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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書13章1-11

2018.02.14 18:25

このヨハネ福音書は基本的には、1章から12章までが7つの奇跡の物語が書かれていて、その7つの奇跡を行われている対象も一般的なユダヤ人なんです。そして、この13章から20章までは、『栄光の書』とも呼ばれていて、もう既に奇跡を一般ユダヤ人の前で行う事がなく、『栄光の書』或は『受難の書』と呼ばれていて、ここで一旦区切られているんです。そしてこの13章からは、『受難の書』或は『栄光の書』と呼ばれていて、主に一般のユダヤ人が対象ではなく、弟子達なんです。ここからは、基本的には弟子達に教えておられるんです。一般のユダヤ人ではないんです。だから、この13章からは、弟子達を教育し、また弟子達に教えようとして、書かれています。そしてこの13章1節から始まる足を洗う、この弟子の足を洗うという物語は、今日本文で区切った11節の後にも継続して足を洗ったお話が続いているんですが、11節までの間にもイエス様が言っておられる事は一つなんです。「今、わたしがしている事があなた方には分からない。後には分かる」と仰ってるし、その後もう一度「あなたはわたしがしている事が、分かるのか、分からないのか」と仰っていて、もう一つ違う内容ですが、同じことを繰り返している言葉があり、イスカリオテ・ユダについて「わたしを裏切る者がいる」と語られる内容が、繰り返されています。だから、ここからは、弟子達に教えておられることがわかります。その中でも、とても重要な『弟子の足を洗う』という物語が書かれているんです。


~さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。~


とありますが、このところの、『過ぎ越しの祭の前に』とあります。これは、過ぎ越しの祭がまだ来ていない。だから、イエス様の最後の晩餐は、過ぎ越しの祭ではなかった。という事が明らかになっているんです。過ぎ越しの祭の日に、最後の晩餐をしたと思っている書物もあるけれども、過ぎ越しの祭の前に、『最後の晩餐』が行われているんです。しかも、ここで、そこの宴会の言葉は、宴会というただのお祭りという意味ではなくて、『最後の晩餐』という意味的なものであるけれども、ギリシャ語では『聖餐式』というこの言葉は、後にクリスチャン達の中では、ギリシャ語の祭り、宴会という言葉が、聖餐式と使われていきます。だから、イエス様はここで、弟子の足を洗ったんですが、何をなさりたかったかというと、実は聖餐式だったんです。そして、過ぎ越しの祭の前、受難の週の、最後の晩餐、最後に弟子達と宴会というか食事をなされる時に、イエス様が聖餐式をなさった、という事です。


~世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。~ ここでは、こう書いてありますが、他の聖書では、こういう翻訳があるんです。 ~イエスは彼らを最後まで愛し通された~


と訳している翻訳があって、余すところなく全ての愛情を注いだ。もそうですが、最後まで弟子達を愛し抜かれた。愛し通された。とヨハネはここで語っているんです。それが後で、足の洗い、足洗が一体何だったのか?という事、そして何故イスカリオテ・ユダがここで裏切ることが明らかになっているのか。という事がこの最後まで弟子達を愛し通されたっていう所から今日の聖餐式に関わってくるんです。ここで、『残ることなく愛を示された』も同じですが、でも、『最後まで愛し通された』の方が理解し易いです。余す所なく、というよりも、こっちの事情関係なしに、人間側の状況ではなく、イエス様が弟子達を最後まで愛し通された。という方が、この聖餐式が理解し易いです。


~夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。~


と、あります。ここで、夕食というのは聖餐式、最後の晩餐。この食事がなされている時に、イエス様は突然夕食を中断して、ご自分の上着を御脱ぎになり、そして、腰に手拭いを捲いて、弟子の足を洗い始めたんです。この榊原先生のお話によると、ここは、とても解釈が難しい所で、神学生達に、ここの解釈のテストを出すなら、意地悪だなって思う程色んな解釈があり過ぎて、多分、ここはとても説明が難しい。或は色んな解釈があるので、難しい所だと仰ってるんです。何故かというと、この足洗はなんだったのか?なんです。一見、イエス様が手拭いを腰に纏って、ペテロをはじめ12人の弟子の足を洗うのは、一見、奉仕、隣人に尽くす、というような模範的な行為に捉えられがちです。そして、そのような解釈をする人達が大勢います。でも、イエス様がここで足を洗われたのは、ただそんな理由ではないのではないか。それは、奉仕をされる、仕えるために来られたっていう言葉通りに、イエス様が仕えられるためではなく、仕えるために来られたことが明白なんです。だけどここで、それだけの解釈でいいのか?ただ奉仕して、仕えて、そして隣人愛を示している。ただそれだけでいいのか?という事なんです。


~それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。~


そして、ペテロはこう言います。「主よ。あなたが私の足を洗って下さるのですか。」そしてイエスは答えて…ここが重要です。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」そうしたら、


~ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」~


そして、またペテロが言って、


~「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」~


すると、イエス様はまた答えられて、


~水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」~


ここが、問題なんです。ただの奉仕だったのか?ただ、最後弟子達に、何か言い残すことがあって、優しくして親切にしたのか?ということではない事が、イエス様がしておられる事の中の、ペテロとの会話の中で分かるのです。『わたしのしている事』が、『今あなたに分からない』だけど、『後で分かるようになる』という事が、とても重要です。ただの奉仕だったら、ただ人に尽くすという事だったら、今見てすぐ分かるじゃないですか。悟れます。なのに、イエス様は「わたしがしている事は、今あなたには全く分からない。だけど、後で分かるようになる」私達が人生を振り返った時もそうでしょ?その時は分からなくても、次の日や或は10年後に、若かりし頃、ああいう事があったのか、こういう事があったのか、とあの時の意味。あの時が何であったかというのをもっと深く、私達が考える事が出来、体験を通して知ることができるけど、イエス様が仰っている事が果たしてそれなのか?まず、何よりも宮清めの時にも、ヨハネは説明しています。その時、宮を清めた時、イエス様が何をしているか分からなかったけれど、イエス様が死から甦った時に弟子達はその事が聖書で書かれているという事がわかり、イエス様が仰った事とを比較して理解し、知るようになり信じた、と書いてあるんです。それだけじゃないですよね?ヨハネはその後にも、イエス様がなされている事が分からなくても、イエス様が栄光をお受けになった時に悟るようになった。と少し前の説教でもヨハネは言っている。何故イエス様がそこでそれをしているのか、分からなかったけれども、栄光をお受けになった時、或は死んで甦った時に私達に分かるようになった。だから、昔を回想して言っているのではないんです。10年前にこんな事が起きたのが、それが今なら分かったというのではないんです。明白に言っているんです。では死んで甦った時分かったし、栄光を受けられた時に分かったんだ。と言っているのは、一体何ですか?イエス様が十字架で死んで甦って、昇天されてマルコの部屋に火の聖霊が下った時に分かったんです。弟子達はそれまで決して理解できないんです。だから復活したイエス様に、まだイスラエルの復興の事をお願いしてるじゃないですか。イスラエルを解放し、イスラエルの王になって欲しいというお願いをまだしていたんです。そしてその後は何をしますか?ガリラヤに帰ってしまうんです。到底理解しているとは思えない行動です。だけど、栄光をお受けになった時には、死から甦った時には私達には分かるようになった。とは何の意味ですか?火の聖霊が下ったからです。だから、イエス様が弟子達に何と言っていたか。あなた方は今は分からないけど、後にはあなた方の助け主が来られる。あなた方にその御霊が下る時、あなた方に御霊が導いて教えてくれるはずだ。そして、知るようになる。とイエス様は何度も教えます。だから、聖霊を受けなさい。聖霊を待ちなさい。と何度もその前から仰っているんです。だから、ここを単なる奉仕にしていいのか。この解釈をただ隣人愛に終わらせていいのか。そしてその事を踏まえて今は分からなかったけど、栄光をお受けになった後には、火の聖霊が下った時には、イエス様が為さった事が分かるであろう。という事です。 そして、ここでイエス様がこの後、ペテロの足を洗おうとした時に「いやいや、とんでもない。私がイエス様の足を洗いましょう。」と余計な事を言って、「もし今、あなたが、わたしから足を洗ってもらわなければ、わたしとは何の関係もない」クリスチャンになれない、天の御国に入れません。御国の相続者ではありませんと、イエス様は答えているんです。そしたら今度はまた出しゃばって、「では頭も手も全部洗って欲しい。」と余計なことを言った時に、「いいえ。もうあなたは足以外は全身聖いのです」と言われました。この『足以外は』という言葉は、そもそも聖書の原本にあったかどうかは、五分五分で、足以外という単語が必要なのかどうかは、分からないんです。でも、『足以外は』という解釈のところで、結局ほとんどの人達の解釈はこうです。その当時、ユダヤ人達は宴会に出掛けるときに家で沐浴する。お風呂に入り、水を全身に浴びて、そして招待してくれた家に行く時に、道を歩いてる途中で足が埃で汚れるので、その時足を洗う為にたらいの水は用意されていた。その例えで、これをイエス様がされたのではないのか。という解釈がくるんです。そして、プロテスタント的には、こういう解釈です。一度イエス様に義と認められ、信仰によって義と認められたら、もう2度と沐浴する必要はなく、全身聖い。でも、日々或はその後も犯す様々な罪、その罪の悔い改めは必要である。というプロテスタントの、後は2度3度とイエス様に聖めてもらう必要はないけれども、聖化、聖められる過程である。が、この足洗と言っている。カトリックは違うんです。洗礼式、水のバプテスマを受ける時に、義と認められ、全身聖くされ、そして足を洗うというのは、土曜日の夜、毎週、神父様に告解をし懺悔をする、これが足洗だっていう解釈をしているんです。でも、榊原先生の解釈は、そのどちらも違うと言うんです。そこで、『足洗』という単語があるから、足以外はという所で、皆がその解釈をしてしまうのではないか。だから、足以外はという単語が今ここで、必要なのか?原本にあったのかどうかという疑問が生まれる。この足以外は聖い。だから、日々行っている罪は残っているから、悔い改めなさい。という解釈がほとんど広まっていて、それは当時ユダヤ人達にその習慣があったからというのです。人に招かれるたびに沐浴しいた習慣が果たしてあったのか。そして行く度に足を洗ったのか。その習慣が果たしてあったのか。しかし、パリサイ人の家にイエス様が直接招かれた時だって、論争になったのは足ではなく、手だったんです。「何故あなた方の先生は、食事の前に手を洗わないのですか?」パリサイ派は敬虔を打ち出している派閥です。ユダヤ教の中で、戒律を重んじる派閥だったんです。そのパリサイ人でさえ、足ではなく、手を洗う程度だった。毎回沐浴する戒律はなかったんです。だから、そういう習慣は当時のユダヤ人にはない。そして、ここでの解釈で夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に纏われた。が4節にあると同時に、12節。


~イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着て、再び席に着いた~


とあるように、イエス様は、足を洗う前に上着を脱いでいるんです。そして足を洗い終わった後に、また上着を着ているんです。だから、この語源にただの隣人愛とか、そういう悔い改めの次元なのか。といった所に疑問が生じます。何故なら、10章17節に、「わたしは自分で自分の命を捨て、また自分で命を受けるのです」と言った時に、『命を捨てる』『命を受ける』という時には、本来着る、脱ぐという意味で、ここで使われてる単語と同じなんです。だから、上着を脱いだところは、捨てるという意味だし、上着をまた着たっていうところは、受ける、得る、命を得るっていう、その単語と同じ単語の言語をここで使っているんです。だからイエス様がわざわざ、上着を脱いで、上着を着たっていうのを何故ここに入れているのか。そして、パウロもこの事については、第2コリントに書いています。 


第2コリント5章2-4

~私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。~


この『幕屋』というのは、私達の肉体の事です。だから、肉体を脱ぐ。そして、新しい幕屋を着る。新しい命を着るって言っているように。命を得る、そして命を捨てる。ここでも、着る脱ぐで表現しているように、イエス様が上着を脱がれて、また着られた。これがご自身で、ご自身の意志で命を捨て、ご自身の意志でまた命を得ている。そして、ここの宴会、夕食の言葉が聖餐式で使われている。という事が、私達が単に奉仕的な物語であったのか、或は他の解釈のように理解してもいいのか。一旦救われた者は、後は毎日悔い改めればいいっていうような教えだった。このような解釈なのか?という所に疑問を持たずにはいられない。何故なら、イエス様が言ったここが大事です。「もし、あなたが今日わたしの手で足を洗わなければ、クリスチャンになれない」と言っているんです。この解釈は何なのか?もし、わたしが今日あなたの足を洗うなら、あなたは、もう全身聖いんです。そして、これをしないなら、あなたとわたしは関係ない。天の御国とあなたは、関係なくなるんです。と、イエス様が仰ってる所がとても重要です。だから、ここでいう聖餐式が一体何だったのか?という事は、わたしのしている事は今、あなたには分からないけど、後には分かります。と、イエス様がここで説明しているんです。今わたしがしている、この聖餐式は、何だか分からないんでしょう、あなた方には。鈍くて、まだ心が硬くて目を瞑っている状態。だけど、わたしがした事を後であなたは知るようになります。目が開き、耳が開いて、聖霊があなたに教えるでしょう。何をしているのか?それは、ペテロがした事ではなく、わたしが、した事です。重要なのは、ペテロが頭を洗ってください、手も洗ってくださいと言った事でもないし、足を洗わないでくださいと、断った事でもない。本当は、他の弟子のように言われるがままに分からないけど足を洗ってもらっている状態なんです。それは、どういう反応をしていようと、イエス様が足を洗うと言っているんです。ペテロが悟っているとか、理解しているとか、足だとか頭だとか手だとか、部位、箇所を言っていようが、一方的にイエス様は洗うと言っているんです。そして、イエス様のした事は、あなたがに理解できないが、後には分かる。という事は、イエス様が為さっている事は、イエス様が為さりたくてしている事で、人間側なんか関係がないんです。理解していなくても、今、のほほんと、何も考えていなくても、感じる事も知っている事もないけれど、実際に関わっていなかったとしても、イエス様がしているんです。『わたし』がしているんです。これを今、ペテロに説明しているんです。だけど、全員ではないです。という事をイエス様が最後に念を押されるんです。ここはやはり聖餐式だったのです。 イエス様はここで水を使われていますが、イエス様は水のたとえを結構沢山話されているんです。カナの婚礼の宴会の時に、水が葡萄酒に変わった話が最初に出てきて、そして、サマリヤの女の時にだって、「わたしから飲む水は永遠に乾くことがない」と仰ってるし、盲目がシロアムの池で洗って、目が開けるようになった時も、そのシロアムは『遣わされた者』という意味で「シロアムの池に行って洗いなさい。そうすれば見えるようになります」も水を使われているんです。そしてイエス様はそればかりではありません。わたしは世の光で、わたしは生けるパンで、そして、わたしは永遠に渇くことのない、永遠に飲ますことの出来る、潤すことの出来る水だと、仰ってるんです。これは、人間には出来ない事でしょ?人間が水になったり、パンになったり、葡萄酒になったり出来ますか?光になれますか?これは、圧倒的、絶対的、完全に神しか出来ない事。わたしは神そのもので、あなたに出来ない事を、わたしはできるし、します。あなたが何も理解していなくても、わたしは『それ』なんです。あなたが受け入れてなくても、わたしは『それ』です。と仰ってるんです。あなたが受けていなくても、飲まなくても、食べなくても、理解しなくても、感じていなくても、否定していても、わたしは『それ』だ、と言ってるんです。光であり、永遠に生きる水であり、生けるパンである。命である。と。わたしは、あなたがどうであれ、わたしは『それだ』って仰ってるんです。人間に真似出来ないんです。人間ではないんです。ヨハネの福音書はずうっとそう語っています。『わたしはそれだ』と仰ってるんです。それなのに、足を洗う時だけ人間に真似できるのか?この奉仕なら、人間にも可能なんですか?イエス様のした事、人間にも出来るんですかって事になってしまいます。イエス様のした事が人間にも可能なんですか?可能な筈がないんです。イエス様は始めから変わらずエゴエイミーを顕しているんです。エゴイストで、唯一で、たった一人で、あなた方とは全く違う存在で、全く違う位置にいて、全く違う身分です。全く違う立場です。ヨハネの福音書で語られたイエス様が、ここだけは、あなたも出来る事がありますよって仰るんでしょうか?違います。ここでも、この事も、イエス様にしか出来ない。だから、これは、完全なる罪の贖いの為の聖餐式。としか、思えない。ただの悔い改め、毎回毎回やらなければならない事ではないんです。たった一度、人間の事情には関わらず、イエス様がした事。神がした事。人間には真似出来ない事。人間のする事ではない事。これを今イエス様が仰ってるんではないでしょうか。だから、この事をしないなら、救われない。この事をしない、イエスから受けないならば、決してあなたはクリスチャンではないし、天の御国には入れません。そしてそれは、全員に施されている訳ではない。だから、13章から、最初に言った通りに、これは弟子達に語っている、一般ユダヤ人にではないんです。『弟子に』語っているんです。何故?最後まで彼らは愛され通されるからです。彼らが理解していなくても、イエス・キリストを受け入れていなくても、知らなくても、逆らっていても、それでも、わたしは愛し通した。と、イエス様が仰ってるんです。これは人間には出来ません。罪を赦し、理解しない人まで、何にも分からない人まで救い出せるなんて、何を言っても聞かない人、頑固で強欲な間違いだらけの人間に、獣以下の人間に、愛し通されるなんて、出来ないんです。人には不可能です。「でも、わたしはします」と仰るんです。だから、わたしのしている事を今分かる筈がないんです。ただ足を洗って親切にしてあげることで、イエス様の性格だと思い、そうなのかな?では私も他人の足を洗えばいいのかというくらいの理解では不足なんです。聖餐式はそんなものではありません。命のパン、命の泉は、人間には不可能です。罪の贖い、罪の赦し、救い、天国への道、真理、命となられる方は、たったお一人だけなんです。それが可能に出来、ご自身の命を自分で棄て、自分でもう一度取り戻す方は、人間には無理なんです。ここで仰ってる弟子の足を洗う事件、この物語が何だったのか?ただの悔い改めとか、隣人愛に終わらせてはいけないんです。ヨハネはそんな事は書いてないんです。そんな生ぬるい事をヨハネは、たった一度も書いていないんです。人間にもイエスのした事がいくつかは真似できるんじゃないか、と思わせないように、ヨハネはいつも注意深く書いています。その一番大事な所は、その時悟らなかったけど、後で悟ったと、必ず注意書きがあるように。この事はイエスにしか出来ない。イエスがした、あの最後の晩餐は何だったのか?それを、私達が今日、単なるボランティア活動のような理解で、何か人に親切にしたり、自分が熱心に奉仕をしたり、自分が何か、あれをやった、これをやったっていう解釈でなら、あなたは、クリスチャンになれないって事です。キリスト教じゃないんです。天国の道はないんです。ヨハネはここを、真剣に書いています。大勢の人がそうやって誤解してはならないからです。 パウロも言っています。


へブル人への手紙10章10、14、18

~このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。~ ~キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。~ ~これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。~


一度だけイエスご自身の体を捧げられた。一回の捧げものだった。そして、二度と悔い改めは必要がない。もはや罪の赦しは無用だ。とパウロは言っているんです。救いの原理を語っています。私達は主を信じ救われたなら、神父の所で告解する必要がないんです。毎日足を洗う必要はないんです。救いの原理を変えてはならないんです。それではまるで、人間側の意志のように、人間側の行いかのように、或はイエス様が救った人間には何か可能性があったかのように考えるからです。救われなかった人はそれに比べて劣っているかのように考えてはいけないんです。この世の解釈では絶対理解できません。救いは、たった一度イエス・キリストがご自身を捧げ、たった一つの供え物で、解決され、神は二度とその罪は思い返されない。完全な救い。これを人間は関係がないんです。ただ一人わたしのした事。『エゴエイミー』と呼ぶ、ご自身をエゴイストだと呼ばれる神様が、イエス様が、私達の救いを完成されたんです。何度も何度もじゃないんです。幾度も幾度も繰り返す贖いではないんです。たった一度で完成された事で、二度と人間の罪を思い出さない。完全な神の完成された愛。完全な神の完璧な赦し。完全な神の完璧な救いだった。それは、わたしがした事、あなたではない。『わたし、イエス・キリストがした事』だから、あなた方が分からなくても、理解出来なくても、何も感じていなくたって、これは成就してある。ここのヨハネの福音書で本気で悟らなければならないのは、イエス・キリストの救いが、たった一度行われ、最後の晩餐のとき、聖餐式が行われ、十字架の御業と繋がっていくことです。徴だったんです。たった一度わたしがこれをして、あなた方は聖められる。だから、人間の意志で救われた事は一度もないんです。悟って救われたのでも、理解して救われたのでも、イエスを愛した事もない、まだ罪が深くて、どうしようもない程の悲惨な獣の状態の時に、イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださった事によって、私達は救われた。信仰さえも与えられたもので、恵みによって、賜物によって、たった一度の、そのたった一度のイエス・キリストの行為によって、救いを得ているんです。 だからここで、ジャン・カルヴァンが言っている予定の教理、選びの教理は、アーメンと受け入れるしかないんです。誰一人救い出される価値のある者はいないんです。誰一人神が報いなければならない人間は居ないんです。誰一人神が人間の顔色を窺わなければならない者は存在していないんです。たった一度わたしがした事だ、というイエス様の絶対的な権威、権力、支配、を強調されているんです。それで、誰が立ちはだかり、誰が口答えし、誰が口を挟むことができるのか。誰一人、天使さえ、そんな事は不可能で、出来ない。天使も光ではないんです。彼らもイエス・キリストに依らなければ、一つに集められない存在です。イエス・キリストに依らなければ、どんな被造物だって無理だっていう事です。どの被造物もです。どの宇宙万物でさえ、イエス・キリストに依らなければ崩壊し、存在を失うんです。地獄に落ち、崩壊し、神と無関係になるんです。永遠の命とは無関係なんです。だから、私達がこのイエス・キリストをないがしろにし、崇める事も、礼拝する事もしないなどはあり得ないんです。たった一度この方に依って救われているからです。しかも、その信仰さえ貰ったもので、私の意志で信じられる筈がないんです。神を見つけられ、神を探し、神を分かるようになるなんて、あり得ないんです。獣に等しい人間には。それを分かるように、聖霊に教えてもらい、そしてイエス様に似る者に、どんどんと、段々と導いてもらい、義の支配の中で、清められる事はどれだけの喜びなのか。どれだけ感謝で、どれだけ賛美でなくてはならないのか。どれだけ、この一つだけで十分満たされるのか。信仰そのものが、賜物の中の最大の賜物なんです。それを文句垂れて、自分にあれがない、これがない、これも足らない、あれも足らない、と口を大きく開いてイエスに口答えする者は一体誰なのか。この恵みが分かった者に、そんな事は言えません。この教理、このイエスの犠牲、イエスが足を洗う程に人間のその所まで下りてきて下さった神そのものに向かって、私達が一体これ以上何を申し開きをするんですか。ここで、聖餐式が行われて、イエス様が「わたしが、した」は、代わりがないんです。イエス様の代弁者も、代理も、天使さえも出来ないんです。不可能なんです。罪を贖い、赦し、救いだし、道となり、命となられる、その真理そのものの方は、イエス様しかおられないんです。そのイエス様に口答えし、まだ従えずに、イエス様に悔い改める事もできず、自分のミスも認められず、隣人愛が無い事を悲しむべきです。クリスチャンが、このイエス様の恵みを理解しているのか。この教理を理解しているのか。人間からは何の善も起きない。何の正義もない。私達への今日のメッセージは、正にこれです。『わたしがした事だ』これは、イエス・キリスト以外に出来る事はないんです。神そのものが為さったんです。人間の事情じゃなかったんです。私達がこの福音を語る事は義務なんです。語る事が使命です。それは今日聞いたからです。聖霊様はいつどこで働くか分かりません。語る人がいなければ、誰もイエス様を知ることができません。神の力だけが救いなんです。神を知っているというユダヤ人は、最後まで信仰を受ける事が無かったんです。だから、教会に何年通ったということが重要ではありません。信仰によってイエス・キリストにつなぎ合わされなくてはならないのです。その信仰をもらった者を、主は愛し通されます。こっちの事情じゃなく、イエス様の事情で、十字架で裏切った弟子達を最後まで愛し通されたように。だから、イエス様はご自分の者は絶対にサタンには手渡さない。これが、クリスチャンだ、という事です。自分からは何も出来ない、でも、イエス様が愛し通されたので、私達は救われたのだという、この確信が必要です。信仰によってイエス・キリストに繋合わされ、信仰によって今日、集められているんです。その他の救いの希望は何一つないんです。互いに足を洗って慰め合って、救われるわけではありません。自己満足で救われるわけではないんです。私達クリスチャンといえども、イエス様のことを殆ど知っていません。それなのに恵みで、救われたことを知っています。この信じる信仰こそ神の賜です。アーメン。