ヨハネ福音書12章12-19
~その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」 ~
『その翌日』と、書いてあるのは、過ぎ越しの祭りが土曜日の安息日だったので、その翌日は10日の日曜日です。だからこの日、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城されたのは、日曜日だったんです。そして、
~祭りに来ていた大勢の人々の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしていると聞いて集まってきた。棕櫚の木の枝をとって、出迎えのために出て行った。~
と書いてあるんですが、この日曜日、ロバの子に乗ってイエス様がエルサレムに入城する話は、全ての福音書に書かれているほど、有名な1日です。そしてこの日を棕櫚の日曜日と呼ぶし、この日の次から苦難週と呼ばれているし、この棕櫚の日曜日の次の月曜日からイエス様の苦難の週としてキリスト教では憶えられています。だからこれが、イエス様が十字架に架かられる前の最後の日曜日ですよ。そして、その最後の日曜日に、イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入られ、都に入られるんですが、その話はどの福音書にも書いてあるけれども、やはりヨハネの福音書だけは特殊なんです、書き方が。何故ならマタイ・マルコそしてルカは、この話の前にロバの、牝のロバの誰も乗ったことのない子供のロバを村に行って、「ご主人が入用です。」という話が含まれているんです。3つの福音書には。でも、ヨハネはそこを省いているんです。そして省いて、イエス様がエルサレムに入城したときに、大勢の人の群れが居たと言っているんですが、他の福音書では弟子たち、或いはイエス様と過ぎ越しの祭りを祝いに来ていた旅の群衆たち、という表現です。でも、ヨハネだけはエルサレムの住民達がこぞって集まってきた、と書いているんです。だから、彼らが、イエスがまさか来るはずがない。こんな危険な指名手配者がまさか来るはずがないと言っていたにもかからわずですよ。こぞってエルサレムの住民が、です。一旦過ぎ越しの祭りのため、すでにエルサレムに入っていた者たちが、イエスが来る噂を聞いて、もう1回外に出て、イエス様がエルサレムに入る、その行列を迎えに、出迎えているんですよ。はたして彼らは一体誰か、エルサレムの住民とは一体誰か?何故ヨハネだけは弟子たちではなく、一緒に旅をした人たちじゃなく、エルサレムの住民が、こぞってそれをしているか。そして、ラザロが死んで甦った事件の後、イエス様が完全な指名手配者になっていて、それを議会で決めたサンヘドリンでさえ、もう手の打ちようがないってあきらめてしまうほど、こぞって出てきているんですよ。イエス様のエルサレム入場を出迎えるためにです。
それはまるで、王様が戦争で凱旋する、戦利品を抱えてくるような状態です。じゃあ、彼ら多くの群衆は誰か、というと、ラザロが死んで甦った噂を聞いた人たちですよ。ここは当然、弟子たちがそうでした。しかし弟子たちは上の空です。自分たちがまるでヒーローになったかの如く、何も悟っていないので、イエス様が王様万歳と言われているその声を聞いて、上の空で意気揚々と入っていく弟子達。そしてラザロが死んで甦ったあの奇跡を見て、一緒にイエス様と旅をしてきた人達。そしてその噂を聞いたエルサレムに住んでいる人たちも大騒ぎして、ラザロが死んで甦ったその奇跡の噂を聞いて、もうこれこそ、イスラエルにとってあり得ない事件で、奇跡だったので、そしてその人たちが出てきて、わざわざエルサレムから外に出て、イエス様の事を褒め称えながら、出迎えている。本当に王様の行進といか、行列を喜ぶ群衆たちと、もう他方は、途方にくれているパリサイ人達。 死刑を宣告している人たちは、もう途方に暮れているんです。手の打ちようがないんです。皆がこぞってイエス様を歓迎しているので。まさにごった返したエルサレムです。そしてヨハネだけは、ここをとっても簡単にしか説明していないんです。もうロバの子に乗った話も省いているし。そして、ヨハネだけがこの棕櫚の日曜日、キリスト教にとって有名な日。そしてそのイエス様が過ごす最後の日曜日、この事件をヨハネだけは違う観点で、書いています。他の福音書と違って。それが、どこなのか。 それはさっき言ったように、大勢の群衆が居たんです。他の3福音は、『弟子たち』って言っているのに、ヨハネだけはこぞって大勢の群衆がいた。すごい大勢でイエス様を迎えに出てきていた、です。そしてロバの話は省かれていて、
~しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。~
この棕櫚の木。他の福音書はこうです。上着を脱いで、或いは道に枝を敷いて、イエス様がロバの子に乗って、歩きやすいようにと表現しているんです、ここ。他の福音書は棕櫚の木っていうのは、ないんですよ。他の福音書では上着や枝をイエス様のところに敷いて、王様を迎え出た、と書いてあるのに。ヨハネだけ棕櫚の木なんです。その棕櫚の木が何だったのかっていうところに、ヨハネの独特の書き方があるんです。それは、棕櫚の木というのは、紀元前164年にハスモン家、マカバイ戦争の時のマカバイオス、祭司であり、将軍であった、その人がエルサレムを敵から取戻し、神殿を取り戻した日ですよ。その時の事を宮清めって言っているんです。だから、宮を清めた。『宮清めの日だった。』は、そのマカバイオスが神殿を取り戻して、その神殿から偶像を追い払い、神様の祭壇を清めた日ですよ。その宮清めの時に使ったのが棕櫚の木の枝です。その棕櫚の木の枝で宮を清めたんです。だから、イスラエルにとって棕櫚の木というのは、神殿を取戻し、独立戦争で勝利をし、イスラエルを独立国家として敵の国から取り戻したというしるしなんです。象徴なんです。だから、イエス様のこの凱旋が、それらのものと同じような扱いをされているんです、今。そしてヨハネだけは、この群衆が誰であったかを、この棕櫚の木で表しているんですよ。大騒ぎして「ホサナ!ホサナ!」と叫んでいるその人たち。
「ホサナ」は、こういう意味です。「さあ、お救いください。私たちをお救いください。」っていう意味です。だからその時の独立運動、マカバイオスがした革命。そしてエルサレムの神殿を取り戻した王。その私たちをローマから、この支配から、もう1回、このユダヤの、本当の私たちを取り戻す日。自由を取戻し、開放を叫ぶ日、なんですよ。棕櫚の木の象徴というのは。イスラエルの人にとっては。 だから、もう一度イエスが、マカバイオスのような王になって、ローマやその敵から完全に私たちを救い出す、政治的、武力的な、王なんですよ。そして「ホサナ」は何ですか?「本当に自分たちを独立させ、武力的に政治的に開放してくれる王がやってきた、ホサナ!私たちをお救いください。」だったんです。だから、ヨハネだけは棕櫚の木を表現しているんですよ。そのことをダブらせているんです。当時も、支配下からもう一度エルサレムを取り戻した歴史があります。それまでずーっとアッシリアによって、またバビロニアによってずーっと国が奪われたものを、もう1回マカバイオスが取り戻した独立運動、革命、そして解放。 そして、もう一度神殿を取り戻したあの日を思い起こして、もう1回武力的な政治的な王がやって来た。「私たちをお救いください。」と大騒ぎして、バカ騒ぎして王様の行列に並んでいるこの群衆が、誰であったかを、この棕櫚の木で、ヨハネは表現しているんです。 そしてその棕櫚の木をとって、歌っている歌がこうです。「ホサナ!祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」これは、詩編でもほめ讃えられていて、他の旧約でもほめ讃えられています。そしてここで、本当に王様が来たんだ。武力的に開放してくれる王様が来たんだ。イスラエル中が、エルサレムの住民が、巡礼に来た全ての者がですよ、今。
もう、ラザロを死人から甦らせるほどの力。それだけの奇跡を行える人ですよ。かつてないんです、そんな事ができた人なんて。それだから今回は、マカバイオス以上の王として、私たちを救ってくれるだろう。もう、すごい「ホサナ!ホサナ!」と大騒ぎですよ、エルサレム中が。だから、サンヘドリン達が手が出せないんですよ。あんまりにも皆が大騒ぎして、そしてもう1回救ってくれるかもしれない、っていう予告までされていて。預言までされていて。誰が手が出せます?ここに。 そして他の福音書では、『イエス様がロバの子に乗って』というのは、予言通りだったというのに対してヨハネだけはロバの子についての説明が1個もないのは、イエス様はそれを拒絶している、ということです。王様なら立派な馬車に乗っていくだろうけど、イエス様は拒絶してロバの子に乗っている。ヨハネの表現はこっちなんです。他の福音書ではイエス様がロバの子に乗っては、予言通りで王様が、救い主がロバの子に乗って入城するんだ、と表現しているのに、このヨハネだけは、この大騒ぎを拒絶しているイエス様を表しているんです。『私は武力的に、政治的に来た王ではない。』という表現なんです。イエス様の拒絶の自己主張。イエス様のエゴエイミーですよ、ここは。何故なら、イスラエルの王と呼ばれるのは嘘じゃないんです。本当です。イエス様はイスラエルの王でしたよ。というか、全世界の王様ですよ。だから、ポンテオ・ピラトが「あなたはイスラエルの王ですか?」と聞いた時、「私はあなたの言っている通り、イスラエルの王です。」と答えるじゃないですか。ご自身も言っているんです。確かにご自身もイスラエルの王だと言っているんです。だから、その否定じゃないんです。だけど、イエス様はポンテオ・ピラトにこう言うんです。「私は真理をあかししに来たのです。」と言ったんです。
「真理をあかしするために来た王だ。」とその時もお答えになっているのに。この群衆はその事を言っていないんです。政治的、武力的に実際に現実的に、イスラエルを取り戻してくれる王です。ここで、ホサナを叫んでいる群衆たちは。だから、イエス様は拒絶しているんです。「私は、そんなマカバイオス一家のような人間ではない。」「武力を使わなければ救えないような人間ではない。」政治力がなければ、救い出すことのできない小賢しい人間ではないんですよ、イエス様は。本当の王なんです。真理をあかししに来た。本当の王が今入城して、最後の日曜日をイエス様は飾り付けているんですが、それは、ロバの子に乗ったのは、王様が、イスラエルの救い主がロバの子に乗ってくるという預言だからじゃなくて、拒絶なんです。人間の思惑への拒絶なんです。人間が要求していることへのイエス様の拒絶なんです。 だから、ロバの子に乗っているとヨハネだけは表現します。そして、ヨハネだけは違う表現をまた、するんです。
~イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」~
他の福音書は、ほとんどこの引用がゼカリヤ書を引用しているんです。
ゼカリヤ9章9-10節 ~シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。~ 他の福音書は、~シオンの娘よ。大いに喜べ。―柔和でロバに乗って来られる方。~
っていうのは、マタイ・マルコ・ルカはここを引用しているんですよ。そして、世界の果て果てまで、イスラエルの権力やイスラエルという国がその権力を広げていく。ホサナと叫んだ群衆はここを大いに期待しているんですよ。そして、他の福音書はここを引用しているんです。でも、ヨハネだけがここを引用していない。ここももちろん引用しながら、他の箇所を言っているんです。
ゼパニヤ3章14-17節 ~シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。~
他の福音書はゼカリヤ、~喜び踊れ、ロバの子に乗って来られる方を~を引用しているけれども、ヨハネはそこを引用しながら、ゼパニヤを引用しているんですよ。ゼパニヤのどこを引用しているか。~シオンの娘よ。喜び歌え~は同じなんですが、16節、~その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。~ここを引用しているんです。ヨハネだけは、ぜパニヤを加えているんです。何故か?あなたの只中に、来られるからだ、ですよ。イスラエルの王は、あなたの只中に来られる、なんです。 世界の果て果て、地の果て果てじゃなく、『あなたの中に』王は来られる。をヨハネは引用したいんですよ。だから、恐れるな、だったんです。「シオンの娘よ。喜び踊れ。」は他の福音書です。このヨハネはぜパニヤを引用して、「恐れるな」だったんです。何故恐れるな、か?あなたの只中にイスラエルの王が来られるからです。というのは、ヨハネだけは、私の心の中に王が来れるを引用しているんです。他の福音書とは違っているんです。それは、ヨハネが自分自身で告白しています。
ヨハネ12章16-17 ~初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。~
ヨハネだけは、これを付け加えているんです。他の福音書には、この付け加えがないんです。ヨハネだけは、この棕櫚の日曜日が何であったか、最初自分たちは全然分からなかった。イエス様が何故この事をしているのかが、分からなかった。でも、栄光をお受けになった後、私たちも気付いたんだ。とヨハネは言っているんです。栄光はいつのことですか?イエス様が十字架に架けられ、死んで甦って聖霊を受けた時にヨハネたちは分かったんですよ、はじめて。イエス様が何をしてきたのか。これだけじゃないんです。イエス様が死人の中から甦る話をするときもです。宮清めの中でイエス様はこう言うんです。鳩を売る人や両替人の台を壊して、鞭で打って、そしてイエス様が追い出しますよね?そして宮を清める日にそれをした後に、「この神殿は46年かかって造ったけど、私はこれを壊し、3日で建て直す。」と言った言葉を、弟子たちは分からなかったんです。その時もヨハネは、死人から甦ったイエス様を見て、はじめて弟子たちは、何を言ったかが分かったって、付け加えているんです。イエス様が十字架に架かって死んで3日後に甦った時、「もう一度神殿を建て直す」って言ったあの台詞を思い起こしたんだってヨハネは付け加えていて、ここでも、何故エルサレムに入城されたかが、その時は分からなかったけれども、栄光をお受けになった後、イエス様がなぜこの事をしたのか自分たちがようやく分かった。だから、ゼパニヤを引用しているんです。
エルサレムに来たんじゃないんですよ、イエス様は。イスラエルの王は、エルサレムの神殿、46年かかったあの神殿を取り戻すために来たんじゃなくって、我々の心の中にイスラエルの王は来るんだ。だから、ロバの子に乗って、そのホサナを拒絶しているのだ。そんなメシヤではないっていうイエス様の自己主張をここで表現し、棕櫚の木を表現し、あの時分からなかったけれども、今なら分かる。イエス様が何のために来たのか。この後、十字架に架かって死ぬことが決められていたイエス様が何故ラザロを甦らせたのかを言っているんですよ。このことをなさるのは、イエス様が死ぬ1週間前です。その少し前に、なぜラザロを死んで甦らせたのか?ヨハネたちは、やっと分かるんです。そのずーっと後に。これはしるしだったんです。ラザロの死で、そして甦って、墓から甦ったラザロは、イエス様がこれからする、本当の死、本当の復活をしるしとして見せている。だから、ラザロの噂を聞いた全イスラエルの、このエルサレムの、住民たちがこぞって出てきた理由を、ヨハネは今ここで語っているので、他の福音書とは違うんです。
ヨハネはその日目撃したけど、ずーっと後にこれを書いたから、イエス様が何しに来られ、何をしていて、あの棕櫚の日曜日、ラザロの甦りの時、そして神殿を清めた、鳩を売る人や両替人たちを打倒したあの台詞を全部思い起こすんです。そして、それが聖書に書かれていたことを思い返したんですよ。イエス様の事は聖書に全部預言されていた。後から、後から知っていくんです。ヨハネたちは。その時鈍くて鈍感で、全く気付かないんです。イエス様のなさること、全部気付けない。これから死に向かっていくイエス様です。その事をヨハネたちは分からず、有頂天になり、自分たちも住民たちと同じで、イエス様が武力的に政治的に救ってくれるもんだと思い、一番争いをし、情けない姿で、あの十字架で逃げ回った、あの自分たちを思い起こしてるんですよ。何にも分かっていなかった。何にも悟れなかった。聖書を読んでも全然悟れないんですよ。聖書を聞かされても、イエス様が直接言われても何にも分からないんですよ、弟子たちは。
だけど、後になってイエス様がなさったことが分かるようになったヨハネは、付け加えているんです。何故ラザロが死んで甦ったのか。それからイエス様が何をなさろうとしていたのか。何故エルサレムに入城したとき、ロバの子に乗ったのか。何故イエス様はその日、イスラエルの王が、本当の王が、私たちの中に来るために肉を着て、この地上に来たのか。その方はエルサレムではなく、私たちの内に、さらには異邦人にまで来られる王であったということを、ヨハネはここで本当に語りたいんです。だから、ヨハネだけは、ゼパニヤを引用し、「恐れるな、シオンの娘よ。」と。何故?あなたの只中に、これからイスラエルの王が来るからだ。これを、ヨハネだけは表現しているんです。そしてラザロの死と復活を、またここで語るんです。それが、しるしだったんだ。イエスの十字架の死と復活のしるしとして、ラザロは甦ったんだ。それを聞いたエルサレムの住民がこぞって来たんだ、とヨハネは表現しているんです。
そして、19節 ~そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。~
きっかけは、全部ラザロの死だったんです。ここで、書いているじゃないですか。ラザロの噂を聞いていなければ、こんな事は起きなかったんです。ラザロが死んで甦った噂を聞いた、ここの全ての住民が、こぞって来てるんですよ。イエス様が何故ラザロを死なせ、何故甦らせたかが、後から、後から弟子には分かるんですよ。だから、イエス様がラザロが死んだのにもかかわらず、4日も行かないじゃないですか。そして私はこのことを喜んでいると言うじゃないですか。そして、この病気は死で終わるんではなく、私の栄光のためだ、ともおっしゃり、そしてマルタやマリアに私が甦りで、命であることを信じるのか。信じるなら、あなたは死んでも生きるのだ、とイエス様がラザロの死に何度言ったか。私こそ甦りで、私こそ命なんだ。だから、ラザロが死んだことを私は喜ぶ。その後見てください。全住民がラザロの死で、イエス様を迎え入れているんですよ。そして、甦ったことで喜んでいるんです。 そして、その年の大祭司カヤパは、自分では何を言っているかを分からないけれども、預言するじゃないですか。一人の人が犠牲になって、全ての人が救われるなら、これを徳とは思わないのか。それがカヤパが自分で何を言っているのか分からなくても、それが預言になってしまった。神が言わせてしまった。この住民たちは一体なんですか。預言してしまってるんです。ホサナ、ホサナ、イスラエルの王が来られた。彼らは、自分たちで何しているか分からないけれども、結局彼らは自分たちの口から、本当にイスラエルの王が来たことを、分からずしても、預言してしまうんです。そして、本当にこの大祭司やサンヘドリンたちが、その言った通りです。「自分たちは何をしているのか。こぞって皆が向こうに行っているのに。その通り、その数十年後、彼らの職分はなくなっていくんです。彼らの神殿は、彼らが望みを置いたこの神殿は、ローマ人によって、絶滅されているんです。そして、神殿崇拝はもう終わるんです。イエス様が本当の王として来られたから。どこに?エルサレムではなく、私たちの只中に。 これをヨハネの福音書は、他の福音書では書いていない、ヨハネだけの独特な表現で、本当にこの日イエス様が何をしに来られたのかを語っていて、それの全てのきっかけがラザロの死と甦りだった。それをきっかけにイエス様は、全ての者がイエスに向かって褒め歌を歌うようにされているんです。全てのエルサレムの住民が、何をしてるか彼らは分からないんです。でも、イエスはさせてしまうんです。全ての口がイエス様をほめ歌うように。詩編のように、ダビデのように。棕櫚の木を持って、王が来たと喜び、ホサナ、私を救ってください。とイエス様はそのことを言わすんです。人々の口から。何故ですか?全くその通りのほめ讃えるべき王が本当に来たんです。皆分からなかった。その当時、弟子も分からなかった。誰も分からなかった。けれども、来てたんです。本当の真の王が。真理を証しする王が。 本当の全世界の王と呼ばれる唯一な方が、救いに来られていたんですよ。 それは、栄光をお受けになる日、十字架の上で完成されたんです。それを祝う最後の日曜日だったんです。そして、この日からは、次の日から苦難週、イエス様の十字架を背負う時間が始まります。
私たちキリスト教は、この日が有名です。棕櫚の日曜日。そして苦難週、そして復活祭。 これは私たちキリスト教にとっては、本当はクリスマス以上の日なんです。クリスマス以上の、本当にありがたい、感謝、恵みの日ですよ。でも、私たちは知っているのか?ですよ。ヨハネのように後から悟っているのか?私たちは本当にそのことを、本気で今実感しているのか?ですよ。イエス様が死ぬために来られ、そしてそれはイエス様が敵を滅ぼすために来られたんじゃないんです。イエス様は何をされたんですか?全人類の悩み、死ですよ。全人類が避けられない死、全人類が通らなきゃならなかった、あの死ですよ。あの死に向かって、ラザロよ出て来いって言っているんです。その瞬間に死は意味を持たなくなり、死は力を失ったんです。死は権力を失ったんです。何を?人を殺す権力ですよ。人を殺す権利を、死は奪われてしまったんです。何によって?イエス・キリストの死によってです。イエス様は死をご自身の死を持って打ち消しにきているんです。それが真の真理を証しする王として来られたイエス様の本当の仕事。誰に向かって?何に向かって?死に向かって。イエス様は滅しに来られて、全ての人間が避けられない、あの死を命で呑みこんでしまったんです。 だから、ラザロの時、こう言うんです。何度も、私が甦りで、命で、死んでも生きるのだ、信じる者は。誰も信じなかったけど、誰も理解しなかったけど。イエス様はこれを証ししに来られた方なんです。そして只中に、イスラエルの王として支配しに、私たちのうちに来られる方。これをヨハネだけは、本当にイエス様が何しに来られたかを証しして、福音書を書いていて、その時私たちは何にも悟れなかったけど。今なら、ようやくイエス様が何しに来られたのかを分かるようになって、それからヨハネの福音書は、書かれています。他の福音書とは表現の仕方が違うんです。
私たちは、本当に何にも分からないまんま、「主よ、主よ」と叫んでますよね。そして礼拝し、賛美し、祈って、何にも分からず。この住民と何が違うんですか?興奮し、自分を貧乏から、惨めな状況から救ってくれる?自分を生きている間に惨めにしないように。そして色んなお金や色んな幸せのために、「ホサナ」と叫んでるんじゃないんですか?本当に死を打ち破りに来た、真理の王の王として受け入れているのか?ですよ。理解して「ホサナ」と叫んでいるのか、ですよ。そして砕かれて、へりくだって、イエス様の前で、この恵みのありがたさをどんだけ理解しているかですよ。してないんです。この住民とおんなじです。上の空の弟子たちとおんなじです。そして、後になっても悟らないんですよ。これほど鈍いんです。この時代のクリスチャンは。 パスカルはパンセでこう言います。「人間は考える葦である。」これは、有名だけれど本当の意味を誰も知らない。パスカルは当然キリスト者ですよ。そしてパンセはキリスト者に向かって書かれた手紙の1句なんですけれど、この1句はこうですよ。川辺にゆらゆら揺らいでいる、弱弱しく、何の自立もできない葦ですよ。ゆらゆら揺れている。そのように人間は弱弱しいって言っているんです。本当に人間は弱くて、人間を殺すのには宇宙万物の力はいらないんです。1滴の水で殺せて、1つの水蒸気で殺せるほど、葦はか弱く、ゆらゆら揺らいでいて何の保証もない、何の力もない存在だ。だけど、このゆらゆら揺れる弱弱しい人間でも、考える存在なんだ、と言っているんです。これを殺すのに、宇宙はいらないけれども、宇宙より尊い崇高な存在だ。何故なら、考えるからだ。その考えるのは、何を考えているのか。自分が死ぬことと、宇宙万物が自分より優れていることを知っているからだ。そして、考えはここから始まっている。ここから立ち上がっているのだ。だから、これを考えられる人間は、宇宙万物より崇高なんだ。何故か?って考える力を持っているから。
この考えは、金儲けの考えや裕福に暮らすための考えじゃないですよ。自分が死ぬしかない存在で、宇宙万物のどの存在よりも劣っている事を知っている。こっから考えを始めているからだ、ですよ。だから、人間は考える葦、宇宙万物より崇高な存在になり得るって言っているんです。これが、パスカルのパンセの1句なんです。知らないで、知ったかぶりして喋る人間たちは愚かですよ。彼が何を言っているんですが?イエス・キリストの十字架の死を言っているに決まっているんです。キリスト者なんですから。私たちは死ぬしかないんです。宇宙万物のどの被造物より弱いんです。弱弱しいんです。もう、何もできない。自らは何にも考えることのできない存在ですよ。 でも、何故私たちは考えることができるのか?私たちは聖書が与えられ、私たちはイエス・キリストの十字架の死が与えられて、甦りの力を与えられているから、私たちは死ぬ存在だったけど、死んでも生きるっていうことを知っている、ですよ。これが、パスカルのパンセの1句なんですよ。そして私たちはそれを聞いても分からないんです。自分たちが死ぬ存在であることが分からない。生かされていることが分からない。何で生かされたかが分からない。ただ、こう言うんです。「ホサナ、ホサナ、イエス。」これを、興奮してアホの一つ覚えみたいに叫んでいるんですよ。自分の何か、欲得のために。自分の安全や安定のために。自分が非難されないために、惨めにならないために。ただ、ホサナ、イエスと叫んでいるだけです。自分が死ぬ存在で、あの葦のように弱く、無力で無知で、何にも自分からはできない存在なんていうことを考えちゃいないんですよ。だから、崇高でも何でもない、獣に等しい。本当にホサナですか?本当の意味でホサナと叫んでいるのか。 私たちは果たして考える葦なのか?そうなり得ているのか?ですよ。イエス様が何しに来られ、今現在も何をされて、何を望んで、何を私たちに要求しているかも分からないまま、ホサナと叫んでいる。パンセのように、私たちからは何の善いものもないです。ゆらゆら揺らぐ、あの葦のように。本当に無力で神への知識において無知です。
でも、私たちは死んでも生きる事を知っています。何故?イエス・キリストの十字架の御業によって。でも本当に理解しているのか?主日礼拝を、あの棕櫚の日曜日が、イエス様の最後の日曜日で、復活する日曜日が、どれだけ喜ばしい日曜日だったか知っていますか。何故?私たちの只中にイスラエルの王が来られたからでしょ。そのイスラエルの王を迎え入れた、あの日曜日。本当にイエス様があの3日後に甦られた日曜日が、どんなに恵みで、どんなに人間にとっては、もうこの救い以外にない、という方法だったのか?だから、分からずにホサナと叫ぶのではなく、考える葦になるしかないんです。そして、私たちはこの恵みがどこから来たかを思い返すしかないんです。いつ?毎日の生活の中で。 そして、イエス様に無礼ですよ。不遜ですよ。自分のことしか考えずに。自分の恵みしか思わず、自分の救いしか考えない。そして、本当に自分の欲望のためだけ、ホサナと叫ぶ自分。これを、もう私たちは本当に止めて、あのヨハネが、あの時は悟らなかったけれど、今は悔い改めて、その恵みを私は悟ったのだ、と言わなきゃならないんですよ。そして生活の中で、ホサナと叫ぶのは、隣人に対してですよ。隣人に対してホサナと叫ばない人間は、意味がないんです。自分一人で、教会の中で、家の中で、一人ぼっちでホサナって叫んだって意味ないんです。そのホサナ、イスラエルの王が私の中に来たっていうホサナを、隣人にも語るんです。
私達は後から悟ることもないんです。鈍いんです。私がそうで、この教会もそうです。ヨハネのように、後からも悔いることがない。これが私たちの一番の問題点です。他のクリスチャンや、他の教会を裁く必要はありません。私の只中に来られたイエスキリストを、心から礼拝しているか、それが一番大切な原理だからです。