ヨハネ福音書14章1-11
~「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。~
あなた方は心を騒がしてはなりません。と仰って、イエス様が最後の晩餐で、いよいよ本当に弟子達に向かって遺言を残される。その弟子達に向かって遺言を残されるのが、この前メッセージしたところから序文が始まり、そして、今日ここで、イエス様が本格的に、ご自身が去っていくので弟子達に余すところなく遺言を残そうとされて、長い説教が始まっていくんです。そして、はじめに、「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」イエス様がわたしの心が騒いでいると表現されるのが、ヨハネ福音書では3回出てきます。それは、一度はラザロを蘇らせる時にラザロに向かってではなく、死という権威に向かって、そしてサタンや暗闇の力に向かって、「ラザロよ出てこい」と立ち向かった時、イエス様は激しく心が動揺されている。という表現が一つあります。その上に、イスカリオテ・ユダが裏切ろうとして、サタンがユダの心にイエスを裏切る心を入れて、その時イエス様が話される時も、「わたしの心は騒いでいる」と仰っている。それを見る事で、イエス様が心を騒がせている時が何時なのか、当然人間に対してではないです。サタンや暗闇の力、或は罪を司っている死、この死の権威に向かって立ち向かい、闘われる時にイエス様は、心を激しく動かされた。騒がれたっていう表現をヨハネがしている所を見ると、「あなた方は心を騒がしてはなりません」と、まず最初に仰っているのは、今弟子達の心が騒いでいるからです。何故なら、「あなた方の中から裏切る者がいる」と言っている。しかも、「あなた方はわたしが行く所に今来ることは出来ない」とも言われている。そして、ペテロ達は、私達はあなたの為に家も捨て、仕事も捨て、家族も捨てて、あなたに従ったのに、あなたは何を報いて下さいますか?と聞いて、今までイエス様に全てを懸けて従ったのに、「いや、もう、あなたは、わたしと一緒に居る事は出来ません」と言われていて、更に命を懸けて私はあなたに従います。とペテロが言った時にも、「いいえ。あなたは、今はわたしの所に来ることは出来ません。わたしはもう、去っていくのです。あなたは鶏が2度鳴く前に3回もわたしを裏切り、3回もわたしを呪います」という事を今イエス様に言われているんです。そこで裏切り者が居ると言われ、もうイエス様が行く所に行けないと言われ、もうわたしを見る事はない、と言われ、当然彼らの心は騒いでいます。動揺し、不安で一杯でむしろ恐怖まである位です。その時に、イエス様が最後の遺言を残される時、弟子達に「いいえ。あなた方は、そんな風に動揺したり怖がったり、心を騒がしたりしてはいけません」と仰います。「神を信じ、また、わたしを信じなさい。何故なら、あなた方が闘うのではないんです。今からわたしが戦うのです。心騒がしているのは、サタンや暗闇の力に向かってであって、死の権威にであって、罪を打ち砕く為であって、今わたしは、その事に戦い、挑み、そして必ずわたしは勝利するので、あなた方が闘うのではないから、あなた方は心を騒がす必要がない。わたしを信じ、神を信じなさい」この戦いはイエス様対サタンや暗闇の力、イエス様対死の権威との戦いであるから、イエス様は激しく心騒がれていても、人間が心騒がせる必要はない。何故ならこれは、わたしの戦いだから。わたしは勝利するから。わたしを信じて、あなた方は心を動揺させてはならない。わたし側につけばいいし、サタンや暗闇の力が打ち滅ぼされるので、必ずわたし側についていなさい。従っていなさい。そうすればあなた方は心騒がす必要がないのです。と仰っているんです。
~わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。~
イエス様が今父の家に行くと、住まいが沢山あります。と仰ってるここでは、色んな意見があって、天国について語られていて、住まいが沢山あるという事は、死んだ後に色んな段階があって、そこで一遍に天国に入れないので、色んな部屋があって、色んな所で教育を受け、その人の信仰のレベルに合わせて教育を受けた後に天国に入るんだという解釈もあり、或は天国にはその信仰生活の信仰や、生きている間にイエス様に従った度合いにおいて、家が違うのだと言う人もいて、だから、お屋敷のような家に住む者もいれば、普通の家もあれば、小さい家に住む者もいれば、大きな家に住む者もある。というような解釈がある。でも、今イエス様が仰っている、わたしは天の父の家で、あなた方の住まいを備えに行くのです。というのは、そういう解釈でいいのか?という事なんです。
~わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」~
この天の父の家の住まいを準備しに、わたしは一旦あなた方から離れます。一旦あなた方から去ります。でも準備した後に、また、あなた方を迎えます。と仰った後に、あなた方はわたしの行く所を知っています。と言った時に、トマスはイエスに質問するんです。今までイエス様が重要な説明をする時に、必ず弟子達はトンチンカンな話をして、トンチンカンな質問を必ずイエス様に投げかけるんです。そして、イエス様が理解のできない弟子達に説明していくっていうのが、ヨハネの福音書では度々出てくるんですが、ここでもまた、トマスともう一人はピリポがトンチンカンな質問をして、イエス様がそれについて説明をする、という形をこのヨハネの福音書はとっているんです。そしてまず、トマスが、
~「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」~
「イエス様の言っている事は全く分かりませんよ、イエス様は一体何処へ行くんですか?私達はあなたについて行くと言っているのに、どうして一人で去って、何処へ行かれるのですか?私達はイエス様が行く道が全く分かりません。」と弟子が質問している所に、イエス様がこう答えるんです。
~「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。~
ここで有名な『わたしは道であり、真理であり、いのちなのです』という言葉をイエス様が語られるんですが、今、トマスは、「あなたの行く場所が分かりません。あなたは天の父の元へ行って、天国へ行って私達の住まいを準備してもう1度戻るっていうけど、私達から去って行って、行かれる道が分からない。どうして私達は後からその道を着いて行く事が出来るんですか?イエス様も居られない、そして道も分からないのに。」と言ったら、イエス様は「わたしが道だ」と言った上に「わたしは命で真理だ」と言っているんです。『わたしが道だ』と言うとき大概の人は、真理と命はゴールです。真理と道に到達するのが基本的な目標ですよね?と考えます。そしてここでは、神の真理に到達するのが私達のゴールだとして、イエス様がその道だと仰っているけれども、その道順が分からないんです。とトマスは言ってるんです。だから、その道順を教えてください。どうやって行くんですか?とトマスが聞いていて、イエス様はその疑問に答えて、『わたしが道だ』『わたしが命で、わたしが真理だ』これ以外に答えなどないと仰います。その道順が分からないって弟子が聞いているにも関わらず、道順は教えてくれない。『わたしが道だ』だから、ゴールまで来いと言われているように弟子には聞こえちゃっている。でも、イエス様がここで言っている道、という意味が何なのか。信号を右に行って左に行って、そして交差点をまた右に行ってという道順ではなく、イエス様は『わたしが道そのものだ』とだけ仰ってるんです。 この道と言うのは、人間の人生にも例えて語られる道で、キリスト教が立て上げられた時に、キリスト教達の事をこの道、と呼んでいるんです。この道を行く人達。そして、パウロがダマスコに行く道でイエス様と会う時も、キリスト教、キリストを信じている者達を捕まえにダマスコまで行こうとした時に、パウロ自身も、「この道に行く者達を捕えようとして、ダマスコへ出掛けた。」と表現しているように、キリストを信じている人達の人生そのものを『この道』と呼んでいたんです。キリスト教徒達は、キリスト教を『この道』とも呼んでいた。そして、イエス様が言っておられる『この道』とは一体何か?というのは、アウグスティヌスという有名な説教者が、こう言うんです。「もし、人間にイエス様が右だ、左だと教えられなかったとしても、イエス様が一緒に行って下さるなら、もっと安全ではないのか。」と、この処を解釈するんです。もし、私達が右だ、左だ、そして交差点を左に行け、そしてあの辻を曲がりなさいと言われて、私達は安心して行けるのだろうか?必ずまた道に迷い、また私達は間違えるのではないのか。でも、もし、道を訊ねた時、教えてくれる人が、「では、私も一緒に行ってあげましょう」と言ってくれた方がいるなら、どれだけ安心なのか。結局イエス様はゴールは教えてくれていないんです。ゴールの事ではなく、『わたしが道だ』とだけ、仰っている。ここは、とてもそう簡単に理解出来るところではないんですが、『わたしは門である』と仰ってるのと同じなんです。この門である、イエス様を通らなければ、誰も父の元に行く事はできないんです。だから今、わたしは暫くの間、あなたから去って、そして『わたしが道』なので、道を作って、また戻ってくる。というのは、一旦イエス様が十字架に架かられる時は、弟子から一旦離れます。そして死んでから弟子達の目からは、もう見えなくなります。でも、直ぐに聖霊様がきて、あなた方にイエス様を教えるだろう。という説明なんです。
~あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」~
というと、ピリポがまたトンチンカンな質問をして、
~「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」~
天の神様を見せてください。そうすれば、私達は信じる事が出来、心を騒がせず、平安で安定するでしょう。とピリポはイエス様にお願いするんです。当然ギリシャでは神は見えないもの、という定義があります。もし、「神を見た」というなら、それは神ではない。という風な考えで、ユダヤ教においても例外ではなく、ユダヤ教においても神は見えないものです。もし神を見たなら、人は生きている事は出来ない。というのは、モーセも然りで、神を見る事は出来ない事は旧約聖書にも書かれています。だから、「天の父を見せてください」とピリポが質問しているのは、実際神を見るのではなく、モーセがやったような大奇跡です。偉大な、紅海を割ったり、岩から水を出したり、そういう天の父にしか出来ない、偉大な奇跡的なものを目で見せてください。そうすれば、私達は信じます。とピリポが言った時に、イエス様は、本当に天地が引っくり返るような、聖書的にも、ギリシャの哲学においても、ユダヤ教においても、考えられない事を仰るんです。この当時の人には非常識としか言えない事を仰るんです。何ですか?「わたしを見なさい。わたしを見たら、天の父を見て、神を見たのと同じなのです。わたしを見たら、神を見たんです」という事を仰るんです。当然それはもう、この時代の人においては、どれだけ天地が引っくり返るような驚きだったのか。ギリシャ哲学にもユダヤ教にもない。神を見る事は出来ない。人が神を見たら、生きる事はできない。と言われているのに、「わたしを見たら、もう、神を見たのです」とイエス様がここで、大胆に仰るんです。そして、ピリポに向かって、
~「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。~
イエス様はご自身の中に天の父が居て、そして天の父の中にわたしが居る。そして、わたしと父は一つなんだ。と仰り、「わたしが父におり、父がわたしにおられるというのを信じなさい。さもなければ、業を見て信じなさい」と仰るんです。ここでイエス様が当然最後の晩餐の後に、十字架に架けられて死なれた時には、弟子から姿が見えなくなります。そして昇天し、復活した後も、結局天に行かれてしまうので、弟子達はまた再びイエス様が見えなくなります。だから、イエス様は離れていきます。これから、もう二度とその姿を弟子の前には姿を現しません。イエス様を今現代の私達は見れません。天の御坐におられるんです。だから、私達は直接イエス様を仰ぎ見るのは再臨でしかありません。再臨の時以外、私達はイエス様を見る事は不可能です。そしてイエス様は今も動かず天の御坐におられます。だから弟子達も、イエス様が昇天された後、イエス様を見る事は出来ません。その代り、イエス様が仰ったのは、またわたしは、直ぐにあなた方を迎え入れます。と仰ったのは、聖霊をあなた方に送ります。そして、あなた方はまたわたしを見て、喜ぶはずです。そして、その事をあなた方は信じなさい。と約束を下さるんです。一旦私は見えなくなり、一旦あなた方から去っていきます。でも、わたしはもう一度来て、あなた方を迎え入れます。そしてこの事は当然、全てのこの世が、地球上が終わって、イエス様が再臨される事を仰っているのは、間違いがない。イエス様は再臨される、と弟子達にハッキリと仰ったんです。「わたしは、もう一度来る」その時はイエス様ご自身の姿をそのまま現しながら来られるんです。聖霊様ではなくて、イエス様ご自身が来るんです。だから、信じた者は誰でもイエス様を目で見えるようになるんです。この弟子達と同じように。そしてその時にあなた方を天の父の元へ連れて行きます。当然これは私達が再臨に上がって天国へ行くという意味でもあります。そしてこの世代の弟子達は当然、祝福であり、約束で、本当に喜ばしい、語り継がれたことです。主はもう一度来られるとは、弟子達がずうっと主は再臨されると言っていたのと、この言葉は同じです。でも、それだけではないです。私達の人生で死ぬ時が必ず来ます。私達信じた者は、必ず死んだ時、イエス様ともう一度会います。再臨でなくても、まだ再臨が来ていなくても、もう一度イエス様は迎えに来てくださいます。死んだ私達の霊魂を天国に無事、天の父の元へ無事に連れて行ってくれる。臨終の時も、イエス様は迎えに来てくれる。というのは、その通りです。 でも、ここで重要なのは、ユダヤ人にとってイエス様が来られる前の、旧約のユダヤ人、ユダヤ教にとっても、死んだ後の霊魂が天国行くっていう事は教えられ信じていました。神様を信じて、正しく神様に従い、正しく生きた者は天国へ行き、悪い事をし、神に逆らった者、信じない者達は、天国へ行く事ができず、彷徨うのだ。黄泉に行くのだ。という定義はあったんです。でも、本当にユダヤ人が信じていたように、天国行けたのか?本当に律法を守っていれば天国へ行けるのかっていう話は、ここでイエス様は「違う」とハッキリ仰ってるんです。わたしを通してでなければ、誰も天の父の元へ行けない。わたしが天の父の家で、場所を備えに行く。とここで、天国がその前からあったという話をただしているのではなく、そんな理解の仕方ではいけない。イエス・キリストが十字架に架かって死んでよみがえられなければ、誰も天国を見て入る事は出来ない。イエス・キリストを通してでなければ、誰も天国へ入れないなら、ユダヤ人達が言われていた律法を守って、神を信じて、正しく従っていれば天国へ行けたのか?それ以前に、そもそも律法を完全に守れる人間など存在していません。天国へ入るのは、誰でも旧約の人であれ、今の時代の人であれ、使徒達であれ、例外なく、イエス・キリストを通さなければ、誰も天国には入れなかった。だから、イエス様が天国で家を、私達の住む場所を、備えに行きますと仰っている。でもそれは、死んだ後の事を仰っているのか、ただ、宇宙の何処かの、宇宙の果ての天国を言っているのか?という問題なんです。当然それも含まれていて、当然それは約束なんです。主が再臨される事も約束です。私達がイエス様を通して、天の御国に入るのも約束。これは間違いなく、完全な約束です。でも、今イエス様がもう一度あなた方を迎えますよ。そして、あなた方はわたしをもう一度見るんですよと言っている事がただ再臨の時、ただ死んだ時だけの事を言っているのか。ただ天国だけを言っているのか。宇宙の果ての何処かなのか。死んだ後のなのか?という問題になったら、それは違います。天国で住む場所を備えに行く。作りに行く。という言葉は、もっと私達が身近で考えなければならない事です。それは確かにイエス・キリストが十字架で死んで道を備えなければ、その天国の門を開いてくれなければ、そしてそれを信じる事が出来なければ、誰も天国には、旧約の人も、アダムでさえ、ダビデでさえ、入れないんです。ここを通らなければ無理なんです。誰一人、です。例外なく、イエス・キリストが十字架で死んで、天国の門を開いてくれなければ、誰も入れない。そして、それを信じた者が、聖霊として私達の所に来られた時に、イエス様が私達の内に入って来られた時に、イエス様が天国を備えていく。それは何ですか?私達が信仰を以って強めらえ、聖い生活を以ってイエス様に似ていき、イエス様の花嫁として整えられる、そういう、私達を本当にイエス様と一緒に住むキリスト者として育てていく、作り上げる、これがここで言っている、備えているではないのか?という今日の本文の本当の解釈なんです。 死んで天国行くっていうだけではなく、イエス様が再臨して入るというのではなく、天国に私達の報いの家がある、という事でもなく、徐々に私達が天国で訓練を受けるのだ、というのでもなく、今ここでイエス様が仰ってる本当の天の国、本当のわたしが、あなたを迎え入れます。と言っている、本当の意味は何なのか?私達は聖められて、イエス様を信頼し、そしてイエス様と似た者になっていなければ、イエス様と住むことは出来ないんです。だから、イエス様が私達の内に来られる必要があったんです。私達を、イエス様と住むに相応しいキリスト者にする、相応しく作り上げなければ、聖霊によって新しく生まれ変わっていなければ、聖霊によってイエス様と共に歩む、そのキリスト者になっていなければ、誰も天の父の元へ行けないんです。誰も神と和解ができない。誰も神を「アバ、父。」と呼べない。誰も神の子とはなれない。イエス様が仰っているその意味は、遥か再臨の日とか、私達の死んだ先の事だけを言っているのではなく、今私達がイエス・キリストを信じて、整えられなければ、どこへ行くんですか?という話です。穢れたまんま、罪を持ったまんま、何処へ行くのですか?だから、私を信じなさい。そして神を信じなさい。そして、その業を信じなさい。イエス様は何度も信じなさいと言っているんです。イエス様が、わたしが住む場所を整えるからというのは、さっき言ったように、イエス様は『真理であり、命であり、道である』と仰います。イエス様は、人生のゴール的な、再臨とか、死んだ後とかを言っているのではないんです。今、今この瞬間。イエス様が私達を備えるんです。イエス様と一緒に住むに相応しくなるために。イエス様と一緒に居る事に相応しい者となるために、備えているんです。そしてイエス様と共に、臨終の時、或は再臨の時、本当にイエス様と一つに集められていくんです。イエス様が備えた、キリスト者達が一つに集まって、イエス・キリストと共に、天の父を崇めるようにされるんです。ただ単に、信じたら天国へ行くんです。信じなければ地獄へ行くんです。という終末的な話だけではないんです。今日の本文は。 だから、「わたしこそ、道そのもの。ゴールそのもの。真理そのもの。命そのものだ」とイエス様が言っているんです。イエス様と出会う事によって、イエス様を信じる事によって、イエス様が私の内に入ってくることによって、私達は、真理のイエス様を、道のイエス様を、命のイエス様を、内に内受され、信じて救われて、一緒に居る事が道なんです。道そのものなんです。何処へ行くか?明日何が起きるか?というものではなく、最終的には天国に行って、天国には色んな家があるとだけ言っているわけではないんです。わたしと出会わなければ無理だと言ってるんです。わたしを信じなければ、無理だ。あなたが明日どこ行くかなんか、イエス様は教えないんです。明日何が起きるかも、イエス様は何も教えてくれません。右だ左だっていう風に、交差点をどこを曲がればという風には言ってくれないんです。わたしそのものが道、わたしそのものが命、わたしそのものが真理だから、わたしと一緒に居る限り、わたしを信じる限り、もうあなたには、わたしが内受して道となっている。一緒に居て下さる。一緒に歩んで下さる。一緒に一足、一足、一緒に歩いてくれる。これが道という意味で、ゴールの事を言っていないんです。真理とは明日何が起こるとか、報いて、生きている間にあれも欲しい、これも欲しい、ではないんです。私が明日何かになりたい、とかではないし。明日私はどこそこ行きたい、でもないし。私は明日どんな力や知恵が欲しい、とか言っているわけではないんです。そんな事はあなたには、何の関係もないんです。『わたしが道だ。わたしが命で、わたしが真理だ』と仰っているのは、これからあなたが何もかも知るようになることではありません。あなたが明日何かしたいとか、願いとかは何のかかわりもなく仰ってるんです。わたしを受け入れ、わたしを信じ、わたしが共に歩めば、それがもう道で、もうそれが真理で、もうそれが命だ。死んでからではないと、そのことを今イエス様が仰っているんです。 私達が明日何かをして、こういう生き方をするのが道ですね。こういう考え方が真理ですよね?私達がこういう成長を遂げる事がイエス様ですよね?という考え方は間違っているんです。イエス様を受け入れて信じたそのものが真理。そのものが、もう道。そのものが命なんです。あなたがこういう生き方をしたから真理。私が教会生活を一生懸命したから、礼拝を一生懸命したから、祈りを一生懸命したから、これが真理で神の栄光ですね?神の国ですね?というのは違います!私達は神の栄光だとか、イエス様を褒め称えますと口で言うけれども、それはいつも、自分の成長を遂げるために、どういう仕方で歩み、どういう生き方をし、どうやって礼拝し、どうやって祈り、どうやって勉強しようかと考えます。その事を真理だと思い込んでいるなら遥か間違いです。何一つ理解していないんです。そんな事を真理なんて呼んでないし、そんな事をイエス様は道で、命だと言っていないです。わたしが今あなたと一緒に居る事そのものが真理。あなたが今わたしと一緒に居る事が永遠の命。あなたが今わたしと一緒に歩む事が道なんです。あなたが何かしたくて、立派なクリスチャンになって、正当なクリスチャンの道を歩み、正しく善人で、人に優しく、隣人愛に溢れてるのが真理ではありません。あなたの何かは真理でも何でもないし、あなたがどれだけ優秀でも道ではないし。あなたがどれだけの成長を遂げたって、そこは命じゃないんです。イエス様が仰ってるのとは、まるっきり全然違うんです。イエス様そのもの。イエス様そのものなんです。命であり、道であり、真理。そしてこの方を通さなければ、誰も天国に入れない。誰も救われない。誰も神の子にはなれない。今日の本文は、本当はとっても難しいんです。そして、皆が暗記して、暗唱して、そうです、イエス様は真理で命です、道です。と簡単に言えても、確信がないなら意味がありません。 あなたの何かは真理ではない。イエス様そのものが道、命、そして真理。この方を離れては誰も真理を知れない。誰も道も分からない。誰にも命がないんです。この方を離れているなら何もないんです。この方を信じなければ、私達は何もないんです。私達の熱心と欲望は、何一つイエス様とは関係がないんです。何もイエス様の香りが漂わない。何もイエス様の力が出てこない。イエス様が働かなければ何も起こりません。 イエスそのものを受け入れない、イエスそのものが一緒に居ない、イエスそのものが私の中にないなら、もうそこには命がありません。どんな信仰があろうと、どんな熱心があろうと、どんな祈りがあろうと。イエス様そのものだけが、真理で命で道なんです。この方から本当に離れた時に、何も残らない。だからこの方と共に歩む事が一番大事です。だから、賛美の中には、そして多くの宣教に出掛けた殉教者達が、そして多くの最後に本当に主に忠実に仕えたクリスチャン達は、「先の未来を見なくてもいい、ただ一足一足主と共に歩む。」という言葉を残しているんです。先の未来は分からないです。彼らはいつも迫害に合い、明日がどうなるか、自分の命がどうなるのか?明日なんか希望が持てず、そして宣教地で病気になり、宣教地で家族が死に、宣教地で自分の仲間の同じクリスチャン達がどんどん死んでいく、ましてや、ヨハネがこの聖書を1世紀末に書いた時に、主は再臨されてこなかったし、そして多くのクリスチャンは殉教して、弟子達の中ではもうヨハネしか生き残ってない状況です。それなのに、再臨の事だけを言って、ヨハネは死んだ後の事だけを言っているんですか?違います。イエスそのものを話して、イエスそのものの命、イエスそのものの道を話しているんです。イエス様そのものが真理であり、命であり、道。この方と共にいなければ、私達はこの言葉と何の関わりもないんです。 だから、私達が今日、この本文を本当に誤解して、暗唱して、暗記して、ただ口先だけで言うなら間違いです。真理を曲げて、混ぜものを入れて、自分勝手な事を言う事は許されない。神を知ることは知恵の始まりです。クリスチャンにとって聖書を正しく学ぶことはとても大切です。なぜなら神のみ言葉だけが、この世の誘惑と、悪魔の攻撃から守られるからです。私達の勝手な解釈は偶像礼拝になります。主よ、主よと言う者が救われるのではないからです。主に憶えられた者が救われるのです。その者は自分の真の羊飼い、自分の本当の主の声を聞きわけます。神に従うことが人間にとって一番優れた知性です。神だけが全てをご存じだからです。アーメン。