練馬区 07 (13/01/23) 下練馬村 (4) 羽沢/栄町
下練馬村 羽沢 (はざわ)
- 地蔵堂、庚申塔 (11番)
- 馬頭観音 (2番) [不明、未訪問]
- 羽根澤稲荷神社
- 地蔵堂 (観音様)
- 放光王地蔵尊
- 青柳家住宅主屋
下練馬村 栄町 (さかえちょう)
- 江古田庚申塚 (庚申塔 10番)
- 羽沢分水跡
- 武蔵野稲荷神社、馬頭観音 (1番) [未訪問]
昨年の10月に旧下練馬村の幾つかの地域を巡ったが、今回は残っている地域を巡る。今日は羽沢と栄町を訪問する。
下練馬村 羽沢 (はざわ)
羽沢は練馬区の東端部に位置し、北部を石神井川をはさんで氷川台と、南部を栄町、東部を小竹町、板橋区小茂根、西部を桜台と接している。南から順に一から三丁目がある。南北約1.6km、東西約0.2 - 0.4kmと南北に長い形で南から順に一丁目から三丁目になっている。
羽沢の集落は明治期から昭和初期までは、南端に新たに集落ができた以外はほとんど変化がなかったが、その後、戦前羽沢の南の地域に民家が増えて、現在は密集状態になっている。
1947年 (昭和22年) に板橋から練馬区が独立後、1962年 (昭和37年) に、地番整理が実施され、当初は羽根木、北羽沢、南羽沢、羽沢前の旧字別の四つの地区になる予定だったが、羽沢前が栄町として分離独立し、残りに三つの旧字が一町となり、それぞれが一丁目、二丁目、三丁目となっている。この時に町名を羽根沢 (はねさわ) から羽沢 (はざわ) に変えている。この地域は高度成長期に入る以前にかなり開発がされており、高度成長期でもそれほどの甚句増加は見られない。その後も人口は大きな増加は見られないのだが、世帯数は順調に増えている。世帯当たりの人数が練馬区の中では低く1.7人となっている。地下鉄駅もあり都心に近いので単身者が多く、また大学もあるので学生も多いことが影響しているようだ。
- 仏教寺院: なし
- 地蔵尊: 地蔵堂、地蔵堂 (観音様)、放光王地蔵尊
- 神社: 羽根澤稲荷神社
- 庚申塔: 1基 馬頭観音: 1基
羽沢訪問ログ
地蔵堂、庚申塔 (11番)
羽沢のこどもの森の近くに地蔵堂があり地蔵尊と庚申塔が納められている。この地域は羽根沢 (現 羽沢) の四つの小名の一つの羽根木にあたる。江戸時代から明治時代にかけては、石神井川低地を耕作地としていた農家10軒程がこの地の高台に集落を形成していた。その人たちの信仰として建てられた。右側の駒型の庚申塔は、1767年 (明和4年) に造立され、青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫されている。側面には講中二十人 世話役 次郎兵衛 七兵衛とある。左側の地蔵立像は1741年 (元文6年) に前湿化味村の8人によって造立され、側面には「下練馬前湿化味村 願主講中」、左面には庶民の名前で8人の銘が刻まれている。
馬頭観音 (2番) [不明、未訪問] 羽沢3-1
庚申塔 (11番)がある地蔵堂の近くには馬頭観音 (2番) があると資料にはあったが、付近を探すが見つからなかった。この馬頭観音は大正時代頃につくられ、方形文字型だそうだ。
羽根澤稲荷神社
保食神を祭神とする羽根沢稲荷神社の創建は不詳だが、社殿内に1854年 (嘉永7年) と刻まれた石祠があるので、それ以前、江戸時代後期には須賀神社と共に稲荷神社が創建されたと考えられている。須賀神社はその後、境内造成時に羽根沢稲荷神社に合祀され、額は社殿内に納められている。現在の境内は1970年 (昭和45年) に再造成され、その上段に社殿は新築され、鳥居も設けられた。下段はゲートボール場として利用されている。
境内には行くかの板碑があり、その右端には不動明王座像がある。この不動明王坐像は1849年 (嘉永2年) の旧下練馬村宇羽根木 羽根沢 前湿化味講中が奉納したもので、元々は石神井川町田堤上に建立せれていた。昭和の初めに、耕地整理でこの地に遷座したとある。
観音像
羽根澤稲荷神社から桜台駅方面南に進んだ道路脇に観音像を納めた堂宇があった。堂宇内には、1777年 (安永6年) につくられた駒型の石塔に円形の頭光背の六臂觀世音菩薩坐像が浮き彫りされている。
放光王地蔵尊
青柳家住宅主屋
放光王地蔵尊から環状7号線を渡り、路地を南側に入ると国の登録有形文化財にもなっている青柳家住宅主屋がある。関東大震災後、東京郊外には住宅地が盛んに開発されていた。昭和初期の西武池袋線江古田駅周辺にも住宅地開発が行われ、この家もその一つで1928年 (昭和3年) に建築された。スペイン瓦葺屋根で寄棟造の木造の平屋建の住宅家屋だった。昭和初期の建築の趣が残っている。
羽沢から桜台駅を越えた南側は栄町になる。次はこの地域の文化財を巡る。
下練馬村 栄町 (さかえちょう)
栄町は北部を羽沢、南部を豊玉上、東部を小竹町・旭丘、西部を桜台と接している。
江戸時代は下練馬村の小名の羽根沢の内にあり、旧下練馬、上板橋、中新井3か村の村境だった。明治になって羽根沢が四つの小字 (羽根木、北羽沢、南羽沢、羽沢前) に分割された際に羽沢前と呼ばれた地域にあたる。他の三つの小字は先程訪れた現在の羽沢の羽根木、北羽沢、南羽沢になる。
1932年 (昭和7年)、市郡合併が行われ、練馬、石神井、大泉は北豊島郡から新たにできた板橋区に属した。現在の栄町を含む羽沢地区は練馬南町1丁目となった。1932年 (昭和22年) に、練馬区が板橋区から分離独立した。その後、1962年 (昭和37年) に、地番整理が実施され、当初は羽根木、北羽沢、南羽沢、羽沢前の旧字別の地区になる予定だったが、江古田駅周辺の商業地域と、その他の住居地域とで、町名についての合意がならず、1丁目となるはずであった「羽沢前」だけが栄町を名乗り、羽沢は3丁目までとなった。栄町の名は練馬区の表玄関としての町の繁栄を願って名付けられた。
明治期の栄町 (羽沢前) には小さな集落が5つほどしか見当たらないのだが、昭和初期には地域全体に民家が増えている。これは1924年 (大正13年) に武蔵野鉄道 (現在の西武池袋線) に江古田駅が開業した事が大きく影響しているだろう。その後は全域に民家が密集し、栄町は練馬区内では一番面積が小さい町だが、人口と世帯の密度度は最も高くなっている。
羽沢と同じく栄町の戦前には既に開発がなされて、人口が大きく増えている。高度成長期にはそれほどの人口増加は見られない。
練馬区史 歴史編に記載されている栄町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: なし
- 神社: 武蔵野稲荷神社
- 庚申塔: 1基 馬頭観音: 1基
栄町訪問ログ
江古田庚申塚 (庚申塔 10番)
この辺りには、かつての江古田村 (現在の中野区内) の農民が開墾して移り住んだので、ここも江古田と呼んでいた。江古田新田とも呼んでいた。戦後まで練馬区江古田町名だったが、1960年に江古田町は旭丘に改名。その名残りで、この辻の堂宇も江古田庚申塚と呼ばれている。祠の中には祀られているのはで、造立年は1765年 (明和2年) に駒型の庚申塔として作られ、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が浮き彫りされている。側面には「下練馬村うち羽根沢講中 廿四人 願主 敬白」と刻まれている。
羽沢分水口跡
江古田庚申塚から環七通りに出て千川通りと交差する所、そこに架かる陸橋の下あたりに羽沢分水口があったそうだ。千川上水からここで水路を分岐して、現在の環七通り西側の側道を北に流路が造られ、旧下練馬村に引かれ、石神井川に注いでいたそうだ。現在では遺構などは全く残っていない。
武蔵野稲荷神社、馬頭観音 (1番)
羽沢の青柳家住宅主屋から西武池袋線を南側に渡った所に武蔵野稲荷神社がある。創建年代は不詳だが、伝承では本殿が建っている場所は小高い塚で、室町時代後期の1477年 (文明9年) の江古田・沼袋原の戦いで滅ぼされた豊島軍の死者を太田道灌が葬り弔った豊島塚のひとつという。その守護として稲荷神が祀られたと考えられている。瓢箪塚あるいは割塚などと称されたこの塚には白狐が十数匹も棲んでいたことから、白狐塚とも呼ばれていた。明治から昭和初期にかけては、江古田のお稲荷さんと呼ばれ、商家や事業家、歌舞伎役者や馬主らの信仰を集め、三の稲荷の三の日の縁日には大いに賑わったという。戦時から戦後の混乱などにより一時荒廃したが、日の本神誠講 (天理教から派生) が引き継ぎ、1968年 (昭和43年) には神社本庁所属の宗教法人となっている。1918年 (大正7年) に祭儀殿が造営され、1975年 (昭和50年) から5年かけて本殿、拝殿、鳥居、随神門が新たに整備されている。かなり豪華な造りとなっている。一般的な稲荷神社とは随分異なっている。この神社は一般の写真撮影は禁止となっているので、外側の参道、鳥居、随神門だけの写真しか撮れなかった。
羽沢と栄町には史跡はそれほどないので、時間がまだある。ここから昨年10月に巡り残したスポットを見に行くことにした。今回訪問したスポットのレポートは10月の訪問レポートに追加している。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)