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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書14章12-21

2018.02.14 18:00

~わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」~


今、イエス様は十字架に架かる前に最後の遺言を、これは一般のユダヤ人、異邦人にではなく、弟子達だけに語っています。だから、イエス様が十字架で死ぬ前の遺言、最後に弟子に教える説教、そして、最後の重要な教えの場面です。そして、この前のみ言葉では、『わたしこそ道であり、真理であり、命である』と仰ったところで、私達がどういう風に生きる事が真理で、どういう風に歩む事が道で、どういう風に歩めば命を得るという事ではない。それは、イエス様そのものが真理、道、命だから、このイエス様を受け入れる事が私達にとって、真理であり、道であり、命。でも、私達はその道順は知らない。道順は知らないけど、イエス様が一緒に行ってくれるので、道順を右だ、左だと教わる以上に、安心があって、イエス様が連れて行ってくるので、私達が悩まないで済む。というのが、先週のイエス様が弟子に最後に語った遺言。そして、今日のイエス様が語る内容は、この最後の説教は長いんです。更に、イエス様が弟子に遺言を語る部分が続くんですけど、


~まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。~


というのは、イエス様は今まで色んな業をされてきました。まず、5千人にパンを食べさせ、更に、水の上を歩かれ、そして、病人は誰でも癒され、目が開き、耳が開き、唖がしゃべり、足なえが歩き、らい病人が清められ、という事をなさったどころか、死人も蘇っているんです。その全ての業はあなた方にもさせます。しかし、それよりもっと大きい業をあなた方はするようになる。わたしが死んで、天の御国に入った時に、助け主があなた方に来るから、それよりももっと大きな業をする事ができるようになるというのが、語られた遺言なんです。それは約束です。そしてその約束事を今イエス様が、弟子達に向かって語られるんですが、『大きな業』とはイエス様より力ある業をするのか?というのではありません。やはりイエス様は肉を着ていらっしゃっても、本質は神ですから、神の力を隠しているとはいえ、神なんです。人間がその真似事が出来るわけではない。その神の権威により、悪霊を追い出し、病人を癒す事は弟子もしました。使徒行伝にあれ程たくさんの奇跡が行われているのを見ると、イエス様が約束した通りにはなっている。でも、イエス様がしたより、もっと大きな業とは奇跡的な事ではないんです。何かと言えば、イエス様はユダヤ人の中でしか福音を語らなかったんです。イエス様はエルサレムから出なかったんです。しかし、弟子達は出ていくんです。弟子達は、ユダヤ人ではない、異邦人に向かって、或は全世界に向かって、ローマをはじめヨーロッパに入っていく、そして、トマスにおいてはインドに入り、他の使徒達も全員殉教して、他の国に入っていきました。それを仰ってるんです。わたしが死んで天に昇るとあなた方に助け主を送りますと。そうするとあなた方はわたしがしなかった事をするようになる。それは、ユダヤ人以外の人間に、福音が伝えられるようになるからです。これはイエス様の遺言の中で、もっとも重要な遺言だったんです。何故なら、これはマルコ書やルカ書や他のマタイ書にも書いてあるように、イエス様が蘇った時に40日間弟子達に現れた時も仰るんです。「あなた方はサマリヤ、地の果てまでも行って福音を伝えなさい。聖霊を授けなさい。そしてその徴として悪霊を追い出し、新しい言葉で喋り、病人に手を置き、そうすれば病人が癒されます。というのが、イエス様が弟子に最後まで命令された遺言だったんです。今、それを仰ってるんです。 わたしがしなかった業、すなわち異邦人に伝える事は、わたしが生存中に、公的に3~4年イエス様が働いたのは短い年月でしなかったけど、その後は、もう一度わたしが来る日までは、全世界へ行って福音を述べ伝えなさいとは、この当時の12人の弟子だけではなく、私達現在のキリスト教徒においても、遺言であり、命令なんです。


~またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。~


ここから、もっと大きい業をするための条件が入るんです。もっと異邦人に行って、福音を宣べ伝える為にしなければならない事が『祈り』なんです。しかし、今までユダヤ人達は神の名で祈ってきました。しかも、ユダヤ人達は祈る時も仲介者が必要だったんです、祭司という仲介者です。そして場所的には、契約の箱が置かれている神殿の所へ行って、祈らなければならなかったんです。それは今現代においても、ユダヤ教やイスラム教は、神の名で、創造主唯一の神に祈っています。でも、ここでイエス様が新しい命令。新しい遺言を残すんです。イエス・キリストの御名で、イエス・キリストに祈りなさい。そうすれば、イエス・キリストが働くから。 ここで言っている『祈り』が一体何なのか?これが、イエス様がしなかった業までもする、条件の一つで、何の祈りなのかが重要なんです。その事において、ある牧師先生の子供が幼稚園の遠足の前日に、雨が降らないようにと祈って、次の日雨が降ってしまい、ガッカリしたその子供は、お父さんに宣言したんです。「二度と祈らない。祈りを聞いてくれなかったから。」でも、私達の周辺で、こういう人を沢山見ます。神に祈ったって無駄だよ。祈ったって癌が癒されるはずない。祈ったって、聞いてくれるはずがない。祈ったって神は何もしてくれない。だから神は存在しないんだっていう結論付けまでされてしまう。ほとんどの人がこれを言います。でも、イエス様の命令をよく聞かなければいけないんです。イエスの御名で祈り、イエスに届き、イエスが応える。そして問題を解決していく。という順番です。この順番は、命令ですから絶対なんです。というのは、イエスの名義で祈りなさい。人間の名前で祈る事ではなく、わたしがわたしの願いを祈れと言っているのではないんです。イエスの名義で祈るという事は私達が家を借りるときとか、何かを支払う時とか、他人の名義を借りるときがあります。或は他人の名前を借りるときがあります。その時私達が一番やらなければいけないのは、その借りた人の名前に恥をかかしてはいけない。迷惑をかけてはいけない。だから、他人の名前を借りるってそういう事なのです。自分の我儘は通らない。自分の好き勝手はやれないんです。他人の名義を借りているのだから。これがイエス様の命令だったんです。『わたしの名前で祈る』というのは、どういう事かっていうと、イエス様の考え、イエス様の計画、イエス様ご自身が持っている御心、イエス様の性質に依った祈りを祈れということなんです。それがイエス様の名前で祈るということです。これが今イエス様の弟子達への命令なんです。それは、主の祈りと同じです。 主の祈りは第1に ~天にまします我らの父よ。願わくば御名を崇めさせ給え~とは、神様がまず栄光をお受けください。 ~御国を来らせたまえ~とは、今天使たちが居るあの天国がこの地にも建てられるように。この地上の事情や人間的な感情ではなく、天国のあの住まいの性質。誰も憎まず、誰も裁かず、皆が愛し合って、皆が互いの徳を高めていく。イエス様だけを褒め称えるあの場所。輝かしい本当に光溢れるあの場所。命に溢れて、死がなく、穢れもない。あの天国がこの地にも来るようにというのは、精神世界でそれを行われるようにということです。しかもこの地で。それがイエス様の望んでる祈り。そうするなら、明日天気になるとか、今日癌が癒されるとか、私達の事情が最優先であってはならない。たとえ今死にそうでも、それは変わらない。たとえ今死にたいほど苦しくても。或は死にたいほど悲しくても。優先されるのはイエス様に沿った祈りでなくてはならない。しかもそれは、イエス様に祈らなければならない。そして、イエス様は必ずそれを解決する。これは圧倒的な保証なんです。絶対叶えられるという祈りなんです。これは、絶対に神様が応えるんです。もちろん、時間的なタイミングはイエス様が決めたとしても、イエス様に沿った祈りなら、イエス様に向かっているなら、しかも、必ずイエスの御名で祈っているなら、イエス様が必ずここは応えるっていう、意地悪ではなく、イエス様の保証なんです。そして、その祈りがこうです。地の果てまでも福音を伝えなさい。わたしがした事以上に、あなた方がするようになる。という、この事をするための祈り、だから、キリスト教の基礎の祈りが主の祈りだという事がよく分かります。私達は主の祈りをまるでお経のように唱えてはいけないんです。まず、これがイエス様が願っている祈り。この地でも邪悪で憎み合って、裁き合って、本当に他人の事に何の関心も持てない、自分の事で手一杯で、人の事に構っていられない、というこの地上で、それを超越したイエス様の考え。自分中心ではなく、イエス様中心のあの天国のような、そういう場所が、この地上でも立てられるような祈り。そして、それは福音しかないんです。イエス様を信じなさい。そうすれば、イエス様の力があなたを助けるから。この祈りをしなくては、私達の祈りはイエス様が聞いてくれないっていう事です。でも、この祈りをするならば、イエス様は必ず、全知全能の力を以って、岩をも動かす力を以って、叶えくれるんです。だから、これがイエス様の最後の遺言なんです。クリスチャンなら、『11人の弟子』ではなく、クリスチャンなら、誰でもしなさい、なんです。


~もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。~


ここで、助け主が来ると言っています。イエス様ではない、別の助け主です。イエス様はもうすぐ死ぬと、弟子達に言っています。姿が見えなくなるんです。そして、イエス様はもう天国に戻られてしまうんです。今まで目に見えていたイエス様ではない、助け主が来る、必ず来ると約束されます。その助け主はギリシャ語で『パラクレトス』というんですけど、英語では『弁護士』と訳されています。でも、榊原先生に言わせると、むしろヘルパーに近いんではないのか。何故なら弁護士は資格があって、裁判の時に罪が訴えられた時に、代わりに裁判官の前で弁護してくれる人です。でも、昔は弁護士の資格がない、友人・知人が弁護したんです。昔の裁判と言うのは、弁護士と言う資格がなくても、友人・知人が証言していたんです。そして、その人が罪に定められないように、ヘルパーとして裁判に来ていたんです。そのヘルパーにもっと近いんではないか。弁護士というより。でも、パラクレトスというギリシャ語の本当の意味は、『傍らに呼び寄せられるもの』です。自分の傍に呼び寄せられるものという意味なんです。この方が再び来る。そして、その方は永遠にもうあなたから離れたりしない。あなたの傍らで、あなたをいつもヘルプして、あなたを必ず弁護してくれる方が、必ずもう一度来る。その方は真理の御霊です。この真理はイエス様に関する知識。聖書に関する知識。神に関する知識。救いに関する知識は、この方が、あなた方に教えるようになる。これが条件2つ目なんです。わたしがやった事より、もっと大きな業をするための条件が、イエス・キリストの御名でまず、祈る事。次には、この助け主が来たら、あなた方にそれを教えてくれる。必ず導いてくれる。自分が誰なのか分からない。どうやってやっていいか、分からない。どうやって生きていいか、分からない。どっちへ行けばいいか分からない。という時に、必ずこの方が教える。これが道だ、これに歩めという、声が聞こえるようになる。これがイエス様が、絶対孤児にはしない、という理由なんです。イエス様はその方が来られた時に、わたしはあなた方を絶対見捨てない。あなた方が一人ぼっちになる事は絶対にない。しかも永遠にないって言っているんです。 今、弟子達の気持ちを考えてみてください。ユダヤ人から、そして色んな異邦人から、もう追い詰められ、ユダヤ教の分離が始まるんです。今まではユダヤ教だったんです。ペテロ達は。だけど、これからはキリスト教にならなければいけない。今から宗教改革が起こるんです。でも、それを命懸けでやらなければならない。その迫害や恐怖もある。その中で家も捨てて、家族も捨てなければならない事情だって出て来る。命を懸けなければいけない時に、今まで目に見えていた、イエスという助け主が消えてしまうんです。今、居なくなって死んでしまう。すごく寂しいんです。弟子達だって、イエスだけが頼りだったんです。そのイエス様が居たから、ここまで来れて、イエス様の後について来ていたから怖くなかったけど、イエス様が突然居なくなってしまうという事は、たとえば私達から、教会や牧師がいなくなって、助けてくれ、導いてくれる伝道師たちがいなくなって、宣教師達がいなくなるような事です。この地上から突然皆居なくなってしまったら、どんなに私達は怖いのか?もう、どうやって聖書を知って、この苦しい世の中を渡って行けばいいのか分からなくなってしまいます。今、弟子達の気持ちがそうです。今、悲しいんです。最後に過ごす晩餐です。イエス様がもう死んでしまう。明日にも死刑になるかもしれない。そしたら、私達はどうしたらいいのか。今まで着いて来たのに。という恐怖の中で、イエス様がこう言うんです。「絶対孤児にはしない。わたしはあなた方を絶対一人にはしない。もう一人の助け主『パラクレトス』ヘルプが来る。そのヘルプが来て、永遠にあなた方と共に居るので、あなた方が絶対寂しくならないように、わたしはするから」これが、本当に弟子に向かっての最後の遺言だったんです。だから、このヨハネ福音書だけなんです。この遺言が、こんな風に具体的に書かれているのは。 だからヨハネが1世紀末に書いた時は、もう聖霊がマルコの部屋に下って、ペンテコステの日に、火の聖霊が下って、どうなったかをすでに知っているんです。聖霊が来た瞬間にイエス様がどうしてくれたかが、よく分かっているヨハネは、本当にイエス様が十字架に架かる前に言った事を思い返しているんです。その時は分からなかった。助け主が誰なのか。真理の御霊が一体何なのか。当時はそんなの言われても私達にはもうイエス様が居なくなるのに、そんな事は励ましにもならないと思っていた弟子が、十字架でイエス様を見捨てて逃げた、あの卑怯者の弟子が、その時は分からなかったけど、後からこの助け主が来た時、3~4年イエス様と寝食を共にした時でさえ分からず、神から直接聞いているのに、あの偉大な業を、奇跡を全部見たのに、弟子達は理解できなかったんです。信じる事が出来なかったんです。死人さえ蘇っているのに分からないんです。だけど、聖霊が来たときには、イエス様が生存していた時より余計によく分かって、何をしていたかがよく分かり、何をしなければならないかがよく分かって、彼らは地の果てまでもたとえ一人でも行ったんです。今度はイエス様が見えなくても一緒に行ったんです。見えるイエス様が居なくても恐れないんです。11人の弟子が一緒に居なくても、一緒に歩んでくれる仲間が居なくても、一人でインドに行き、一人でアジアに行き、一人でローマに行くほど、彼らは迷う事がないんです。だから、イエス様が絶対孤児にはしない。一人ぼっちにはさせない。たとえ教会がなくなり、牧師が居なくなったって、あなた方は迷う事はない。何故?真理の御霊があなた方の内に来られるからだ。これはイエス様が目で見えている時より、ハッキリと神を認識できる、神の霊なんです。


~わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。~


イエス様は、戻ってくると言ったんです。肉体はもう死んで、弟子達の前から姿は全く見えません。イエス様が肉の目で見える事はもうないんです。でも、もう一回あなた方の所へ戻ってくる。ここは神学的に、沢山の意見が割れているんです。戻ってくるときは何時なのか?というところで、ラテン語の聖書の神学者達は、再臨を言っているんです。地球が全部終わって、イエス様が天から降りてきて、目で見えるようになった時に、イエス様が戻って来ると、ラテン語の神学者達は言い、そしてギリシャ語の神学者達は、いいえ、そうではなくて、イエス様が死んで、三日後に甦って四十日間現れている時に、戻ってくると言ったんだと、意見が分かれているんです。でも、そうすると、榊原先生に言わせると、辻褄が合わないそうです。もし、再臨の時、イエス様が戻って来ると言うならば、あなた方に現しますっていうのは、おかしい。その時には、誰の目にもイエス様が見えるようになり、信じなかった者でも裁きを受ける為にイエス様の前に連れて来られるのに、その時あなた方に現れるというのは、おかしい。と言うんです。そして、甦られて現れるというなら、もう一度目には見えなくなります。それは四十日経ったらイエス様は昇天されます。そしたら、孤児にはしません。永遠にあなた方と共に居るという言葉が、辻褄が合わない。と、言うんです。では、イエス様が何時戻って来たのか?何時永遠に、一緒に居てくれて、孤児にはしないという約束は何だったのか?その答えは、ペンテコステの日に戻って来た。これが、榊原先生が仰っている、戻って来たという意味です。イエス様が戻って来たという事。だから、真理の御霊が来ます。助け主が、パラクレトスがもう一回来ます。あなたを弁護し、あなたをヘルプする、絶対孤児にはしない。その真理の御霊が来ますと言った時に、イエス様はその前に何て言いましたか?『わたしは命であり、真理であり、道である』だから、それはイエスが帰って来るということで、今度は姿が見えなくても、今度は直接声が聞こえなくても、イエス様が戻って来るということなんです。見えなくなったのは肉体だけであって、イエス様の霊はもっと近くに私達の中まで入って来て、以前ペテロ達はイエス様を見ていたけど、中まで入って来ていません。形は見えたけれども、ペテロの中まで入って来てはいないんです。だから、ペテロはイエス様を裏切れたんです。どんなにイエス様に教えてもらっても、分からなかったんです。なのにイエス様が中に入った時、ペテロはどうしました?牢獄を恐れなかったんです。十字架どころか、死も恐れなかったんです。彼は立ち上がって、「イエス・キリストを信じなさい。」と大胆に語るようになったんです。そこから一度もペテロは逃げないんです。死んだ日まで、逆さでローマで十字架に架かるその日まで、ペテロは二度と逃げなかったんです。イエス様が居る時でさえ逃げたのに。でも、イエス様が助け主として私の中に入ってくるときには、孤児にはしないんです。これを、ヨハネは、後から何の意味かが分ったんです。 ヨハネだって、一人だけパトモス島で何十年も牢獄に入れられて、どんなに失望し、他のパウロや弟子達は、殉教したり、福音を宣べ伝えて活躍したりしているのに、ヨハネだけは活躍する事もできず、百歳まで無能の限り、何の力も発揮せず、この牢獄で百歳まで暮らしたヨハネを考えてみて、どれだけ惨めなのか。どれだけ自分は生きていても価値がないと思ったか。そのヨハネが後から分かったんです。この助け主は、イエス様が肉体で、生存している時よりも、もっと私に神を教えてくれた。そして、その一世紀末、百年後に書かれたヨハネの福音書が、どの文章よりも力があるのは、そういう意味です。後からヨハネは全部知ったんです。色んな事を。イエス様が遺言したその意味を。その時にヨハネが書いたヨハネの福音書だけに、このイエス様の遺言が書かれているんです。


~その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。~


これは、本当に「わたしを見た者は天の神を見たのです」これが最後に弟子達に言ったことです。「あなたの父の神を見せてください。」と弟子が言った時、「あなたはこんなに長くいて、父を知らないと言うのか?わたしがそれだ」イエス様が自分が神だって仰るんです。その時に弟子達はまだ分からないんです。肉体持っているイエス様を見ていたら、「わたしが神だ」と言っても、何言っているかが分からない。ある意味で偉大な先生、偉大な預言者だったかもしれない。奇跡を行う本物のメシヤかもしれない。とは思っていたけど、『神』という概念を持てなかったんです、弟子達も。イエス様がどうしても肉体があるから、その時にイエス様がいくら神だって言っても、自分達の口で、そうです、神様ですと言ったとしても、弟子達には分からないんです。イエス様が神という事が。「もう、神を見たんです」と、言われているのに分からない。なのに、イエス様が居なくなって、聖霊が私の中に入ったら、イエス様が神であった事を知れるんです。というのは、人間の知識で神は知れないんです。人間の力では、イエスが神だって告白出来ないんです。私達は絶対神を見る事が出来ないんです。これは、もう、例外ないんです。何人であろうと、どの時代であろうと、パウロであれそうでしょう。ペテロだって、偉大な預言者達全てが、聖霊に依らなければイエスが分からなかった。聖霊が来なければ、神が分からない。そして、弟子達もパウロも、聖霊を受けた後に変わっている。救われた私達が変われないのは何ですか?この聖霊を強く受けなければならないからです。もう、私達の内にイエス様が入って来て、イエスを救い主として告白しました。私達は、聖霊がもう宿っているんです。例外ないんです。イエス様を主と告白した者には、必ず聖霊が宿ります。でも、私達がペテロのような力がないのは、何故ですか?この火の聖霊を受けていないからです。これは、すごいパワーなんです。牢獄を恐れず、死も恐れないんです。癌になろうと、今死を宣告されようと、恐れたりしないんです。自分の身内が今死のうと、そして、会社がなくなって、仕事がなくなっても、恐れたりしない力です。そして、私達にはないです。私達は今、死を恐れ、そして恐怖に震えて、その上信仰まで失くすような弱い存在だけど、イエス様が力をくれるなら、私達も乗り越えられるんです。そして今、私達はそれを必死に祈るべきなんです。 そして、イエス様を愛する者は、イエス様の戒めも守る筈だろう。が最後の言葉です。ヨハネがいつも言うんです。「神を愛するなら、見える兄弟を憎む筈がない。何故なら、新しい戒めは、『神が私達を愛して下さったように、私達も互いに愛し合うべきである』これが新しい戒めだってヨハネは言うんです。それを守る筈だって言うんです。このイエス様の力をもらうなら、できるはずなんです。私達は自ら他人は愛せません。自分の親さえ愛せないんです。自分の兄弟も、自分の子供でさえ、最後まで愛せる自信がありません。だけど、イエス様の力なら、家族どころか他人さえ赦す事ができ、自分を殺す相手さえ、赦す事ができ、自分を呪う相手さえ祝福できるようになるんです。それは、私の力ではないです。助け主が、ヘルパーが来て、弁護士が来て、そして、真理の御霊が来た時に、いいえ、イエス・キリストがそのままの姿で、そのままの力をもって、全知全能の全ての神の力をもって、私の内にきた時に、イエス・キリストがしてくれるんです。私は出来ません。依然私は他人を愛せず、自分に悪口を言った人間に悪口を返すしか出来ない。依然とそうです。変わらないんです。私達の内側は変化しません。でも、私ではなく、イエス様が働く時だけ、私達は自分の敵を愛せるようになる。自分の嫌いな人間でさえ、尽くせるようになるんです。それは、私は出来ません。助け主、真理の御霊、イエス・キリストが私の内で力をくれた時だけ出来るんです。そして、どんな癌も、どんな病気も、癒されるのはこの力しかないんです。私がどれだけ、百時間祈ったって誰も癒されません。私が、イエス様に命を捧げたって、病気は治ったりしません。イエス様が、イエス様の性質を以って、イエス様の心に沿った祈りをし、そしてイエス様に届き、そして聖霊の助け主に依って、そしてイエス様が働く時だけ、癌は治り、仕事も与えられ、生活も出来るようになり、そして私達は地の果てまでも怖がらず、宣教地に行けるんです。そのイエス様の力は天からしか下ってこないんです。そして私達は祈るんです。その力を下さい、と。パウロがやれた事、ペテロがやれた事、私達も出来るんです。もし、この力がくるなら、私達は病人に手を置けば、病人は癒されます。弟子達もしたんです。この力がくれば、私達は牧師じゃなくたって、平信徒も、今日救われてイエス様がまだ分からなくて、聖書を読んだことが無い人でもです。何にも分からない人だって、イエス様の力が働けば出来るんです。 そして今私達は、その力を待っています。ペンテコステの日に下ったあの力。何故なら、この世は、イエス様を知れないんです。この世は、イエス様を信じる事が出来ない。「イエス、イエス」と祈るけど、本当に信じているかは疑問です。教会に通っていても、この神様を知っているのかということは、神にしかわからないことです。心で信じてイエスを主と告白している以上聖霊は宿ります。助け主は私の内にいるんです。その助け主が力を働いてくれれば、今日私達が病人に手を置けば病人は癒されるんです。そして、福音を語れば周りに居る人全員が救われていくんです。私達は今日、このペテロがもらった火の聖霊をもらいたいと思います。これは、私達の欲ではないので、誰でも祈っていいんです。これは、私達の自分だけの為ではないから、ガンガン祈っていいんです。これは、惜しんではならない祈りです。そして、今日も祈りたいと思います。 ただし、いつ、どこに、誰に、どんなふうに、力が与えられるのかは、神様の主権です。イエス様が決めます。私達は望みを捨てず、あきらめないで、待ち続けるのです。 聖霊のバプテスマが降るよう祈ります。アーメン。