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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書13章21-30

2018.02.14 18:15

イエス様が足を洗われて、本当にこれから、ご自身の重要な遺言を弟子達の前で残そうとされて、例の激動を感じたとあります。それは、イエス様が本当にご自身の霊を震わせる程、これから弟子達へ、大事な遺言を語られようとしておられるんです。このユダが出て行った後、イエス様は弟子達に遺言を話されるというヨハネの福音書独特の、重要な話が続くのですが、それを始める前にイエス様が今、足を洗われたのは、他の福音書では、この最後の晩餐の時、まだ弟子達は一番争いをしている場面があります。そして、一番争いをして、まだ自分の手柄や自分の欲得の事でしか考えていない弟子達の足を洗う事が、イエス様にとって、これから大事な遺言をするのに、障害となった障壁となっている心の問題を一つ、本当に無くす為には弟子の足を洗って、弟子達が今、イエス様が何を言おうとしているのか、教えようとしている。その障害を取り除けるのが一つ。もう一つは裏切り者をこの場所から追放する事が、イエス様が遺言をなされる前に、絶対にこの障害を二つ取り除かなければならなかったんです。一つは弟子達の強欲、まだ何も悟れない弟子達。足を洗う事でイエス様がなさろうとしている事を理解させること。一つは本当にイエス様を裏切るその者を遺言の前にここから追放する事だったんです。その事を今イエス様は足を洗う一つの作業は終えられて、そして、次に裏切り者をイエス様がここから閉め出すことを仰ります。それが今日の本文です。


~「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」~


と仰っている所は、その前にもイエス様は13章から、何度もお示しになっています。


13章2節

~夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、~


もう、この食事の前からサタンはユダに誘惑しています。イエスを裏切るように。そしてイエス様も、この中にご自身を裏切る者が一人いると仰います。そして、弟子達は誰の事を言っているのか分からない。互いに顔を見合わせている。そして、弟子の一人でイエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。この弟子の一人、イエスが愛しておられた弟子というのは、ヨハネの福音書では何度か出てきます。イエスが愛された弟子。でも、名前は隠されている。一体これが誰だったのか?という色んな議論がある中で、これは当然、ヨハネ福音書を書いたゼベタイの子ヨハネだろうとは、言われています。でも、このヨハネはずうっとこの表現をしているんです。ペテロと一緒に主の愛された者もいたと。そしてそれ以前に、名を表せないもう一人がヨハネの福音書にはあって、バプテスマヨハネが、「見よ。子羊なるイエス。」と言い、イエス様が来られた時、バプテスマヨハネがイエス様を指した時に、バプテスマヨハネの弟子二人がイエス様について行って、「今日どこにお泊りですか?」と聞いた時、「わたしに付いてきなさい」と言われ、バプテスマヨハネの弟子だったのに、二人はイエス様の弟子としてついて行くシーンがあります。その時に一人はペテロの兄弟であるアンデレ、と名前が書かれているにも関わらず、もう一人は名前が伏せてあるんです。そのもう一人も、このゼベタイの子ヨハネだと言われています。だから、イエス様の一番古い弟子は誰かと言ったら、アンデレとヨハネ、という事になります。最初にイエス様の弟子になってついて行ったのが、ペテロの兄弟のアンデレと、このヨハネ。でも、このヨハネは、イエス様が愛しておられる弟子という表現を、このヨハネ福音書では使っているんです。そして、そのヨハネが、イエス様の隣にいた。隣に座っているんです。しかも、イエス様の右側に座っています。この夕食は、ただの夕食ではなく、過ぎ越しの祭の夕食ですから、過ぎ越しの儀式に従った食卓です。だから普段の食事とは違います。この当時にも、ギリシャ風な、ローマ風な食事の方法があったけれども、ユダヤ風食事の仕方は、何度も言っているように、寝転がって、左肘に頭を乗せ、そして、右手で食事を掴んで食べる。寝そべって食べる。そして、それがコの字になって人が並んで食べるのです。何故こういうコの字になって寝そべって食べるかと言えば、過ぎ越しの祭だからです。それは、過ぎ越しの祭の中心的、家長的、その主催的人が真ん中に座ります。その真ん中に座る理由はこうです。端っこに座っている子供たちが何故過ぎ越しの祭に苦菜を食べたり、種無しのパンを食べたりするんですか?と質問する場合、主人がこう答えるんです。「神様がエジプトから、私達の先祖をカナン地に連れて行くときに、羊の血で救ってくれたからだ。」という過ぎ越しの祭の由来と言うか、昔話を聞かせるために、皆コの字に座って、その長老的な、過ぎ越しの祭の話をする人が真ん中に座って食事をとるというのが、過ぎ越しの儀式だったんです。当然イエス様が真ん中に座っています。その次に第1の席は、イエス様を中心とした左の席が第1の席で、右側が第2の席です。だから、このヨハネは右側に座って、第2の席に座っていた。そして、第1の席には当然ペテロがいるだろう、と想像します。そして、レオナルド・ダヴィンチの最後の晩餐の壁画には、コの字ではなく、ローマ風の、カトリック風の食事、一列に食卓に並んだ風景が描かれていて、たとえ隣にヨハネがいても、この聖書通りの順番ではないんです。それは、ただ絵画ですから、絵画として相応しい、絵的に描いているだけで、聖書から言えばペテロは第1の席にはいないはずだ。何故?第2の席に座っているヨハネに目で合図して、裏切り者は誰か聞きなさいと指示しているからです。だから第1の席に座っている筈がないんです。イエス様の肩越しでコソコソ話が出来る筈はありません。だからヨハネが見える場所、向かい合っているどこかに座り、目で合図して、裏切り者が誰か聞きなさい、と言えたのです。当然第1の席にペテロは座っていないことになる。ではイエス様の隣の第1の席に一体誰が座っていたのか。それを、イスカリオテ・ユダが座っていたとされています。何故なら、イエス様の言った言葉の中にそれの、そうだろうと思わせるものがあります。「それは、わたしがパン切れを浸して与える者です」とイエス様が仰り、パン切れを浸して渡せる距離。もう隣しかないでしょ?そのパン切れを浸して渡せる場所というのは、当然イスカリオテ・ユダがイエス様の左側に、第1の席にいたとしか思えないんです。そうする時にユダは第1の席に座って、第2の席にヨハネが座っていた。という事になるんです。そして、イエス様が「裏切り者がいる」と言う。その時に、弟子達は何を言っているのか分からない。他の福音書では「私ではないでしょうね?」「まさか私のはずないでしょうね?」と互いに主を裏切るのは私ですか?と聞いている程です。誰の事だか分からないんです。何故なら、イエス様が今まで、イスカリオテ・ユダが裏切ることを知っていても、名指しで明かしたことは一度もないんです。もちろん、全ての者が聖い訳ではありません。とは語っていました。弟子の中で一人は悪魔です。とも語っていました。そして、わたしを裏切る者がいるとは語っていても、その名前まで明かしたことがないんです。だから弟子達の中では誰が裏切るか分からない。だから、イエス様の左に居て、第1の席にユダがいても、弟子達にとっては不思議ではなかったんです。ユダは会計だったからです。当然イエス様のすぐ傍にいつもいた筈です。そして、マグダラのマリヤが300デナリもする香油をイエス様に塗った時も、「勿体ない。貧しい者に施しができたのに。」と言っていたユダが、会計士としてイエス様の隣に居るのは当たり前だった。でも、イエス様はこう仰るんです。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」と、ハッキリと明言しておられます。そしてそれをユダに渡します。これは一体何を意味するかと言ったら、


詩篇41編9節

~私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。~


ここの詩篇を引用しているんです。13章でもイエス様はその言葉を引用されている筈です。 これはダビデが書いた詩篇です。このダビデが書いた時に、自分の息子のアブシャロムがクーデターを起こし、ダビデが城から追い出されて、イスラエルの中が分裂した時がありました。第2サムエル15章に書かれている事件ですが、その時、アヒトフェルというダビデの食卓の預かり、ダビデの愛情を受け、ダビデから信頼を受けていたアヒトフェルという議官がいて、その議官はダビデに付くだろうと思われ、ダビデにとって信頼していた友であり、最も親しい友だった、そのアヒトフェルがアブシャロムに付いて、ダビデに背いて、その時の事をダビデはここで表現していて、自分と同じ食卓につき、私の食事を分け与え、私の信頼を分け与えた者が、自分に踵を上げた。という風にダビデがアヒトフェルの事を書いているのを、イエス様もここで同じ言葉を使われるんです。その『踵を上げた』は、馬の後ろ足の蹄で人を蹴るっていう意味です。馬が後ろ足で人を蹴り倒す。というその位の裏切り行為。というのが、詩篇でダビデがアヒトフェルに向かって書いた詩篇をイエス様もユダに向かってそう言うんです。自分が12人の弟子に選んで、自分と過ぎ越しの祭を一緒にした者が、わたしを裏切る。という事をイエス様がここで、その詩篇41編9節を引用されているんです。 でも弟子達は誰を言っているか分からない。そしてシモンが合図して、ヨハネに誰か聞くように指示し、そして、ヨハネが「主よ。それは誰ですか?」と聞いた時に、「それは、わたしがパン切れを浸して与える者です」と書いてありますが、実際にイエス様がその後、パン切れを浸して、イスカリオテ・ユダにお与えになったんです。これも、過ぎ越しの儀式なんです。その時、主人、過ぎ越しの儀式の真ん中に座っている、コの字の真ん中の、過ぎ越しの物語を語る方が、一人一人にパンを浸して与えるっていうのは、普通の夕食では絶対しませんが、過ぎ越しの儀式時にします。ユダヤ人にとっては、当たり前の過ぎ越しの儀式。それをイエス様がなさったんです。


~彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。~


と書いてありますが、原本はこう書いてあるんです。『一切れの食物の後に、サタンがユダに入った。』これが、原本の内容です。だから、この足洗のこの時に、もう既にサタンが誘惑をしています。イエスを裏切るように。そして、このユダに誘惑がずっと続いています。でも、まだ中に入っていないんです。いつ中に入ったか?イエス様がパンを割いて浸して与えたその後に、サタンがユダに入っている。だから原本は、一欠けらの、一切れの、食物の後に、サタンがユダに入ったとあるんです。これは何ですか?主導的なのはユダの方ではなく、イエス様です。ユダが誘惑に曝されて、その後に、イエス様がハッと驚くという事ではないんです。これはもう、既にイエス様が預言して、わたしの食事を共にした者が踵を上げたという予言通りです。順番としてはこうです。サタンは誘惑するためにそこに居ました。でも、まだサタンは入っていなかったんです。イエス様が指定した瞬間に入ってきています。イエス様がパンを浸して渡した瞬間、その後、サタンが入りました。完全に悪魔に入りなさい、というイエス様の方の主導的な権利の元に行われているんです。決してイエス様が「えぇ!ユダ、裏切ったの?」と後から驚いたり、結局はそうだったのか、ユダよ。というのではないんです。イエス様は始めからこう仰いました。『わたしは、自分で自分の命を捨て、自分で命を受けるのだ』この主権的な、イエス様の主導で動いていることが、この事でも明らかなんです。その周りにサタンはずっと居たにも関わらず、入れはしないんです。決してイエス様の許可と指定以外に、サタンがその中に入る事は許可されていない。入ったのは、イエス様が指定したからです。わたしのパン切れを渡したものが裏切ると言った、その言葉通りに、サタンは動いているんです。ここで明白なのはイエス様の方でこれが、行われているのが明白です。

その時にこう仰ります。


~イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」~


サタンが入りました。そして、イエス様はモタモタしないで、グズグズしないで、今すぐそれをしなさい、と命令するんです。何故かと言ったら、ユダヤ教の議会はイエスを殺すことを、死刑にする事を決めてはいたけれども、祭の間は良くない。祭の間は大騒ぎになるから、祭が終わったらイエスを殺そう、という決め事がありました。でも、イエス様は過ぎ越しの子羊でなければならなかったんです。過ぎ越しの祭の間に、ご自身の血を流さなければならなかったんです。出エジプトの時もそうだったんです。羊の血を門柱に塗った家は、滅ぼすものが通り過ぎていって、その羊の血を見て救われたんです。殺されなかったんです。それと同じように、イエス・キリストの十字架の血は過ぎ越しの祭の間に行われなければならない。だからこそイエス様は、早くしなさい。祭が終わった後などと言わずに、今すぐそれをしなさい。とユダに命令しているんです。そして、イエス様が命令した後に、


~席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。~


それは、当然です。会計士だったから。貧しい人に施しに行くと考えました。過ぎ越しの祭の間に、ユダヤ人が貧しい人に施しをするのは、ユダヤ教のモーセの律法の命令でもあって、定めでもあったから、それをやりに行ったのかと思っている弟子達も居た。或は過ぎ越しの祭の準備の為の買い物に行ったのではないのか、という者も居た。でも、他のマタイ、マルコ、ルカの福音書には、この最後の晩餐は過ぎ越しの始まった時に、このことが書かれていて、ヨハネの福音書は過ぎ越しの前に晩餐があったと、書かれている。だから、ヨハネだけはカレンダーが違うのではないか、と歴史家達が言うけれども、ヨハネの最後の晩餐も、過ぎ越しの祭の日に行われた事が分かります。過ぎ越しの祭の前日だったり、14日が過ぎ越しの祭だから、その13日や、12日だったとしたら、食事を中断してまでも、急いで買い物に行く必要がないです。時は夜なので、次の日、朝に買いに行けばいい。でも、もし、今日が過ぎ越しの祭の始まりだったとするなら、種をいれないパンを7日間食べなければならないので、買い足らない物を急いで夜のうちに、明日から種を入れないパンを食べなければならないので、急いでユダが外へ出て、食事も途中で、急いで買い物に出て行ったっていう事は理解される事です。だから、そういう風に考えた弟子もいたという位で、当然今日が過ぎ越しの祭の始まりだったのは、ヨハネの福音書の中でも辻褄があっているんです。だから、祭りの前日ではなかったんです。この出来事は過ぎ越しの祭の日に起きている。だから、明日から始まる7日間のその種を入れないパンを食べ続ける祭の間の、まだ買い足りてないものがあったのかと推察する弟子達がいたんです。それで、ユダが出て行ったとき弟子達は、イエス様とユダの会話やパンを浸してユダに渡した、その事を誰も知らなかった。その事件が起きている事を誰も気付いてはいなかった。


~ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。~


そしてユダはイエス様を売りに出て行ってしまうんです。さっきも言ったように、イエス様がユダに対して裏切る者が誰か、弟子達の前でも名前を明かしてはいなかったんです。全員が聖い者ではない。全員がわたしの言葉を受け入れるものではない。全員がわたしの子ではなく、わたしは自分の子を知っている。でも、一人は悪魔の子です、と仰っていたとしても、これがイスカリオテ・ユダです、とは言っておられない。最後の最後まで。 マタイ26章を見ると、「私ですか?裏切る者は私ですか?」と弟子達が不安がっている時にユダも厚かましく、「それはもしや私ではないでしょうね?」と訊ねた時に、イエス様が「いや、そうだ」と言われるんです。でも「いや、そうだ」というのは、「あなたがそう言った」というのが、原本の本当の意味なんです。「そう。それはあなただ」とは言っていません。「あなた自身が今そう言った」とイエス様がユダに向かって言いました。「裏切るのは私ですか?」「今、あなたがそう言った」とイエス様は最後まで裏切る者が誰か、ご自身の口から言っていないんです。それは、イエス様の本来の品性だと思います。ユダが裏切る事は始めから知っておられて、それなのに、弟子の中の一人として選ばれています。そして、その3年半もの間ユダは一番重要な会計の仕事を任され、一番大切な、イエス様といつも親身にミーティングをする相手だったんです。そして、ここでも同じように、この過ぎ越しの祭の席で、第1の席に座る程だったんです。それ程、誰が見ても、イエス様の信頼の厚いユダがそこに座っていても文句を言いません。たとえ、食事の途中でもイエス様が何か重要な命令をして、ユダが買いに行ったんだろう。位にしか思っていないんです。イエス様が、裏切る相手が誰で、自分を売る相手が誰であったとしても、最後まで紳士的に、礼節を守るんです。最後まで、こいつは裏切り者だ、と憎々しい態度なんか一度も取らないし、それを決して口に出す事もなされない。その事を大勢の牧師達は、ここの説教を、ユダに最後まで悔い改めを求めていたんではないかと説明します。イエス・キリストは愛だから、ユダにチャンスを与えたんではないのか。そして、ここで、ヨハネの福音書の解釈本を書いている榊原先生も、ここはカルヴァンの言っている選びの教理的なものではなくて、最後までイスカリオテ・ユダに愛情を注いで悔い改める事をイエス様がなさったのではないか。という解釈をされています。私はカルバンの解釈の方を支持します。イエス様が、始めから『全ての者が聖い訳ではない』と仰ったからです。 この「わたしを裏切る者が私と食事をする者で、踵を上げた」という、踵を上げたっていう、このみ言が成就するためだ。とあるように、その前に弟子達の足をイエス様が洗われる時、全ての弟子は足を上げているんです、イエス様の前で。全ての弟子も裏切っているんです。その後、十字架の前で、ペテロにおいても同じ裏切りをしています、3度も。だけど、ここの足を上げたとは、足を洗う時にイエス様の前で弟子が全員足を上げて洗ってもらったんですが、そして手拭いで拭いてもらっている。足を上げていますよね?でも、この時のユダは足を上げたのではなく、『踵を上げた』という予言が成就してしまっているんです。だから私はイエス様が、ユダを最後に悔い改めるまで待っていたとは、思えないんです。そして、ダヴィンチの『最後の晩餐』も、ユダの所だけ光が差していなくて、11人の弟子は、「私ですか?私ですか?裏切るのは私ですか?」と怯えた顔はしていても、弟子の上には光が差していた。これが、ダヴィンチの描いている最後の晩餐です。だから結局、始めから弟子達は、『わたしが選んだ者』であって、でもユダは、わたしが選んでいない者という、私にはイエス様の始めからの予定が、ご計画があったとしか思えない。 もし、ユダに対しイエス様の愛情を示し、イエス様が本当に心を配って、最後まで第1の席に座らせ、最後まで優しくして、ユダの足も洗ってあげて、ユダの裏切りを本当に知っていながら、名前も明かさないで最後まで親切にしてあげのは、それは悔い改めをイエス様が望んでいたんだという事になるならば、何か救いは、救われる事が人間が選ぶことができ、意志決定か何かであるかの如くの解釈になります。人間が自発的に悔い改められて、人間の自由意志と、人間の中にとっても良いものが隠されていて、その良いものでイエス様を選んでいる。人間側の方でもイエス様を選択したんだ。人間側にも、そういうイエス様を選ぶ事ができる何かいいものがあるかのように考えてしまう。でも、ジャン・カルヴァンは、人間に自発的に善を選択する意志は、アダムの堕落以降、欠落していると言っています。そんなものは欠片も残されてはいないと言っているんです。人間の内に自ら自発的に悔い改める意志や、悔い改めてイエス様を選ぶそんな聖いものなど、人間の内には残されていないというのが、ジャン・カルヴァンの聖書解釈です。全てはイエス様の恵みでなければ、決して起こらない。イエス様が放っておかれるなら、誰もイエス様を知る事さえできない。これをジャン・カルヴァンが、人間とは、そういうものだと言います。全てが神に依ったのだ。もし、そうでなければ、何か人間の一部分が神と共同作業のようなものが可能で、神を賛美すると同時に自分を賛美する事になるということになる。それは違うとジャン・カルヴァンが言っている通りだと、私は思います。人間の中にそんな美徳がある筈がない。人間の内にそんな善がある筈がない。人間自ら神が分かる筈がない。何故なら弟子達はその時一番争いをしていたんです。主が復活した後だって彼らは復興の事だけを心配していました。自分の身分や地位が心配だったんです。その後イエス様がエルサレムに留まれと言ったのに、ガリラヤに帰って、漁師に戻っています。イエス様を信じていても所詮彼らの悟りはそんな程度だったんです。火の聖霊が下るまでは。イエス様の力が本当に彼らを強めてくれなければ、彼らさえも、キリストの証人にはなれなかったはずです。 だからこそ、私達がここで、イエス様がユダに最後までチャンスを与えたっていう事が、本当ならば、人間の自由意思で救われているという事になります。そんな能力が人間にあるとは、とっても思えないんです。人間にそんな善がある筈がないし、人間にそんなイエス様のような品性がある筈がない。人間の自由意志を認めてしまえば、イエス様を安物にしてしまいます。イエス様の栄光を本当に減らしてしまう。イエス様の賛美を減らして、一部分はイエス様を褒め称え、一部分は人間を褒め称える事になります。それは、神賛美ではないです。ジャン・カルヴァンは、それは神を賛美しているとは言えない。そんな一部分は神で、一部分は人間を褒め称えるなら、これは正しい神への賛美ではないと言っています。 このユダが、始めから裏切る事は、イエス様が定めておられる。それは、聖書が成就するためです。イエス様が子羊となって、十字架の上で死なれて、そして復活する事によって、本当に天の父に滅ぼされるこの人間が、神と和解をする事のできる唯一の方法だった。この方法以外、人間が神に認められたり、好かれたりする要素はないんです。人間の何かの長所が神に愛される点は1点もないんです。そんなもの、人間の内には存在していません。ただ神に嫌われ、ただ神に敵対するだけの存在が人間です。多少の良心が魂に残されているのも神の憐れみなんです。だからこそ、十字架を通らず、神に近付ける人間はいません。十字架無くして神と和解できる方法もないし。救われる方法もない。そうでないならイエス様の十字架を虚しくしてしまうんです。もし、自分の力の何か、自分の中の善や何か、自分の中の正義が救いを達成できるなら、自らイエス様を選んでいるなら、イエス様の為に自分が犠牲しているなら、イエス様の為に何か自分が悔い改める事ができるなんて思っているなら、思い上がりです。人間が自発的には不可能です。 神に好かれるようなものは一個も無かったことを、私は自分の体験で知っています。いつも、神様の憐れみと聖霊の導きで、本当にやっと悔い改められました。それを理解するまでは、自分の過ちを認めることさえできませんでした。それまで神様に逆らい続けたことしか私には思い浮かばない。自分の個性を主張する人は、本当にイエス様と何の関わりもない人です。そして、イエス様は愛だから、皆を平等にしてくれるんだ。これも違います。平等はイエス・キリストの十字架の中でしか起こりません。神の愛はイエス・キリストの十字架の血潮でしか行われていないんです。その外は闇です。ヨハネが言いました。ユダが出て行った時、既に夜だった。始めから夜だったんです、この祭は。夜だったことを強調しているのは、もう、サタンが入ったその瞬間から光はないんです。全てが闇、全てが地獄、全てが死です。そして、イエスを裏切り、イエスを殺す以外にもうその人に出来る事はないんです。 サタンが入って、本当に神の国から追い出された者が、二度とイエス様を礼拝し、褒め称える事はないです。たとえ教会に来てても。たとえイエスの弟子の一人だったとしても。もう、そこは闇なんです。イエス様が私達を救ってくださり、聖霊を下さり、導いて下さっている事以外に、私達の内に善なんか存在していないんです。だから、しがみついて、イエス様を褒め称える事と悔い改める事をおろそかにして、1日の祈りをおろそかにするなら、全くイエス様と関係なくなります。もう、希望が無くなるんです。 だから私達がイエス様に救われた事を、イエス様の十字架以外に何の善も無い事を理解することが、キリスト教の教えです。 神である方が人間の姿をとって、弟子の足を洗い、裏切る者を第1の席に座らせ、自分の食卓に預からせて、そのように紳士的に振る舞うイエス様は元々そういう品性なんです。イエス様にとって、好きだからペテロを選んだり、パウロを選んだりしていません。嫌いだからユダを裏切る者にしたのではないんです。人間のような感情はもっていません。イエス様の永遠の、全知全能の永遠の計画を、私達人間には計り知れない。知る事もできない。神の秘密です。神の奥義。人間はそもそも悟るには能力が備わっていません。だから、知って救われたのではなく、信じて救われたのです。神の恵みなんです。イエス様がどれだけ崇高で気高くて、人間とは余りにも遠く、どれだけ美しく調和が取れていて、全知全能の方であるかは、私達には想像も出来ないんです。それを全部知ろうなどとは、傲慢極まりないんです。むしろ、混乱に陥るだけです。私達が知るべき事は、イエス様に救われた事を感謝するだけです。イエス様がそこまで遜って、人間の救いを達成して下さり、そこまで、下まで、奴隷の位置まで下りてきて下さり、その道を開いて下さり、神の私達への怒りの代わりに、怒りの懲らしめを十字架で受けて下さった。その一つの恵みがどれだけ有難いのか。それを想像しただけで、感謝なのか、プレゼントだったのか、思えば思う程、謙遜になり、もう口答えは出来なくなります。 私はイエス様のこの品性を真似たいです。イエス様の品性はたとえ隣に裏切り者のユダが居ても、たとえ隣に自分の愛する弟子、ヨハネが居ても。イエス様は同じように接していくんです。私達はノンクリスチャンにも、クリスチャンにも、私達は礼儀を守り、礼節を守るのは当たり前です。誰にでも親切な心を持つのは当たり前です。イエス様がそれをなさったからです。 神は非道で、神は厳しくて、怖くて、私達についていけない、難しい神だと言うなら、それは違います。救われた者にとっては、信じる者にとっては、とても憐れみ深い神です。主は最後まで、見捨てず、愛され通されます。裏切った弟子たちがそうだったように。ヨハネが、イエスは愛であったと語るように、イエスだけが道であり、真理であり、命そのものです。 アーメン。