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Yokohama Glory Church

ヨハネ福音書13章31-38

2018.02.14 18:10

私の食物を与えた者が私を裏切ります。だから、あなたのしたい事を速やかに、早くしなさいと言われた後、ユダにサタンが入って、ユダがすぐに出て行ったんです。だから、イエス様は過ぎ越しの子羊となられるために、サンヘドリン達が「過ぎ越しの祭は良くない」と言ってイエス様の処刑を過ぎ越しが終わった後にしようとした決定を、イエス様は早められるんです。イエス様の十字架の血で過ぎ越されるという、イエス様の聖書が成就するためには、イエス様は過ぎ越しの祭の時にご自身の血を流さなければならなかったから、だからイエス様は、ユダの中にサタンを入れる事を指定するんです。そして、その通りに、イエス様の成さった通りにサタンが入って、今、ユダが出て行くんです。そして、ユダという壁が無くなった時から、イエス様はここから本格的な弟子達への遺言が始まります。今日読む所は、その本格的な、弟子の足を洗って、一つの障害、互いにいがみ合っている弟子達の間の互いの壁を取り除いた後に、この裏切るサタンの仕業を、この群れから外に出した後に、イエス様は、ようやく大事な最後の、弟子達にだけ向かうメッセージを始めます。全般的な裏切るユダヤ人達ではなく、ご自身の名で呼び、ご自身が集められた者の所にだけ遺言を残していかれる。そのために障害を今2つ取り除けたんです。そして、イエス様がこの後ずうっと14章からは、ヨハネ福音書だけに書かれた、とっても大切なイエス様の遺言が語られる序章っていうか、総括が短く書かれ、この仰ってる内容を14章からイエス様がもっと具体的に語っていかれるんです。その中でイエス様が、「今からわたしは大事な話をします」と仰ってるんです。


~「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。~


イエス様が栄光をお受けになるのは、十字架の死から復活した時ではないんです。十字架に架かられる時、もう既にイエス様は、父が栄光をお受けになっていて、そして父が私に栄光をお与えになる。もう、遅れる事がなく、速やかに今すぐそれをされるだろう。そして、今もう、受ける事になったと仰ってるのは何の意味でしょうか?全権がイエス様に来ることを意味します。人の子として来られました。今、イエス様は人間です。神の神性は肉体の中に全部隠されていて、見えません。だから、まだ十字架に架かって甦ってはいません。昇天して天国に入ってもおられません。でも、イエス様はユダを群から出した瞬間に、栄光を受けているんです。十字架で死ぬことがもう確実となったのです。しかも、人の手によってではないんです。『わたしがした事』「ユダにサタンを入れたのは、わたし」「それを許可したのはわたし」「命を捨てたのもわたし」「命を受けるのもわたし」『わたしがした事』が成就するためです。ユダが出て行ったその瞬間に始まるのです。だから、天の父は今栄光をお受けになり、天の父もわたしに栄光をお与えになる。今すぐ速やかに、それは成就した。この時点でイエス様の計画はもう成就したんです。弟子達には見えなくても。今人の目には何にも分からなくても。弟子達がいまだに一番争いをしていたとしても。『わたしのした事』は成就してしまいます。そして、天の父の目にはもう達成なのです。そして、暗闇の力は権威を失い、そして死の力は葬られ、そして、全ての死と命の権威と、天の上にも地の下にも、イエス様の前で跪かない者が居なくなったという事です。天の父から全ての権力を今、わたしは受け取ったんだ。何故?父が栄光を、わたしを通してお受けになったからだとイエス様が第一声、大事な遺言を宣言されたからです。もう全ての全権はわたしにある。天の父は今、速やかにわたしにお渡しになった。もう、ここでご自身が全権を持っている事を弟子達の前で話されるんです。


~子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。~


ここで、『子供達よ』というのは、ユダヤ人の族長達が天に召されようとするとき、神の元へ戻ろうとする時に、必ず遺言を残し、その子孫達を祝福する習わしがあります。その時、『小さな子供達よ。』というのが、必ず始めにくるんです。だからここも、イエス様の遺言なんです。ユダヤ人的な遺言のやり方なんです。「子供達よ。もう、わたしはあなた方の元から去っていきます。そしてあなた方は、今は来ることが出来ない。でも、後からは来ることが出来る」と仰った後に、互いに愛し合いなさいという、新しい戒めがくるんですが、ここは、弟子達に向かって言っているのと、ユダヤ人達に向かって言っている事が、全然違うんです。以前ユダヤ人達に言っている事は、


ヨハネ福音書7章33-34

~そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」~


ユダヤ人達には弟子とは全く違う事を言うんです。「今しばらく福音は語られるでしょう。あなた方もその福音は聞くことが出来ます。しかし、わたしの行くところにあなた方は絶対来れない」弟子達には、こう仰ってない。「今は分からないけど、後から分かるようになる」と弟子には仰ってるんです。でも、ユダヤ人達には、絶対そんな事言わないんです。「あなた方の前にしばらくわたしは居るかもしれない。留まっているかもしれない。でも、もうわたしがこの地を離れた時には、あなた方にもう救いはない」という事なんです。


ヨハネ福音書8章21

~イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」~


とっても畏れるイエス様の言葉です。私達はヨハネの福音書、さらさらっと読んでここを通り過ぎます。でも、見てください。「わたしの行くところに絶対来れない。あなた方は罪で死ぬ。絶対わたしを二度と見る事ができない」と仰っている。ご自身の口で仰るんです。これがユダヤ人達に仰った言葉です。 あなた方に今、福音が語られた。でも、あなた方はそれを受け入れない。もう二度と、わたしがこの地上から去った後には、あなた方はわたしを見る事も、ついて来る事も、そして探す事もなく、罪のうちに必ず死ぬと仰います。イエス様は、一般のユダヤ人達に、特にサンヘドリン達には、はっきり仰るんです。でも、弟子達も、同じなんです。今、分からないんです。そしていつも、「イエス様、何処へ行かれるんですか?」と弟子達も聞いていたんです。そして、「もう少ししたら、わたしを見る事ができません」と言われます。弟子達理解できず、どうして、見る事が出来ないんだろう。まあ、イエス様がもうすぐ、わたしは死にますって仰ってるので、ただ死ぬのだろう。とかいう位の理解しかできていなかった。でも、イエス様は弟子には違うんです。最後まで愛し通されたイエス様は、「今は無理だけれども、後には来ることが出来ます」と、他のユダヤ人と弟子達は全然違う扱いをされるんです。同じく盲目で、同じく、今イエス様の成さる事が分からないのに、弟子達には、自分が選んだ者に対しては、ご自身が集められた弟子に対しては、どんなに分からなくても、後で分かるようになると仰って、約束をくれるんです。この弟子達にとって、この約束は大きいんです。双方この約束以外違いがありません。あの滅んでいくユダヤ人と、この弟子達の間には。同類です。同じように、罪によって見えないんです。だけど、ここでイエス様は、だからこそ、「あなた方に新しい戒めを与える」と命令します。


~互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。~


このヨハネの福音書は1世紀末に書かれて、ヨハネはもう相当歳を召していて、すでにメッセージするには肉体的に難しくて、弟子達に抱えられて神殿に入って行ったったと言われているんです。そして、もうメッセージが長く話せなくなったヨハネが、毎回、『互いに愛しあいなさい。』だけを言うので、弟子達が恐る恐る、本当に死ぬ覚悟をもって、畏怖の念で、「何で同じ事ばかり言うんですか?違うメッセージもして下さい。」とお願いした時に、ヨハネが、「イエス様がこれを仰ったし、これを守れるなら、もう十分だ。」と言ったとされています。だから、これこそ、重要だけれども、これこそ、守れない戒めだったからです。だから、この話をくどくど、ヨハネは言うんです。 これは、わたしはサンヘドリンと弟子達を区別し、ユダと11人とを区別した。あなた方を区別した理由は、わたしが愛したように互いに愛し合うためだ。そうすれば、あなた方を見て、わたしの弟子である事が分かるようになる。クリスチャンである事がノンクリスチャンの目に分かるようになるからだという区別をなさるんです。その愛が一体何かと言えば、イエス様が愛したようにということです。2世紀頃にローマ人がクリスチャンを大量に殺していく時代がやってきます。その後に、その時に、書かれた書物の中で、クリスチャンとローマ人の決定的な違い、彼らは人を殺し、クリスチャン達は互いに愛し合う。これが、決定的な、クリスチャンとローマ人との違いだ。と書かれているんです。だから、この戒めがノンクリスチャンとクリスチャンの境目になっていたのです。それだけれども、この命令がどれだけ守られているかというと、その後、有名な説教者であるヨハネス・クリュソストモスという方がこう言うんです。「今日、愛がないという他には、異邦人を躓かせる事は何一つない。彼らは私達の生活の仕方で妨げられている。」これがどういう意味か。今となってはもう、異邦人でさえ聖書を認めている。信じない者さえ、聖書の内容を否定したりはしない。その思想は、その哲学はとてもいいですね認めている。だけど、彼らはクリスチャンの生き様を見て、躓いているんです。イエス様の遺言は、サンヘドリンや逆らっていたユダヤ人は、二度とわたしの所に来られないだろうけど、弟子達は、必ずわたしが呼ぶと仰り、それは、あなた方が互いに愛し合えば、わたしが愛した事が、わたしが神である事が他の人にも分かるようになるからだ。これが新しい戒めだったんです。このようなクリスチャンへの戒めがあるにも関わらず、ノンクリスチャンがイエスの所に来られない事情が、むしろクリスチャンの生活にあるということです。クリスチャンがまず、嘘つきで、クリスチャンがまず隣人愛がなく、クリスチャンが自分の事しか考えない。これでは、聖書の内容がいくらいいと言っても、誰でも受け入れません。聖書を見て躓くのではないんです。聖書の言ってる事を否定しているのではないんです。私達クリスチャンを見て、人々は信じないのです。 それは、ガンジーも同じ事を言っています。聖書に書かれている事は素晴らしい。しかし、クリスチャンを見るなら、イエスを信じる気になれない。彼は有名な言葉を残しています。本当にその通りです。認めるしかありません。ではイエス様が命令した『互いに愛し合いなさい』は何なのですか?この前もメッセージしたように、イエス様はどういう死に方をされたか。ご自身を捨てるという方法です。イエス様は肉体を着ていても、神そのものです。その力を一つも欠けた所がないまま来ておられるんです。全てのものをご存知で、全ての栄光を今も所有され、偉大な力を持っているにも関わらず、全く使わないんです。肉体の内に全部を隠され、そうして、奴隷の姿まで落ちて、弟子の足を洗っているんです。それは、何ですか?優しくしたんですか?親切にしたんですか?何か食べさせたんですか?飲ませたんですか?そうではなく、自分自身を捨てたんです。ご自身を捨てたんです。ご自身の栄光、ご自身への名誉、ご自身の全てのプライドを捨てられました。そして、力を何一つ使わなかったんです。ご自身の知識も知恵も全部ないかの如く、奴隷の姿をとられたんです。知っているにも関わらず、分かっているにも関わらず、全部知っているのに、全部出来るのに、捨てたんです。出来る事をしなかった。知っている事も話されないんです。何故ですか?それを捨てたからです。言いたい放題、やりたい放題では、隣人を愛せるはずがありません。私達の感覚的な愛は自己中心で、他人にはお構いなしです。だから人間の愛は、そもそも堕落しています。この地上で悪者のレッテルをはられている人より、私には隣人愛があると言ってる人間の方が嘘くさくて、信頼できません。その愛は何ですか?益々自分を表し、益々自分の手柄を立て、益々神の座につき、益々神の栄光を自分のものにしてしまうからです。全部自分に神の栄光を、神が固有に持っている褒め称えられるべき立場を全部奪い取るのです。愛も、神からの賜です。人間自ら持つことが不可能だからです。人間は常に自分の手柄が立てたいだけで、自分からは何一つ捨てられず、隣人愛を持てません。だから生ぬるい人をイエス様が一番嫌うのです。悪人でもなく、従うのでもなく、そのどちらでもないすごく生ぬるい生活をする人です。自分だけはまるで調和が取れていて、皆のためを思っていて、誰とでも仲良く、誰とでも上手くいき、誰にも嫌われず生きる事ができると錯覚するのは間違いです。イエス様が吐き出すと言われた人間です。一番イエス様が嫌うタイプなんです。何でも上手くこなせると思い込み、誰とでも上手くいくように、他人に合わせて行く人。それをこの世は愛と呼ぶかもしれません。この世は、『優しい人、いい人』という評価をするかもしれません。でもこれは、互いに愛し合いなさいとクリスチャンの中で教えられる、聖書の言葉ではないんです。『愛』という単語自体、この時代では意味をはき違いています。互いに愛し合いなさいとは、罪を見なかったことにして曖昧にし、その人の過ちや間違いも、「まあ仕方ない。」「まあ、いいじゃない、熱心なら。犠牲してやったんだから。」と言ってごまかすことではないはずです。自分自身を何一つ捨てないで、他人に好かれることが、愛ではないはずです。ただ安定を望み、安全のために基準をおくなら、聖書の教えとは無関係です。聖書を理解していないことになります。隣人愛は、血縁関係の愛情ではありません。自分を完全に捨てるとは、自分の好き嫌いをなくすことです。自分を無くすは、私のやりたい事ではなく、神の望むことを優先することです。私を無くすっていう事は、人間の顔色をうかがうのではなく、イエス様の命令だけが存在していて、イエス様の御心だけが存在していて、イエス様のなさったあの十字架の犠牲だけが、その愛が前になくてはならない。イエス様がこれ程までに犠牲して、これ程までに自分を無くされたという、神の愛が私の心を満たすことが大切です。すなわち、神からその信仰が与えられなくては、人には不可能だからです。 クリュソストモスが言ったように、クリスチャンが神に栄光を帰す方法は、ノンクリスチャンと区別する方法は、隣人愛の中だけなんです。隣人愛だけがノンクリスチャンが持っていない唯一の出来ない事で、欠けなんです。それ以外はノンクリスチャンは全部持っています。あなた方より誠実に生きて、あなた方より堅実に生きて、あなた方より能力があり、努力している人は大勢います。クリスチャンができることは、ノンクリスチャンにもできます。何も劣っていません。クリスチャンが可能にするのは隣人愛だけなんです。なぜなら隣人愛は自分を捨てるという行為だからです。クリスチャンの出来る事は、たった一つそれなんです。それはイエス様が、ご自身で救われた者を最後まで愛し通されるからです。その力と保護を信じる者に与えるからです。


~シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」~


という有名な言葉が出てくるんです。ペテロは激情家です。感情的に今イエス様が大好きです。自分の気持ちなんです。だから、イエス様を捨てて裏切って呪うはずがないんです。今のペテロの中ではそんな裏切りは存在しません。でも、あなたは自分が何を言っているかも分からないだろうし、今あなたは、自分がどういう状態かも分からないんです。あなたの中には、今は、イエス様を理解する能力も、イエス様に従う事など一切できません。鶏が鳴くまで、三度裏切るというのは、イエス様の預言でありましたが、その預言がそのまま成就しましたけど、ここは単に三度裏切るとかいう次元じゃないんです。ここで、イエス様が言っているのは。今のあなたにはわたしに着いて来る事は無理ですと仰います。わたしを愛する事さえ無理です。だから当然、ましてや隣人を愛するはずがないんです。だけど、後に、わたしが、わたしのする事で、わたしの栄光の為にあなたは出来るようになると言われるんです。いつかペテロがハッと気付いて出来るようになるではありません。その後、マルコの部屋で火の聖霊が下り、ペテロは変わります。でも、『あなたには無理だ』これは人間に向かって言っているんです。「イエス様に栄光あれ、栄光あれ」と叫び、泣いて興奮することはできます。でも、こう言われるんです。今のあなたでは、無理です。隣人愛は人には不可能だと言われるんです。だから、私達はこのイエス様の約束が必要なんです。後には、あなた方にも出来るようになるという約束です。それは、わたしがするからだ、です。ペテロがローマで説教している時に、ヘロデ・アグリッパ王の妾が、ペテロの説教を聞いて、信仰に目覚めて妾を止めると言い出すんです。そればかりか、ローマ皇帝の友人達の妻達まで、ペテロの説教を聞いて、皆改心して、本当に女性達が変わっていくんです。そして、それを見た男達が腹を立ててペテロを殺す事を決めるんです。そして、ペテロの死刑が決まった時に、弟子達は逃がすんです。しかし、ペテロはここで逃げるのは違うと言うんですが、まだ、あなたが説教する場所があるし、まだ、あなたは神様が使わなければならない。自分達は犠牲しても、ペテロだけは逃がそうとするんです。そしてペテロが一人で変装してローマから出ようとした時に、イエス様がローマに向かって来られる。そして、「主よ、何処に行かれるのですか?」とペテロが、今日の本文と同じ質問をするんです。そしてその時イエス様は、「わたしはローマに行って、十字架に架かりに行く」と答えられます。「主がもう一度十字架に架かられるのですか?」とペテロが聞いたら、「わたしはローマに行って十字架に架けられに行く」と言われた時に、ペテロは気付きます。イエス様の十字架は1回で十分なんです。たった一度死なれて全人類を救われたのです。それに気付いた時、イエス様の姿が見えなくなったという物語があります。そしてペテロは、イエス様が1回で全人類を救ったのに、2度、3度はいらない。だから、こう言うんです。「次は、私の番。私が十字架に架けられる番なんだ。」と。そして、戻って弟子達に、「私は十字架に架かれ」と主に言われました。と言って、十字架に逆さに架かって死んだという物語が、2世紀頃に、ペテロの物語っていうので、書かれてあるんです。その時ペテロは、イエス様の遺言通りになります。「今は来る事はできない。後にあなたは来る事ができるようになる」と言った、イエス様とペテロの約束が成就します。ペテロは後に、やっと分かって、イエス様の行く所に行けるんです。それは、どういう方法で?十字架の死です。これが、「今、あなたには分からないけど、後には出来る」と言ったイエス様の約束だったんです。 だから、こう言われるんです。「あなたは今、何にも分かってはいない。だから、わたしを見る事も、ついて来る事も出来ません。そして、あなたを見て、ノンクリスチャンが全員躓いています。」キリスト教は、「イエス様を信じなさい。そうすれば幸せになるから。」という宗教ではありません。 今日、新しい戒めを与えます。わたしがあなた方の為に全部捨てたように、あなた方も捨てなさい。これがイエス様の新しい戒めです。これは信仰がなければ不可能です。誰でもペテロのようになれるわけではなく、神が力を与えて下されなくては、自分で自分を捨てることはできません。そして自分の信仰の分量どおりに行うのです。 人を救うのはイエス様だけに可能なのです。だから私を捨てるんです。私が自分の望みや考えを捨てた時に、イエス様が働いて、自分も、周りの人たちも救われるからです。アーメン。