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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

近代アジアの動乱19-江戸無血開城

2022.10.28 11:02

1868年1月7日、朝廷は徳川慶喜追討令を発し、10日には会津、桑名藩主など27名が付け加えられた。しかし実際慶喜は江戸に居る、京都から江戸へ攻め上るには兵站が難しい。そのキーパーソンは尾張藩主徳川慶勝である。慶勝は鳥羽伏見のあと謹慎していたが、1月15日、彼に藩内「姦徒誅戮」の命が下った。

慶勝は、青松葉事件で藩内の佐幕派を粛清し、東海道、中山道の各大名を勤王方につかせる「勤王証書」を出させるために奔走した。徳川幕府の祖、家康は西に対する備えとして大規模な名古屋城を築城していたが、まさか尾張藩が裏切ることなど思いもつかなかったろう、実際尾張藩と幕府の仲は良いとはいえないが。

徳川慶喜も、恭順の意向であり、小栗上野介などの主戦派はお役御免となった。新政府軍は、東海道514キロをさしたる戦闘もなく江戸付近に到着、3月14日に慶喜が水戸藩預かりで謹慎することで江戸の無血開城が決まった。パリでもロンドンでも政権が変わるときはかなり抵抗がある、日本特有である。

その日は京都御所で「五箇条の御誓文」が発表された日だった。新政府側としては、幕府に代わる新しい政権のマニュフェストを打ち出す必要があった。「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」という宣言は、幕府政治からの決別だったが、かなり大胆な宣言だった。