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更夜飯店

食べよ、これは我が体なり

2018.03.11 20:33

食べよ、これは我が体なり

Eat, For this is My Body/Mange,ceci est mon corps

2007年11月24日 有楽町 朝日ホールにて(第8回東京フィルメックス)

(2007年:ハイチ=フランス:105分:監督 ミケランジェ・ケイ)

特別招待作品

 ここ数年の東京フィルメックスの特徴は、最後のクロージング作品の前の映画は、とても観念的といいますか、哲学的な映画をもってくるのです。

ハイチの映画・・・といっても実質はフランス資本のフランス語で、監督はハイチ系アメリカ人のミケランジェ・ケイ監督のなんとこれ初監督作品なのです。

 監督自身の言葉を借りれば、これは「瞑想映画」

だから、ストーリー、物語よりも、出てくるシーンが幻想的だったり、迫力だったり、時間軸もばらばらだし、時代設定もあえて曖昧。

そして、ハイチの映画であっても、「ハイチ」という言葉は一切使っていません。

これはどこかの国の夢のような映画なのだ・・・だから、観る人によって、受取方は色々だろう・・・こういう映画はまず、日本の映画館で上映されるとは思えないのですが、(実際、過去の上映作品も未公開です)、いや~~観て良かったなぁ。

 こういう映画のわたしなりの見方、というのがあります。

それは、「わかろうとして頭で、理屈で観ない。でも、とにかく、目に焼き付けておくと、後々頭の中で、忘れられていくか、熟成されて膨らんでいくか・・・どちらかなので、とにかく、訳わかんなくても、観ておくこと」です。

わたしは、こういう映画を観て、すぐに理路整然と頭の中で整理整頓して言葉にできるほど頭が良くない。

 変なドラマが絡んでいたりするとそれが邪魔だったりしますが、この映画は、幻想、夢、瞑想をずっと続けてくれるから、わたしは上映中何をしていたかというと、「観ていた」。それだけです。

こういう映画の後、すぐに何故とか、どうして、とか聞かれても、答えられない類の映画ですね。

わかりやすいストーリー映画だったら別だけれども、なんでもかんでも、わからない、わからないとすぐにわかろうとする人は、ちょっとこの映画ダメだと思います。

 映画の後の監督が、「映画の最中に何人か、出ていってしまったけれど、こういう映画は仕方ない。むしろ、最後までこれだけの人が残ってくれた事が嬉しい」と言われていました。

そう、ああ、出て行っちゃった~~~が、あった映画でした。

 映画は、最初の10分くらいで、あ、これはいいかも・・・とわかるのですが、この映画は、ハイチの風景の空撮。

ぐう~~~と飛行機がハイチの風景をなめるようにして撮っていく。そして、暑い国らしい音楽。

ここで、あ、いいかもね、、と思ったのですが、映画は、ある屋敷の中になる。

間にブゥードゥ教のドキュメンタリー風のシーンがはさまれますが、基本となるのはある屋敷です。

 そこには、老女がひとりベッドの上にいて、タイトルとなった「食べよ、これは我が体なり・・・」を含む膨大な詩のような台詞をつぶやく。

老女の娘らしいフランス人の女性がいて、この女性が『畏れ慄いて』で、日本で働く外国人を演じていたシルヴィア・テステューでした。

独特の顔だちをしているからすぐにわかったのですが、驚きました。

監督によれば、この女性は幼さと老いを両方持っている顔の女優さん、という基準だったそうで、あ、確かにそうですね。

 屋敷には、ハイチの黒人の子供たちが10人くらいメイドとして、屋敷にやってくる。

そして、老女の介護をしているのは、黒人の青年です。

この映画は切り返しがない、つまり、人と人が交互に会話するシーンをあえて入れていないんです。

だから、老女の娘なのだろうけれども、母と娘が向き合って会話するシーンはありません。

老女を風呂に入れる為に青年が、抱いてきて、娘が「母の具合はどう?」と聞くけれど、その時、浴槽には誰も入っていないのです。

だから、時間軸が全く関係ないこの世界では、娘と老女は同一人物ともとれます。

 部屋にある鏡の前に女性が立つと、その鏡に映るのは、ゆがんだ顔。

また、黒人の青年とのやりとりで、「母」とは、青年の「母」でもあるようなくだりも出てきます。

自分とは誰で、他者とは誰なのか・・・その境目を消してしまっています。

 屋敷の台所には、大きな攪拌機があって、ミルクのようなものをいつも攪拌している。ぐる~~ん、ぐる~~~んと回る白い液体の中に、黒い肌の男の子が飛び込む。

それは、老女の唯一の食事なのです。

まるで若い男の子を食べているようなイメージが出てきます。

 というように、この映画はイメージ映像の連続なのですが、あくまでも無機的ではなく、水、食べ物、飲み物、古いピアノ、といった有機的なものでいっぱいです。

もともと、人間の体というのは無機質なものでなく、逆に有機質なんです。映画自体が、「体」「ボディ」なのかな・・・と思います。

黒人の青年は、突然、屋敷の中にあるピアノを流暢に弾き出す。

その音色の美しさに、ブゥードゥ教の打楽器を中心とした熱気ある音楽がかぶさる。

 ミケランジェ・ケイ監督は、大変、話し好きな方で、喋る喋る喋る・・・喋りまくるのです。

自分の映画については、大変知的、哲学的なヴィジョンを確信している方なのですが、とにかく、喋ることが好きな人で、監督だけで、映画が撮れますね。

「植民支配側の白人が何故女性だけで、男性が出てこないのか」という質問に、「サプライズ・クエスッチョォンッ!!!!」と叫び、足をばたばたさせて、「今考えるから待ってくださいね」といいつつ、その間も喋っていました。

 監督の話でのこの映画のエピソードの数々は、あまりにも監督が喋るので時間切れになってしまったのですが、その後の、トークイベントでは座ったとたんにマイクを、奪い・・・喋り出す。

ピアノの上手い青年はハイチで、見つけた青年で、映画と言わずに、出演してもらったけれど、慣れない場で、いきなり映画だ、と言われて気絶してしまったとか。

あふれでる言葉を、おさえた映像で映画に出来る・・・こういうタイプの監督もいるんだなぁ、と感心しました。

一番、インパクトあった監督さんでした、ミケランジェ・ケイ監督。