対岸
水声社「フィクションのエル・ドラード」中の一冊として2014年に出たコルタサルの処女作品集。教職にあった時期(1937~45年)に書かれた短編13本に加え、1963年に行われた講演も収録されている。
一読、怪奇幻想の味が強く、創元推理文庫の「怪奇小説傑作集」なんかに入っていても違和感のない作品が多い。「吸血鬼の息子」とか「魔女」とか。これでコルタサルを知ると、そういう系統の作家だと思ってしまうかもしれない。
しかし、乾いた詩情、何気ない日々に忍び込む違和感、といった「らしさ」もまたじゅうぶんに発揮されているので、すでにコルタサルを気に入っている人が読んで損はないはず。
あくまで「印象として」だけど、コルタサルが怖さや気味悪さを描く場合、それはたいてい昼間に出現する。鼻をつままれてもわからない闇夜やおどろおどろしく鳴り渡る雷鳴を舞台装置にするゴシック趣味はコルタサルにはない。あっけらかんとしたというか、そういう薄れかけた夢の記憶のような、色と音が枯れたかんじの手触りが僕は好きだ。そういう意味では、もし「怪奇小説傑作集」に入れるなら、ラヴクラフトやポーの巻ではなくて(付録の講演のなかでは短編のお手本としてポーの作品名を挙げているにしても)、フランス編である第四巻あたりであればおさまりがいいかもしれない。
で、その第四巻にモーパッサンの「手」という作品が入っているのだが(講演録にはポーと並んでモーパッサンの名も出てくる)、『対岸』にも、同じように意思を持って動き回る手の登場する作品がある。モーパッサンの手が元の持ち主の恨みを宿しているのとは対照的に、「手の休憩所」に出てくる手は、最初からそれだけで生まれてきたある種の無垢な小動物のように描かれていて、めちゃめちゃカワイイ(しゃべらないミギーというかんじ)。波を彼女にする話がオクタビオ・パスにあって(「波との生活」)、あの波はけっこうツンデレで扱いづらそうだったが、この手なら飼ってみたい(パスのやつ、どこで読んだんだっけと本棚を探してみると、池澤夏樹の文学全集の短編集Iの二番目に入っていた。そして一番目がコルタサルの傑作「南部高速道路」だった)。
手といえば、この本にはもうひとつ「大きくなる手」という作品がある。手が大きくなるのである、タイトルのとおり。えらいことだが、主人公のノリは軽い。「このままじゃマーギーの家には入れない。ああ、どうしよう、これじゃあのアパートには収まらない。医者へ行けば、切断しろと言われるだろう。それしかないだろうし、やむをえまい。腹も減ったし、もう眠い」。それで結局切断するのだが、切り取られた手はどこに行ったのだろう。ブッツァーティの「この世の終わり」に出てくる巨大握り拳が、ひょっとするとその二つのうちの一つではないか。もうひとつがどこに行ったか、だれか知りませんか。
(文: ジラール・ミチアキ)