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練馬区 05 (16/10/22) 下練馬村 (2) 平和台/錦

2022.10.17 05:21

下練馬村 平和台 (へいわだい)


下練馬村 錦 (にしき)

  • 庚申塔 (51番)
  • 金乗院
  • 錦辨才天
  • 円明院
    • 庚申塔 (54番)、馬頭観音 (40番)、馬頭観音 (32番)、馬頭観音 (登録番号無し)
    • 血の道地蔵
    • 本堂
    • 穴守弁財天 [2023年1月23日訪問]
    • 三界万霊牌 [2023年1月23日訪問]
    • 四国 八十八ヶ所霊場お砂踏み場 [2023年1月23日訪問]
  • 伏見稲荷神社 [2023年1月23日訪問]

今日はいよいよ滞在最終日となり、明日沖縄に帰ることになる。今日はやっと予定がなく、終日練馬区散策に使える。できるだけ多くのスポットを巡りたい。下練馬村の平和台、錦、氷川台、練馬、桜台、早宮を中心に史跡を見学する。

まずは平和台から始める。平和台の数か所の史跡は先週訪れたので、見逃したものを訪問。



下練馬村 平和台 (へいわだい)

平和台は練馬区北東部に位置し、北は北町、東は錦、南は氷川台、西は早宮に接している。

平和台は旧下練馬村の本村 (ほんむら)、重現 (じゅうげん)、丸久保があった地域になる。本村は、下練馬村の中でいちばん早く拓けた中心地だった。村制時代はここに役場や駐在所があった。重現は重見とも書き、シゲミとも呼ばれた。すぐ東の方、氷川台1丁目と3丁目に湿化味 (しっけみ) という地名がある (湿化味橋)。東京メトロ有楽町線の平和台駅前の交差点付近を、地元では今も丸久保といっている。ここは富士大山街道と高田道 (地下鉄が通っている道路) が交わる交通の要衝だった。

平和台に相当する地域は、昭和4年の町制では練馬町に属し、昭和7年に市郡合併し、板橋区が成立の際に練馬町は北町、仲町、南町の3つに分かれ、ここは仲町の一部だった。1965年 (昭和40年) の住居表示実施で現在の平和台三丁目と四丁目は仲町から、一丁目と二丁目の北側は北町からそれ以外は仲町から移管されて平和台が誕生している。当初は「本村」とする案もあったが、新住民の反対により採用されなかった。戦後20年を経過しているのだが、この地域の北には自衛隊基地があり、住民達は平和を願って瑞祥地名として「平和台」と決めたともいう。因みに旧町名である仲町は今も練馬区立仲町小学校 (氷川台) など隣接地域を含めて残っている。仲町が平和台の多くの領域を占めているのだが、仲町は一丁目から六丁目まであり、どの地域が移管されたのかがわかる資料は見当たらず。練馬区でも早くから発展した地域ということで、明治の地図でも民家が比較的全地域に広がっている。戦前から戦後後は北の方から、民家が増えている。現在ではほぼ全土に民家が密集している。2つの幹線道路が走り、交通量が多く沿道には商業施設が立ち並んでいる。

人口データは1956年からしか入手していないのだが、平和台はかなり前から発展をしており、1956年以前に既にかなりの増加していたと思われる。高度成長期には他の地域の比べて人口の増加率は少ないが、それ以降も人口は停滞期もあるが順調に伸びている。近年は横ばい状態が続いている。


練馬区史 歴史編に記載されている平和台内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 須賀神社、西本村稲荷神社
  • 庚申塔: 3基 馬頭観音: 3基


まちづくり情報誌「こもれび」- 平和台


平和台訪問ログ



平和台須賀神社

北町の下練馬宿下宿から新しい川越街道 (国道256号線) を南に越えて、平和台図書館のすぐ北側に須賀神社がある。創建年代等は不詳だが、文禄年間 (1592-1596年) に開創した金乗院境内に「牛頭天王」として創建され門前に祀られていたと伝わっている。1861年 (文久元年) の火災により、錦の金乗院からその西側の当地へ移転している。大正11年に建てられた鳥居をくぐると、手水舎があり、その横には三つの力石が置かれている。かなり大きい石だ。ここが住民たちのコミュニティの場所だった事がわかる。参道の正面に拝殿があり、境内には本村講中が寄進した講中安全を祈願した塔が四つ並んで建てられている。明治42年のものが二つ、明治45年のもの、寄進年不詳だが比較的新しいものが一つ。この神社も本村講中が中心地なって管理されていたのだろう。また境内社として、ここにも稲荷神社が建てられている。


庚申塔 (58番)

平和台図書館の南側の住宅街の道路の隅に1834年 (天保5年) に造られた庚申塔 (58番) がある。駒形の塔で「庚申塔」「江戸屋」「當村東講中」と文字が刻まれて、側面には「南 ぞうしがや たかたみち」「北 下練馬宿 とたわたし道」と刻まれた道しるべとなっている。


地蔵尊 (2023年12月2日 訪問)

平和台一丁目の住宅街の中に1956年 (昭和31年) 造立の比較的新しい地蔵尊がおかれていた。


庚申塔 (57番 東本村庚申講)

須賀神社の東、南北に流れていた田柄川は緑道になっており、かつて渡戸橋が架かっていた場所に庚申塔 (57番) が祠の中に置かれている。東本村庚申講中が1685年 (貞享2年) に建てたもので、板状駒型の塔で正面には青面金剛立像、邪鬼、三猿が彫られ、「奉新造立庚申之供養結衆二世安樂所」、「貞享二天乙丑九月吉日」と刻まれている。庚申塔の隣には1752年 (宝暦2年) に東本村庚申講中10人によって寄進された庚申講の碑があり、「是より 西たなし道 東いたはし道」と道しるべとなっている。


西本村稲荷神社、西本村御嶽神社

練馬自衛隊南交差点から東南に道を進んだ所に少し広い空き地があり、そこにニつの祠があった。その一つが西本村稲荷神社。西本村稲荷神社の創建年代は不詳だが、延宝年間 (1673-1681) から信仰されていたと伝わっている。創建以来18戸の講員によって護持されているそうだ。境内には1955年 (昭和30年) の鳥居、1984年 (昭和59年) 再建の狐型狛犬がある。境内隅には境内社として、1980年 (昭和55年) に武蔵御嶽神社から勧請された西本村御嶽神社 (写真下) がある。

この西本村稲荷神社では二月の初午には、講員によって稲荷ビシャ (歩射、奉射、武社、毘舎) が行われている。ビシャ講の行事で、元々は弓で的を射てその年の豊作を占う行事だが現在は地域によってその祭祀は多彩になっている。ヤド (宿、舞などの奉納場所) をはじめ、当日の供え物、接待などの所役は、前年の稲荷ビシャにおいて決められている。また宴席において、その年の代参(御嶽、成田山、大山参り)をくじ引きで決めるなど、古いかたちが今日まで伝えられているそうだ。

祭神は伏見稲荷大社で祀られる宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ、古事記) と同一視されている日本書紀に登場する保食神 (うけもちのかみ) となっている。日本神話が記されている文献によって呼び名や系譜などが異なっている。保食神は穀物の神で、日本書紀にその記述がある。

天照大神の命で月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬り殺してしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったという。天照大神が保食神の所に天熊人 (アメノクマヒト) を遣し、保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦、大豆、小豆が生まれ、天熊人がこれらを全て持ち帰り、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実った。
と書かれている。古事記では須佐之男命と神大市比売との間に生まれた女神の宇迦之御魂神に関して、同様の話があり、宇迦之御魂神と保食神が同一視されている。


庚申塔 (59番)

西本村御嶽神社のすぐ側、道路脇に庚申塔 (59番) がある。1863年 (文久3年) に作られて、方形で正面には庚申塔と文字が彫られ、その下に三猿、側面には「武刕豊嶋郡下練馬村本村 右 大山道」と刻まれて道しるべとなっている。


丸久保馬頭観音 (43番)

環状八号線と都道411号が交わる丸久保交差点の場所に丸久保馬頭観音 (43番) がある。ここを走る環状八号線はかつて江戸時代には富士街道 (ふじ大山道) で、この辺りが丸久保と呼ばれた地域で交通の要所だった。この馬頭観音の造立年は不明だが江戸時代の中期と考えられている。これまで再三移設を繰り返し、現在はここに落ち着いている。馬頭観音は方形で馬頭観音と文字が刻まれている。道しるべともなっており、かなり詳しく刻まれている。正面には「富士 大山 八王子 小金井」、「新高野一里、田な志三里、府中▢里」とある。右面には「新井やくし 堀之内二里半、高田二里、ぞうし賀や二里、日本橋▢里」、左面は「赤塚十九町、所沢五里、下板橋一里半、戸田一里半」、裏面には、「練馬宿十二丁、板橋宿一里半、下板橋 戸田一里半」とある。



2022年10月に平和台を訪問した際に見落としたり、見つからなかった史跡を再度探し、ようやく見つけることができた。



馬頭観音 (42番) [2023年1月19日 訪問]

丸久保馬頭観音と西本村稲荷神社の間の住宅街の中、漆原家のブロック塀の中に馬頭観音が保存され祀られている。1890年 (明治23年) 造の方形文字型の馬頭観音で施主名はこの家の漆原力蔵と刻まれている。



平和台稲荷神社 [2023年1月19日 訪問]

馬頭観音 (42番) から丸久保馬頭観音がある平和台駅に向かうと畑の中に稲荷神社がある。平成9年に奉納された稲荷神社の特徴の赤鳥居が並んでいる。創建年代は不明。この神社に関しての情報はほとんどなく祭神も載っていない。地域として祀っているのであればもっと応報があってよいので、訪れた人のコメントでは個人屋敷の邸内社ではないかとなっていた。邸内社には稲荷神社が多いの出そうかも知れない。邸内社としては今まで見た中では最も大きい。邸内社とすれば、この地域の有力者でだったのだろう。ただ鳥居は奉納されているので、可能性は有力者の邸内社が村の神社に変わっていったのではないだろうか?境内にはさざれ石をイメージした手水鉢が置かれ、二つの力石が置かれている。また境内社が一つと、倉庫が置かれている。


馬頭観音 (41番) [2023年1月19日 訪問]

平和台稲荷神社の横の道を東へ少し進んだ民家の垣根の中に馬頭観音がひっそりと置かれていた。この馬頭観音を探すには苦労した。たまたま見つかった。この馬頭観音は比較的新しく、1939年 (昭和14年) に建てられ、方形文字型になっている。



平和台の次は隣村の錦に移動する。


下練馬村 錦 (にしき)

錦は北は北町、東は板橋区桜川、南は平和台と氷川台に接している。

錦には江戸時代、徳川5代将軍綱吉がまだ将軍になる前、脚気療養の為、この地にあった御殿に滞在していたと伝わる。その御殿で大根を栽培させたのが練馬大根の起こりという。この辺は昭和の初めまで下練馬村の今神 (錦1丁目)、御殿/東本村 (錦2丁目、碑は現在の北町にある) であった。

施行で練馬町を経て、1932年 (昭和7年) に板橋区が成立時に板橋区練馬北町、練馬仲町、練馬南町となった。1947年 (昭和22年) に板橋から練馬区が独立後、練馬の冠が外れている。1965年 (昭和40年) に住所表示が実施され、仲町は錦、平和台、氷川台、早宮などの町となり、その内、北町1丁目の一部と、仲町1丁目と2丁目の一部が錦1丁目と錦2丁目となった。錦はここにあった御殿にあやかって豪華できらびやかな町発展の願いがこめられているそうだ。この時に仲町は消滅している。

錦の人口は戦後の増加が著しく、特に高度成長期の前半は二桁の伸びを示している。人口が増えたことで、1965年 (昭和40年) に住所表示が実施されて仲町の一部から錦1丁目と錦2丁目となったのだがそれ以降は人口は減少に転じ、2000年を過ぎてから再度人口が増え始めている。近年は横ばい状態となっている。


練馬区史 歴史編に記載されている錦内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 金乗院、円明寺
  • 神社: 弁財天
  • 庚申塔: 1基  馬頭観音: 2基


錦訪問ログ



庚申塔 (51番)

下練馬宿の上宿から富士街道を環状8号線をこえた所、富士街道沿いに庚申塔 (51番) がある。1821年 (文政4年) に作られ、駒形の塔で「庚申塔」の文字が彫られている。庚申塔の側面には「文政四辛巳年四月吉日」「武列豊嶋郡下練馬驛上宿」「庚申待講中」と刻まれている。反対側には「右/ふじ大山道」と道しるべにもなっている。


金乗院

如意山金乗院萬徳寺は、真言宗豊山派の寺院で、名主木下大炊之輔が開基となり、僧行栄が文禄年間 (1592-1596年) に愛染明王を本尊として建立したと伝わっている。1649年 (慶安2年) には三代将軍徳川家光より寺領の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する中本寺格の寺院でした。1677年 (延宝5年) に徳川綱吉が脚症の静養のために御殿 (徳川綱吉御殿跡) に滞在していた際には、御殿に度々伺候し、綱吉の江戸城帰城後には、御殿を拝領し、その材木で寺観を一新したという。江戸時代末までに清性寺 (北町2-41 消滅)、阿弥陀堂、威徳院 (豊島園附近 消滅)、松林寺 (北町5丁目 消滅)、高徳寺 (北町5丁目歩道橋附近 消滅)、東林寺 (金乗院門前) 等を合併している。先に訪れた円明院、光伝寺、荘厳寺等は第二次大戦まではの金乗院の末寺だった。1861年 (文久元年) には門前にあった須賀神社 (現在は平和台1丁目に移転) の祭りの時に火災に遭い全焼。その後、末寺の明王山松林寺 (現自衛隊西側、墓地だけが残っている) に本堂を移して1954年 (昭和29年) まで仮本堂として使用していたが、1957年 (昭和32年) に鉄筋コンクリート造りで再建されている。豊島八十八ヶ所霊場第32番札所となっている。

金乗院の参道前には下練馬道標が建っている。この道は、旧下練馬村の今神、本村、重現、早淵など、村の中央を北東から南西へ走る幹線道の一つで庶民に生活道で近隣の村へ通じていた。下練馬道標は旧川越街道から板橋区上板橋一丁目 (旧上板橋村字七軒家) 付近でわかれ、金乗院を迂回して、須賀神社から開進第一小学校の南側を通り、中之橋で石神井川を渡り、練馬城址の東側 (旧豊島園駅西側) を通って清戸道と交叉し、中村の良弁塚前から鷺宮福蔵院方面へ通じている。

参道に入り進むと、黄色の山門になる。黄色とは珍しい。昔も黄色だったのだろうか?

この山門は三代将軍徳川家光公使用の門で薬医門となっており、築後百年以上は経過していると考えられ、区内で現存する薬医門では最も古い門。

境内は綺麗に手入れがされている。山門を入った右手に大師堂、正面に本堂があり、その前には地蔵尊が置かれている。

左側は広大な駐車場 (?) になっている。洒落たデザインが凝らされて、所々に石や灯籠が配置されている。また、その広い広場にポツンと鐘楼もある。この広場から本堂方面を見ると、銀杏の大木が生えている。高さ18m、幹囲は5mで、三代将軍徳川家光のお手植えと伝えられている。その大銀杏の前には1656年 (明暦2年) に作られた船形の石の月待供養塔 (左中) があり、六地蔵が浮き彫りされている。金乗院の一石六地蔵として区登録有形民俗文化財に指定されている。


錦辨才天

金乗院のすぐ西に錦辨才天がある。創建年代は不明だが、元々、この地には東林寺があった。東林寺は明治維新の廃仏毀釈で、金乗院に合併されて廃寺となっている。この東林寺にあった辨才天だけがここに残っているそうだ。


円明院

円明院は真言宗豊山派で、正式には慧日山円明院西光寺と号し、本尊を不動明王として、開山は僧行真、開基は賢栄阿闍梨と伝えられている。創建時期は不明だが、1500年前後と考えられている。豊島八十八ヶ所霊場27番札所となっている。1810年 (文化7年) に再建された山門の表両側には何体もの地蔵尊が並べられている。


庚申塔 (54番)、馬頭観音 (40番)、馬頭観音 (32番)、馬頭観音 (登録番号無し)

山門の右側に置かれた石像の中には1722年 (享保7年) に作られた庚申塔 (54番 写真中右) がある。光背形の塔に日月、三面八臂青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が浮き彫りされている。基壇には「武刕豊嶋郡下練馬村 二十六人」とある。この馬頭観音は、元々は氷川台2-7の今神橋際にあったもの。基壇の左右には「右 ふじミち」「ひだりハたかたみち」と刻まれ道標になっていたものがここに移設されている。また、左端の石柱 (中左) の奥の方には方形の馬頭観音 (中右) がある。側面には大正2年11月18日と刻まれている。資料を調べると、氷川台4-58にあった40番で登録された馬頭観音が同じ日に造られている。氷川台4-58には見当たらなかったのでここに移設されたと思われる。真ん中の光背形の石像 (右上) は1794年 (寛政6年) に造られた馬頭観音 (32番) で正面には青面金剛像が浮き彫りされて、基壇には年紀と「武刕豊嶋郡下練馬村 26人」とある。この馬頭観音座像は、富士街道と戸田橋に向かう道 (錦1-31) にあり道標にもなっていたんがここに移設されている。基壇の左右には、「北とだわたし道」、「西ふじみち」と道しるべが刻まれている。更にその右側に小さな角柱があり、それも文字型馬頭観音だが摩耗が激しく造立年月日は不明。その他地蔵尊が二体あり左側の背が高いのは1785年 (天明5年) 造立の延命地蔵 (右下) 、もう一つは1679 (延宝7年) の阿弥陀如来像 (下中)。


血の道地蔵

山門の左側にもいくつもの石像がおかれている。その中には「血の道地蔵」と刻んだ1892年 (明治25年) の地蔵菩薩立像 (写真下左端) がある。生理不順など婦人病にご利益があると言われ信仰を集めて来た。別名「いぼ地蔵」とも呼ばれ、 この地蔵菩薩に祈るといぼがとれると伝えられている。右端の石塔には弘法大師坐像が刻されている。


本堂

境内は綺麗に整備されており、参道の奥に本堂がある。境内には多くの地蔵尊や記念碑、慰霊碑が置かれている。


穴守弁財天 [2023年1月23日訪問]

円明院内には、もともとは稲荷社と弁財天社があったと伝わる。その関連なのか、1501年 (文亀元年) の弁財天像線彫の板碑が1915年 (大正4年) に本堂の裏の山の土窟から発見された。寺宝として保存されている。かつては田柄川が門前を流れるていたので、水との関係のある弁財天を信仰したものと思われる。村人たちはこれを供養し、穴守弁財天として祀っている。毎月3日、21日の縁日には多くの参詣人で賑わったという。


三界万霊牌 [2023年1月23日訪問]

墓地の中には三界萬霊と書かれた仏像がある。三界万霊牌は三界 (無色界、色界、欲界) の供養されない霊も含め、この世のありとあらゆる精霊を合祀したもの。で、仏像の両脇には無数の石仏が置かれている。


四国八十八ヶ所霊場お砂踏み場 [2023年1月23日訪問]

墓地の裏山には四国八十八ヶ所霊場お砂踏み場が造られている。四国にお遍路二行けない人達がここで八十八之寺を巡ることができる様になっている。


伏見稲荷神社 [2023年1月23日訪問]

円明院のすぐ東、坂を登った所に伏見稲荷神社がある。朱塗りの祠の中には双体道祖神が祀られている。数は少ないのだが道祖神を祀った神社はあるのだが、稲荷神社では通常ならば狐像が置かれているのだが、この稲荷神社には狐は一匹もいない。元々は道祖神が置かれそれを拝んでいたのだろう。後に伏見稲荷神社から分霊をしてここ二稲荷神社を建てたが、道祖神信仰が根強く残り、道祖神を祀っているのではないだろうか?



平和台と錦から氷川台に移動する。後で調べると平和台と錦の史跡でまだ見ていなかったところもあったのだが、それらの史跡は次回の東京訪問とする。2023年一月に再訪し、その時の訪問レポートはここに追加している)氷川台訪問記は別レポート。



参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
  • 練馬の石造物 路傍編 1 (1991 練馬区教育委員会)