遠値嘉、南方の土佐、北方の佐渡」としており、日本の最西端は遠値嘉 (とほちか:五島列島) だとされていた。現代では国境の外は「外国」だが、近代以前には外国と日本の間には「どこの国でもない領域」が広がっていた。そして異界には「死後の世界」とか「あの世」とかも含まれる。だから『蜻蛉日記』では死者に会えるという話になっている。ミミラクを「御弥勒」と解して仏教の西方浄土の信仰だというサイトがいくつもあるのだが、弥勒の浄土は兜率浄土といって阿弥陀の西方極楽浄土とは別のものである。中国の仏教界でも隋代を中心にどちらに往生するのか容易かという論争(「兜率西方勝劣」という)があったぐらいで、さらに主宰の仏格も異なる。西方浄土は阿弥陀如来であり、兜率浄土の弥勒菩薩ではない。(まぁミミラクは『万葉集』や『風土記』に出てくる古地名なのでミネラクが正しかった可能性もありその場合は「御弥勒」とは解釈できないが)。『蜻蛉日記』の話は極楽に往生して救われたという仏教説話でもなく阿弥陀如来がでてくるわけでもないのだから短絡しすぎだろう。実は死後の世界が地下ではなく西の方にあるという信仰は世界各地にあり、歴史も古く古代エジプトやギリシアからすでにある。縄文遺跡でも墓地は西側に作られていた。仏教行事だと思われている春分と秋分のお彼岸も、インドや中国の仏教にはなく、本来は仏教行事ではなく石器時代の巨石文化に遡る太陽信仰からきている。…という話はこのブログでは他のページでも何度かやってる(仏教の西方浄土の「西」という発想もルーツを辿れば同じだが)。瓜生島や高麗島は「日本のアトランティス」とまで言われてるが、そういえばプラトンのアトランティス大陸も元ネタは古代ギリシアの「死後の世界」なんだよw この話は長くなるので別の機会にしようと思うが、ただ単に西の方というなら同じ福江島でも玉之浦町や嵯峨ノ島の方が三井楽町よりも経度でいって西になる。それなのになぜ三井楽町なのかというと、平安時代に遣唐使船が「美彌(禰)良久の崎」から東シナ海へ船出していっており、「美彌良久の崎」は日本の西のはての福江島からその外の世界へ出航する出口だったからだろう。

脱線したが話を戻すと「みみらく島」は福江島の三井楽町から海を渡った先にあるので、福江島ではない。三井楽の北の海すぐのところに姫島という小島がありこれが「みみらく島」かとも思えるが姫島はれっきとして実在していて上陸もできるのであって、近くに寄れば消えるなんてことない。つまり姫島でもない。

「みみらく島」は、沈んだという伝説が実際に伝わっているわけではないのだが、出現したり消えたりするのだから、現代人の発想からは、あるいは過去に存在した島が沈没したってことじゃないのかとも思われる。そういえばここは高麗島の元ネタになった高麗曽根と近い。姫島から北へ30kmちょいのとこに高麗曽根がある。そうすると、どうも高麗曽根が沈んだ島だって話は、先にこの「みみらく島」の話があって、それに後から高麗曽根をコジツケる流れで作られた話が高麗島の沈没伝説だった可能性が高そうw「高麗島」と「みみらく島」は実質は同じ島のことである。道理で高麗島は「いつ沈んだのか」って年代が皆目わからない訳だよ。上述の古代信仰から考えれば、「みみらく島」が出たり消えたりするのは西方異界への入口で霊的な現象であり物理的な島じゃないからだろう。

むろん「みみらく島」と高麗島が同じ島だとした上で、そういう島があったけど沈没したんだ、という説をとる人もいるだろうし、両島は別の島で一方だけが本当に沈んだ島だとする説の人もいるだろう。俺も「ムー」の読者レベルの知能しかないから「実在したけど沈みました」って話じゃないと金返せって言いたくなるんだが(実際にこのブログでは実在説を取りますw)、意識高い系の人の中には「人々の心が生んだ幻だった」って話の方にロマンを感じるタイプの人もいて、浅羽通明とかこのタイプ。

ちなみに関係ないが浄土という考えは初期インド仏教にはなく、中央アジアで阿弥陀信仰の「西方極楽浄土」という教えができたがこれは異教の信仰を取り入れたもので各地の土着信仰とも習合しやすい。中国仏教で捻り出された最初は弥勒の「兜率浄土」らしい。これは兜率天のことで当初は特に方位とかは無かった。その後、西方浄土に対抗して阿閦仏の東方妙喜世界が考え出されたが、薬師如来の東方瑠璃光浄土に取り込まれ、阿閦仏は薬師と同体ともされた。東西はこれで確定したが北方浄土と南方浄土はずっと後から設定されたせいか諸説あって定まらない。観音菩薩の南方補陀落浄土、文殊菩薩の北方文殊浄土(清涼山)は方角が決まっているが、釈迦の霊山浄土(霊鷲山)と弥勒の兜率浄土はどっちもあるいは北方、あるいは南方とされ確定していない。従って南北の浄土は組み合わせにより7通りの説があることになる。

瓜生島と高麗島は、有名なのでこれ以上の詳しい話は省略する。他に、ざっと検索したところ、有名ではないが(というより俺が知らなかっただけだが)沈没した島はたくさんある。

③「西庄内列島」

山形県の庄内町の西の沖に並んでいた島々が沈没したという伝説もあったらしい。島名が不明なので「西庄内列島」と仮名する。これはある人のブログサイトのコメント欄に書いてあった情報だが、詳細がわからない。庄内町は内陸で海に面してないんだから西の沖なら鶴岡市の西の沖というべきだが、なぜ庄内町といっているのかも不明。庄内町には大山守皇子が逃げてきたというかなり奇特な伝説もあるので何かそれと関係あるのかもしれないがよくわからない。ただ、庄内町より北、秋田県にかほ市の西の海には「飛島」(とびしま)という島があり、庄内町より南、新潟県の村上市の西の海には「粟島」(あわしま)という島がある。もちろんどちらも沈没してはいないが、両島の間の海域はちょうど山形県の海岸線と平行する感じになるので、この二島が沈没した島々の名残りだったとすると、山形県の西の海に島々が並んでいたんだろうか?「並んでいた島々」というのだから最低でも三島ぐらいはあったのか? 飛島と粟島をいれて五島が並んでいたところ中間の三島が沈んだのかな? 検索してみたが沈没した時期もわからない。古いサイトはかなり消えてるからそのせいかな?

④「古志摩国」

志摩半島の先端の部分は昔でいう「志摩国」だがこれとは別に志摩半島と愛知県の渥美半島の間に大きな島があって元々はこれを「志摩国」といっていたのだという。それが沈没してしまい、これを名残り惜しんで志摩半島に設置されたのが「志摩国」だという伝説がある。後の志摩国と区別して「古志摩国」と仮名する。いま両半島の間には、志摩側に答志島、菅島(すがしま)があり、渥美側に神島(かみしま)がある。この3島が沈没した陸地の名残りかな? 志摩国が設置されたのは律令の最初期で7世紀だから、それ以前に沈没したとすると相当に古いが、この話の続きと思われる別の伝説もある。神島の南方の沖に「鯛ノ瀬」という浅瀬がありここは昔は島で「鯛の島」(たへの島)といったが、天正六年(1578年)もしくは天文六年(1537年)に津波か高潮で村が壊滅し人々が逃げて無人島になったので「絶えの島」といったのが「鯛の島」となったという。その後いつ沈んだのかは不明だが、島の名として定着するだけの期間があったのならかなり後になってから沈んだんだろう(でないと沈んでから島の名前ができたようなへんな話になる)。志摩側にも渥美側にも逃げてきた人たちの詳細な記録が残るというから実話っぽくはある。

⑤「凡海島」

京都府舞鶴市の沖、若狭湾の冠島と沓島(くつじま)は元は大きな島の一部で、その島が大宝元年(701年)に沈没した名残りが冠島と沓島だという。沈没する前の大きな島は律令時代の「凡海郷」(おほしあまごう)に当たり、丹後国加佐郡に属した(加佐郡は今の舞鶴市のあたり)という。つまり島の名は「凡海島」ってことになるのだろうか? 沓島は小島にすぎないのに富士宮下文書にもなぜか隠岐島をさしおいてまで「休通島」(くつじま)として出てくる上、大本教の聖地にもなっており、なにやらオカルト関係の秘密がいろいろありそう。

⑥「鴨島・鍋島・柏島」

島根県益田市の益田川の河口の沖合にある「大瀬」という暗礁が、かつては鴨島(柿本人麻呂の出身地)という島だったが、万寿三年(1026年)の万寿地震で沈没したという。鴨島の東には同規模の鍋島があり、さらに東の遠田沖には柏島があったがみんな一緒に沈んだ。ここも本当にそんな島があったのか長年にわたる論争があったが、昭和52年に科学的な調査が入り大瀬がかつて半島もしくは島だったことが推定された。

⑦「磯菜島」

香川県三豊市仁尾町の沖にある大蔦島の、さらに沖にあった小島が康和年中(1099~1104)に沈んだので、その島に鎮座していた神社を遷座したのが今の磯菜天神(磯菜天満宮)だという。沈んだ島の名前が不明なので神社の名前にちなんで「磯菜島」と仮名する。

⑧「亀島」

徳島市小松島市津田海岸町の勝浦川の河口の沖にある「オ亀磯灯標」は沈没した「亀島」の名残り。名前は島だが瓜生島と同じくこれも実際は半島だった。繁栄して「お亀千軒」といわれる集落があった。正平十六年/康安元年(1361年)の正平地震または天正十四年(1586年)の天正地震の津波で沈んだ。

⑨「久光島」

上述の瓜生島の付近にあったというが、実は島でなく海の近くの村だったらしい。瓜生島沈没の2年後に沈んだという。沈んだ訳ではなく土砂に埋もれただけで水没はしてないという説もあり、もしそれが正しければ今回のリストには入らない。

⑩「万里ヶ島」(まんりがじま)

鹿児島県の西の甑島あたりにあったというが、これは沈んだ時期がよくわからない。この島は中国の海南島の南、ベトナム沖にあるパラセル諸島のことらしい。ここは島々の間に浅瀬や岩礁が広がり、いかにも沈没した陸地にみえるという。中国語で「万里石牀」「万里長沙」「万里石塘」等といい中国人の間では沈没した陸地の跡だという伝説もあったらしいが、実際に沈んだわけではなく自然地形のようだ。

岱輿と員嶠は『列子』に出てくるが著者とされる列禦寇は紀元前4世紀だから、どんなに新しくともその頃までに沈んでないといけない。以上の中で沈没した時代が新しすぎて合わないものも多いが、ただ、ここでは「島が沈んだ」という伝説それ自体は珍しいものではないということを示すためにリストに加えたのである。本当はただ面白いからだけど。で、そういう時代が合わないものを除くと②③④⑩が残る。

さらに、⑩は九州の甑島あたりだと思ったから上記のリストに加えたが、実はパラセル諸島だったのなら話は別だ。瀛洲(九州)・方丈(近畿)・蓬莱(関東)の距離感からすると残りの二神山は奄美大島(かもしくは徳之島あたり)と宮古島ぐらいの感じになる。台湾にも届かないのでパラセル諸島はさすがに遠すぎる。

なので⑩も除くと、②③④が残る。このうち②④は「岱輿」と「員嶠」の候補としては距離が近すぎないか?「瀛洲=九州、方丈=近畿、蓬莱=関東」と並ぶんだから東北地方か沖縄ぐらいの距離が欲しい。そうすると③が残るが、いかんせん情報が無さすぎる。これら以外にも、後世の日本では忘れられて伝説にも残らなかった「沈んだ島」の話がたくさんあったんだろうが…。

現代人の推定した「沈んだ島」の説

伝説として言い伝えられてきた「沈んだ島」以外にも、現代人が推定する「沈没した島があった」説ってのもある。

⑪「黒潮大陸」

1960年代には地質学者が紀伊半島の沖に大陸があったとして「黒潮大陸」と名付けたという話がある(Wikipediaでは「黒潮古陸」といっているが当時は黒潮大陸といっていたような記憶が)。この場合、黒潮大陸の大きさが不明だが、1920年代に英国とロシアの生物学者が唱えたパシフィス大陸と似たようなものだろうか。だが、これだと大きすぎる。ムー大陸みたいになっちゃって面積的にバランスがとれない。

⑫「隠岐カルデラ」

隠岐島は島前(とうぜん)と島後(とうご)にわかれ、一般人の頭に浮かぶ丸い島は「島後」。「島前」は三つの小島からなる諸島だが上からよくみると阿蘇山みたいなカルデラ地形になってる。それが陥没して海水が流れ込み、海上に突き出た山々が今の島前諸島になったわけ。これは伝説ではなく現代科学でわかること。今から600~500万年前に沈没したらしい。

⑬「南与那国島」(ハイドゥナン)

与那国島のさらに南にあったという「南与那国島」(ハイドゥナン)は与那国島からこの島へ人々が逃亡したという話があるが、該当海域に島はなく、今のどの島のことか不明。これと似たような話で波照間島の南にあった「南波照間島」(パイパティローマ)は、1648年までは波照間島からこの島に人が逃げていったという記録がある。この二つの島はどちらも共通して、特に沈んだという話は無いので、架空説ではニライカナイや補陀落渡海などの信仰上の観念とされる。だがニライカナイなら「東の島」となるべきで方角がおかしい。また補陀落渡海の場合は棺桶のように人間を船に閉じ込めて流してしまうもので「あの世」に逝っちゃうのが目的だから、この二島のような「生きて別の島に逃亡する」という例とは関係ないのではないか。一方、実在説の場合は今の台湾のことじゃないかともいわれる。Wikipediaは別々の島として項目を分けているが、この二島は明らかに同じ島である。「沈んじゃったんでは?」と推理することも不可能ではないだろう。

ただ、与那国島の方は有名な与那国海底遺跡があって、この遺跡の部分は沈んだ土地じゃないかとも言われているが、海底遺跡の位置が与那国島だから、そこから逃げて行った先の南与那国島は海底遺跡とは別の場所じゃないとおかしなことになってしまう。まぁこの海底遺跡自体は自然の造形物であって文明の跡じゃないという説の方が本当っぽいが。海底遺跡を本物だという説では木村政昭の「ムー沖縄説」が面白いが、それについては次の⑭で述べる。

⑭「琉球古陸」

ムー大陸沖縄説。でました木村鷹太郎、じゃなくて木村政昭先生。沖縄を中心とした西南諸島(琉球列島)は2万年前から1万5千年前には繋がっていて細長い陸地だった。それが水没して今のような島々になったのだが、その時の記憶がムー大陸という伝説の元になったのだという説。うまい具合にトカラ構造海峡(悪石島と宝島の間)と慶良間海裂(沖縄島と宮古島の間)で「北琉球・中琉球・南琉球」に分かれるので、繋がって陸地だった頃にも三つの細長い島だったとすると、ムー大陸が三つの大陸に分かれていたって話と一致する。与那国島の海底遺跡もムー文明の痕跡ということに…? この説はアレだ、「アトランティスは確かに実在したし沈没して消えたんだけど、大西洋の大陸じゃなくて地中海の小さな島だった」っていう大昔の金子史朗の説を思い出すね。ムー大陸がこんなに矮小化されてしまうと夢も希望もあったもんじゃないので俺は木村政昭の説を断固拒絶するw しかもサイズダウンされた結果「岱輿・員嶠」の候補には一歩近づいたかというと逆に今度は小さすぎる。しかも三つの島になってしまったので「岱輿・員嶠」の二神山とは数も合わない。

ところで、記憶力のいい読者なら「第一部」で紹介した『神道原典』に出てきた「古ツクシ島」を思い出さないだろうか?『神道原典』は石井皓詢という人物が霊界を往来して見聞した知識で書いた書物だという。もう少しカッコよく言えばアカシックレコードに書かれていたのだと言い換えてもよいだろう。これは科学上の学説ではないので上の諸説の中には加えなかったものだが、参考にとりあげてみる。ちなみに皓詢はアキノリかテルノリかヒロノリかわからないのでコクジュンと音読みしている。その主張するところは、むろん証明できることでもないので思いつきや妄想で書いた可能性も高い。そこらの詮議は後にして、ともかくそれによれば今の九州の南に、今の九州の三倍もある島があって、ツクシ島といった。現在の九州も「筑紫島」という名があるが、あくまで別の島である。それが8千200年前に沈没し、残った陸地が今の屋久島なのだという。このツクシ島は屋久島を含んで種子島を含まないとして、ほぼ円形の島だとすると、その南端は、目分量でいって沖縄本島にギリ届かないぐらいと思われる。

でだ、これ木村政昭のムー大陸沖縄説とコジツケられないだろうか? 木村説だと琉球諸島が細長い三つの島だったわけだから、このツクシ島も九州の三倍ある一つの島でなく、九州と同じぐらいの大きさの島が三つ並んでいたとしたらどうだろう、両説を合体させることができるのではないか。

この場合の難点は木村政昭の想定する琉球古陸(=沖縄ムー大陸)よりもかなりデカくなってしまい、地質学的に認められないこと。それと年代がをどうするか。琉球ムーが沈没して現在のような島々になったのは2万年前から1万5千前なのに、ツクシ島が沈んだのは8千200年前だから辻褄が合わない。一回沈んでその後に以前より大きな陸地になったって解釈するしかないが、そんな都合のいい話も地質学的に認められないだろう。もっとも、学問ってのはしばらくすると通説が変わってしまうこともしばしばあるので、あんまり気にしなくていいや、と割り切る方法もあるw

以上のうち⑬は年代が合わないからアウト。他はサイズが合わない。⑪は大きすぎて話にならない。⑫は距離感が…。そうすると⑭が残る。しかし…。⑬⑭は他の神山との距離感はいいのだが、位置がマズイかも知れない。琉球列島のあたりだと中国に近すぎて、中国人からみて謎めかない。どんなに近くても沈没したというならネタになるが、後世までもあるいは「夷洲」あるいは「琉球」として知られ庶民同士で大陸との交易が続いていた島々を神仙の島だといっても当の中国人が腑に落ちないのではないか。三神山は「渤海のかなた」にあるとされていた。東シナ海の真ん中では江南の方が近くなってしまう。三神山が呉越の伝説でなく、斉燕の伝説であることは北方航路で九州へ行くことを示しており、南方航路ではない。北方航路を示しているのも九州から東に並んでいるからで、西南諸島の方なら江南の呉越地方から出航する南方航路が示されたはずだ。

そうすると、どうもこれまであげた中にはこれと言って可能性の高そうな候補はなさげだな。

東北地方の徐福伝説

発想を切り替えてまったく別の路線でいってみるか?

三神山が日本だとしても「九州・近畿・関東」だから東北地方と北海道が余る。そこに実は五山だったというのだから、もし「沈んだ」という余計な情報がなければ岱輿と員嶠は北海道と東北地方だということにできる。すると五神山がほぼ等距離になってちょうどいいんだが…。

むろん「東北地方も北海道も沈んでないじゃん」というツッコミがくると思うが、そこは後で考えるとして、まずは徐福伝説を探ってみよう。

といっても北海道には徐福伝説はないし、奥羽には徐福伝説は青森県の中泊町と秋田県の男鹿市の2ヶ所しかない。しかも、沈没しなかった三神山とちがってそもそも員嶠・岱輿は徐福伝説とは何の関係もないので、徐福伝説を手がかりにして「員嶠・岱輿」を探すのは馬鹿げていることになるが、まぁ一応の考察をしてみる。

秋田県の男鹿市(男鹿半島)の赤神神社と青森県の津軽の中泊町の権現崎の尾崎神社、どちらも徐福伝説があって場所も近い。両者の間には岩木山と白神岳があり、岩木山はいわずとしれた「津軽富士」。他方の白神岳は菅江真澄によるともともと男鹿半島の戸賀の白神大明神を勧請したことから白神岳と名がついたという。またこの二つの山は女神で白神岳が姉で岩木山が妹だという。

だが五神山の相互の距離関係からいうと、第四の神山は東北地方の真ん中あたりが相応しく中泊町や男鹿市では離れすぎている。

東北地方の真ん中あたりには、男鹿半島と紛らわしい地名で宮城県に牡鹿半島がある。牡鹿半島の先にある島を金華山という。ここは出羽三山と恐山とならぶ奥州三大霊場の一つで、富士山や熊野と同じく「蓬莱山」の別名をもつ。佐賀の金立神社の伝承では徐福の次男の徐明という者は肥後の金峰山に移住したというが、金峰山(金峯山)は金華山の誤記で、伝承の変形した断片が残ったのではないか。男鹿(をが)と牡鹿(をしか)、呼応してるなw どちらも本来はヲカと読んだのかもしれない。ヲカというのは「陸地」を意味する最古の大和言葉で、クガ(陸)より古い(クガはクヌガ(国処)の略でやや新しい言葉)。海に呑まれて消えた桃源郷の跡を「陸地」という意味の言葉でヲカと呼んだのだといいたいところだが、真相は両半島が航海の目印になったことに由来してるんだろう。

とはいえ、前述の通り「員嶠・岱輿」は徐福伝説と関係がないのだから、以上の細かい話のあれこれは面白くはあるが、「員嶠・岱輿」の決め手とならない。

ところで金華山や牡鹿半島といえば今日、令和3年(2021)3月11日は東日本大震災からちょうど10年。金華山や牡鹿半島もまた、10年前の今日、津波で大きな被害を被った三陸地方の一部なのである。

もしやだが、三陸地方は地震と津波で有名な土地柄なのだから、「員嶠・岱輿」は東北地方や北海道にあったのだが「地震と津波で全滅してしまった」のを誤って「波に呑まれて消えてしまった」と言い伝えた結果「海に沈んだ」ってことになったのではないだろうか。都合いいことに(笑)沈んだ訳でもないのに沈没したと誤伝した例は上述の⑨の「久光島」がある。

この場合「員嶠・岱輿」の中心部は沿岸であるはずだから、五神山の相互の距離からすると、東北は三陸地方の南部(ずれても北は三陸の中部、南は仙台湾ぐらい)、北海道は襟裳岬を中心とする南側沿岸部(ずれても東は浦幌町、西は日高町とか)あたりになる。

日高町は来訪神オキクルミの聖地のあるところで、源義経とも習合しているという。来訪神だから徐福ともキャラが被る。

三陸地方の南部(南三陸)も古代史上の重要地点で、徐福伝説と無関係に奥羽の超古代文明を考えるとすると、まっさきに浮かぶところ。仙台の東北に位置する「本吉郡」(もとよしぐん)は宮城県の東北部の三陸海岸だが、古代では今の気仙沼市の全体・南三陸町の全体・登米市の一部・石巻市の一部まで含んでいた。千田俊文は、縄文時代の文化的中心地が三陸海岸地方であること、古代から全国どこにも祀られることがないとされてきた開闢の神々(「別天つ神」や「神世七代」の神々)を祀る神社が、なぜか本吉郡に多く存在すること等から、ここが『日本書紀』や延喜式祝詞などに出てくる日高見国であり、高天原だという説を唱えたほどである。またここは東日本大震災で有名になった一帯でもあるが、それ以前から津波で有名ではあった。

しかし「沈んでない。今も実在するのだ」って話の方が夢があって面白い、という人もいるだろうが、やはり「沈んだ島」って話の方がロマンを感じるのではないだろうか。「岱輿・員嶠」は東北地方と北海道でした、実は沈んでませんでした」ではどうにも興ざめであり、これだけでは簡単に納得はできない。

「常世信仰」と黒潮文化圏

そこでもうちょっと違うアプローチをしてみよう。

それは「民俗学」だw

上の方でもちょいちょい触れたが、海のかなたに理想郷があるという所謂「海上異界」の信仰がある。この海のかなたの理想郷という観念は、海上かなたの沈んだ陸地の記憶が形を変えたものではないだろうか、と言いたいところだが、否定する側としてはそういう信仰が「今は沈んで無いけど昔は陸地があった」という妄想を生むのだというだろう。まぁなんとでも言えるというか言い方次第ですな。ただ本当に失われた陸地の記憶や伝承があったらこういう信仰を強化する作用はあったに違いない。要素は5つ。

 A.「常世国」信仰

 B.阿波と安房をつなく忌部氏の移民伝承

 C.補陀落信仰

 D.「アンバ大杉」信仰

 E.アワ文字(神代文字の一つ)の謎

これらはどれか1つでも欠けたらダメで、5つのカギが揃わないと謎が解けない。

A,常世信仰

海上異界を古代日本では「常世」(とこよ)とか常世国(とこよのくに)という。熊野では後に補陀落渡海で南方浄土の信仰が定着したがその土台には神武天皇の兄、三毛入野命(みけいりぬのみこと)が常世国に渡ったという伝承があり、東海地方の富士郡には皇極天皇の時イモムシを常世神とする信仰集団があった。常陸国(茨城県)は奈良時代に常世国とはここではないかと称されただけでなく、平安時代に大奈母知(おおなもち)少比古奈命(すくなひこなのみこと)が海上から出現し、これが酒列磯前神社と大洗磯前神社の由来となっているがこれは少名毘古那神の常世国からの帰還と捉えられている。書紀ではトコヨを蓬莱と書いた例があり、中国人によっての三神山のようなものになってるのがわかる。

九州では西、山陰では北をいってるから本来は方角の決まったものではないが、西日本では朝鮮半島や中国大陸があるためか常世信仰は弱く、本場は東海地方を中心とした東日本である。

エビス信仰

なお、こっちから異界へ行くのではなく、異界からこっちにやってくる来訪神(=マレビト)の信仰もあり、それが海からくるとなると最も典型的には「エビス信仰」がある。だがこれあまりに面白すぎるネタが広範に含まれ、記事の分量が多くなりすぎるので今回は断腸の思いで省略した。いつか詳しいことを書きたい。

B,忌部氏の関東開拓伝承

常世信仰の広がりを海上ルートで考えると興味深い伝説が浮かぶ。『古語拾遺』の有名な伝承で神武天皇の時代に忌部氏の祖、天富命(あめのとみのみこと)が「阿波」(徳島県)から一族の植民団を率いて今の千葉県南部に移民してきたのでその地を「安房」と名付けたというあれ。その移動経路の途中に熊野がある。上述のように常世信仰も同時期の神武天皇の時に熊野から始まったことをみても、この忌部氏の東方開拓と常世信仰はなにか密接な関係があるかも知れない。

C,補陀落信仰

南の海のはてに観音様の浄土があるとして、そこに往生しようという信仰。船から出られないように閉じ込めてもらって船ごと海に流してもらう。よほど運がよくないと大抵の場合は最後は死んでしまう。それで浄土に往生できるというなんとも酷い迷信だが、仏教の信仰だから、ずっと後になって出てきたもの。常世信仰と仏教が混ざってこんなへんなものが出来た。補陀落渡海はほとんど熊野に多かったが、熊野は常世信仰の起源の地でもある。ほかでは補陀落渡海は茨城県の那珂湊や、高知県の室戸岬、足摺岬にもあった。土佐国はすぐ隣りが阿波国ということからしても、那珂湊と室戸岬の間の地域は、常世信仰圏と重なってるだけでなく忌部氏の移住ルートともほぼ重なっていることがわかる。

D,大杉信仰(アンバ信仰)

常世信仰の痕跡は表面上は常陸で一旦途絶えるが、その常陸で発祥した大杉信仰というのがある。

大杉神社(茨城県稲敷市)を総本宮として茨城県内に密集し、北関東の他、東北の宮城、岩手の両県に分布しており、かつては千島列島にまであったという。あとは西は静岡、岐阜、三重、広島、愛媛、日本海側では新潟、富山、石川、京都や兵庫などの各県に点在している。これは大杉神社発祥の芸能「悪魔祓いのお囃子」(大杉囃子、災禍囃子ともいう)が諸国に広まった勢いに乗って各地に分社が増えたもの。これはユーチューブに動画がいくつもあがっている。だが、この「お囃子」で庶民が暴徒化することを恐れた江戸幕府によって享保十二年(1727)に禁止されてしまった。

大衆的な神事芸能がこんな理由で禁止されたのは徳島の阿波踊りも同じで当時は珍しいことではなかったが、徳島県の阿波国とは因縁も感じられる。というのも、この大杉神社の総本宮は俗称「アンバ様」とよばれお囃子も「アンバ囃子」と称している。現在の住所も稲敷市「阿波」(あば)で徳島の阿波(あわ)と同じ字になっている。アンバと阿波(あわ)、房総以西ではアワと訛り、常陸以北ではアンバと訛っているが、言うまでもなくどちらも古語としては「アハ」だった訳で同じ言葉である。

大杉神社を「あんば様」と俗称するのは大杉神社の地が『常陸風土記』にでてくる崇神天皇の時代の「安婆之島」(あはのしま)であることに由来する。ただし、それはあくまで地名の由来であり、大杉神社の由来ではない。神社の創建は奈良時代の話で、この地にあった杉の巨木を御神体としたことから大杉神社という名前になったが、伊勢神宮とか出雲大社のように地名でよぶ方が多かったために大杉神社も「あんば様」という敬称ができたわけだろう。

房総半島に「安房」の地名を残した忌部氏が、さらに北上して大杉神社のある茨城県稲敷市まで進出していたことは以下のように容易に想像できる。

上記の『古語拾遺』の伝承によれば、忌部氏は安房から移動して、相馬郡の「総国」(ふさのくに:今の我孫子市布佐)に、さらに北上して「結城郡」(ゆふきのこほり:今の結城市)に。また『古語拾遺』にはないが千葉県の郷土資料の『印旛郡誌』によると印旛郡の麻県(あさのあがた:今の成田市)を開拓したという(ルートとしては「安房→成田市→我孫子市」か)。麻県の遺称地と思われる成田の麻賀多神社と大杉神社とは利根川を挟んで徒歩5時間ほど。つまり「阿波」からきて「安房」という地名を残した忌部氏の集団は「安婆之島」のすぐそこまで来ていたのであり、今の成田で二方向に分岐し、西へ向かって我孫子方面にいく一団と北上して稲敷市に向かう一団があったのだろう(その他にも結城市から利根川まで徒歩5時間、川を下って成田に到達するルートもありうる)。

「安婆之島」(あはのしま)という地名も安房に上陸した集団と同じ人々が残した地名ということだ。時系列でいうと、まずもともとアハ系の地名が広まり、その中の一つのアハの地(安婆之島)の上に大杉信仰が生じた。

E,アワ文字でつながる四国と三陸

大杉信仰の広がりは全国に及ぶが特に茨城県内に密集し、それ以外は全国に点在している。宮城県気仙沼市の大杉神社もそういった分社の一つだが、この神社は安波山(あんばさん)という山にあり、大杉信仰に由来している山名だろうとは誰でも想像がつく。

ところが、同市内の唐桑半島にある御崎神社(おさきじんじゃ)境内の鯨塚の森の中に神代文字の掘られた「亀之碑」という石碑があり、これは有名なものなので写真もふくめた情報がネットにいくつもある。石碑それ自体は天明(1781~1789)以降のものと推測されており、吾郷清彦のいうアワ文字、落合直澄のいう阿波字で書かれており、阿波すなわち今の徳島県の佐那河内村の大宮八幡宮に伝承されていた文字なのだ。この文字は他にも信州の大御食神社に伝わる『美し杜物語』にも使われているほか、宮城県の加美郡にもあるという。

日本全国の港町が海上交通で往来してたのだから唐桑(気仙沼市)と阿波(徳島県)もまた往来可能だったのは当たり前だが、アワ文字という特殊文化的なつながりの背景には忌部氏の東方開拓伝承が思い出される。それはまた気仙沼沖が黒潮の最北端であることからすると、西は高知県に及ぶ常世信仰圏の広がりと合わせて、大きく「黒潮文化圏」としてみることができる。忌部氏に限らず安曇氏・宗像氏・海部氏(倭氏)・諸県氏・津守氏・阿刀氏といった海の民が古来から往来して様々な文化を運んだろう。

◆まとめ◆

ABCDEを全部まとめると。

黒潮文化圏といえば、黒潮(暖流)は南三陸の沖あたりで北からくる親潮(寒流)とぶつかるので、ここは魚の種類も豊富で世界三大漁場として有名であり、このあたりで古来もっとも栄えたのが気仙沼湾である。戦前には繁栄しすぎて「日本の上海(シャンハイ)」等と言われる始末だった。

黒潮文化の尽きるところとは、つまり最東端であり、常世信仰もここで尽きることになる。

海のかなたに理想郷があるという常世信仰が、もし失われた陸地の伝承に基づいてたのなら、その陸地は漠然としたものではなく、初期には特定の海域に固定されていたはずである。

で、最初の常世信仰は神武天皇の兄、三毛入野命は熊野灘において「波の穂を踏みて常世の国に渡りませり」と『古事記』にあることから始まった。熊野灘から黒潮に乗って「常世の国」に渡った、と。

それは神武天皇の即位前のことだが、即位した後には、天富命が一族を率い「阿波」から黒潮に乗って「安房」に上陸した、と。その後、内陸を開拓していったが当時の関東は現在の内陸になってるところまで深く海が入り込んでいたことはよく知られており、成田の麻賀多神社の周辺にも「~かた」という「潟」(入江)を示す地名が残っている。

現在の地図で内陸にみえても当時は海上ルートだったのであり、忌部一族はまだまだ東をめざしてるつもりだったのではないか。あたかも、三毛入野命を追うように…。

黒潮の流れる東の行き止まり、そして常世信仰の尽きるところ。それが今の気仙沼である。気仙沼は常世国と往来する港だったのではないだろうか、あたかも中国の上海が、日本と往来する港だったように。

くしくも気仙沼は「日本の上海」と仇名されていた。実に出来すぎな話ではないか。

もし「岱輿・員嶠」が沈没した陸地だったとして、それが常世の国という伝説になったのだと仮定した場合、「岱輿・員嶠」は東北地方の太平洋側の沖に存在した可能性が高い。

だが、むろん現代科学ではそんなところに陸地があったなどとは認めはていない。が、民俗学なんだから古代人の信仰として「そういうふうに思われていた」とは仮想できる。

ムー大陸の話

とはいってもやっぱり「沈んだ島」はホントに実在してほしいよなっ!

そこで、だ。

「民俗学」でダメなら「オカルト」があるさw

ちょっとここらで脇道にそれよう。

やはりサブタイに「沈没した神仙島の謎」とまで煽っておいて、ムー大陸の話は沖縄説だけ、あげくに「実は沈んでませんでした」なんてことになったら「金返せ!」と言われかねないからなw

それに、息抜きの道草にもヒントが隠されてるかも知れんてw

MMR_ムー大陸

ムー大陸は海峡で三つに分かれていた。トニー・アールによると、その三大陸はファラ、アイアス、オエニクという。なんでそんなことまでわかるんだ、っていう野暮なツッコミは無しよ。ちなみにトニー・アールというのは偽名で、その正体はレイモンド・バックランドというスピ系というかオカルト系の人だから、たぶん霊視でもしたんだろw ともかくチャーチワードは名前までは出してないものの三つに分かれた大陸だとはいっている。この話は元ネタがあって、チャーチワードより先に出た『オアフスぺ』には太平洋に巨大な三角形をした「パン大陸」という大陸があったというのだ。この三角形という話を、チャーチワードは改竄して三つの大陸にした。なんでそんなことをしたのか、もう皆さんお分かりですね!?「東のはての海に浮かぶ三つの島」という中国の伝説に寄せたに決まってんじゃんw

実は、ある人が(誰かはいえない)、徐福伝説で有名な熊野の某所(どこかは言えない)で見たというある掛け軸に三神山の絵が描かれてたんだけど、その絵がまさにチャーチワードの示したムー大陸の地図にそっくりだったという。チャーチワードはこの掛け軸の絵をパクったのではないか? ちなみにその掛け軸は当時は誰でも見れるところにあった。

ムー大陸を言い出したジェームズ・チャーチワードについては今でこそオカルトマニアにいろいろばれちゃってWikipediaに項目まで立ってるけど(日本語版と英語版の両方)、昔はまったく謎に包まれてたんだよね。英国の陸軍大佐なのになぜか初期は米国の大佐になってたりして、架空の人物じゃないかって噂もあった。八幡書店の社長が若い頃に渡米までして孫娘にインタビューしてきて、そのレポを月刊「UFOと宇宙」(今の月刊「ムー」みたいな雑誌)に発表し、それでいろいろわかったってことになってるんだけど、この社長も若い頃からいろいろな仕掛けをしてきた食わせ物w その後も「チャーチワード日本人説」なんてのが流れたりしたのも一部の世界では有名な話。本人は実在でも彼の自称するあれこれは詐称だったり虚偽だったりがあるので信用ならない。つまり日本人の協力者がいたり、あるいはチャーチワード名義で暗躍した日本人がひょっとしていなかったとも言い切れないとも、もしかしたら限らない。なんで日本人が協力するのかというと、それは当時のオカルト系秘密結社とか軍部の諜報機関とかフリーメーソンとかイリュミナティーとか緑龍会とか白色大同胞団とかラストバタリオンとか陸軍中野警察とか満洲帝国の秘密機関だった吉林の製鉄所でUFO作ったり人間と同じもの食べて動くロボット作ったりゴキブリ発生させたりしてたカタカムナのおっさんとか、いろいろ絡んだ国際的な謀略があった訳だよ、正統竹内家と八咫烏は関係ないが。いやそもそもそんな陰謀は無かったかも知れないが、あってもなくてもこのブログとは関係ないので省略する。そういえばその正統竹内家には個人的に深い関わりがあったのだがちょっと今回の話と関係ないので詳しいことは別の機会にそのうち書こう。

竹内で思い出したが竹内文献では超古代の世界地図というものが4枚ほどあって、どれもちょっとづつ違いがあるのだが、北太平洋にミヨイ、南太平洋にタミアラという二つの大陸が描かれてる点は共通している。ムーは三つの陸地から成っているはずなのに、なぜか二つしかない。もしやこれ片方はアトランティスのつもりだろうか、とも一瞬思いたくなるだろう。このミヨイ、タミアラ「とは別に」大西洋にもなにか大陸らしきものが描かれている地図も1枚だけあり(あとの3枚は描かれてない)、地図によっては「ヒトツ」と書かれているから、アトランティスの名は「ヒトツ」であってミヨイやタミアラではない、と判定したくなる。だがヒトツというのは地名ではなく竹内文献の独自用語で十六方位の一つ「北西西」を意味する方角名にすぎない。他の地図だとあちこちにこの十六方位名が記入されてるものがあるから、これも地名でなく方位だろう(とは思うが、この地図の例では方位がこの一ヶ所しかないからやや不可解でもあり、方位名から転じた地名だっていう解釈も出来ないことはなくもない)。この北大西洋に大陸が書かれたのはアトランティスの位置を太平洋に変更する前の最初の地図であるか、もしくは正しい位置に戻したもので最後に描かれたのか、どちらかだろう。

日本でムー大陸が紹介されるとすぐ山根キクが竹内文献にも「マヤ」という大陸が太平洋にあったと書かれていると言い出し、その後、昭和15年にはミヨイ、タミアラと呼ばれていた。この段階では地図はなく、なぜ二つの名前があるのか? ミヨイは戦後版だが「三代イ」と書かれてる例があり、3という数字からの連想がはたらいてる通り、三つの陸地からなるムーのことだろう。山根キクが「マヤ」といったのが元で子音が [m・y] のまま母音が入れ替わって「ミヨ・イ」になってる。「イ」が接尾辞なのは、戦後版だが「タミアラ」を「タミアライ」と書いた例があることからも察せられる。ミヨイがムー大陸のことだというのはそれで確定したとして、するとタミアラはどっから出てきたのか? …と考えれば、一応、タミアラの方は少なくとも最初のうちはアトランティスのつもりだったろうと誰でも容易に想像できる。タミアラって名前もアトランティスを適当にもじって作ったっぽい。戦前でもアトランティスの方がムーよりはるかにネタとしての歴史もあって有名だった。

ただし、理屈に合わない点もある。沈没したのは五山のうち二神山であって三神山は沈んでない。だから竹内文献の記述者は、ムー大陸は「三つの陸地でできていた」というのは厳密にいうと設定の誤りだと考えたのではないか。そして偶然にも沈んだ大陸として有名なものはムーとアトランティスで二つある。そう考察を加えて、アトランティスを北太平洋から南太平洋に修正した結果、ミヨイとタミアラの二つの陸地が太平洋に描かれた地図ができたのではないか? そしてこの謎の大陸は竹内文献の地図では日本との間に線で結ばれ、日本には「天日根日天国」の文字や日章旗らしきマークがあったりする。そうすると、どうやらムーの三つの陸地を竹内文献は「日本・ミヨイ・タミアラで三つ」だと再解釈しているらしい。つまり、ムー大陸とは、沈んでない「蓬莱・方丈・瀛洲」の三神山のことではなくて、「沈んだ岱輿と員嶠」プラス「沈まなかった日本」の三陸地のことだといいたい訳だろう。

だが「員嶠・岱輿」の正体はムー大陸でした、とは、もちろんならない。理由は単に「デカすぎるから」だ。「瀛洲・方丈・蓬莱」が「九州・近畿・関東」だとすると残りの「岱輿・員嶠」がムー大陸だというのではあきらかに面積の配分がおかしい。いくら大きくても北海道とか四国ぐらいでないとバランスが取れない。

竹内文献がムー大陸の三つの陸地を「ミヨイ・タミアラ・日本」のセットだとみなしていたのだとすると、面積でいえば日本だけがやけに小さくなってアンバランスだ。ミヨイ(ムー)とタミアラ(太平洋アトランティス)は上述のように岱輿と員嶠を投影した幻だとして、ミヨイ・タミアラを岱輿・員嶠へと縮小して復元すると、縮小されたムーは日本列島のそばにあった島となる。その三つの陸地からなっていた「縮小ムー」が沈没したのは三つのうち二つで、残ったのが今の日本だという話もすぐできる。

「沈んだ陸地」はここだっ!?

以上の「ムー大陸」関係の話からは、漠然とだが岱輿と員嶠があったとしたら太平洋上だろうということぐらいで(当たり前だが)特にヒントらしい話は無い。

だが太平洋上のどこかに絞り込むことはできる。五神山の相互の距離という観点からいうと、日本列島は関東あたりで大きく北に曲がってるので「九州(瀛洲)~近畿(方丈)~関東(蓬莱)」を結ぶ直線を等距離でまっすぐ東に延長すると第四神山は仙台の東南400kmぐらいの海上、第五神山は択捉島の南600kmぐらいの海上になる。これは直線で並んでいるとした場合だから、こだわらずに並びが日本列島に寄った形で湾曲しているとすると、東北地方からは東の海上、北海道からは南であり、それが沈没した時の地震と津波が北海道の南岸と東北地方の太平洋側を襲ったのではないか。

今回のこの記事の冒頭からここまでの話をまとめると、ポイントは

 ①ムー大陸みたいに大きすぎず、

 ②三神山の相互の距離と同程度に離れており、

 ③太平洋上ではあるが、九州の西南方面ではなく、北海道の南方かつ東北地方の東方のあたり。

ということができる。

むろん現代科学でそんなとこに陸地があったなんてことは認められていない。それはそうなのだが、ここらの海底には興味深いものがある。

第四神山も第五神山も、日本海溝の東側になるが、とくに第四神山は日本海溝に崩れ落ちるぎりぎりのあたりになる。するとちょうどまさにこの地点(茨城県沖)の海底に「第一鹿島海山」がある。この海山は海溝に落ちかかってるように見えることで有名で、「第一鹿島海山」で画像検索すると面白いものがいろいろ出てきて非常に参考になるw

第一鹿島海山

日本海溝は北米プレートがユーラシアプレートの下に潜り込むところで、海溝の両側の崖は少しづつ崩れている。だが、崩壊と説明される論文もある一方、実際に落ちつつあるわけではないという説もあってよくわからないが、学界の通説なんてコロコロ変わるので気にしないでおこうw もしわずかづつでも落ち崩れつつあるのなら、時間を巻き戻せば昔は今より高かったわけで、過去にさかのぼれば、いずれは山頂が海面に出てしまう。つまり昔は陸地だったことになる。あのへんは海山がいくつかあって、北海道の南の「襟裳海山」のあたりにも、ややバラけた形でいくつかあり、南に離れて茨城沖の「香取海山」や第一鹿島海山のあたりにもやや大きめのがいくつか密集している。襟裳海山が青森県の東方の沖にあり、第一鹿島海山が茨城県の東方の沖にあるんだから、両者を含む範囲を陸地だったとすると南北に細長い地形となり、ちょうど東北地方の東側にもう一つ東北地方があるような格好になる。

冒頭で述べたことの繰り返しになるが、漢字の意味からすると「員嶠」は(上から見たら?)丸い島で険しい山。「岱輿」の「岱」は「泰山」で五山の一つ「東岳」にあたり、員嶠よりは東にありそう(日本は傾いてるため「東北」と読み替えても可)。「岱・泰・大・太・台」等は同音で原義も近い。この文字だけだと高さも広さもある大きな島かと思うが「輿」と熟語になると高さより広さを言ってるようなニュアンスになる。「輿」が大地や陸地を表わすことも冒頭で述べた通り、岱は大と同音同義だから「岱輿」はまさに「大地」の言い換えなのである。こうなると「岱」は高さではなく広さを強調している印象で、岱輿は広々とした大地のイメージになる。対して「員嶠」は平地が無く高く険しい山岳のイメージになる。そこで海底地形をみると南の第一鹿島海山、第二鹿島海山、香取海山が日本海溝の東側に沿って密集してる一角が島だったとするとまさに「員嶠」。これに比べ、員嶠の近辺から北の襟裳海山のある北西の隅まで、日本海溝の東に沿って広がった低い陸地を想定すると「岱輿」の特徴に合致する。高大な山岳を押し上げる力が弱いため海抜の低い平べったい地形になるのだろう。当時は太平洋プレート上の海底(日本海溝の東側)が現在ほどは沈下していなかった可能性もあり、いっそのこと海山の位置と無関係に太平洋プレート上ならどこに設定してもいいw

岱輿・員嶠_潮流

(※赤で囲んだのが襟裳海山と第一鹿島海山。白線で囲んだのが岱輿と員嶠の想像図だがかなり適当ですw 黄色い矢印は潮流。北からの親潮(寒流)と南からの黒潮(暖流)が三陸沖でぶつかり東へ抜ける。この海流に浸食されるため岱輿と員嶠はつながらず二島に分かれたままになる。潮流からみると、日本から岱輿へは北海道か青森県から出航し、員嶠に渡るには千葉県か茨城県から出航する。逆に、岱輿と員嶠から日本に来る時は東北地方の真ん中あたりに入港することになる)

俺は必ずしもそれら「海山」が昔は陸地だったはずだと言い張りたいわけではないし、員嶠・岱輿のどちらかのなれのはてがそれら「海山」だと言いたいのでも必ずしもない。それら海山が陸地だった説でももちろんかまわないんだけどさw ただ、第一鹿島海山みたいな「海山」は日本海溝にそってかなりあることから推測するに、人類が発見する前に日本海溝に崩れ落ちて消えてしまった海山も多かったのではないだろうか。そしてそれらがかつて陸地だった可能性もあるのではないだろうか。だから北海道の南の沖から茨城県沖にかけての広大な海域に、日本海溝の東側に沿ってかなり大きな陸地の一つ二つあってもいいんじゃないかw

むろん、この場合はどんなに大きな陸地といっても、せいぜい北海道とか九州とか四国みたいな大きさを想定してるのであって、太平洋に目一杯ひろがったムー大陸のようなものを想定してるのではない。まぁ佐渡、隠岐、対馬、淡路島ぐらいの島々が密集した群島でもいいが。

ともかく以上をもって、現時点での俺の結論としたい。終わり。

「沈んだ島」に住んでいた神仙たちのゆくえは…?

本題はすでに終わっています。終わり。

ところで、二つの神山が沈んだ後、二島に住んでいた「神仙たち」は当然、日本に逃げてきただろう。あるいは神通力で未来を予知し、大災害以前に安全に移動したかもしれない。これについては、上述の通り、古代信仰の観点から今の気仙沼のあたりが常世国と往来する港だったと想像した訳だが、実際に潮流の関係からみても日本への上陸地は東北地方の真ん中へんになるだろうことも説明した。そうだとすると「沈んだ島」から移ってきた人々の最初の入港地も当然ここだったはず。

そう思って改めて気仙沼について調べると、実は面白い発見があった。気仙沼湾は古くは「鼎ヶ浦」(かなへがうら)と呼ばれていたというのだ。

天保十四年(1843年)に詩人の油井牧山が気仙沼を訪れ「鼎浦八勝」という漢詩を作ってから気仙沼湾の風景を「鼎ヶ浦」と呼ぶようになったのだ、と。だが漢詩の漢語からこんな和風な名前になるのだろうか。実はもっと古い地名ではなかったのか? なぜかというと「鼎ヶ浦」という地名が「員嶠」の痕跡ではないかと思われるからだ。

「員嶠」の字義の解読は冒頭で述べた通り。三度目になるが、「員嶠」の「嶠」は険しい山の様子を表わすが要するに「山」。「員」はもともと「丸い」という意味だったが人間を数える言葉に変わったため新しく「圓」という字(「円」の旧字体)が作られた。その前は「員」の上の「□」が鼎の口を表わし、下の「貝」は「鼎」の字の省略形だった。「鼎」は三本足の器の象形文字。つまり員とは鼎とその入口を表わした文字なのである。

「鼎ヶ浦」は二つある!!

そう思って、ざっと調べてみたところ、気仙沼湾が古く「鼎ヶ浦」と呼ばれた由来には四つの説というか四つの要素がある。

 ①岩井崎・龍舞崎・御崎(唐桑半島の御崎神社のあるところ)の三岬を鼎の足に見立てられる。

 ②湾の周囲の安波山・亀山・早馬山の三山が鼎の脚の配置になってるから。

 ③湾の最奥、神明崎・柏崎・蜂ヶ崎の三岬を鼎の三本の足の着地点に見立てた。

 ④南から入り込む水道(狭義の気仙沼湾の入口)・旧時の鹿折川の河口付近(埋め立て地)・旧時の細浦(現在消滅)の三つの入り江を鼎の三本の足に見立てた。

以上の四つはお互いに矛盾するわけでもなく両立もするが、③がもっとも有名なためこればかりが強調されすぎ、現地でも③しか知らない人が多い。

上記のうち①②は広義の(広域の本来の)気仙沼湾全体をみたもの、③④は奥の細長く入り込んだ部分、狭義の気仙沼湾(というか気仙沼「港」とその周辺)を見ている。すなわち「鼎ヶ浦」には①②の「大鼎ヶ浦」と、③④の「小鼎ヶ浦」の二種類がある。「大鼎ヶ浦」のような広域を実際に上空からみることは江戸時代には不可能であり、地図を見ないと把握できない。地図を見た上での地名である。これに対し「小鼎ヶ浦」は適当な位置にある高台から実際に気仙沼湾を眺めた風景に基づいた地名である。

ただし上記の④は湾の入口が、③は蜂ヶ崎が他の2か所から遠く離れすぎてアンバランスであり、こんな鼎があったら倒れてしまうが、そう思うのは上空から地図でみているからで、そもそも③④では見渡せる風景という視点にこだわったもの。

それに対して①②は湾の全域を包括して鼎に見立てており、地図を見る限りこれの方がわかりやすくはある。ただ、②は安波山だけが離れすぎてバランスが悪い。①は三つの岬がほぼ並列してるので、鼎の足の着地点とみるのは苦しい。鼎の足を横からみたところとは考えられないか。googleマップみればわかりやすいが、気仙沼湾を形作る東の唐桑半島と湾内の大島がどちらも細長めなので湾内が大島によって東水道と西水道に大きく分けられている。それで松岩あたりから岩月、最知、階上をへて岩井崎に至る西側の湾岸地区が西の足、大島が真ん中の足、唐桑半島が東の足になる。

その三本の足の先が海、港の入口だから鼎(略して「貝」)の入口ということで「口」を乗せると「員」の字になる。「員嶠」の「嶠」は山のことだが、山もこの近辺のご多聞に漏れず山だらけなぐらいあるが唐桑半島には早馬山、大島には亀山、湾の西部には岩倉山と三本の足ごとに名山がある。亀山には延喜式内計仙麻神社が鎮座、岩倉山麓の岩倉神社は延喜式内社桃生郡の石神社の論社であり、巨大な岩石(いわゆる磐座)を御神体として天照大神を祀っている。

「員嶠と岱輿」はここだ1(「小鼎ヶ浦」編)

現在は観光地として気仙沼湾の眺望を楽しむための場所が整備されているが、昔はどこから眺めても良い風景なので特定の場所というのはなかったと思いやすい。だが、柏崎の西側の丘陵地帯に「浜見山」という、いかにも湾内を眺めるためについたような地名がある。ということは「鼎ヶ浦」を観るための山であり、ここが「員嶠」(鼎山)だったのではないか。

それなら付近には「岱輿」に相当する山もありそうだと思って調べると、すぐそばに「陣山」と称する小山がある。陣山という地名の由来は不明だが、砦の遺跡(中世の城館)があり、一説には天正十六年(1588)下鹿折氏の軍勢が熊谷氏の治める気仙沼に侵攻した時にここに陣を張ったのだともいわれる。だがこれは推測であり、明確な記録がないのでこの遺跡がはたして下鹿折氏の陣の跡なのかも、当時は陣山といっていたのかどうかもわからない。ただ、「陣」は「阝」に「車」。「輿」の字源も「舁」と「車」に分解でき、コシと和文で読むと人間が担ぐ乗り物だが、もともとは馬に引かせる馬車のパーツ(人が乗る部分)のことだったから、漢文では車をさして輿ということもある。「岱」は山(泰山)のことだから「陣山」とは「岱輿」の転倒なのである。陣山の裾野が南に延びた神明崎と、浜見山の東の柏崎とは小鼎ヶ浦を挟んで互いに望み合う。

「員嶠と岱輿」はここだ2(「大鼎ヶ浦」編)

浜見山はちょっとした丘陵なのでお手軽に風景を楽しめる訳だが、「鼎ヶ浦」の眺望を楽しむ最高のスポットといえば、やはり安波山を置いて他はない。つまり安波山こそが「鼎ヶ浦」を観るための本来の場所であり、「員嶠」(鼎山)だったのではないか。

「安波山」の名については既述のごとく、江戸時代に大杉神社を勧請したことでその名がついた、と。だが、それ以前の名前がわからなかった。で、経緯を詳しくいうと、この神社は江戸時代の元文四年(1739)気仙沼の廻船問屋の三人衆、卯左衛門・長左衛門・市右衛門のトリオが常陸の大杉神社を勧請したことに由来するという。だが、これより以前「あんば囃子」は幕府によって禁止され元文三年(1738)には伊達家(仙台領)でもご法度になっているから、疫病除けのご利益ありとされた肝心の名物の「お囃子」を気仙沼にもってくることは不可能だった。あくまで航海安全、航海の守護神として勧請したってことだろう。山に祀ったことからもそのことが伺える。古来、山は航海の目印になるので、山の神はまた航海の神として崇敬されている例が全国的に多い。そもそもこの三人、廻船問屋なんだからさもありなんということだ。さすれば当初は山そのものでなく山中の神社をさして「あんばさん」(「さん」は敬称)といってたのが、その神社が山にあるためにいつしか山の名が「あんば山」になった、と考える人もいるかもしれない。ただし、古い時代の気仙沼弁では敬称は「さん/さま」でなく上方(かみがた)みたいに「はん/はま」と言っていたのだから、そんな錯誤はないと思う。だが、まぁ、そこは百歩譲っていいとして、そうするとそれ以前の山の名が不明ということになる。

そこで、ここは一つ安波山の古名について推理してみると、もしやそれは「鼎山」(かなえやま)等とでもいったのではないかと思われる。「鼎山」というのはもちろん当て字で「員嶠」のことだろう。

では安波山(員嶠)とセットになる山(岱輿)はどこか? それは言うまでもなくもちろん「大鼎ヶ浦」に囲まれた中心地、「大島」(気仙沼大島)を置いて他にない、地図を一目みれば気仙沼湾の真ん中にデンと鎮座しているのがあからさまにわかる。「岱輿」の字解も三度目になるが「岱」は「大」、「輿」は陸地。現代の地理学でいう大陸とは限らず、海上にあっては島のことである。つまり「岱輿」=「大島」なのである。山としていうなら大島の主峰「亀山」ということになる。「亀山」と「安波山」もまた、「浜見山と陣山」に同じく、二山、海を隔て而して望む。互いに絶景である。

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