練馬区 05 (16/10/22) 下練馬村 (3) 氷川台
下練馬村 氷川台 (ひかわだい)
- 諏訪神社
- 御嶽、大山、榛名神社
- 工兵坂
- 栗原遺跡 (城北中央公園)
- 荘厳寺 (そうごんじ)
- 庚申塔 (55番、56番、登録番号無)
- 六地蔵
- 本殿
- 庚申塔 (64番)
- 馬頭観音 (38番)、無縁塔
- 宝篋印塔
- 祠 三社
- 光伝寺
- 庚申塔 (52番、53番)
- 正久保橋
- 氷川神社
下練馬村 氷川台 (ひかわだい)
氷川台は練馬区東部に位置し、北は錦、南は羽沢と桜台、東は板橋区桜川と小茂根、西は平和台と早宮に接している。
氷川台の人口は戦後増加し、高度成長期には急激に人口が増えている。高度成長期が終わると徐々に人口は減少しているが、1980年代、1990年代に再び人口増加となり、2000年からは微増が続いていた。ここ数年は横ばい状態となっている。
- 仏教寺院: 光伝寺、荘厳寺
- 神社: 諏訪神社、氷川神社
- 庚申塔: 7基 馬頭観音: 8基
まちづくり情報誌「こもれび」- 氷川台
練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)
氷川台訪問ログ
諏訪神社
氷川台諏訪神社は創建年代は不詳だが、江戸時代に勧請され錦の円明院の別当で建御名方命、保食命を祭神としていた。練馬町字今神 (練馬仲町1丁目) の農家26戸に今神の氏神として崇敬されていた。明治維新で神仏分離令で円明院から独立している。狛犬と水盤は明治期のものだが、鳥居、燈籠などは大正期のもので、社殿建築と共に整備されている。境内にはそのほかに稲荷神社 (右下)、大正10年の奉納敷石32枚記念碑 (左下)、昭和53年の神社名碑 (左上)、大正15年の今神道記念碑 (左下) があった。
御嶽、大山、榛名神社
諏訪神社の本殿の裏に境内社として、大正8年の御嶽・大山・榛名の三社を納めた石祠がある。
工兵坂
諏訪神社の前の道が神社内に記念碑があった今神道 (いまかみみち) で東京少年鑑別所少年沿に緩やかな登り坂になっている。昔は雨期には膝まで浸かるほどの泥濘で交通が困難だった。大正15年に地元の人々によって改修工事が行われた。記念碑はその完成で作られたもの。この工事には近衛工兵大隊が助力したため「工兵坂」と呼ばれていた。
栗原遺跡 (城北中央公園)
諏訪神社の東には城北中央公園が広がっている。1955年 (昭和30年)、この公園内の旧立教学院総合運動場造成時に発掘が行われ、多くの住居跡や遺物が発見された。当時の上板橋村の小字名をとって栗原遺跡と呼ばれている。1955~1956年 (昭和30~31年) にかけての調査では、関東ローム層の中から、黒曜石製の石器が出土し、旧石器時代から、この地で人々が生活していることが判明。縄文土器も出土し、弥生~平安時代の竪穴住居跡が発見されている。石神井川と田柄川にはさまれた台地のため、日当たりもよく水の便が良く長い時代を経てこの地で人々が生活していた。公園内には1956年 (昭和31年) に奈良時代の住居跡が復元展示されている。初めこれを見た時は縄文時代の住居との印象があったのだが、奈良時代の関東は都のあった奈良とは随分と異なっていた事がわかった。
荘厳寺 (そうごんじ)
荘厳寺の入り口は正門 (左上) と東門 (左中) があり、東門から中に入り、正門からの参道を進んむと山門 (右上) となる。山門をくぐると境内となる。境内内は空間が広くとられたおり、落ち着いた雰囲気となっている。東京の多くの寺院は狭い敷地に密な庭園を造っている。綺麗ではあるのだが、自然な感じではなく、なんとも落ち着かない。この寺の境内は地味ではあるが、今回の練馬区巡りでは最も印象的だった。
庚申塔 (55番、56番、登録番号無)
壮厳寺の山門の前左側の塀の前に三基の庚申塔と地蔵菩薩坐像が並んでいる。いずれも古い時代に作られている。
- 左端の庚申塔は1732年 (享保17年) のもので唐破風笠付き角柱型石塔の造りで、正面には青面金剛立像が浮き彫りされてはいるが風化してはっきりとはわからない。塔側面には「奉待庚申供養」「武州豊嶋郡上練馬内 高松村講中四十三人」と刻まれている。隣村の講中が作ったものだ。三つも並んでいることは無いので、何処からか移設されたのだろう。庚申塔は道沿いに置かれていたが、道路や住宅地建設で撤去され、その多くは寺に移設されている。
- 左から二番目の庚申塔 (56番) は1731年 (享保16年) に作られて、上板碑型三猿庚申塔となっている。「奉供養庚申待成就處」「天下泰平 百穀豊熟」「護持講中 現當悉地」と刻まれている。下部には「武州豊嶋郡下練馬村 前湿化見 講中三十二人」。江戸時代下練馬村の小名のの一つだった湿化味 (シケミ) の住民が組織した講中だ。
- その隣の庚申塔 (55番) は1755年 (宝暦5年) で駒型石塔に青面金剛立像が浮き彫りされている。塔側面には「奉造立青面金剛像一軀」「武州豊嶋郡下練馬村 前湿化味講中六人敬白」と刻まれている。
六地蔵
反対側には境内を囲む城壁前に1728年 (享保13年) に作られた四体との紀年銘、左の二体の光背右脇には1702年 (元禄15年) に作られたものを合わせての六地蔵としているようだ。多くの寺院でこの六地蔵を見かける。仏教では輪廻転生する6種の世界を六道 (三善道 = 天道、人間道、修羅道、三悪道 = 畜生道、餓鬼道、地獄道) とし、日本では11世紀ころから、六道の各々にあたる六地蔵が各所に祀られ庶民から信仰されていた。
本堂
本堂 (写真上) は新しく建て替えられたのだろう。ゴテゴテした感じでなく、落ち着いたデザインになっている。境内には鐘楼 (山門 (右上)、下) や幾つもに観音像がある。第二次世界大戦慰霊塔 (中中) もあった。古いものでは1748年 (寛延元年) にこの地の住民175名によって建てられた光明真言塔光 (右中) があり「奉供養光明真言一億遍悉地成就處」「結衆百七十五人」「権大僧都法印王□代」と刻まれている。
庚申塔 (64番)
光明真言塔の隣には二体の地蔵尊と庚申塔がある。
- 左隅の地蔵尊は1766年 (明和3年) に作られて唐破風笠付角柱型石塔正面に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫りされ、右脇に「光明真言供養塔」側面に「下練馬講中十七人」と刻まれている。
- 真ん中の庚申塔 (64番) は1719年 (享保4年) の唐破風笠付き角柱型の庚申塔があり青面金剛立像が彫られている。塔側面には「奉造立庚申待供養成就為二世安樂」「講中二十人」「武州豊嶋郡下練馬早鞭村」と刻まれ、道しるべとして「右かわごえミち 六里余」「左 たなしミち 三里」とある。もともとは早宮に置かれていたのだが、この寺に移設されている。
- 右端の地蔵菩薩立像は無縁塔主尊地蔵で以前は無縁塔のてっぺんに置かれていたそうだ。1703年 (元禄16年) 造立での古い石仏だ。
馬頭観音 (38番)、無縁塔
先程の無縁塔主尊地蔵が、かつて置かれていた無縁塔があって。多くの無縁仏に前列真ん中に馬頭観音が置かれている。1706年 (宝永4年) のもので舟形光背塔に馬頭観音立像が浮き彫りされている。無縁塔の馬頭観音は初めてみる。馬頭観音は江戸時代に日本独特の性格で広まったのだが、ほとんどは交通輸送や農耕に使っていた馬の供養塔の意味合いで、馬が死んだ場所や、処理場に置かれていた。何故ここに置かれているのか気になる。この寺で馬の供養をしたのか、別の場所にあった馬頭観音を「観音様」としてここに移したのか? 資料ではこの荘厳寺内に後二つの馬頭観音が置かれているとなっていたが、見つからず。
宝篋印塔
境内参道脇には江戸時代の中期1715年 (正徳5年)に造立された隅飾型の笠の宝篋印塔がある。宝篋印陀羅尼経を納めた供養塔だそうだ。鎌倉時代中期以後、関西に、その後関東に多く造立されていた。
祠 三社
荘厳寺の東門を出て、前の道の北隣に祠が置かれ、榛名山、天祖社、御嶽山の三社を祀っている。この三社の祠についての情報はないのだが、この三社は練馬の神社にはよく見かける。
光伝寺
昭和14年には金乗院末寺を離脱して、奈良の長谷寺を本山としている。
境内に入ると鐘楼、手水舎があり、正面に本堂が建っている。本堂の前には練馬区登録天然記念物に指定されている樹齢数百年の区内では最大のコウヤマキが聳えている。
境内には観音堂と閻魔堂があり、観音堂には十一面観音懸仏が祀られ、閻魔堂の真ん中にはの江戸時代制作の三十三所観音菩薩像、1714年 (正徳4年) 頃に制作された地蔵菩薩立像と閻魔十王像が安置されている。その他にも新しく作られた六地蔵 (左下)。異形1785年 (天明5年) の不動明王坐像 (右下) があった。
庚申塔 (52番、53番)
境内山門近くには五基の石塔があり、右端には1708年 (宝永5年) の庚申塔 (53番 写真下) が置かれ、唐破風笠付き角柱型での庚申塔で合掌型六臂の青面金剛立像が浮き彫りされている。
正久保橋
八世の教海は武蔵国多摩郡高井戸村の出身で、当時は木橋だった正久保橋を1783年 (天明3年) に、私財を投じ江戸日本橋より六兵衛と八兵衛の二人の石工を呼び石橋にして人望を集めたという。教海時代の橋柱石は、現在は当寺の境内に保存されているそうだ。写真上は近くを流れる石神井川に架かる現在の正久保橋、下は昭和30年当時のもの。
氷川神社
氷川神社は須佐之男命を祭神とし、大氷川とも呼ばれている。この地の名称の氷川台はこのこの神社に由来している。1457年 (長禄元年) に渋川義鏡が古河公方の足利成氏との戦の途上、この下練馬で石神井川を渡ろうとした時、淀みに泉を発見し、武運長久を祈ったのに始まると伝わる。もともとは、桜台にありお浜井戸に鎮座していたが、1477年 (文明9年) 江古田原の戦いで焼失し、江戸時代の延享年間 (1744年 - 1748年) に現在地に移転再建されている。1775年 (安永4年) の石造り一の鳥居をくぐり参道を進むと階段となり、登り二の鳥居の先が境内となり、手水舎、正面に拝殿とその奥に本殿がある。
境内には1787年 (天明7年)造立の狛犬が残っており、区内の神社に残る狛犬としては最古のもの。また、1747年 (延享4年) の角柱型水盤も残っており、正面に「延享四年下練馬上宿」と刻まれている。角柱型の水盤として、区内神社に残る唯一のものだそうだ。 (写真がぼやけてしまったので一部はインターネットから借用)
氷川台巡りは、見つから無かった史跡もあったが、一旦これで終了。この後、早宮、桜台、練馬、中村橋も巡ったが、いずれも部分的で、まだまだみたい史跡が残っているので、次回東京訪問時に残りの史跡を巡ってからのレポートとする。編集にかなり時間を費やし、このレポートが終わったのは10月末。11月からは沖縄の集落巡りに戻る。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)