ヨハネ16章5-16
~しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」~
今日のこの箇所では、もう既に何度かイエス様が、「別な助け主が来られる」と聖霊様が来られることを仰っているけれども、今回はその御霊が、助け主が、一体どのようなものか、という具体的な説明がここから入っていきます。そして、その前に話した事はクリスチャンが、どのような道を行くのか、イエス様が初めて語られるんです。必ず迫害を受ける、ということです。必ず追放され、必ずこの世はあなたを憎みます。何故なら、第一人者だったこのわたしがクリスチャンの原型、第一のこのわたしが、十字架に架かって死に、この世がわたしを憎み、この世がわたしを迫害したならば、わたしと同じ道を行くものは、当然それと同じ事が起こるのです。これは、弟子達が初めて聞いた話なんです。そして今日のイエス様の語られる箇所なんです。弟子達は今まで、意気揚々とイエス様に従おう、と言ってきたんです。だけど、この16章からは、クリスチャンが誰なのかが明らかになっていくんです。一番になりたい、大臣になりたい、イエス様が位に就いた時右と左に就かせてくれ。そして、どこへ行くのですか?あなたはどこへ行こうとするのですか?私達も必ずついて行きます。と言っていた弟子達。でも、『必ず迫害を受けますよ』という話は、初めて弟子は聞いたんです。そして、今日の箇所が
~しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。~
何が悲しいのか?イエス様が今、去って行きますという話をされて、では彼らは一体何が悲しいのか?さっき言ったように迫害されることです。イエス様がおられる時には、起きなかった事。何故なら、わたしが先に受けている間には、花婿が居る間には、あなた方は安泰していた。何故なら花婿が隣に居たから。でも、その迫害をイエス一人が一身に受けていたのであって、弟子達はその迫害を直接には受けてはいないんです。イエス様だけが十字架に架かって、イエス様だけが死ぬんです。それは第一人者だから。でも、弟子達はそこまでの迫害はまだないんです。それほどの恐怖も。だから、意気揚々と命を懸けます。私も命を懸けて主と同じ道を行きます。イエス様、今からどこへ行くんですか?私も行きますと答えます。私達は全部捨ててあなたに従ってきたんです。意気揚々と、物凄い張り切って興奮していたんです。でも、イエス様が、あなた方がわたしについて来たいなら、わたしと同じ迫害を受けます。と言われた瞬間に、もう悲しみと落ち込みで一杯なんです。そして、ここでもう二度とあなた方はわたしがどこに行くのか質問しないでしょうと言ったのは、弟子が分かったから、悟ったから、ではありません。その迫害を拒絶したからです。その迫害は嫌なんです。一番にはなりたい。大臣にはなりたい。イエス様の位には就きたい。でも、イエス様がその道は迫害の道で、棘の道です。十字架を背負わなければ、わたしについて来られません。自分を捨てなければわたしの道は来られないんです。と言った瞬間、弟子達はもう言わないんです。ついて行きたいとは。もうさっきの勢いはないんです。心は悲しみでいっぱいになっている。これが今、弟子達の状態です。昨日まで、いえいえ、これはさっきまでの、足を洗っている日のことです。まだ説教はその日から一日たりとも過ぎてはいないんです。最後の晩餐の日の、説教なんです。その説教で、段々弟子達は迫害される、追放される、もしかして、死ぬやもしれない。という話を聞いた瞬間に、イエス様の道はもう嫌なんです。行きたくないんです。あの大臣になりたかった、あの気持ちはもうとっくに消えて失っているんです。自分の問題がきたとき、イエス様どころではありません。イエス様を思う気持ちなど、すでに微塵もないんです。自分の事しか考えない。自分の恐怖しかない。自分の安全のことしかない。自分の命が大優先なんです。そして、イエス様が今から十字架に架かって死ぬ話など、耳に入りません。イエス様への同情心など、考える余裕がもう無いんです。今まで受けた恩恵や、感謝は無くもう自分の感情の悲しみで一杯なんです。だから、もうこれ以上イエス様に問う人間がいなくなっている状態です。 そして、一分前はこう言っていたんです。「命を懸けて死にます。あなたの為なら出来ます。連れて行ってください。最後まであなたに従います。」神の栄光が天にあるように、地にもあるように。という祈りをしていた人達が、です。自分の問題が、自分の死が、自分の困難が迫って来た瞬間に、もう、どうでもいいんです、イエス様の道など。だからもう、あなた方は悲しみで一杯でしょうと、イエス様は見抜いておられ、今、弟子達に厳しい事を仰っているんです。これは、悟ったから何も質問しないのではないんです。あなた方はもはや自分の事しか考えることができませんと、イエス様が、弟子達の本当の姿を明白にしているんです。
~しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。~
わたしがこのままでいると、助け主が来ない。イエスが死なれないと、聖霊が来ない。だから、わたしは父の元に帰らなければならない。そうすれば、助け主が来る。と仰っている。そうすれば、あなた方に有益です。ここで言っているように、聖霊様がどなたか?という事を私達が明白に知る為に、イエス様が父の元に行くというのは、死ぬしかないんです。そして、復活して天に戻られる。そしたら、助け主が来るという順番なんです。聖霊様は以前からおられます。旧約の時にも聖霊が働いています。聖霊がおられないのではありません。今イエス様が仰っているのは、『助け主』です。『別な助け主』が来るためには、わたしは一旦天国に戻って行かなければならない。わたしが去らないと、あなた方の所に助け主は来ない。こう仰っているんです。では、イエス様がおられる間に何故助け主も一緒にいる事が出来ないのか?という事です。その助け主とイエス様が同時にいてくれればいいのに。と思うけれども、これは、イエス様が肉体のまま生存していては絶対に、駄目なんです。そしたら、全世界がエルサレムに行かなければなりません。船に乗ったり、飛行機に乗ったり、或はこの時代の人だけがイエス様を見るようになってしまう。だから、イエス様は一旦消えなければならないんです。一度姿を消さなければならない。だから、天国の全ての主権を手に入れるイエス様が天に座され、そして助け主が来る。それは、この時代だけではなく、その一千年後も二千年後も、イスラエルではない人にも、全ての人に同じくイエス様と交わり、同じようにイエス様と出会うためには、この方法だったんです。わたしが去って行かなければ、あなた方の所には助け主は絶対に来ないんです。今まで聖霊がおられないと言っているわけではありません。あなた方に助け主が来る事が出来ない。聖霊がくれば、あなた方には益になるという事を言っているんです。これが物凄く重要だったんです。イエス様にとって。わたしが一旦皆の目には見えなくならなければならない。目に見えたら、このイエス様にしか来ないんです。たとえ助け主が来ても、あなた方の中に聖霊がおられますと言ったとしても、もし、現在イエス様がエルサレムに居られたら、皆エルサレムへ行きます。どんな事をしてでも。本当に泳いででも行くでしょう。それが人間の強欲です。目に見えるものを拝みたい。だから、イエス様は目に見えない方に一旦姿を変えなければならない。そして、パウロがこう言っているように、「私の為に死んでくださり、甦り、天に上り、神の右の座に就いた方が今も執り成して下さるんです。」とローマ書にあります。イエス様は天国に行かれ、私達の為に助け主を送ってくださるんです。物凄く確固たる保証なんです。これが、あなた方にとって、今私がいるよりはるかに利益だと言われます。わたしが天に昇り、もう一度戻って来てあなた方と共に居るようになることが、今以上にあなた方に利益になります。何故なら、イエス様がどれだけ真理を語っても、何も聞くことが出来なかった人達が、聖霊が下った時、ペンテコステの日にペテロが福音を語ったら、三千人が救われ、五千人が救われたのです。イエス様があれ程お話になっても悟ることができなかった人達が、助け主が来た瞬間に、真理が分かるようになって、利益を得て、もっと多くの人が救われたんです。イエス様が語っている時より、はるかに大勢が救われていく。それはイエス様が天に入られ、助け主が来られ、私達にイエス・キリストを教えるからです。この時人間にとって、物凄い利益が生まれる。だから、悲しむのではないんです。あなた方の利益の為に今わたしは去って行かなくてはならないんです。と、こう仰っている。
~その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。~
この『認めさせる』というのは、知らせるという意味なんですけれども、もっと厳密に言えばこうです。明るみに出される。或は、罪を責める、という意味なんです。だから、罪については、罪を責めるようになるし、義については、隠されていたことが明るみに出る。知らせるだろう。認めさせるだろう。明るみにさらされて、もう隠れる事が出来なくなるだろう。と仰ってるんです。助け主がそれをします。必ず明るみに出され、罪は責められる事になる。とイエス様が仰っている。そしてその助け主が、一体何を働かれるのか?というと、『罪について』です。この罪について、まず聖霊様はあなた方の内で、教えるだろう。そして、その罪を責めるだろう、と仰ってるんです。
~罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。~
罪について、というのは、イエス・キリストが語った事を信じなかったから。と言っている。でも、この信じなかったっていう言葉は、知らなかった、聞いた事が無かった。という意味ではないんです。信じる事を拒絶した。という意味なんです。だから、聖霊様がまず何を教えて、明白にし、そして責めるのか?「あなた方は聞いても、信じる事を拒絶したんではないんですか。」その罪を聖霊様は必ず見逃さない。必ずあなたを責めるようになる。という事が助け主が初めにする事。次に、
~また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。~
この、義についてという概念は、ロイド・ジョンズ先生も、「義を説明するのは、難しい。一言では説明出来ない。」と仰って、だから、義について、クリスチャンが余りにも様々な考え方をしていて、皆がそれぞれ、義について同じ考えを持っていない。ある牧師は、義を、罪のない状態。と説明している。それだってもちろん、間違いではないでしょうけど、それは、わたしが父の元に行くから。という次の言葉を考えた時、クリスチャンが普通に思っている義は、聖い、クリスチャンの正しい生活。と思っている大勢の人について、この後に言っているイエス様の言葉とつじつまが合わなくなります。「わたしが父の元へ行くからです」とは、あなたの正しい生活、あなたの内側の聖さだと言っているなら、この次の言葉はおかしいんです。合わないんです。クリスチャンの生活スタイルを言っていない。クリスチャンの正しい生活とか規定とか、聖さと言っているのを、ここでは言っていない事になります。聖霊が私達を聖くするとか、正しく導いて、正しい生活をさせるとか、それを教える義ではないのです。「わたしが父の元へ行く」これだとその後続かないんです。では義について聖霊は何を語るのか?それが一番重要です。何かと言えば、父の元へ行くとは、どういう事ですか?イエスが死んで、必ず甦って、天に上られるということです。これがイエス・キリストの義だと言っているんです。だから、人間側の状態ではない。すぐに私達は人間側のことを考えますが、ここでは違います。でも、義について聖霊が教える時には、イエスが私達の罪のために死んで、甦って、天に昇られた、これが義だと言っているんです。この真理を聖霊は教えに来るんです。それはイエス・キリストが誰なのかを教えにくるからです。これが聖霊が教える義です。私達はいつも錯覚します。聖書の言葉を勝手に解釈してしまうのです。私中心に、まるで占いの本のように引き下げてしまっている。いつも神様が仰ってる事を、物凄く勝手な自分の解釈で、自分だけに預言された事だと思い込んでしまうのです。
~さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。~
この義については、他の所でも語られています。
使徒行伝5章30-32
~私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちは{彼にあって}そのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」~
ペテロが今、義について語っているんです。この時エルサレムの住民がイエス様を思いだす時に、彼らは現に目撃してる人達ですから、彼らが知っているイエス様は、十字架に架かった罪深い呪われた人の印象です。反逆者、罪人です。最も十字架刑は呪われた刑です。最も重罪人が執行される刑だったんです。実際にその死刑を見ています。だから、木に吊るされた者は呪われた者、罪人。イエスはそういう人だと思っていたんです。だけどペテロが立ち上がり、聖霊が証人となり、証をしているイエス・キリストはそういう方ではない。あなた方が思っている罪人ではない。ただの人間ではない。何故なら、悔い改めと罪の赦しを与え、救い主として、神の右に上げられた方。だから、全ての主権を手に入れられた方。死んで甦られた方。この義なる方イエスに、神が全権を与えている。その上に聖霊様もこの方を証しているし、私も証していると、言っているように助け主が来たら何を教えたんですか?この義なるイエスです。十字架で死んで甦って、神の右の座についたイエスを聖霊は証している。そして、ペテロも証し、使徒達も証した。だから、聖書は教会を何と言っています?イエス・キリストを土台に預言者と使徒達によって立てられたと書かれ、使徒たちは何をした人ですか?福音書を書いて、聖書を書き、それを伝えた人です。だから、聖霊と共に使徒達が証した福音こそがイエスキリストの義について語っています。その証はなんだったんですか?『イエスは死んで甦った』です。そして天に昇り、そして全権を有した方。神の座につかれた方。これが、イエス・キリストの義だったんですけれども、これを証しするために、助け主が来たとペテロは言っているんです。だから、聖霊様が義について語るという事は、後にペテロが証言していることです。そして裁きについては、
へブル書2章14~15
~そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。~
これが裁きについて、です。今まで死から逃れた者はいなかったんです。そして、その死の棘は罪だったんです。だから、悪魔に全ての者は支配されました。アダム以来、全ての者は悪魔の手の内です。全ての悪魔の支配下にいたんです。何故なら罪があったから。その罪は必ず死をもたらすんです。そして、死から打ち勝ったものは一人もいない。だから、全ての者が罪に閉じ込められ、全ての者がサタンの手の内の奴隷だった。でも、イエス・キリストは何をしたんですか?死から甦った義によって、この義が死の権威を打ち破ったのです。もう、死が効力を失ってしまった。罪が私達を訴える事が出来ないと、死は効力がなくなるんです。私達の罪が訴えられている状態では、必ず死ぬんです。死が効力を持つからです。だから、悪魔も支配が出来る。でも、イエス・キリストが死から甦った事は何ですか?死を打ち破ってしまったので、死が私達に効力を持たなくなるのです。その事は悪魔の支配が、私達を縛る事をもう許されないんです。という事は、裁きについて、助け主が教えるという事は、悪魔が支配することはもうなくなったという事です。聖霊が教える事はこうです。二度と、イエス・キリストの十字架の血の中にある者達は、悪魔が支配出来ない相手。何故?悪魔は死を以って彼らを支配しようとしていたからです。それは、罪がある状態の場合だけです。罪が消えてなくなったら、罪が訴える死が、力を無くしてしまうので、そして、死の効力がないと、悪魔は支配が出来ない。だから悪魔が裁かれたのは、イエス様が死を打ち破ったからです。これを真理とする時に、私達が、では悪魔が力を全く無くしたのか?と言えば違います。依然と悪魔は働いていて、依然とこの世の王です。全てのこの世を悪魔が、支配下においています。だから、この世というのは、悪魔が偽りで作り上げたものです。悪魔が効力を、力を失くしたんではない。権威を失ったんです。イエス・キリストの十字架によって神の子とされた人達には、悪魔が権力を振るう事が出来ない。それは、私達が悪魔から攻撃を受けないという事ではないんです。 このわざは、イエス・キリストがした事。私が闘って勝利した事は一度もないんです。人間側の事ではないんです。だから、悪魔退治をするクリスチャンは嘘です。人間が悪魔に打ち勝つなんて聖霊は言っていないんです。イエスが勝利したと言っているんです。死んで甦った方はイエス様しかおられません。ご自分で命を捨てて、ご自分で命を得る方は、神しかいないんです。この神が死を打ち破ったのです。聖霊は何をしに来たんですか?罪について、義について、裁きについて、教えに来たのです。それを人間側は、何かイエス様が人間に報いてあげなければならないかのように、いつもプレゼントをあげなくてはならないかのように考え、人間が神と同等、或は協力者だと、人間が勝手に思い込んでいるから、聖書が全部自分中心に解釈されていく。ヨハネの福音書に戻ります。こうして聖霊様が義について、裁きについて、罪について教えた後、
~わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。~
今度は、助け主を『真理の御霊』と呼ばれているんです。この真理の御霊が来ると、必ずあなた方は、次、起ころうとしている事が分かるようになります。次起ころうとしている事が果たして何か?という事になると、神学者達の間では、また論争が始まるんです。次に起こる事が一体何だったのか?ある者達は、再臨を言います。再臨について御霊が教えるだろう。という人達も大勢いる。でも、ここで、やがて起ころうとしていることを真理の御霊が語られて、あなた方に教えて知らせると言った時には、さっきの義について、罪について、裁きについて、を教える御霊としては、再臨を教えるという事ではないはずです。次に起こる事は何ですか?最後の晩餐の夜、次に起こる事は何だったんですか?イエスの死刑だったんです。だから結局次に起こる事は何ですか?最後の晩餐がまだ続いていて、まだイエス様が十字架に架かってはいません。そしてこれから架かろうとしているんです。次に起こる事はイエスが死ぬ事です。そして次に甦る事、そして昇天される事。その事を真理の御霊は教えるだろうと、ここでまた、イエスを教えるだろうと言っているんです。でも、聖霊運動の中には、未来を予見したり、未来を言い当てたり、そういう占い的な事を聖霊が教えると思っている人が大勢いるんです。だから、異言ばかりを祈ると危険だと言うのは、そこなんです。何故か、異言で身体が痺れて、失神して倒れて、いい気分になって、満たされて、そしてあなたの性格を言い当てて、過去に起こった事を言い当てて、これは何ですか?御霊がする事ではないんです。悪魔がする事です。この世の占いなんです。当然聖霊の賜物には預言はあります。パウロは預言を軽んじてはならない、と言っているし、イエス様がお生まれになった時には多くの者が預言しました。この方はイスラエルにとって救い主となられ、この方を通して多くの者が救われ、多くの者が倒れる。御霊に満たされて預言する事がないと言っている訳ではない。でも、私達が解釈する時に、聖霊がいつも何か私達の心を痺れさせて、興奮させて、何かあなたの過去に起きた出来事を言い当てて、或は未来に起こる事を言い当てるか、或は再臨がいつだとか言い当てる事は、御霊はその為に来てはいません。少なくても助け主はそういう方ではありません。 ここで言っているのは真理について証しをする。真理の御霊と言っています。イエス様はご自分を何て呼びましたか?「わたしは真理だ。」と言いました。イエス様は死んで、甦って、昇天された。この真理を教えに来ると言っているんです。やがて起こる事、これはその事を言っています。あなた方に、その御霊が来て、真理を証する。ペテロは立ち上がって何を話しましたか?「あなた方が、十字架に架かったイエスの前で悔い改めなさい。あなた方の罪が赦されたからだ。」と言ったんです。真理の御霊に満たされたペテロはイエスを証したんです。自分の話はしていません。足なえが歩いたんです。病人が癒されました。ペテロを通して奇跡はいっぱい起こりました。そしてみんなが、「ペテロはすごい、預言者だ。」と言った時、怒ったんです。「何故私を信仰がある者だと勘違いしている。何故私が癒したと思っているのか?それは違う。これは、イエス・キリストがしたんだ。」と言いました。自分に栄光を帰さないんです。彼は知っていました。これが、真理の御霊、イエス・キリストがしている事を。ペテロが証しするのは、イエス・キリストなんです。死んで甦った方。天に上られ御霊を下さった方。 そして、この御霊をくれるというのには、神学の中では、争いがあるんです。「天の父があなた方に助け主を送ってくださるだろう」というくだりもあり、今度、「わたしが、必ずあなた方に御霊を送る」というイエス様がそう仰っているからです。
~御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。~
ここで仰っている、「わたしが今度は御霊を送る」、以前は「天の父が御霊を下さるでしょう」とは、天の父が聖霊を送ると言い、ここではイエスが送るということで、意見が真っ二つに今も分かれて、教派が分かれるんです。でも、ここでイエス様が仰ったのは、出所の話を言っていないんです。聖霊の存在がどこで生まれたか?なんて話ではないんです。ここで仰ってるのは、当然、父が御霊を送ったも間違っていないし。イエスが御霊を送ったも間違ってはいないです。「父のものはわたしのものだから」とイエス様が今言っています。そして、それは三位一体の位格の順番や優劣があるわけでもありません。同じ一つの本質の神。だから父が送ったと言っても、イエスが送ったと言っても、間違いではないです。でも、ここでもっと正確に言うべき事は、ロイド・ジョンズ先生はこう言っています。「聖霊はイエスが送る」イエス・キリストが十字架に架かって死んで、甦った、甦る復活の力を与えているのは、天の父の力です。天の父がわたしを甦らせたと仰ってる通り。でも、イエス様が昇天されて、天の御坐についた時には、全権がイエスにいくんです。というか、元々全権を有す神ですけど、私達に分かりやすく説明するために、全権がイエスにいく。もう肉体は着ていないイエスは、完全な神です。その完全となられた方が、神であり甦った方が、助け主を送るということです。イエス・キリストが昇天されなければ、天の助け主は来なかった。何故?罪という問題が解決しないかぎり、私達の内側に聖霊が入って来られないからです。だから、聖霊を送れるのは、助け主を送れるのは、イエス様です。 そして、聖霊様は真理に導き入れます。と書いている通りに、この導きっていう言葉は、ギリシャ語で『道』という言葉です。イエス様が何て仰いました?「わたしは真理であり、道であり、命である」イエス様が繰り返し、繰り返し、わたしはそういう者だって仰って、御霊も繰り返し、繰り返し、イエスが真理であり、道であり、命である。そして、義であると教えます。天と地を繋いだ方。神と和解させて道を作ってくれた方。聖書は、そして御霊はイエス・キリストだけを語っているんです。人間が、明日こういう風に生きなさいという占いではなく、イエスを信じ救われなさいと語っています。聖霊様は私達を有能にし、成功させる御霊ではありません。聖霊様は全権を持っているイエス・キリスト、彼を教えに来ているんです。だから、悪魔と闘うのは、イエス以外いないんです。 罪とは、そのイエス・キリストを信じないで、受け入れず、拒絶することです。そして信じて救われた者から、その救いを奪えるものは誰もいないのです。この救いを達成し成就されたのが、全権を有したイエスだからです。アーメン。