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Yokohama Glory Church

ヨハネ17章1-8

2018.02.14 17:20

~イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。~


最後の晩餐から長い長い説教が続いていて、ここからは、説教が終わってイエス様は祈りに入られる。だからここは、イエス様は祈っておられる。その祈りがこの17章からずっと続いていて、これが最後にイエス様が弟子達の前で祈られた祈りなんですけれど。この、イエス様が祈られるとは、3箇所で祈りの内容が出てきます。まず、ゲッセマネの祈りでイエス様がどう祈られたか、という内容が書いてあって、後は主の祈り。こう祈りなさい、というイエス様からの祈りの内容が書いてあって、ここはイエス様が最後に祈られている箇所。そうでなくても、イエス様は徹夜でお祈りし、一人寂しい所でお祈りをし、そして、夜更けにまたお祈りをし、弟子達から離れていかれて、長い時間祈られた箇所はたくさん描写されていて、でも、イエス様がお一人で祈られている長い長い時間の祈りの内容は、聖書には書かれていないんです。そして、イエス様が祈られた内容で、書いてある長い祈りの内容が、この17章なんです。だから、イエス様が祈られた内容の中で、一番この祈りが長い、と言われている。だけど、ここで祈られている祈りとゲッセマネの祈り、主の祈りを較べてみると、ゲッセマネの祈りとこの祈りが余りにも違う事が明白なんです。何故なら、ゲッセマネの祈りでは、今から十字架の死を受け入れる。そして、その盃をわたしから取り除き・・・いいえ、あなたの御心のままに。という祈りを、本当に汗が血になるほどの最後の、ご自身が従順しなければならない、十字架に架けられる前の、その格闘的な葛藤的なお祈りなんです。でも、ヨハネの福音書にはゲッセマネの祈りの描写はないんです。 しかし、ヨハネの福音書の祈りは、そのゲッセマネが書かれていない代わりに、この17章の祈りが入っているんです。だから、他の福音書では、このイエス様の長い祈りは書かれていない。それに、ヨハネの福音書に書かれている17章からはじまるイエス様の祈りは、ゲッセマネの祈りと内容が違います。真逆と言っていい程、ここではもう、十字架の勝利をとられた如く、もう既に栄光をお受けになった如く、大胆に勝利を宣言しているような祈りなんです。だから、ゲッセマネの祈りと、真反対にヨハネは書いています。もう既に、十字架の死を今から受けるではなく、もう栄光をお受けになり、勝利をされ、そして、その事を確実に明言し、声高らかに宣言されている祈りなんです。だから、ゲッセマネの祈りの内容と、この17章の祈りは全く違う。だけど、主の祈りとは似ている所が沢山あるんです。 まず、1節見ると、「父よ。時がきました」と言っているように、「天にまします我らの父よ」父よ、と先に神様の名前を挙げているとこが全く同じです。それは、5節でも、「今は父よ」と仰ってるように、まず、天の父の名を呼んでいるとこが、『主の祈り』と同じ。そして、「御名が崇められますように」と主の祈りはあるけれども、4節では、「地上であなたの栄光を現わしました」天の父の栄光を現わしました。という所で同じお祈りをしているんです。そして、主の祈りでは「御国がきますように」という所でも、「この地上であなたの栄光を現わした」は、この地上で、あなたの御国が来たという事で、同じです。そして、「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。」も、とても似た祈りをここでなさっている。 そして、その次に「私達を試みにあわせず、悪より救い出したまえ」は、今日の8節以降に、「弟子達が悪から守られるように」という執り成しをされている。そういう点でみれば、ゲッセマネの祈りから見ると全く違う祈りだけれども、主の祈りとは、とっても内容がよく似ている。しかし、ここでも主の祈りと本当に厳密に較べてみると、全く違うんです。まず、何が違うかと言いますと、「我らの日用の糧を与えたまえ」はないんです。当然です。「わたしはいのちのパン」とご自身が、わたしに永遠の命がある。と言っている、エゴエイミー。『わたし』というエゴをここで、イエス様があからさまに表して、日用の糧など必要のないお方。というのを露骨に語られています。その上に、「我らを罪から贖いだしてください。」は言う必要がない。全く罪のないお方。「わたしを父と同じ栄光で輝かしてくれ」と言っているくらいですから、もうご自身に罪があるはずがない。そういう点でみれば、『主の祈り』と全く逆なんです。だからここでは、イエス様が弟子のために祈ったとしても、弟子を執り成したとしても、ご自身に罪があるわけではなく、ご自身に日用の糧など必要とはされないんです。だからここでは、天の父の栄光と共に、ご自身にも栄光を与えてくれ。わたしに栄光がありますように。とっても一方的な祈りをしています。だからここで、主の祈りとやっぱり全く別の祈りという解釈が必要です。何故なら、そもそも『主の祈り』は、イエス様が祈った祈りではなく、弟子達が、どう祈ったらいいですか?この質問の答えに、あなた方はこう祈りなさいと言って、弟子に祈らせた祈りであって、イエス様が祈ったお祈りではないんです。だから、ここでイエス様がその祈りをするはずがない。似た点があったとしても、天の父の栄光と御国が来る事には、同じ内容で、同じ祈りがあったとしても、ここでイエス様が祈っているのは、全く弟子が祈っているのと、私達クリスチャンが主の祈りをするのとは、全く、全然違う祈りだという事です。 そして、アレキサンドリアに居る学者は、この17章からはじまったイエス様のお祈りは、『大祭司の祈り』と呼んでいるんです。そして、何故大祭司の祈りかというと、イエス様が執り成した祈り。だから、天の父と弟子達の間を執り成している祈り。それを出来るお方はたった一人。天の至聖所にご自身の血を持って入られた方。とこしえの大祭司になられた方以外に、祈れないという事です。だから私達は、この17章の祈りは、人間には祈れません。これを祈られるのは、イエス・キリストしかいない。大祭司となったお方しかいない。とこしえの大祭司、メルキゼデクの位に就いた方、神の右の座に就いた方でなければ、この祈りは出来ないんです。だから私達は、お独りでイエス様が祈った長い祈り、徹夜して祈った祈りは、どんな内容か分からない。イエス様が祈ったのは、3種類しかない。でも、ゲッセマネとはまた違う祈り。そして主の祈りは、クリスチャンの祈りであって、大祭司の祈りではないんです。そして、ここで最後の晩餐の日に、弟子達に長い説教の後、「では、あなた方を祝福し、祈りましょう」とイエス様が「天の父よ」からはじまって、祈り始められたこの内容は、イエス様だけが、出来る大祭司の祈り。という事が、この17章が大祭司の祈りではじまっているんです。


~「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。~


さっきも言ったように、大胆に主は、「わたしに栄光を現わしてください」と言っているんです。『時が来ました』と、その「時」とは、今食事中ですよね?最後の晩餐の、弟子達と共に、食事をなさっている最中です。だから、栄光を現わしてくれと言われる「時」とは、時間の事を言っていないんです。『時がきました』は、十字架に架かる時がきました、です。そして、十字架の所で栄光を現わしてくださいとイエス様がお祈りしているんです。だからこの日ではないです。十字架に架かった日の事を言っています。それが、「時がきました」ゲッセマネは、死を受け入れるか、十字架を受け入れるかという祈りだけれども、ここではもう、時が来たんです。しかもその時は、悲しみにくれた、痛みを伴うようなものではなく、すでに栄光に輝いたその瞬間がきた、と仰ってるんです。


~それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。~


ここに、「神からいただいた全ての者に、永遠の命を与えるため、あなたは全ての人を支配する権威をイエスにお与えになった」とあるのと同時に、


6節

~わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。~


とあるところで、「世から取り出した全ての人々」と表現しているのと、ここで言っている、「あなたから頂いた全ての者」また、「あなたは全ての人を支配する」という、この『全ての人』は、一体誰なのか?地球にいる全員、ではないです。個々に、あの人、この人。あの国、この国。と一本釣りするような一人一人を言っているのでもないんです。ここで『全ての人』というのは、むしろ、万人というか全部というか、全体という単数形なんです。複数形で表現されていないんです。だから、全ての人々と表現していようと、全ての人と言っていようと、ここでは、複数形ではないんです。ひと塊。選ばれた団体。という意味で表現されているんです。そして、その選ばれた団体は、この世から区別されている人として、表現している。『この世』も単数形です。この世というのは、どういう世かというと、罪深い統一体です。『罪人』という、同じ位置いる一団体です。この罪を負っている一団体から、新しい選びの団体。それは一体誰なのか?それは、永遠の命を持っている団体です。だからここで言っているのは、あの人と、この人と、全部選んで、という複数形ではなく、団体になっている罪人。罪の世界から取り出した新しい選びの民。選びの団体。区別した者達。それを全部という単数形です。だから、どちらかと言えば、『者』的な表現です。この者を区別してください。この団体を区別してくださいという意味です。だから一人一人、個人個人の色んな人という表現はしていないんです。ここでは、単数形。一個の罪の世界と、一個の新しい世界。という表現です。その選ばれた永遠の命を持っている、罪の統一体から離された、この全ての人という、人という時には、むしろ、『者』、『肉』という、儚くて、弱く、虚ろな、そういう存在を表している。だから、とても儚く、弱々しい。そしてとても、無知。そういう人々を新しい団体にして、永遠の命を与えた。これがイエス様がいう、あなたが下さった人々なんです。世から分けた人々。一個隊です。だから、そこを、そしてそれを、イエス様が今祈っておられるんです。あなたが下さった一個隊。あなたが下さった一団体。新しい団体。この世の罪の世界とは、全く別個の、別な原理で生きている人なんです。イエス様がここで言っている『人々』という複数形で表現されていても、結局は一個隊にされているんです。


~それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。~


ここで言っているように、その一個団体は、あなたが下さった、イエス・キリストに下さった団体です。そして、そのイエス・キリストを知る人達。ここは、天の父の名を教えました。あなたの事を教えましたとイエス様はずっとお祈りしています。天の父の御心を行う為に、と表現しておきながら、「彼らはわたしの事を知ったんです」という括りになっています。天の父の名を知らしめ、天の父の栄光を現わし、天の父の力を現わしたんです。そして天の父が下さった団体に、永遠の命を与え、そしてイエス・キリストにその一個団体を与えている。なのに、最後の括りは天の父を知ったんです、とは言ってないんです。「彼らはいよいよ、ついにわたしを知ったんです。」とイエス様は表現しています。天の父を教えたにも関わらず、彼らが最後に、最終的に知ったのが、イエス・キリストだった。それは、その前に弟子が質問していますよね?「あなたは何処へ行くんですか?」そして、心で、「えっ、何処へ行くんだろう?」と思った時、「あなた方は何故心で呟いているのですか」と心を見透かされて、そしていよいよ、あなたが本当に天の神から遣わされた師だと今知りました。今、信じます。「あなた方は今信じたのか?」とお責めになった時も、確かにあなた方は信じました、と認めておられるところが、今、ここです。彼らはいよいよ、天の父ではなく、『わたし』を知るようになった、と言っているんです。だから、イエス様が天の父を語られたにも関わらず、彼らが知ったのがイエス・キリストだったという事です。


詩篇96篇10

~国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」~


この10節の主、というのは、ヤハウェ。イエス・キリストを言っているんです。イエス・キリストが王になられた、と書いてあるんです。ここは昔から、96篇10節のこの箇所は、ユダヤ教対キリスト教が論争して、対立する箇所です。だから、ここに書いてあるではないか、イエス・キリストが王になったと。しかし、ユダヤ人達にとってこれは、メシヤの事を言っている訳ではないと言って、論争する箇所なんです。そしてここで、キリスト教の教会の教理としては、十字架で、イエス・キリストは王になった。という教理を持ってきます。当然ここは、木の上とか、十字架の上とか書いておりません。でも、キリスト教の教会の理解では、イエス・キリストが王になられたのは、十字架の上だった。何故なら今、わたしを栄光で輝かせてください、今その時です。とイエス様が言った通りに、実際に王になられた。それは何処で?十字架の上で、という表現をこの詩篇でしている。キリスト教は、そう受け取っている。でも、ユダヤ教は肉の王を言っていたりしたんです。だからそこで、いつも対立して、『ヤハウェ』という箇所をユダヤ人達は隠したり、聖書から取り除いたりしてしまうんです。ここでイエス・キリストと認めないために、聖書を改ざんする事もあるんです。また、キリスト教も行き過ぎて、ここは、十字架の上、木の上って書いてあったとか、そういう間違った論争も以前はあったんですが、でも、イエス・キリストが実際に王になられたのは、キリスト教の理解では、十字架の上で、王になられた、という私達の理解です。そしてそれを詩篇の作家は語っていて、もう既にメシヤを見ているんです。「永遠なる王が来られる。だから国々に宣言せよ、王が来られる。メシヤが来られる。」これは、詩篇の作家だけではないです。色んな預言者が、王が来られることは預言しています。それでは、何処に来られたのか?十字架の上に、イエス・キリストが王として宣言されているんです。


~あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。~


この十字架は、天なる父がイエス・キリストを派遣し、そして天なる父の御心である御子を下さり、十字架で死なせる事が、天の父の御業の故に、イエス・キリストがそこを従順されたのだという事を表現しているんです。


~今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。~


ここが正にイエス様が十字架に架かられて、死ぬ「時」の事を言っているんです。以前父と持っていた、地の基が据えられる前から、世界が創造される前から、天の父と一緒におられたときから持っていた、イエス・キリストのあの栄光。本来持っていた、ご自身の栄光。その栄光を何処で輝かせてくださいと祈られたのか?「今、父よ。時が来ました。十字架の上でわたしがあなたの業を成し遂げた時に、栄光で、わたしを輝かせてください」と、今大祭司の祈りをしているんです。イエス様が栄光で輝いたのはいつかと言えば、十字架の上で、です。だから、ゲッセマネの祈りでは、それを従順するための祈りをなさっている。だから、「我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか?」と十字架の上でイエス様が祈られた後、しかし、最後には、「我の霊をお受けください、天の父よ」と言って、栄光を現わしていると同時に、ゲッセマネの祈りをされたけれども、ここでは、『栄光で輝かせてください』という祈りもされている。それは、これが、わたしが天の父の御業を成し遂げ、従順し、十字架に架けられた時、『わたし』に、本来持っていた栄光、王の位で輝かせて欲しいとイエス様が祈っているというか、宣言されているんです。それを思った時、イエス様の栄光は、ご自身に与えられた使命を果たされた時に、『栄光で輝いた』という事です。だから私達クリスチャン一人一人も、同じ事が言えるのです。 私達は、『栄光で輝く』という単語をよく使うし、『栄光を現わしてください』という単語をよく使って祈ります。でも、私達がそれは何時来るのか?それはイエス・キリストに従い、イエス・キリストの使命を果たした時、だけに現れる事。という事は、イエス様がそうなさったと同時に、その後に続くクリスチャンも同じだという事です。弟子達にも今、お祈りしているんです。あなた方がわたしに従い通した時に、わたしがわたしの栄光を現わそう、ということです。人間自らの栄光は一つもありません。皆無です。ペテロを輝かし、パウロを輝かしたわけではありません。彼らの上にご自身の栄光を輝かし、しかもそれは、殉教の時でもあり、本当に徹底して自己否定して自分を捨てる日です。自分を無にした日に、イエス様がイエス様の栄光を現わす。そういう事です。人間が輝き、人間が成功した時にイエスの栄光が現れたとは言いません。それはむしろ悪魔の仕業です。人間が成功し、人間が褒められ、人間が認められた時には、イエスの栄光ではない。でも人間はそれをイエスの栄光と口にして、自分が特別選ばれ、自分が特別な存在と思いたいがために、この『栄光で輝かしてください』を物凄く錯覚し、聖書を改ざんして理解している。でも、イエス様は一言もそんな事を仰ってない。「天の御心が、また父の御業が成就する時、本来わたしが持っていた、わたしの栄光で輝かしてくれ」と祈られたのです。イエス様が、本来ご自身で持っていた栄光です。ご自身の栄光が無い方ではない。ただし、肉をまとわれた間は隠されていたし、それは神の永遠の計画であった。だけど、もう神が秘密にしておく必要がなくなり、弟子達はイエスを全員知ったので、いよいよ、時がきました。王としての、本来の、世界の基がはじめる前からの時です。ヨハネが言っているように、『はじめに言葉があった。言葉は神であった。この方は神と共にあった。』と、あの時持っていた『わたしの栄光』です。人間の誰かの栄光ではない。わたしの栄光で、わたしを輝かしてください。本来の姿を言っているんです。ここに、いつかは人間も栄光に輝き、いつかは人間もイエス様がそういう成功の高い位置に導いて下さるという錯覚から、目を覚まさなくてはならない。聖書を改ざんしてはならないんです。人間の栄光はないんです。全てはイエス・キリストの栄光。 栄光を反射させ輝くのは、イエス・キリストだけです。人間自らではないんです。だからここで、あなた方も成し遂げた時にだけ、イエス・キリストが栄光を現わす、です。私達がその途上にある時に、文句を垂れて、私には何も栄光も力も輝きも何もないではないかと、ふてぶてしい態度をとっているとき、この聖句を考えなくてはなりません。初めからそんなものはないんですから。これからもありません。あるのは、イエス・キリストの栄光が、イエス・キリストの決めた時にだけ現れるんです。それが王の主権です。イエス様はご自身の本来持っていた栄光を、もう一回現す事がお出来になる方。しかも、イエス様はとても遜って十字架の上でそれをなされた。天の神々しい御坐でやったのではないんです。肉体を着て、この地上で汚物にまみれた、この地上で、罪人の手で、その栄光を現わすんです。 私達はときに、本当に『栄光で輝かしてください』という、この祈り、或は概念に対して、他人の仕事に預かり利用する事で、栄光に預かろうとする事がよくよくあります。他人の力、他人の仕事、他人の使命、に預かって、へつらいそこで輝かそうとします。これは、イエス様の御心が成就しません。人には一人一人に別々な使命があります。一人一人に別な仕事があるんです。一人一人にそれぞれのポジションがあり、身分は同じ身分、罪深い身分は同じだとしても、そこで仕事をしなさいという、分量があります。そして、その仕事はイエス・キリストの仕事でなくてはならない。他人の仕事を横取りして、自分もまぜてほしいというものではないんです。あなたは、あなたの仕事をしなさい。あなたは、あなたの使命を果たしなさい。しかも、果たしとおしなさい、です。そして、それは、イエスの栄光を現すということです。他人の栄光で自分も輝きたい。他人の力に加わる事で自分も同じ栄光を持ちたい。依存し、自分もその才能に預かりたい。これは自分の仕事ではありません。全く自分の仕事を疎かにしながら、他人の仕事をうらやむ状態です。イエス様にとっては、この世は一個団体。新しい団体、永遠の命を持った人たちも一個団体。でも、そんなものが人の目に境界線がありますか?無いんです。だから私達は、あれもこれも混ざりあって生きています。それこそ、良い麦と毒麦は一緒に存在しているんです。そしてイエス様もそれを取り除きません。裁判の日まで、最後の審判の日まで。それでいて、ある人達は自分の仕事でもない仕事を何か関わろうとし、必死に依存し、しがみつき、自分の仕事を全くしないまま一生を終わってしまうんです。そんな愚かで虚しい一生はないんです。たとえどんなに気に入らない小さな仕事でも、たとえ、困難で苦しいと思っても、自分の仕事ならやり遂げるべきです。そして、果たすことは当然の責任です。自分の仕事だからです。そして、それをやり遂げた時に、イエス様がイエス様の栄光を現わすんです。イエス様はイエス様の仕事を全うされました。天の父に従順し十字架を背負い、死にまで従順されました。その時に当然の権利として、わたしの栄光を現してくださいとイエス様は祈っているんです。当然の権利なんです。イエス様にとっては。罪のないお方がここまで天の父の御心を従順されたのですから。


~わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。~


イエス様はただ、父の名を教え、父の御心を教えただけではなく、それを成就するまで養ってもくれるのです。


~いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。~


ここで「知り、信じました」と言っています。弟子達はいよいよ、天の父ではなく、わたしを知るようになった。わたしが天の父から遣わされた神である事を、いよいよ知りました。そして彼らは信じたのです。と、イエス様が今仰っている。確かにあなた方は信じました、とこの前も仰っている。しかし、あなた方は散り散りに散って行きます。そして、彼らは元の仕事に戻って、イエス・キリストを捨てました。彼らが今持っている信仰などその程度なんです。もう未熟で未完成で弱々しく、儚く、一瞬にしてなくなる信仰しか持っていないんです。しかも、その中で、それをさっき仰っているにも関わらず、お祈りの時には、「彼らは知り、信じました」と仰っています。それは一体何かと言えば、人格的にわたしと繋がりました。ただ知識で知ったとか、彼らの方で熱心に知ったとは言ってないんです。人格的な繋がりをわたしの方でしてあげた、です。彼らは、まだまだ理解せず、何にも分からず、自分勝手な事をしているんです。でも、わたしの方で人格的な交わりを、わたしの方でしてあげたと祈られているんです。という事は、これは保証なんです。ペテロに言います。「ペテロ、ペテロ、あなたが振るいにかけられることが聞き届けられました。でも、わたしはあなたに信仰がなくならないように祈りました」という所があるとおりに、イエス様の方で保証してくれたんです。そして、その通りにイエス様は育て上げるではないですか。ある学者はこう言っています。イエス様は3年から4年、寝食を問わず、寝もせず、休みもせず、宣教をなさり、12人の弟子を訓練に訓練し、これ程ないまでの熱心な宣教をなさったにも関わらず、最後にイエス様には11人の弟子しか残らなかった。たった11人。イエス様がここまでの熱心を以って、神の力を持ってしても、イエスに残ったのは、11人しかいない。しかも、その11人でイエス様には十分であった。何故なら、この11人をイエス・キリストが保証しているからだ。という学者がいるんです。それがこの祈りです。イエス・キリストに残ったのは、たった11人です。そしてその11人から福音が全世界に入りました。そしてこの11人は、当然全員殉教しました。そして、やり遂げ、成し遂げた時に、イエスがイエスの栄光を現わして、そこから教会を建てて、そこからクリスチャンの、また新しい団体が生まれてきて、教会が建っています。そうやってイエス様はやり遂げているんです。ご自身が保証した11人は。でも、イエスに残ったのが、たった11人しかいなかった。これが現実です。 ここでイエス様が大祭司の祈り、この世の罪深い一個団体から別な原理でイエス・キリストによって新しい命を、永遠の命を与えられた一個団体は存在します。それはすなわち神の国、キリスト教の教会、です。ここは一人一人ではないんです。イエス様はここを、一個団体にしているんです。それは神の国という次元。永遠な命を与えらえた国。そして、イエス・キリストが頭となって体をつなげた場所。だから、キリスト教の教会を言っています。それは、この世と区別しています。そして、わたしはそこを保証しますとおっしゃるのです。その人達が今たとえ未熟で未完成で弱々しく儚くても、わたしはここを父の名を知らせただけではなく、み言葉を教えただけではなく、従順させるまで、わたしは育てます。という保証です。だから、やり遂げさせるんです。イエス様が保証した相手には。でも、考えてみてください、この時11人だっていう事です。それは何故か?主権です。 ジャン・カルヴァンに言わせれば、「何故ですか?」と聞いてはいけない。全知全能の神の秘密は人間には知らされていない。だから私達は聖書に書かれている福音を知るので十分だ、とジャン・カルヴァンは言っています。それは人格的な結びつきだからです。知識の結びつきではないんです。イエス・キリストの霊と、結びついているからです。しかもそれは、聖霊様に依らなければ不可能だという事です。聖霊内受は第一の最初の条件です。聖霊が内受しないと、イエス・キリストとの霊と結びつくことは決してありません。聖霊はイエス・キリストの霊だからです。共産主義者達は、この聖書を通読し、理解し、ストーリーを知っています。では、信じたのか?信じていません。敵対しています。何故ですか?聖霊によらなければ理解できないからです。信仰がなければ聖書は分からないんです。でも、どんなに無学な者でも聖霊が働いていれば、この聖書は分かるんです。不思議な本なんです。だから、霊的な食物なんです。だから、ここで言うイエス様が人格で結びつけた、とは重要なんです。そして、イエス様が保証したということが物凄く重要になってきます。何故なら、イエス様はそれをやり遂げていくからです。だから、人間側は何もしていないんです。全てが神側の事情という事です。救いが神からしか来ていない。信仰も天から下るもの。だから、パウロが『恵みだ、プレゼントだ』と繰り返します。この地上から出た良いものなんてないんです。天から下った方はおられます。また、天に昇られた方はいます。でも、地上から芽生えたものなどありません。この地上は『罪人』という統一体です。善も、義もないんです。だから、天から下ってこなければ、天から下って来た命のパンでなければ、天から下った聖霊でなければ、天から下ったイエス・キリストでなければ、無理だという事です。そして現れるのは、イエス・キリストの栄光だけです。 全ての名の上に、イエス・キリストの名を置いたのは、天の父の望みです。天の父とイエス・キリストは働きが違います。三位一体でも、働きには区別があり、固有な、別な存在方式として現しています。別々な仕事があるからです。でも、神の栄光を少しも曇らす事はないんです。イエス・キリストもこの天の父と同じ共有した栄光と力を持っておられる。全知全能の創造主なんです。審判主なんです。そしてイエス様は、十字架でそれを現してくださいと、持っていたにもかかわらず、隠していたんです。人間の前に隠していた栄光を今十字架の上で、天が創造される前から持っているわたしの栄光を、もう一度現してくださいと祈られました。もう秘密にする必要がなくなったと仰っている。これが最後にイエス様が17章からはじまっている大祭司の祈りです。そしてこれを弟子達に聞かせているんです。絶対的な一方的な祈りです。私達は真似できないんです。私達は常に助けて下さいという祈りしかできません。日用の糧をください。私を悪から救ってください。この祈りしか出来ないんです。イエス様はそんな事を願う必要がありません。わたしが主で、わたしを現し、わたしの栄光を輝かすと、こう言っているんです。何も私達と共通したところなどないんです。何一つです。受肉したイエス様は弱い訳ではないんです。これは、天の父の御業の成就であり、従順だったのです。 人間は堕落していて卑劣です。自己愛に陥っているので、今日の御言葉を聞き、自分をわきまえる謙遜の意識が必要です。そして、神だけを高めなければなりません。そう生きることを信仰で覚悟し祈るべきです。アーメン。