ヨハネ福音書18章28-40
~さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。~
とうとう黒幕の元大祭司の所から正式な裁判をするために、ローマから直接派遣されているユダヤの総督カヤパの所にイエス様が送られて、正式な裁判が今始まったところです。そして、イエスが総督ピラトの官邸に連れて行かれた時は、明け方であった、と言われていますが、この『明け方』だったというのは、その前に元黒幕の、アンナスの所に居る時に、一度目の鶏が鳴き、そして二度目の鶏が鳴いて、ここでは明け方だったという説明があるのをみて、この時刻は何時だったか、それを研究した人達も大勢いて、だから、ユダヤの地で鶏が鳴く時間は何時頃なのか?という所で、一度目の鶏が鳴くのは、午前1時か2時、二度目が1時から3時位に鶏が鳴く、と言われています。そしてここの明け方官邸に入ったという時刻は何時ごろだったのか?当時の、ローマの記録では、6時位だろう。6時位に官邸に連れて来られた。だから、ペテロが三回イエス様を否定した時に、鶏が二度鳴いたのは、当然3時位だったはず。そして、ピラトの総督の所に来る時にはもう、明け方の6時位だったのではないか?ですから今、一日中大騒ぎをしているんです。夜中から徹夜で、誰も寝ていないという事になります。しかもその時に、総督ピラトも、6時に起こされた時には身支度が出来ていたのをみれば、この当時のローマの仕事、公務員たちは相当明け方から仕事をしていた事になります。ローマ人達の仕事は朝早く始まり、そして早く終わるという習慣であったので、総督は夜が明ける前からガヤガヤと騒がしい時に、仕事の準備を整えていたとすれば、当時のローマ人達は勤勉だったという事が言えるんです。この時間から仕事が始まっていたんです。そういう意味でイエス様がピラトの官邸に連れて来られた時には、もう明け方の6時くらいだっただろう、とされています。そして、彼らはピラトの所にイエスを訴えるため連れてきたんですが、彼ら自身は過ぎ越しの食事が食べられなくなる事のないように、穢れを受けまいとして、官邸には入らなかった。と言っている。このマタイ、マルコ、ルカ、の福音書とヨハネの福音書の時間のずれがあるという人達がたくさんいて、過ぎ越しの祭の間に死体に触れてはならないとか、色んな規定がありますけれど、そのなかで異邦人の家に入ってはならない。そしてその穢れを受けたら、過ぎ越しの祭の種無しのパンが食べられなくなるし、ほふられた和解の生贄の羊や牛が、捧げられた後に食べる肉を、食べる事が出来なくなるので、彼らは官邸の中には入らなかった。それが律法の命令だった。というような書き方を今ここでしています。結局過ぎ越しの祭、ヨハネによると過ぎ越しの祭の日にイエス様が最後の晩餐をしているんです。それから一日経っているので、結局他の福音書では、この日がいつだったかというと、ずれがあるんです。一日か二日ずれているんです。だから、これはまたヨハネの福音書だけ別な物を書いているのか?と言われてはいるけれども、このずれはそう考えなくてもいいだろうと、言われているように、何故なら、過ぎ越しの祭はその当時8日間やっていて、この日が過ぎ越しの祭だったとは言えない。8日間の間ずうっと食べ続けるので、だからその間に一回でも穢れに触れたら、次の何日間はその祭りが祝えなくなる、と言われているのか、或は彼らが毎日徹夜で過ぎ越しの祭の間中、何も食べていないのでこれから帰って食べるのか、何故なら屠られた肉は明け方前に食べなければいけないと命令にあるように、明け方になる前に早く帰って食べようとしているのか、という色んな論争がある中で、ここで明らかなのは8日間、祭があった、と言われているその間の一日の出来事ではなかったのか。そうすると、ヨハネの福音書のその後に、今日本文で読んでいない、19章14節に、『その日は過越の備え日で』とあるんです。だから過ぎ越しの備え日、前日っていう事になってしまいます。だから結局また、日時がずれてきてしまう。そしてイエス様が死んだのは間違いなく日曜日だ。とされている。では、ここで十字架に架かったのはいつだったのか? というのが明白でなくなっていってしまう。だから、ヨハネの福音書にずれがあったのかどうなのか? ずれがあるとは思えない。だったらこの違いは何なのか? 8日間の祭の間中に彼らがそれを汚されたくなかった。というのが、それが何日だったかというのが重要ではなく、その間に汚されたくはなかった。そして、イエス様が弟子達とした最後の晩餐、あの日はやはり過ぎ越しの祭の食事だった。その日が過ぎ越しの祭の日だった。そして、一日が経っているんです。あの長い説教の後に、大祭司の祈りの後に、ユダが裏切ってイエス様を捕まえて、そして一日経って、夜通し、そして一日経って、もう明け方ですから、その前日が過ぎ越しの祭の祝いの晩餐であった。今日は備えの日の前日だったというのは、一体何かと言うと、過ぎ越しの祭の8日間の間に、もう一つ挟んであるものが、安息日です。その安息日だって彼らにとっては、準備しなければならない日です。だから、過ぎ越しの祭の間に挟んである安息日、その前日だった、と言われている。それでイエス様がこの後死刑になる時は、安息日だった。という事になります。そして、三日後に甦ったのはやはり日曜日。そう考えると何のずれもなくなるんです。だから、イエス様が最後の晩餐をされた日が、正に過ぎ越しの日。そして、子羊イエスが屠られるとは、過ぎ越しと同じように、過ぎ越しは、羊の血を門柱に塗って、滅ぼす者達がそこを通り過ぎて、滅びないでエジプトから脱出した話が『過ぎ越し』です。それで、子羊の象徴としてイエス様が死刑になった日は、その前の晩餐が過ぎ越しであり、そして、死刑になる日は安息日であり、復活された日は日曜日だという事になれば、ずれがないんです。だから、8日間の期間中の安息日の前日だったという事になります。だから、安息日の前日に、裁判が行われているんです。
そして彼らは、「穢れたくない。」と言って官邸に入らなかった。そして、ピラトは彼らの所に出てきて言った。普通なら、訴える者が官邸の中に入って、訴えるものを、彼らは門の外でガヤガヤと、「イエスを殺せ。」「十字架につけろ。」と朝方から大騒ぎしていたので、ピラトは仕方なく外に出て来るしかなかった。内側にいたのに、外に出てきて、彼らの所に現れたんです。そして、
~「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」~
と、問答があり、
~そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」~
他の福音書では、ユダヤ人対ポンテオ・ピラトの問答がずっと続きます。何故イエス様を訴えにきたのか、という問答がある中で、このヨハネの福音書だけは、ポンテオ・ピラトが行ったり来たりしているんです。そして、行ったり来たりしている最中、イエス様は官邸の中におられるんです。そして訴える人は、官邸の外にいるので、ピラトはイエス様の所に行って、官邸の外に行って、またイエス様の所に戻って、また官邸の外に行くという、ヨハネの福音書だけは、ポンテオ・ピラトが行ったり来たりしているシーンが描かれています。そして訴えるユダヤ人達が、「自分達には死刑の権限がないので、あなたの所へ連れてきた。」と言っているんです。その死刑の権限がないと言われている所で、この時、すでにヘロデ大王が死んだ後と考えます。イエス様が死刑になる時にはもういません。そして、ヘロデの子供達には王の称号をローマ人から与えられていないんです。その時にもうユダヤには実質的な王はいないんです。そして、ピラト総督が王のような統括をしているんです。だからといって、宗教の自由を奪ってはいません。法律的に言えば、当然ユダヤ人達に死刑の権限はなかった。その記録は残されています。けれども、大王の称号をもうユダヤ人には与えていないので、ヘロデの子供たちは領主という立場でしかいなかった。だから、当然権限があるのは、ピラトという事になります。しかし、彼らがローマ人にイエス様を死刑にさせる本当の理由としては、サンヘドリン達、最高議会に、死刑の権限がなかったからなのか。厳密に言えばそうではなく、実際には、史実によれば、過ぎ越しの祭を祝う時に、異邦人達の中にもイスラエルの神を信じて供え物を持って来る人達がいて、でも、この異邦人達の庭は、ユダヤ人とは異なり、神殿の外側にしか入れなかった。内側には入れなかった。そこには立札があって、ここから先はユダヤ人以外入ってはいけない。もし入って来るなら、「異邦人が入って来るなら、死刑に処す」と書いてある立札が今も残れています。だから結果、ローマ人であろうと、死刑にしていたんです。そして、そればかりか姦淫をし、神を冒涜し、安息日を守らない等様々な罪で死刑が行われていたんです。その証拠にステパノの死は、あれはリンチではなかったんです。正式な裁判の末に、石打の刑によって殺されました。だからその時、パウロがサウロの時に、正式な裁判の元に彼らの上着の番をし、死刑に賛成をしているんです。だからサンヘドリンがその当時石打の死刑をしていないというのは、嘘なんです。ただ、ここで彼らがローマ総督に裁判の最後の決断を、ピラトに移しているのは確かに理由がある。何故ならその当時、もしユダヤ人の手に渡ったら、イエス様は十字架刑ではなく、石打の刑にされるんです。何故ならパウロの場合も、ユダヤ人が彼を訴えた時に死刑にされる恐れがあったので、ローマ皇帝に上訴しています。それは、彼らが石打でパウロを殺す事が出来たからです。だからユダヤ人達はパウロの身柄を渡すようにと、訴えたけれども、パウロはローマ市民だったので、「いいえ、私は皇帝に上訴します。」と言って石打の刑を免れているんです。という事は、ここでイエス様がユダヤ人の裁判にあっていたなら、十字架刑ではなく、石打の刑にされていたでしょう。そこで、ヨハネだけがこの説明をしています。
~これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。~
と、ここに書いてあります。それはイエス様自身も話していて、
ヨハネ3章13-15
~だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」~
ここにイエス様が説明しています。この、地上から天に昇った人間は一人もいない。でも、天から下った者はいます。それが、わたしです。と言っています。そしてそれは、こういう死に方でなければならないという説明です。『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。』栄光を受けなければならない。モーセの時代に、「肉が食べたい」などと言って罪を犯し疫病が流行った時に、神がモーセに向かって青銅の蛇を作り、竿に上げなさい。そしてそれを仰ぎ見た人は癒されると言われ、本当にその青銅の蛇を見た人は全員癒され、その罪から免れているんです。そのようにイエス・キリストも、上げられなければならない。そして、それを見た人は救われる。そしてその、上げられなければならないというのは、十字架に架かり釘打ちにされていなければならないんです。その青銅の蛇はイエス・キリストを象徴していたもので、そして、それを見た人が永遠の命を持つためだ。だからイエス様にとっては、十字架刑でなければならなかったんです。だからこそ、ユダヤ人の手に渡されると、石打の刑を執行されてしまうので、ユダヤ人達はそれを成就させる為に、ポンテオ・ピラトに死刑執行を移していなくてはならなかった。この説明もまた、ヨハネだけがしています。
そこでまたピラトは行ったり来たりしてから、イエスの所に来て、「あなたはユダヤ人の王ですか?」と聞くんです。これは、簡単な事ではないです。その当時、さっきも言ったように、もう王の称号はユダヤ人に渡されてはいないです。大王だったヘロデの息子達には領主という身分しか与えていない。しかし、イエスが王だ、イスラエルの王だと噂されているのは、もうピラトの耳にも当然入っています。何故なら、東方の博士三人が来た時、ヘロデ大王に向かってイスラエルの王がお生まれになったのは、どこですか?と尋ねて来た時から、その噂はローマにも飛んでいて、それでいて、イエスの誕生は知られていて、そして、イスラエルの王が生まれた。そして、イエス様が今、イスラエルの王だと騒がれています。様々な奇跡を行って、神の教えを説いている事はもう全ての人の耳に入っていて、それでいて、王の称号がもうイスラエルには与えられていないのに、「あなたはイスラエルの王ですか?」という質問をするのは、そんなに簡単な事ではありません。当然、ローマの法律からすれば死刑に当たる罪です。ユダヤ人の律法だけではなく、このローマにおいても、死刑になる十分な理由であったんです。
~イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」~
ここで言っているイエス様の答えは、ただ、「あなたが自分で考えて言っているのですか」或は「噂で聞いたのですか」そういう単純な内容ではなくて、「あなたが言っている王は、どの王ですか」と聞いているんです。ローマ人がヘロデに与えた、あの王の称号ですか?それとも、霊的な神の国の王と言っているのですか?という質問です。だから、ここでいう、ローマ皇帝に歯向かった罪と言っているのではなくて、あなたが言っているのは、皆が願っている、イエスを王にして、イスラエルの独立を目論んでいる、あの王だと言っているのですか?それともわたしが、別な世界の王と言っているのですか?と言う問いです。ポンテオ・ピラトは最初から悪意に満ちてはいなかったんです。当然噂を聞いて心のどこかでイエスを怖れているんです。そして当然イエス様を目の前にした時、噂とは全然違う、みすぼらしい姿で、死刑にしろとユダヤ人が連れてきたけれども、自分が想像していたような立派な姿がなかったから、本当にあなたが噂のイエスですか?と言っているようなものです。それでイエス様が、あなたが聞いた噂は何ですか?独立運動をして、クーデターを図ろうとしている王の事を言っているのですか?それともわたしが本当に来た理由ですか?という意味を、むしろピラトに問いかけているんです。ピラトの方では色んな噂があるから、イエス様を蔑んでいながら、反面どこかでイエス様を怖れていて、
~ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」~
とイエス様が、あなたが思っているユダヤを解放する王ではありません。わたしの王国はそんなような国ではないし、この世のものではありません。と答えている。でも、イエス様がわたしの国はこの世のものではありません。と答える時に、実際にこの世にないのか?と言えば、この世にあります。それを否定はしていないんです。わたしの国はこの世に実在はしている。実際に宇宙の果てにあるのではなくて、この地上にその国を建てに来た。そして、わたしはこの国を建てます。と言っている。でも、あなたが思っているような国ではないし、目で見える国ではないんです。と言われたんです。わたしの国は、この世に所属はしていない。
~そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」~
いよいよ、イエス様は本題に入っていくんです。あなたが考えているこの世の王ではない。でも、実際に妄想した精神世界の王でもない。想像の王ではないし、妄想する王国でもなく、実在はしている。実際にこの国を建てにわたしは来ている。でも、あなたが言う王ではない。そのわたしが今建てる国というのは、真理のため、真理を証しする為天から下って来た、といよいよイエス様が自分の国は何かを語り始めているんです。この問答があるのも、ヨハネの福音書だけなんです。他ではこのようなポンテオ・ピラトとイエス様の会話はここまで具体的に書かれてはいないんです。むしろピラト対ユダヤ人の訴えが書かれているのであって、イエス様対ピラトの問答はここまで具体的に他の福音書に書かれてはいない。ヨハネだけが、後に、イエス様が何を言われたかを書いているんです。ピラトに向かって何をおっしゃったか。全てのユダヤ人達は、神を冒涜したあげく、ローマの皇帝に逆らうに違いない。そして自分達はいよいよ領土も奪われ、ローマ人達に絶滅させられるだろう。このイエスのせいで、そうなる。だからユダヤ人達は死刑に値すると言って、ローマ人に訴えている。それでローマ人もこの人が実際にクーデターを起こす、イスラエル独立運動のリーダーなのか?そして、自分でイスラエルの王だと名乗っているのか、否か。という尋問です。だけど、イエス様とピラトの会話は、それを聞こうとしたけれども、イエス様の方で、それは答えていかないんです。あなたが言っているクーデターの王ではないし、独立運動の王ではなくて、あなたが言っている王ではない。確かにわたしは王です。確かにわたしはわたしの国を今から建てます。でもそれは、クーデターを起こして解放運動をする王ではなくて、真理を証しするために来た王です。と言っているんです。だからヨハネにとっては、ここが重要だったんです。真理とは何かを、このヨハネの福音書は書きたいんです。このようなユダヤ人が思っているものではない。という事です。イエス様も以前から仰っていて、ヨハネ14章
~イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。~
いよいよこの事をイエス様は語られています。わたしこそ、唯一真理である。そしてあなたがたに命を与えるものであり、その真理へと導く唯一の道である。だから、絶対にわたしを通さなければ、わたしの国には誰一人、入る事はできない。と、わたしはこれを言うために、そして実践するために、そしてその事で神の国が実在するために、この地上に来た。天の遥か向こうで、天使たちが存在する遥か向こうではなくて、この地上に実現するために、わたしは来たのです。だから、確かに王です。とピラトに答えているんです。ピラトにしても今まで色んな噂を聞いています。そして、他の福音書に依れば、奥さんが夢を見て、あの人に酷い事をしないでください。という警告通りに、何か怖れているんです。この人は一体誰なのかが分からないから、何か怖れて、圧倒されるんです。でも、見たらみすぼらしくて、王のような身なりが一つもない。ユダヤ人が訴える理由がわからない。しかし、何か目の前にすると、イエス様に圧迫されていくんです。それで、悪意が始めからあった訳ではない。それなのに彼は、こうです。行ったり来たりしてしまうのです。イエス様の所と、官邸の外に居る闇の力が支配しているユダヤ人の所と。真理の、真の光のイエス様と、闇との間で、片足ずつ入れている状態です。
~ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。~
ここでまた、行ったり来たりしてしまうんです。このピラトは、真理とは何ですか?と質問してはいるけれども、真理を知りたくはないんです。もし、本当に知りたかったら、イエス様が説教する事を聞いたはずです。留まって、すぐに闇のユダヤ人達の所に出て行ったりはしないんです。でも、真理とは何かが、怖くて聞けないんです。だけど、イエスが言っている事がまるっきり嘘だとは思えない。この人が絶対的な罪を犯しているとは決して思えない。だけど、イエスから真理の話を聞く事は怖くて出来ない。だから、行ったり来たりしてしまう。それでいて、真理とは何ですか?と聞くものの、知りたくて聞いたのではないんです。避けたいんです。真の真理、真の光、真の命を。それでいて、すぐ闇の方へ行ってしまった。そして、「彼に罪は認められない。」だから、彼はユダヤ人の所へ行ったところで、「彼は罪人だ。」とも言えないんです。でも、イエス様の所へ来て、真理は何か知りたくもないんです。どちらでもないんです。今、このポンテオ・ピラトは、行ったり来たりしているんです。だから、不安定で怖れていて、ハッキリせず、確信が持てず、という状態を、ヨハネだけが描写しているんです。
~しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。~
とうとうピラトは、罪の、闇の方に加担してしまうんです。本来ならこのバラバが釈放されるはずがありません。許されざる罪を犯している人だから。そしてイエスには罪が見当たらないんです。でも、ユダヤ人を怖れてピラトはイエスをユダヤ人に渡したんではないんです。真理を知る事が怖くて、これ以上イエスの前にいられないんです。どうしてもイエスから身を避けたい。余りにも圧迫する何か、自分に恐怖を与える何か。そして、これを聞いたら、もっと怖くなるんではないか。裁かれるんではないか。という恐怖から逃げたい、が優先されてしまったんです。悪意をもってイエスをユダヤ人に渡したんではなく、真理から逃げる為に、イエスを渡してしまったんです。でも、渡した瞬間、自分は関係ないと言って、手を洗っても、すでにそこは闇です。イエスを渡した瞬間に口でいくら、私はイエスを裁いていない、イエスを憎かった訳ではない。イエスに罪を認めていない。私はイエスを釈放しようとした。イエスを最後までかばったんだという言い訳は、何の関係もないんです。ピラトはもう完全に闇の中です。神の審判に遭うことが決定されました。でも、はじめからだった訳ではありません。行ったり来たりしている間に、彼はとうとう言い訳しながら地獄へ行ってしまったという事です。この描写が、ヨハネにだけあるんです。そして、ヨハネは今、何を言いたかったのか?真理とは何か?を言いたいんです。だから、この所では、ヨハネの福音書はいつも神学的には何が言いたかったのか?どれが真実だったのか?というのが、いつも学者の中で言われていってしまう。でも、ここで重要だったのがポンテオ・ピラトの、行ったり来たりではないのか。ヨハネが本当に強調したかったのは、光と闇を行ったり来たりしている間に、結局光を怖れて来られなかったのではないのか。という事を誠実に祈って語ろうとする人たちは、そういう解釈をします。だから、ここで、ヨハネだけがこの事を書いている。何故なら、このようなクリスチャンが大勢いたからだと思います。ヨハネのいた一世紀末には、キリスト教に入信した者が、再びユダヤ教に戻った人達が相当大勢いて、一時期また羊を捧げるという事をやり始めた。その事で、その少し後に、ローマ人が完全に神殿を崩壊し、エルサレムを燃やし尽くして無くしてしまうんです。そして彼らが二度と捧げる事が出来ないようになります。また、キリスト教に入信したものの、またユダヤ教の習慣に戻っていったユダヤ人達が大勢いた。だから、神がもう、お怒りになって、神殿を全滅させてしまう。二度とそこに生贄を捧げる事を許さない。その事を後の歴史では行われていて、そして、ヨハネはそれを見ていて、このヨハネの福音書を書いている。こうやって、人は、闇に光に、行ったり来たりしている間に、結局は真理を受け入れる事ができず、福音を聞く事ができず、闇に落ちていく、という事を今描写しているんです。だから、真理とは何か?それこそイエスが来た全ての理由だったんです。そして、わたしは真理である。真理そのもの、わたしでなければ、誰も神の国に入れない。天の父と和解も出来ない。そして、裁きから免れない。そして永遠の命は持てない。という事をヨハネの福音書は何度も語っているんです。このイエス・キリスト以外に方法がないという事です。それをイエス様も最後まで、「わたしは確かに王です。でも、あなたが言っている王ではない。だから、わたしの国はこの地上のものではない。この世に存在はしていても、この世に属してはいない。それが真理です」と言っているんです。それを私達キリスト教は、理解しなければならない。真理とは何か?です。イエス・キリストが十字架に架かって死ぬ事でなければ、誰も救われなかったし、しかもそれを仰ぎ見なければ、救われない、という事。だからここは、石打の刑ではなく、十字架刑でなければならなかった。だから、ユダヤ人の手に渡される訳にはいかない。ユダヤ人の刑では石打の刑になってしまう。だからローマ人の手に渡されなければならない。これは、イエス様がご自分でどのような死に方をされるか、以前にもう語られていて、モーセが青銅の蛇を上げたように、わたしも上げられなければならない。それは、わたしを通して永遠の命を人々が持つためだ。とイエス様は説明している。だから、ヨハネの福音書だけが、真理とは何か?を語っている。でも、この世の人は真理が怖くて、近寄れないんです。ポンテオ・ピラトは何も感じていなかったか?感じていますよ、十分に。噂を聞いて、ヘロデ大王でさえ、イエスを見たくて呼ぶんです。そして、ピラトだって、イエスは誰なのか、正直言って知りたいんです。見てみたい。そして、呼んでから話してみたい。
使徒の手紙でもあるように、後にローマ皇帝に上訴される時だって、皆パウロの話を聞きたいと言います。このパウロが言う真理や福音、そのイエスの話は一体何かを聞きたがります。でも、パウロと実際話したら、皆パウロを否定し、あなたは気違いだ。と言います。でも、パウロは死刑に値するとは言わないんです。パウロが最後に、あなたが信じなければ永遠の命がない、神に裁かれますよと言った瞬間に怖くて、この話は打消しだと、言ってしまうんです。ギリシャに居る人達も、アテネに居る人達も、何て言いますか?この真理の話をパウロがした瞬間に、確かに面白い話だったけれど、その続きは、また後に聞こうっと言うんです。その時怖くて聞けないんです。そうやって福音を聞いた人達は、恐ろしくなってしまうんです。パウロを見た瞬間恐ろしいんです。引きずり込まれそうだけど、そこに行くには、もう怖くて行けない。ではこの人達を裁いて、責めて、死刑にしたいのか?それも怖くて出来ない。これが実際の私達の姿です。
どっちにもつけない。でも、口ではこう言うんです、「イエス、イエス」と。イエスは神です。主です。十字架で私は救われました。そんな事はピラトでも言っています。そんな事はユダヤ人達だって言っています。では、その真理の方に来るか?来たくないんです。行きたくないんです。恐ろしいんです。何が、実際に怖いんですか?神が怖いんですか?違います。自分の中にある罪が怖いんです。暴かれるのが怖いんです。自分の中にある本当の闇が嫌なんです。逃げた人は皆そうだったのではないですか?パウロの話を聞いた人が、ペテロの話を聞いた人が、イエス様の話を聞いて、弟子達の話を聞いた人が、何が怖かったんですか?パウロが怖かったんですか?ペテロが怖かったんですか?違いますよね?彼らの言っている福音が怖いんです。彼らが話している真理が怖いんです。彼らの言っているイエス・キリストが怖いんです。自覚があろうと、なかろうと怖いんです。何が怖いか?自分の中にある罪が暴かれて、明らかにされて、人前で見いだされる事が怖いんです。私達は、これが、どれだけ真理に逆らうか、実在と逆らって、現実のありのままと逆らって、嘘をついてでも、無かったことにしてでも、妄想や迷走に入ったとして、偶像礼拝でも入っていたいんです。そして、こう言うんです。「イエスは悪くない。イエスは正しい。神の国は素晴らしい。聖書は素晴らしい。だから、礼拝に出たい。だから、祈りたい。」そこまでは夢中になっていきます。では、あなたの罪を全部暴き出し、悔い改めなさいといえば徹底して避けます。徹底して目を背け、耳を塞ぎ、無かった事に、見なかった事を選びます。必ず選んでいくんです。これはピラトと何の違いですか?真理はこうです。『わたしだけが義で、わたしだけが真理で、わたしだけが命で、わたしだけが道だ』これが真理です。イエス・キリスト以外に救いはないです。今、イエス様が語っている事です。神の国のその為だけにイエスは来ていると言っています。これは一体何の意味ですか?信じます。と言うのは簡単なんです。全くその通りでイエス様以外に救いはないです。これ言わないクリスチャンはいません。では、あなたの罪が裁かれる原因になります。と言った時には受け入れないんです。でも必死に祈ります。必死に聖書を勉強して、必死に教会の活動をし、必死にボランティアをし、必死に献金します。罪が暴かれるより、そっちが楽です。自分の本当の姿を見るより、居心地いいんです。それが、パリサイ人がした事です。それが律法学者達、滅んでいったユダヤ人が選んだ事です。イエス様が実際来ました。でも受け入れられないんです。こんなに長い間待っていたのに、救い主が来る事。メシヤが来る事。自分が救われる事。アブラハムと約束した神が必ず来るという、あの約束をこれだけ待っていたのに。これだけイスラエル、神の国の再建を願っていたのに、実際に神の国が来たら、嫌だったんです。武力での神の国は願いました。行動で作る神の国は、異常な程願って、そこには命を捨てられるんです。実際の目に見える国の為には彼らは命を惜しんではいません。お金も財産も惜しまないで、捧げきってしまうんです。人を殺してまでも、建てたいものなんです。人を裁いてでも教会を建てようとし、人を教会から追い出しても、目に見える教会を守りたい。目に見える儀式を行っていたいんです。目に見える奉仕をやり続るためには、人を裁くこともできます。ユダヤ人がしている事と全く同じなんです。目で見える教会は建てたいんです。そこに自分が住民登録していたいですから。だけど、イエス様が言っている、わたしが真理だ。という世界には、避けて通ります。何故なら罪が暴かるからです。本性が暴かれて、本音が暴かれてしまうんです。決してイエスなど望んでいない。決してイエスが言っている事に聞き従いたくない。それ以上に、『イエスが決めた事が気に入らない。』ここが暴かれてしまいます。イエスに近づくとはそういう事です。ここは松明のように神々しい光が溢れて真理以外混ぜ物が入っていません。そこに行けば行くほど、私の汚物が見え始めます。近付けば、近付くほど、太陽に焼かれるより苦しい目に合います。そして、イエス様に近付けば近付くほど、本当に痛くてしょうがないです。とても耐えられないほどの痛みです。そこが、やっぱり嫌です、人間は。そんな痛みに耐えられない。そんな、自分自身に絶望はしたくない。自分自身はそんなに酷い人間ではない。これを絶対守り通したいんです。これだけの為に夢中になって宗教活動していくんです。この一つを命懸けで守ってしまいます。しかしイエス様は、あなたが言う国は、わたしとは違う。最終決断がくだされます。あなたが建てようとした国は、わたしの国ではない。そして私達は何ですか?行ったり来たり、ピラトのように、偽善者になっていきます。ピラトのようにイエスを殺せとは言いません。ユダヤ人のように死刑にしろ、とは言ってないんです。全然私はそんな事思っていない。イエスが間違っているとは思っていない。イエスは死刑に値しない。イエスは悪人じゃない。何の罪も犯していない。あなた方は、ただイエスを見て、妬んでいるだけだと、こんなにハッキリ相手の罪は見えているんです。相手の罪だけは明確に知っています。だから、明確に答えられます。でも自分の罪は、この真理に近付き知りたいのかと言えば、嫌なんです。これが今のクリスチャン、当時のユダヤ人、ポンテオ・ピラトがした事です。そして、ヨハネはここを言いたいんです。堕落していったクリスチャン。イエス・キリストを受け入れても、イエス・キリストを捨てて行ったクリスチャンを、あんまりにも大勢見ているからです。余りにもその人数が多かったからです。ヨハネはそれを百年間見続けなければならなかったんです。裏切っていく、イエスを捨てていくクリスチャン達を。死刑が目の前にあり、獣の牙に裂かれ、拷問と投獄、この事実が来た時に、全員逃げたということです。私達が同じことをしています。自分の罪が暴かれ、自分の本性、本音、それが暴かれるのが嫌だから、イエスは素晴らしいと言いながら、ピラトと同じ事をします。イエスは偉大で、救い主で、私を救ったと言いながら、ピラトと同じ事をしてしまうんです。それは、何ですか?自己保護です。
私達の目標は自分に絶望する事です。自分を捨てる事です。自分を憎む事です。自分を曝け出す事。自分の罪を一つも隠さないでいられるのがクリスチャンです。本当の絶望は、その罪を隠していることです。罪を用意周到に何とか見られないようにしてしまう自分を嫌悪しなくてはならないんです。なぜなら、その罪を赦すために、イエスキリストはこの地に来ました。私達の罪のために十字架で死なれて甦られたのです。自分の罪を隠すなら、イエスを否定することになります。罪を悔い改めて、イエス様と一つとなるのです。