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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書10章22-30

2018.02.14 18:55

~そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「私は話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたはわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについてきます。わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしと父とは一つです。」~


今日、この日はエルサレムで宮清めの祭りがあった。と言ってるように、ヨハネの福音書は初めに過ぎ越しの祭りがあったと言って、「わたしは天からくだってきたパンです。」と言い、次には仮庵の祭りがあって、その時は「わたしはまことの光。わたしの生ける水を飲む者は永遠に渇くことはない。」と言って祭りがあり、そして安息日におきた、盲人の目を開いた騒動があり、ヨハネの福音書はユダヤ人の祭りに起きた時の事件を題材に書かれています。そして、この祭りの中で今日の祭りは、『宮清めの祭り』です。

これが、いつあったかというと、紀元前200年ごろ、その当時はこの前もこの歴史の勉強をしたんですが、シリアの属州というか、シリアの支配を受け、実質イスラエルという国が崩壊して、国のないそのような時代に、マカディヤというかハスモン家の祭司達が、ゲリラ作戦にでて、闘争に闘争、戦争に戦争が続きシリアのこの王達シリア王朝たちと戦い勝利を得て、イスラエル国家が本当に何百年ぶりかに回復し、エルサレムの神殿が回復された、あの紀元前200年頃に起きた歴史の時にこの祭りが始まったんです。だからここでも、この前も勉強したマカバイ一家、ハスモン一家がエルサレムの神殿をシリアから勝ち取り、イスラエルという国を勝ち取り、エルサレム神殿をもう一度再興する時にやった祭りが、宮清めの祭りです。

その時は、ローマやギリシャの文化が入り、そこの神々が、エルサレムの神殿の中に入って、しかも、バアル神まで入ってきて、像が建てられていたものを、全部打ち壊し、そして律法による神殿回復が本当に行なわれ、祭壇を清め、そこにある器具全てを清め、祭司の衣装から何から何まで、全部清めたそのお祭りが、この宮清めの祭り。そしてその頃は冬であったとあるように、12月25日がこの祭りの日ですよ。だから他の『過ぎ越し』や『仮庵』に比べれば、新しいお祭りですよね。だから過ぎ越しや仮庵や五旬節の、あの、ユダヤ人の本当に偉大なるイベントに比べたら、七日間やるということは同じで、そして『12月の仮庵の祭り』って言われるほどに、仮庵の祭りと同じやり方を、祭りの内容的には同じことをするんですが、過ぎ越しの祭りのようにユダヤ人、イスラエルの男性が全員エルサレムに巡礼の旅に出かけるかというとそうではなく、その地方地方で、自分たちが住んでいる地方で、仮庵の祭りが行なわれていたんです。だから、ここで敢えて、エルサレムで宮清めの祭りがあったと、エルサレム地名を、ここに明確にしているんです。何故なら、地方地方で、この宮清めの祭りは、行なわれていたからです。

そしてその祭りを行なった12月25日、そしてその時に宮の中でソロモンの廊にイエス様がおられたのです。このソロモンの回廊というのも、エルサレムの神殿のぐるりを囲っている回廊があって、そしてその、東側にある廊がソロモンの廊と言われていて、西側は筒抜けで神殿に向かう道があるけれども、東側のソロモンの廊は、壁なんですよ、東側は。だから、この冬の寒い、東風が吹く、冷え冷えするその日には、東側に壁があるがゆえに、風を防いでくれるから、多くの人がこの風を防ぐ、このソロモンの廊の東側に、結構人がいつも集まっていたんです。

その、人が集まっている、大勢が集まっている所で、イエス様がおられる時に、イエス様が背中を壁にしておられるところを、逃げられないように、人がぐるりと囲んで、イエス様に尋問するかの如くに、今、質問をするんです。そして「あなたがキリストなのか。キリストではないのか。もういい加減ハッキリしてくれないか。」と質問するんですよ。そしてその質問する時も、イエス様が今日、答えてくれなきゃ困るって勢いをもって、今、質問しているんです。「あなたはいつまで気を揉ませるんですか。はっきり今日、宮清めの祭りがある日に、私たちに話してくれ。」というのは、この宮清めを祭りとしたマカバイ一家が勝利した時には誰も本当は勝つとは思わなかったんです。劣勢だったんです。そして、シリア方面の軍勢の方が強かったし、だから、まさか勝つとは思ってない。まさか勝利するとは思ってなかった。まさかエルサレム神殿が再び解放されるなんて、思ってもみなかった祭りだったから、イエスがキリストではないだろう。まさかそんなはずはない。と思っていてもあの時、まさかが起こり、奇跡が起こったから、もしかしたら、今日、祭りだし、あなたがもしかしてキリストなら、今言ってくれと迫っているんです。そしてイエス様が「はい。キリストです。」と答えることは、とても難しかったんですよ。だからイエス様は、「もう、わたしは、何回も話しました。でもあなた方は信じなかったのです。わたしが父の御名によって行なう業が、わたしについて証言しています。」と言って答えます。

わたしがキリストであるか、ないかっていう答え方ではなく、もう何度も話したけど、あなたがは信じなかった。という答え方をしています。それはこの人たちの思うキリストが、ダビデの子孫のような、ダビデ王のような人を望んでいたからです。そして、そのような者が『キリスト』だと思っているんです。

だから、マカバイ一家のように、祭司であっても、武器を手にし、ゲリラ作戦に出て、そして今、この時代、ヘロデ王は何回もソロモンが建てたエルサレム神殿を建て直し、増築しているさ中、そして、このローマ帝国から支配を受けて、また偶像礼拝がたくさん入ってきている中、そんな時代にもう一度、あのマカバイ一家のように武器を取って、力をもってローマ帝国や、ヘロデ一家を倒してくれないだろうか、それがキリストで、解放者である救い主ではないのか、と彼らの定義はそういう定義だったんです。

だからあなたが今日、キリストなら、ハッキリ言ってくれ、と願い出ているんです。イエス様はその気持ちが分かるので「はい、そうです。」と言うことはできません。イエス様が望むキリストの職務と、人間たちの望むキリストのあまりにも考え方の違い、定義の違いが大き過ぎたので、「はいそうです」と言えないんです。また、「いいえ、違います。」とも、嘘もつけないんです。だから、わたしは何度も言いました。でもあなたがたは全然信じないし、受け入れようとしなかった、あなた方が望んでいるキリストは、わたしの言っているキリストとは全然違いますから、といっているんです。そしてあなた方が信じないのは、それはあなた方が、わたしの羊に属していないからと答えるんです。その以前に『わたしはまことの羊飼い』と何度もイエス様がこの民衆の前で、群衆の前で何度も語っていますよ。何度もわたしこそよい羊、良い牧者であると語っておられるから、皆も、もしかしたらダビデ的な羊飼いなのか、本当に羊飼いかもしれない。イスラエルを解放する人かもしれないっていう期待の中で、イエス様が答えるんです。「あなた方がわたしの羊ではないから、信じることができないんです。」と。それは、その以前にイエス様が、この話の前に「わたしはまことの羊飼い。わたしはわたしの羊を知っている。そして羊もわたしの声を知っている。」と語られているんです。そしてもう一回このわたしはまことの羊飼いですよ。でもあなた方はわたしの声が聞けないんです。わたしに属している羊ではないから、とイエス様が答えています。また、わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしに付いて来ます。と、イエス様が語っています。それ以前はこうですよ。「わたしはまことの羊飼い。わたしはわたしの羊を知っている。」そして、「わたしの羊もわたしを知っている。」と言っていたのに対し、ここでは違うんです。「わたしはまことの羊飼い。わたしは羊を知っている。」の次、「羊たちがわたしを知っている。」とは言わず、「だから彼らはわたしについてくる。」という言い方をしています。ここでいうイエス様の言葉はこうです。「わたしは羊を知っている。わたしに属す者達を知っている。だから、知られている彼らはついて来る。」人間側がイエスを知っているわけでもないし、人間側がキリストを判別できるわけでもないし、人間側が神を理解したわけではない。でも、神が羊を知っているので羊は帰ってくる。羊は付いて来るという言い方を、ここでしているんです。

ここでもう一度、カルヴァン的なこの『選びの教理』、『予定の教理』というものが色濃く出てきます。それをだから大勢の人が反発し異論を唱えているんです。でも、ウェストミンスター教会の信仰告白は、完全にこれを肯定しています。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの聖霊によって救われた者は、絶対に滅びない。決定的に、最終的にその聖徒は最後まで保たれるっていう信仰告白があって、イエス様が知っている、イエス様が選び、イエス様に属している羊は、永遠に滅びることがない。彼らは、イエスが彼らを知っているから、彼らはイエスに付いて来るしかない、という選びの教理はこういう意味なんです。人間側が何かして知れる神ではない。なのに、今日のこの人達は何ですか。「あなたはキリストか、神なのか、メシアなのか、油注がれた者なのか、旧約で預言している天から下ってくる者なのか、今、はっきりしてくれ。」

人間側も神を知ろうじゃないかっていう態度です。人間側が神を見つけられるっていう態度ですよ。人間側が自力本願で、神を知れるということです。だから、はっきり答えろ、と言っています。人間側が神を知ろうとするのは神を自分と同等に扱っているからです。まるで同等の者に答えてみよという態度です。それなら私は信じましょうって言っているんです。「あなたがもし、今神だと言ってくれたなら、私はあなたを信じあなたについていきますよ」と。でも選びの教理とは、人間側、自らは、知れないんです。人間の力では神が分からない。人間自ら教理なんて分からないし、ましてや、神の御子が分かるはずがない。それなのに、教えてほしい、知りたいから、今あなたは答えなさいって神に向かって命令します。イエス様の答えは、決してあなたは、わたしの声を聞かないし、信じない。何故?あなたはわたしの属している羊ではないから。

イエス・キリストを神の子と認め、また信仰の教理、聖書の教理を理解するのは、人間からは無理だってことです。神が教えなければ、神が示さなければ、神が現わさなければ不可能です。絶対に人間側からは知れないんです。

信仰の原理を言っているんです。救いの原理とは、人間側の何かの事情ではなく、人間側が神を知れるわけではなく、神側の主権だということです。ウェストミンスターの信仰告白なんです。あくまでも神の恵みによるものなんです。

完全的に、必ず救われ決して滅びない。あるイギリスの教会の聖徒が牧師に対してこう言います。あなたの説教を聞いていたら、なにかカルヴァン的な主義に反している。あなたはあのカルヴァン的な主義を信じていないんですか?と聖徒がその牧師に、文句を言いました。そしてその牧師はこう答えます。わたしはカルヴァン的なあおの予定の教理を信じています。必ず聖徒は最後まで守られ、保たれることを信じています。しかし、罪人が保たれるとは信じていませんと答えるんです。聖徒が保たれるのであって、罪人が保たれるわけではないと。絶対に滅びることはなく、永遠に死ぬこともなく、必ず救われる。この教理は不変です。イエス様がここでおっしゃっています。「わたしは彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることなく、また誰でもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをおあたえになった父はすべてに勝って偉大です。誰もわたしの父の御手から奪い去ることはできません」父がわたしに預けてくれた霊魂が父から離れるはずはない。それほど父は力あると言っているんです。わたしの父は完全で完璧で、不正がなく、不足があるわけでもないし、欠点をもっているわけではない。わたしの父は偉大で完全で全知全能で創造主であり、すべての裁き主が間違えるはずがない、と言っているんです。これが絶対揺るがないキリスト教の教理なんです。

そしてその牧師が言っているように保たれるのは聖徒であって罪人ではない。それをイエス様が今、わたしの属してる羊は永遠に滅びることがない。でもあなた方は絶対に信じない。と言っているんです。何故?あなた方はわたしに属している羊ではないから。わたしが聞こうではないか。さぁ、神よ、語ってごらん。もうここは、完全に違います。神への冒涜です。常に神から受け神からもらい、神がくださり、そして全てが神がなさると言うことを信仰で信じ、保ち続け、そして神に依存し続け、従い続け、そしてこれを本当に大切に大切に思った者が神に属してる羊ですよ。何故?それが宝であることを知っているからです。わたしは神を自ら知ったことはないけど、イエス・キリストの十字架の教理が偉大なことを知っている。そしてそれが宝で、わたしはそれを信じて、また信じて、信じて生きていく。これが羊のすることです。そしてわたしと父は一つですというのは、三位一体の神の教理を言っているのではないんです。わたしは本当の父の御心を知っているし、本当の神の計画を知っているし、神が本当になさりたいことを知っているし、神の品性、神の知恵、神の全ての特質をわたしは知っている。

だからわたしと神が一つだ。とイエス様が言っています。

だからあなた方もわたしの内で一つになりなさい。とヨハネの福音書は何度も繰り返し語っています。それはあなたも神と同じ思い、神と同じ愛を持ち、隣人を赦し、神が計画した全世界に十字架の福音を広げること、神の国と義を第一に求めることです。これをヨハネが、新しい戒めだと言っているんです。神を愛し、隣人を愛するのは神が一番望んでることだ。そしてそれができない者は、神を愛しているはずがないと、ヨハネの手紙に記されています。だからわたしと神は一つですとイエス様がいうとき、それは神の計画はわたしの計画。神の御心はわたしと同じ。神の考えはわたしと同じ。神が愛するものはわたしも愛している、だから私は神と一つだ。だからあなた方もイエスの御名の中で一つになりなさいというのは、わたしと同じ考えを持ち、わたしと同じ道を行きなさいということです。それを宝としてとどまり続け従い続ける者がイエスの属する羊たちです。何故なら、イエスに知られているから。これが教理なんですよ。

私は神に知られ、命の書に名が書かれているからです。私自らいつ神を選びました?神がそれをして下さったんですよ。それはパウロもこう答えています。


エペソ2章14-16

~「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬りさられました。」~


私達は生まれながら神を冒涜し、神に逆らい、神を知ることができず、神の特質も持っていなくて、悪に満ちて、悪魔のようであり、悪魔と同じような存在です。そして、神に敵意があり、反発があり、一致することが絶対不可能だったんです。

それをイエス・キリストの十字架の血で、私達は神と和解することができて、その敵意は十字架の上で全部廃棄された。そして、隔だっていたものが対立する者が反対し合う者が、反発し合うも者が、一つになったと語られています。これはすべてイエスによったのです。だから私達に、神を愛し、隣人を愛せよという命令をされるのです。

いつまでも人間的で、いつまでも自分が寂しいから、人に優しくし、自分が愛されたいから優しくし、それで隣人を愛しているなんて錯覚しているなら、これは信仰の教理ではありません。

私たちを訴えていた全ての敵意は、イエス様が十字架で廃棄されたんです。私の手柄でもないし、私が特別人よりも優れて、今クリスチャンになったわけでもないし。不幸だからイエス様が拾ったわけでもないし。それは私達の罪がイエス様によって免除されたんです。

「あなたがキリストならしるしを見せろ。」という態度で、不平を抱き、不満を口にする、人に礼節も守らず、神への礼節も守らないっていうのは、違います。

神が十分に私の祈りに応えてくれないから、私がふてくされ、私が落ち込むのは当たり前。あなたが神ならしるしを見せろって言ってはならないんです。イエスを十字架に架けた人たちと何が違っているんですか。

敵意を無効にした、本当の神の御業を、こんなに軽んじ、ないものの如くにしてしまうんです。そしてイエス様にこう言われてしまうんです。「わたしは何度も語ったけど、あなたは、信じなかった。」わたしは何度も警告をしたのに、信じなかったし、わたしは何度もそうしてはいけないと言ったのに、従ってこなかったんではないのか。何故?あなたが私に属している羊じゃないからです。と、最後にイエス様に言われるのです。

神様を待ち望んではいないんです。神様の救いは必要ないんです。この人達は。良心的に生きていたいんです。人に親切にしていたいんです。正しい生き方をしていたいんです。そして、それを人にも自慢し、人にも教えていたいんです。そして、人からそうやって評価を受けていたいんです。ただ自分の義、自分の成功、自分の聖さ、自分の良心的問題を本当にやり通していたいだけです。そして、口で主よ、主よと言うんです。そして、神殿に来て礼拝をするんです。色んな犠牲を果たして・・・。

私達が今、問われているのは何ですか?この教会で問われているのは、そんな形式ですか?そんな犠牲を言っているんですか?正しい信仰生活について、私たちは叱られているんですか?違いますよ。あなたの心はどこにあるんですか?あなたの心は一体、何を求めているんですか?それを問われているんです。

パウロは、私に委ねられたものを神が最後まで保ってくださることを、信仰によって信じると言い、テモテにも、だからあなたが聖霊によって委ねられたものを最後まで守り通しなさい、とテモテの手紙で言っている様に、パウロが委ねられたのは福音だったんですよ。イエス・キリストの教理だったんです。十字架の恵みだったんです。それが、神の賜物だったんです。

ユダヤ人たちは、自力本願でユダヤ教を押し付けようとし、形式主義を持ってこようとする。その律法主義を、異邦人に持ってこようとした時に、命掛けでパウロは、異邦人の中で、ユダヤ人の中で、何を守ったんですか?教理だったんです。このイエス・キリストの十字架の、この完全な教理を、私は委ねられ、これが宝だから、命を惜しまず、私は守り通してきたし、最後まで神は、何千年経った後も、守り通すだろう。その通りに、ルターが生まれ、カルヴァンが生まれ、ロイド・ジョンズが生まれ、何千年経っても、神はこの教理を守り通します。だけど人が望むものは、教理でも、福音でもなく、真理でもなかったんです。彼らが望んだのは、あなたが神なのか、神ならしるしを見せろ、と言って、大勢イエス様を冒涜したのです。

キリスト教の信仰の義は罪の許しです。それを理解するには、人間が生まれもって堕落していることを理解しなくてはなりません。神と対立していた私達が、イエスによって、神と和解し、神の子となる永遠の命を与えられたこと以上に喜びはないんです。だから、神様の望んでおられるのは、私達が喜び神をほめたたえることです。アーメン