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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書11章45-57

2018.02.14 18:45

~そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。 われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。~


ラザロが死んで4日も経っているのに生き返ったんです。 そのイエスのなさったことを見た多くの人々が、イエスを信じました。 ここは、『多くの』と表現しているけれども、『ラザロが生き返った現場を見た人々は全員』信じたという意味なんです。 そして、ほとんどの人が、死人が生き返った事件は驚くべき事件で、しかも4日も経った後だったから、この事件はやっぱり、相当のユダヤ人の中でも大きな事件でした。 イエス様がメシヤだということが、疑いようがない。そして、そこに居た現場の人達は、 全員信じたんです。 でも、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。この幾人かは、この現場にいた人ではないんです。噂を聞いたユダヤ人の中で・・・噂を聞いて信じた人が大勢いた中で、噂を信じない幾人かのユダヤ人がパリサイ人のところへ行って、この事件のことを報告しに行った。 現場で見た人はイエスの霊がすごい働いていたから、当然それを救いとして受け入れるしかなかったです。現場で見た人がやったわけではないんです。 ~そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。~ この議会というのは、今まで何度も出たように、サンヘドリンです。まず、祭司長が議長です。 その年の大祭司が議長となります。そして、律法学者、長老、祭司長達の3大階級の代表者が、このサンヘドリンに参加します。そして、この議会は70人で作られています。 その70人が集まって、議長が、その年の大祭司と決められています。 パリサイ派は律法学者、長老達で、サドカイ派は祭司長達と別れていてそのサンヘドリンを緊急に招集したんです。だから通常の議会ではなく、緊急に特別に招集されたんです。何故なら、イエスの噂を告げ口した人達が来て、これは大変なことだと大騒ぎになり、サンヘドリンが通常の議会ではなく、何が議題にあがったかというと、


~「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。 そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」 ~


というのが議題でした。 自分達は何の効果も成果もあげられないでいる。なのに、あっち側はどんどん多くのしるしを見せて、多くの民衆を引き連れていっているではないかと恐れたのです。 サンへドリンはイエス様がしている業を疑ってはいないんです。 ラザロが生き返ったことは信じています。多くのしるしを行っていると認めています。 メシヤかもしれないと、自分たちの心の中にあります。今までの預言者とは違う、 今まで暴動を起こしてきた熱心党達とは違う、テロ行為のような過激派ではない。 本当に神が遣わしているかもしれないというのは、もう、認めざるを得ないでしょ? 死人が甦って、誰がこんな業をし、盲目の目を開けたのは、一体誰だっていうほど、 こんな大きなしるしをどんどん、行ってしまうイエス様を否定できないところまできてしまった。なのに、彼らが今腹を立て議題にしているのは、民衆がイエスの所に行っているっていうことです。 大衆がイエス派になっているっていうことです。そうすると、ローマ人がやってきて、自分たちの土地を奪い去るのではないかと心配した。この土地というのは、北の方のイスラエルを言っていません。 当然、聖地、エルサレムを言っています。神の神殿です。 この神の神殿をローマ人に奪われるのではないかっていう議題です。 だから、多くの大衆は誰を指していますか?ユダヤ人です。多くのユダヤ人とエルサレム神殿がローマ人にこのままでは、奪われるのではないか?ローマ人はここを統括しているけれども彼らの宗教にはまだ口出ししていない、政治的には支配していても、宗教的には容認されています。 このサンヘドリンは基本的に宗教会議です。いわゆるユダヤ教会議です。そのユダヤ教会議、そしてエルサレム神殿、そしてそこに信望していなければならないユダヤ人の大衆たち。実際は何ですか?自分たちの議席の数とかを議論している。 自分たちの権力維持、祭司長の座を言っているんです。 ましてや、パリサイ派は律法学者、長老と、民衆の人気者です。 尊敬され、ラビと呼ばれている人たちです。その座が奪われて、民衆もイエスの方に行ってしまい、ローマ人たちから自分たちの権力が奪われたら、自分たちには何が残るのかっていう怒りです。自分たちの権力の確保。立場の、身分の確保を今議題にして イエス様の業は認めているからこそ、自分たちの座が危ないっていう会議なんです。


~しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。 「あなたがたは全然何もわかっていない。~


さっき言ったように、サンヘドリンの議長です。この祭司長はサドカイ派です。 このサドカイ派というのは、その当時のヨセフォスというパリサイ人の所見からも分かるように、サドカイ派っていうのは野蛮人だったらしいく、口が悪い。 だから、議会の中でも、サドカイ派同士でも、野次を飛ばす。 そして、その議長がその年の大祭司だったんですが、このカヤパっていうのは、 本名はヨセフ・カヤパといい、彼は紀元18年~38年の大祭司の位についていた人。 でも、大祭司が20年その位に就くというのは珍しいんです。すごく長い年月大祭司の位置に居たということになります。こんなに長い間務める人は、いなかったんです。 しかも、イエスの登場しているその時代の大祭司だったんですね。で、その当時の大祭司カヤパというのは、この十字架の事件の起こるその年の大祭司であって、そして議長であって、そしてサドカイ派は野蛮人なんです。本来言い方もきついんです。その議長が普通は、議会で勝手に口出ししてはいけないんです。 議長とは互いの意見を整理する役割なのに、ここではもう黙っていられないから、 議長自身が立ち上がり、もはや、本来の議会ではなくなっている。 だから、これは緊急に招集された通常のサンヘドリンではなかったと考えられる。 冷静ではいられない状態です。だから、野次が飛び交っているっていう想像ができます。 その所でヨセフ・カヤパが立ち上がって、しかもこんな言い方をします。 「あなたがたは全然何もわかっていない。」 ここで、集まっているのはエリート達です。超エリート、超秀才達が集まっている中で、私だけは良く知っているけれど、あなた方は何も知らないっていう言い方で、言葉が始まっている。 だから、野蛮人なんです。こんなの政治家で言ったら、第一声がこれだったら、誰も聞きやしない。 「あなたがたは何にもわかっちゃいないね。私だけはわかっているけど。」です。 「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」 ここで言っているのは、一人の人が死んで、我々全員の権力が保たれ、ユダヤ人が守られ、エルサレム神殿が守られるなら、かわいそうだけど、イエス一人を犠牲にしようよって言っているんです。 イエスが、まあそんなに悪いことをしていなくて、軌跡を行っていることは認めるよ。 だけど、私たちの権力維持と、ユダヤ人確保と、そしてエルサレム神殿をローマ人から守るためには一人の人に犠牲してもらおうじゃないかっていう風に。そしてそれが、得策、利益だ、我々の利益。そんなことも分からないの?私は知っているけど、と。

今議長が、ヨセフ・カヤパが言っているんです。 その考え方は案外ユダヤ人には根強くあるんです。一人の人を犠牲にして全員が救われるっていう考え方は旧約聖書から、度々行われていて、ダビデに逆らったベニヤミン出身の人がある町に逃げ込んだとき、それを討伐するためにヨアブ将軍が精鋭部隊を連れてきて、その町を絶滅しようとしたときに、 その街の女が来て、「その犯人の首を差し出すから町は救ってくれ、この町が一人の男の為に滅んでいいわけはない。」と言って交渉するんです。そしてヨアブ将軍はそれを承認し、その男の首を持ってきた女と取引し、町は滅ぼされなかったんです。 この旧約聖書での起こっている事件もそうだったし、ユダヤ人の中で、一人を犠牲させて町を救おう。 一人の犠牲によって国を救おうっていう考え方は根強くあったんです。 だからカヤパは自信満々に、イエスにはちょっとかわいそうだけれども、犠牲してもらって、我々70人のサンヘドリンとその権力を保ち、エルサレム神殿を守り、そして私たちを信望してくれるユダヤ人の人気、ユダヤ人からくる全ての評価を私たちは持続しようではないかっていうのが、今日のサンヘドリンの議題だったんです。そして、その日からイエスは、もうお尋ね者になるんです。 そのお尋ね者になってしまったイエスは、もちろん、その危険は以前からありました。 ラザロが死んで、エルサレムに行こうってイエス様が言った日に、みんなが「先ほどユダヤ人がイエス様を石打にして殺そうとしていると聞いたのに、えっ、エルサレムに向かうんですか。」って弟子たちは驚きました。そして、トマスがこう言いますよ。「先生が行くなら、死ぬ覚悟で我々も一緒にエルサレムに行こうじゃないか。」以前から危険はずっとイエス様に迫っていました。 殺されるっていう危険。そして同行している弟子たちも殺されるっていう危険。 そして死の影は弟子たちから離れません。イエス様は殺されるだろうっていう死の影。 そしてイエス様も死にますよっていう預言をしているし、ずっと。そして、その危険を感じて、皮肉にも、このラザロのよみがえり事件は決定的にします。決定的な死刑宣告が議決されてしまいます。 そして、イエスを見かけた人は我々に報告するように、とポスターが貼り出されるような状態です。『Wanted』です、指名手配がされちゃったんです。 そのカヤパが言った、その事について、これを書いているのはヨハネですが、 このヨハネの福音書は紀元1世紀末に書かれている。ヨハネが百歳くらいになったときに書かれています。 だから、この当時のカヤパが、イエス様の死刑宣告の議会の議長で、そしてその死刑宣告をした人、と言ったんです。その当時の後を振り返ってヨハネは書いています。 この福音書は。その事件のはるか70年後くらいに書かれています。だから、『』が、後になって、この事件がヨハネにどのように見られているかが書かれるんです。


~ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、 預言したのである。~


後にヨハネがこの事件を冷静に客観的に見たときに知りえたのであって、その当時はカヤパが預言しているなんて誰も知りません。 ただイエスを憎み、イエスを抹殺したくて、自分の権力誇示のために、この計画をやったんだろうっていうそのような認識しかなかったのに、その70年後振り返ると、あれは預言だったんだ、とヨハネが言っているんです。何故なら、その年の大祭司であって、サンヘドリンの議長だったから、です。 この、大祭司が預言をするっていうのは、ユダヤ人の中では信仰なんです。大祭司になる者は預言の賜物をもらえる。そして、預言する人っていう認識がずっとありました。旧約のときから、そしてバプテスマヨハネのお父さん、ゼカリヤはその年の祭司だった。 くじによって。そして、彼も預言して歌を歌った。彼もその年の祭司だったから、 預言したという認識で、こうやって祭司たちが預言するのは、ずーっとユダヤ人の書かれている所見に、ある祭司は、夢で神のお告げを受け、そしてある者は夢占いまでするほどで。そしてダビデの時代だって先見者よってダビデが呼んでいるとおりです。祭司に向かって。先見者よっていうのは、預言者よっていう意味です。祭司にむかって、預言者よって命名するほどだったんです。だから、祭司というのは神の御言啓示を受けて、預言する人というのは、ユダヤ人の中では信仰なんです。 だから、彼が悪徳の祭司であったとしても、しかもイエス様の死刑宣告した最悪の祭司だったとしても、です。ユダヤ人の中では、祭司は預言する人なんです。何故なら、たとえ、異教徒のバラムだって、イスラエルについて神の預言をしていることから、パウロが預言しようと、アポロが預言しようと、ペテロが預言しようと、悪徳の人たちが預言しようとも、大祭司カヤパであったとしても。それが、神の預言なら、そうなんです。 その予言が神からの預言だったというのが、なんでヨハネは分かったのか。その70年後、この祭司職は終わったからです。エルサレム神殿は崩壊し、実際、このエルサレム崇拝のユダヤ教は終焉し、その史実をヨハネは既に見ています。 この預言が自分でもう何を言っているか分からないのに、神様の預言をしたんだ。 何故ならヨセフ・カヤパはその年の大祭司だったから。 このことが本当に皮肉にも神の預言をしてしまったその人たちが、結局、最後には、イエスを殺してでも自分たちのサンヘドリン議会を守り、イエス一人に犠牲してもらって、エルサレム神殿を守ろうとした、それが崩壊しているのをヨハネは見ています。 だから、預言だったと言わざる得ないほど、預言だったんです。 彼らがそれを守ろうとして、イエスを殺し、そのことのためだけに、イエス一人に犠牲を強いてそして、死刑宣告をして、お尋ね者にした彼らは、自分で何を言っているかわ分からないけれど、 「必ずイエスは、全ての者のために死ななければならない。十字架にかかって、 全ての罪を贖わなければならない人で、メシヤで、救い主だったっていう預言を大祭司であるカヤパに神ご自身がさせてしまっているんです。 イエスが救いを達成したのち、人間の祭司職は廃止された。 そしてヨハネは、その後復活したイエスを見ているし、彼らが守ろうとしていたものが一切無くなり、もうヨハネの時代には、祭司はいらなかったんです。その結果を見て、「あれは、神の預言だった。何故なら彼がその年の大祭司であったから。」これは、付け足しです。冷静に神が何をしたかを、後に見ているヨハネは、他の福音書と違って、これが何であったのかを解説しているんです。


~そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、 そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。~


エフライムという町は、エルサレムから北20kmほどの小さい町です。イエス様は、この死刑宣告の後、公然と街を歩くことはできなくなりました。こうして弟子たちと小さな町で身をひそめるしかなくなっていくんですイエス様も確かに窮地に追い込まれていきます。公然と語ることができなくなり、公然と病人を癒すこともできなくなり、 大衆の前に姿を出すことが出来なくなっていきます。


~さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、 過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。~


その当時イエス様は身を潜めて、公然と出ていけない。本当に緊迫した状態である時に 『過ぎ越しの祭り』という、年に1回、ユダヤ人にとっては、大大祭りがやってきます。 その祭りは成人男性がエルサレムで過ぎ越しの祭りをするときに、身を清めなければいけないっていう掟があります。その身を清めるっていう事は、屍に触れてはならないとか、汚れた身では、この過ぎ越しの祭りに参加できないので、過ぎ越しの祭りの前に、 1か月前くらいからエルサレムに来ていて、身を清める準備をしていなければダメです。 早めにエルサレムに行って、身を汚さないようにし、そして長い行列になりますから、携えてきたものを祭司たちに屠ってもらって、そして身を清めなければならない成人男性たちは、早めに場所取りするため早めに来ています。 エルサレムに住んでる人を含めて14万人、10万前後は居ただろうと予測されています。 あんな小さな道。あんな小さな狭い町、成人男性だけで14万人来たら、何列も何列も並んで、祭司たちに清めてもらおうとして、羊たちも連れてきて、もうごった返してます。 そこでイエスの噂がされるんです。何と噂しているのか。


~彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、 互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」~


これが、全員の一致した噂話でした。でも、ここ原本は 「あの方は、まさか上ってこない、だろう。」です。否定です。 まさか、来るはずはないという会話をしているんです。 誰も彼もが、まさかイエスがこんな所に来るはずはないって言ってるんです。 来るはずがないじゃない。もう死刑宣告されて、指名手配されているんですよ。お尋ね者ですよ。 そんな所へ、祭司やパリサイ派やサンヘドリンが集まる、その議会や、ローマ人や、トップが集中している、ポンテオ・ピラトもいるその街に。ローマ総督のいる街ですよ。そんなところに、お尋ね者のイエスが、まさか。絶対来ないっていうのが、この14万人、成人男性の同一の意見でした。 そして、完全に彼を捉えるために、「イエスを見かけたら訴えろ」という命令が、この日から出ているんです。しかし、イエス様はエルサレムに向かいます。 今日の本文はここまでですが、イエスは向かいました。そして預言どおり十字架に架かります。 このイエス様の一連の十字架に架かるまでの事件の中で、ラザロの死と復活は、大事だったんです。 イエス様が激動を覚えながら、涙を流しながら、本当に感動しながら、心震えながら、 「ラザロよ、出てきなさい。」と仰った。これはただのラザロの生き返りではない。この一連の事件をみれば分かります。イエスの十字架の死と復活なんです。 ここで、イエス様はラザロの死と甦りは、ご自身の十字架に対する預言です。 『私は必ず十字架で死に、甦る。』だから、ラザロは死んで甦らなければならなかったんです。 これが、イエス様が言った「これは、死で、病気でおわるものではない、私の栄光のためだ。」と。私は栄光を現すために、ラザロを甦らせに、眠りから覚ましに行くって イエス様は言いました。ベタニヤの村に入る前に。イエス様がラザロの死と復活の軌跡を起こす理由。ご自身が、もうそろそろ、エルサレムで、自分の十字架の死と復活が 近づいてる、その事の前兆として教えるために、ラザロの死と復活は必要だったんです。 「だから、私はこのことを喜んでいる」って最初に言いました。 私の友が死んだことを、むしろ私は喜んでいると。 このラザロの奇跡は、ただ、癒されたっていう他の奇跡とは違います。 他にも死人が甦っている奇跡はありました。旧約の時にもありました。そのこととは違います。これは、イエスキリストの十字架の死と復活を表現するために、そして、皆にイエスこそが甦りの王であることを知らせるために。イエス様は、ここでラザロの死と復活を起こさなければならなかったんです。 だから、どれだけイエス様にとってその瞬間が感動と言うか、心が震えるほどの ものだったか。ラザロが甦って嬉しくて震えたんではない。ご自身の十字架の死と復活を思って、あの時心が震えたんです、 この時。 イエス様が命令した相手はラザロではない。何ですか、死です。死に向かって命令したんです。 「お前はもう、2度と勝利することはできない。私が"死"そのものを打ち破るから。」 全人類が絶対に死ななきゃならず、罪によって全てが死ぬ。 この状態があります、イエス様の目には。全員が死ぬ。死から、もう逃げられない。 赦免されることのないものが人間にあります。だから、パウロはこう言います。 「死よ、お前の棘はどこにある。イエスキリストの勝利にお前は呑まれて、お前は2度と勝利なんかできない。」 って死に向かってパウロも命令するじゃないですか。今、イエス様はそのことをするんです。 イエスキリストの命に呑まれる瞬間なんです。 「お前はもう、2度と勝利できない。」 「2度と死の権利を持つことも、死の力を持つことも、人間に降りかからせることも、2度と死には無理だ。」っていうのは、何ですか。 死の棘は何かって、パウロは言います。死の棘は罪だと。 『この罪が死をもたらすことが2度とできない。』 『2度と人を罪に定めることができない。』です。何故?『私が死んで、その死を克服するから。死の勝利を敗北に変えるから。』これが、ラザロに命じたイエス様の命令だったんです。 誰も分からない、誰も理解できない。 ただ感激したり、泣いたり、怒ったり、恨んだり、妬んだり。弟子たちでさえ、一番争いを繰り返す。 その中でイエス様お一人だけが、この重荷を背負い、十字架を背負い、死に立ち向かっているこの瞬間。 そして、カヤパに預言させ、自分の死を用意しているイエス様。イエス様が言わせたんだす、カヤパに。

自分が死んで甦ることを、その年の大祭司に預言させ、ラザロではなく、死に向かって預言し、イエス様お一人で、イエス様ただお一人で十字架を準備されてるんです。 人間は誰も分からない。カヤパは、お前たちは何も分からないのか、私は知っているけどと言ったけど、ヨハネはこう言うんです。そのカヤパも、「お前が分からないだろう。神が言わせているのに。」 ヨハネは更に後からこの事件を見ているから、もっとイエス様がしたことがよく分かります。他の福音書と違う理由はここです。ヨハネが一番最後に福音書を書いてるからです。そして、イエス様の十字架の事件。あのイエス様の重大な事件を思い起こせば、思い起こすほど、 「あれもイエスだったのか、これもイエスだったのか。あの事件もイエスの死に繋がっていたのか」と気付きます。ラザロの死は、イエスの死に結びついていたんです。その当時誰が分かりました? ただ、愛していたからイエス様は生かしてくれたんだろう。ラザロとマリヤとマルタは愛されていたからっていう発想しかできない、そんな中で。後からヨハネは気付くんです。 「あぁ、これはラザロとかマルタとか、マリヤを愛していたんじゃなくて、イエス様の十字架の死とラザロの死と、ラザロの蘇りと、イエス様の蘇りと、結びついていたのか。」段々分かってきて、このヨハネの福音書が書かれているんです。 どれだけ、イエス様お一人で闘い、イエス様お一人で死を克服し、イエス様お一人で自分の意志で死に、自分の意志で甦っているのか。本当にそんなのは神じゃなきゃできない。主の主、王の王でなきゃできない。しかも、です。ヨハネはそれだけを預言していないんですよ。全てのユダヤ人を救うだけではなく、全世界の人を救うためだった。 ヨハネは見ているんです、異邦人も救われている事実を。当時にはユダヤ人だけが救われるという、熱心党的な考えしかなかったヨハネが、百年後には、もう異邦人が救われていることが見えています。ヨハネはエペソに行って、もうエルサレムから身を避けています。そして、その街の異邦人が救われて、聖霊が降り注いでいるのを見ているんです。 イエスの十字架の死と復活はユダヤ人だけのものではなかった。 全世界に、この救いがもたらされるためのものだった。 だから、イエス様はこう言うんです。「私は囲いの外の羊も養わなければならない。」。 そして、それは一つに集められる。

ヨハネは黙示録も書いています。この地上が終わった時の後を見ています。 何を見ましたか?天の御国に一つにされているのを。異邦人もユダヤ人も関係なく、救われた者たちが一つに集められているのを見てるんです。 新しいエルサレム、あれを見て、更に言うんです。一つに集められるためにイエスは死んだ。 これを書く当時にはもう、パトモス島でイエス様から、最後の地球がどうなるか。 そして、天国が造り上げられるのを見ています。それを見て、イエスのなさった十字架を、「私たちは3年一緒にいたけど、何にも分からなかった。なんていう失礼な態度をとったんだろう。」 だからヨハネは愛し合う事を強調したんじゃないんですか。何にもあの当時は分からなかったけど、後から、後からイエス様がしたことを思い返して、後悔と罪深さと、悔い改めの心で書いたんです、 このヨハネの福音書から、愛のヨハネって言われているのは、あまりにも自分たちの無理解とイエス様お一人で闘ったことを知っているからです。 このイエスの十字架の血、そして、死と甦りが、どんなにありがたかったのかっていうのを、ヨハネは強調したいんです。 何のためにイエスが来たのか、肉体を持って。 その事を本当に弟子たちは理解しない。当時の人たちは誰も理解しない。イエス様お一人で、震えながら、本当に汗が血に代わるまでに、お一人でお祈りになって、ただお一人で十字架背負い、ただお一人で十字架で死んだんだっていう事を言いたいんです。 だから、ラザロの死と復活は、本当に必要だったんです。人間に理解させるために。 人間に理解させ、見せるために。イエス様の十字架がどういうものか分からせるために、ラザロが必要だったんです。だから、現場にいた人は当然救われていきます。この偉大なる神の業をみるんですから。 私個人の救いじゃなかったんです。たとえ後にいろんな教会が立って、 教派、教団は分かれていても、一つに集められる、兄弟姉妹だったと。 天の父は一人、教師も一人。ラビも一人だった。 自分から、自分の熱心では救われない。 これが、聖書に何度も何度も、人間たちに向かって語られていることです。 なのに、あなたは一番になろうとするのか。なのに、あなたがたは妬んで嫉妬して怒って、隣人も愛せず、自分のことしか考えない、あなたはイエスの十字架を本当に知っているのか、福音書はそれを何回も何回も繰り返し語っています。 何のために祈り、何のために礼拝して、何のためにクリスチャンになったのか。 誰のおかけで、誰が何をしてくれたから、っていうのを考えをしなきゃいけない。 ただ、神の栄光、神の国の確立。一つになって、教会をたてることが、イエス様の目的です。 あなたの個人的な自分だけの救いじゃないんです、本当の目的は。あなたの『何か』じゃないんです。 一つとならせて、全ての口がイエスキリストを褒め称えるためなのです。 これが創造の目的。十字架の目的。あなたの一番とかペケとか、人の優劣は関係ありません。 今日私たちが、主の前にどう信仰で受け止めるかは、それぞれです。誰も強制しないし、誰も命令しません。人の成すわざではないからです。聖霊によって知るのです。 みなさんにイエス様の十字架の真の目的が理解できるよう祈ります。