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Yokohama Glory Church

ヨハネ福音書19章25-30

2018.02.14 16:40

~兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。~


イエス様が十字架の上で語られたみ言葉は、四福音書の中で七か所あるんです。イエス様はこのヨハネだけではなく、他の福音書全部入れて、十字架でイエス様が語られた言葉が七回あるという事です。その内の三つがヨハネの福音書に書かれていて、どの順番でイエス様がどう話されたかは明らかではないけれども、十字架の下で人間達があれやこれやと話す事はあったとしても、イエス様が十字架に架けられて語られた言葉は七回だけです。その中で、イエス様が語られた順番は分からなくても、七回語られた内、「この人達は何をしているのか分からないので、彼らにその罪を負わせないで下さい」という事を語っておられ、強盗に向かっては、「今日、あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいます」という事を十字架上で語られていて、そして、今日語られるヨハネの福音書では、三回あって、「これは、あなたの母です。これは、あなたの息子です。」というのを語られています。その後、「わたしは渇く」と仰られ、「完了した」と、語っておられる。その中の三つがヨハネの福音書には書かれていて、最後には、ルカに書いてある「わたしの霊をお受けください」というイエス様が最後に天の父に向かって語られた言葉です。この七つがイエス様が十字架上で語られた言葉で、今日はそのうちの三つ。三回イエス様が十字架上で語られているのが、今日読んだ本文です。25節~30節にイエス様が十字架上で何を最後に語っているか。という事が今日読んでもらった場所なんです。


~兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。~


私達はよく壁画などや絵画などで、イエス様の十字架の絵をよく見る時、とても高い所に掲げられていますが、十字架の死刑というのは、そう高くはなく、せいぜい地面から10cm位上で、だから、ちょっと見下げた所には、もうすぐ人間が居て、だから遠くから人間が崇めている訳ではありません。物凄く近くに、人々が居たんです。イエス様もちょっと下を見ればすぐ皆が見える程度にしか、高く掲げられている訳ではない。その中で四人の女達がイエス様の十字架の前に居た、というのが書かれています。この四人は一体誰だったのか?という所においては、当然最初にイエスの母、イエスの母はマリアですよね?聖母マリアと言われて、聖霊によってイエス様を身篭り、ヨセフの妻でガブリエルが何と幸いな人よ、と言った母マリアです。そして母の姉妹と書いているのは、一体誰か?と言う時に、他の福音書で十字架の前の女達を説明する時に、そこに居た四人の女達から推察するには、これは、ゼベタイの子達の母。そして、名前はサロメです。だから、イエス様を出産されたマリアの姉妹だったという事になります。ゼベタイの子達の母サロメ。それをヨハネは、自分の母親、とも書いてないし、サロメという名前を出してもいない。母の姉妹とだけ表現している。だけど、もし、母マリアと、本当に姉妹で、サロメが姉妹であったとするなら、イエス様とヨハネとヤコブはいとこ同士という事になるんです。それを推察すれば、当然、バプテスマ・ヨハネの弟子としてこのヨハネは最初から居たのに、イエス様の後について来ているんです。それもアンデレと二人一緒に。だからヨハネと、バプテスマ・ヨハネも親戚だった、という事になります。でも、私達は「えぇーそうだったの?」と驚くには値しなくて、イエス様はその当時、弟妹呼ばれる人達が大勢いました。聖書に名前が全部上がらないだけで、もっと近しい人達はいて、そして、そのいとこに当たる人達など、沢山いた筈です。だから、私達は、えぇーとビックリするよりも、その当時、十人以上も子供を生んでいる時代ですから、イエス様の親戚という人は、それは当然大勢居たはずです。しかし、そうだとしても、弟子としてヨハネとヤコブは呼ばれていて、いとことして呼ばれた訳ではない。バプテスマ・ヨハネも親戚だからではありません。初めから神が選んでいた人達。だけど、ここでいう母マリアの姉妹は、サロメであった。これは、他の福音書で書かれている女達を見れば明らかで、そう説明するしかなく、クロパの妻マリヤというのは、他の福音書で、ヤコブとヨセフの母という表現があるんです。この人達が誰だか分からないです。ただ、十字架の前までついて行ったのが、ヤコブとヨセフの母。だから、ここはクロパの妻。という事になっていて、後はマグダラのマリヤ。ルカに出てくる、七つの悪霊を追い出してもらった、有名な女性です。そしてこの四人が、イエス様の十字架の目の前で、イエス様の十字架の工程を見つめている。そしてその他に『イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て』と語られたのですが、ヨハネは福音書で自分の母親のことも明かさず、自分の母親の名前も出さない。ゼベタイの子達という表現しかしないから、自分の兄のヤコブという名前さえも出さない。そして自分の名前も出さないんです。『イエスの愛した弟子』としか表現しない。そこまでして、徹底してヨハネは人間を基準に書かないように、イエスを基準にいつも書こうとしたのです。だから、その時に四人の女達と一緒に居たのが、ヨハネだったという事です。そして、イエス様がヨハネと母マリアに、最後の言葉を語るんです。


~母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。~


確かにこの日から、母マリアはヨハネの家に引き取られます。でも、元々いとこだったし、母マリアがサロメの姉妹であった、という事はあったとしても、イエス様が最後の最後に自分の母親を弟子のヨハネに任せられたのは、当時イエス様の兄弟達は後から全員イエス様を信じたにしても、その当時はまだイエス様を信じていない、ノンクリスチャンです。だから、イエス様としては、本当なら自分の子供が母親を引き取るのが当たり前だけど、イエス様は母マリアの霊魂の事を一番に考えていたので、自分の弟子の方が信仰があったため、信仰のない息子にではなく、信仰のある弟子に母親を任せた、という事になるんです。そして、その時に私達は『あなた方は自分を捨て、わたしに従いなさい。父、母、子をわたしよりも優先する者はわたしの弟子ではありません』このみ言葉を聞くとき、信仰のために離婚したり、家族を捨てたりする事だという錯覚に陥りやすいけれども、ここでイエス様がなさったのは、自分を産んだ母親に対して、見捨てた訳ではないのです。イエス様ほど、自分の家族がしがみつくのを振りほどいてまで、公生涯の福音の活動をした方は居られないんです。どんなに母親が、弟達が、すがっても、イエス様は振り向きもせず、「わたしの父とは誰ですか?わたしの母とは誰ですか?ここに居る礼拝する者達がわたしの家族です」と言い切ったほど、自分の家族を振り返らずに、福音の仕事を優先しました。でも、見捨てたのではありません。この十字架でのやりとりをみれば、情愛ではなく、母親の霊魂を最後まで救おうとしておられる姿が見られます。だから、自分を捨て、自分の家族を捨てるとは、実際に人間を切り捨てるという錯覚するその人達は、本当に誤解をし、殉教を肉体の死だと思って錯覚しているのと、同じです。それは違います。自分を捨てるというのは、家族を捨てるのではありません。自分が愛されたいという感情を捨てる。自分だけ認められたいという、肉体的に依存する自分の我を捨てる事です。家族を捨てるとは言っていません。そういった自分の情欲を捨てろ、そういった自分の感情を捨て、自己否定をしなさい。自分の考えや、自分の妄想や、自分の理想や、自分の願いを捨てるという意味です。家族を捨てるとか、離婚しろとか、家族が分裂しなければならないと言っていてるわけではないです。だから、イエス様は最後まで自分の母親や、自分に属する霊魂達は、救っていきます。だから、イエス様は情愛でなさることはありません。最後までご自身のなさらなければならない使命に、忠実と誠実を果たしていかれるんです。

だから、私達が肉体の死が殉教だとか、家族を見捨てて、自分の感情が痛いから、面倒なことをやめてしまうという事ではありません。あなたを捨てろと言われています。家族ではありません。あなた自身を捨てろ、そして、わたしについて来なさい。私達は形を捨てるのではなく、私自身の情欲を捨てるんです。私自身の妄想と、迷信と偶像を捨てろと言っています。あなたが望んでいるのは、人に愛されて、認められて、注目されて、主人公になりたいという感情です。これを捨てなくてはいけません。家族を捨てるのでも、ましてや自分で家族を救えとも言われてないんです。救いは神様がする事で、私が、私の感情でするものではありません。私の家族とは一体誰ですか?という事になっていきます。

そこで、今日イエス様が言った、「女の方」そして、ヨハネには「あなたの母親が今ここに居ます」と言っている、本当の意味は、ただの親孝行だったのか?ここでイエス様が言っているのは、ただの人間の情愛だったのか?という事を私達が考えなければなりません。

『捨てる』とは果たして何の事か?親孝行とは一体何の事か?イエス様が最後に弟子に託している本当の目的とは一体何なのかを、ヨハネは言いたいし、私達は福音書を読む時、自分の勝手な解釈で読んではいけないという事です。


27節

~それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。~


ここから新しい共同生活が始まります。イエス様の母親がヨハネの母親になる、という事は、同じ母を持った同じ兄弟、という事になります。でも、イエス様が望んだのは、兄弟になる事というよりも、家族になる事です。同じ母を持つ家族となる、新しい共同体。新しい霊的な群れ、という意味です。『そしてその時』というのは、イエスの時、という意味です。『イエスの時から新しい共同体が誕生しました』という事です。でも、マリアの具体的な話は、ここと、カナの婚礼の時にしか出てきません。カナの婚礼の時に儀式として、清めの水が葡萄酒に変わった。あの事件の時、「どうしたらいいか?」と母マリアが訊ねると、そこでも、母親とは呼ばないんです。『女の方』です。或は『婦人よ』「女の方、あなたとわたしと何の関わりがありますか?わたしの時はまだ来ていません」と断られるんです。結局葡萄酒に変えては下さったけど、その時、「わたしの時はまだ来ていないから、あなたとわたしは何の関わりもない」と言われます。そればかりではありません。ユダヤ人達がイエスを一斉に石で打ち殺そうとした時も、「あなた方はまだ、わたしを殺せません。わたしの時はまだ来ていないから」と仰います。でも、とうとう過ぎ越しの祭が近づく時、いよいよわたしの時が迫って来た。近付いた。と仰っているんです。でも、今ようやく、「わたしの時が来た」と仰っている。カナの婚礼では、まだ、わたしとあなたは関わっていない。そして、だんだん迫っては来ているとは、仰っても、まだ、『わたしの時だ』という発表はされていない。でも、十字架上で今、「わたしの時がいよいよ来ました」と言われたんです。その時には、あなたとわたしに何の関わりがありますか?という言い方はしません。いよいよ、わたしとあなたは友となり、家族となるのです。ようやく、わたしとあなたは関係を結ぶことができますという意味です。イエスの時がきたからです。それは、どういう意味か?イエス・キリストが死んで甦る、その時がいよいよ来たので、あなたとわたしは、いよいよ関わりを持つことが出来ます。という意味なんです。それで、この事は昔から母マリアについては、預言されています。母マリアがイエス様を産んで、割礼の為に神殿に来られた時に、シメオンという預言者が、「あなたの息子はイスラエルを救う方だ。あなたは剣で打たれるほど胸が痛むけど、この方はイスラエルの為に倒れて、救う方だ。」という預言をします。その予言通り、いよいよマリアは本当に心臓が刺されるほどの痛みをもって、イエス様の十字架を見上げていなければならなかった。その苦難があるけれども、しかし、新しくわたしは、あなたとの関係を、関わりを持つと仰っている。その預言通りになるんです。

イザヤでも預言されていて、


イザヤ49章18-21

~目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。―主の御告げ―あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい』と。そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』」~


母マリアが味わっているものです。自分の子は今、十字架で死のうとしている。だけど、その後にここは狭すぎるという位、子供がどんどん増えていき、私は子を失ったのに、誰がこんなに沢山の子供を生んでくれたのだろう。と、女を比喩してここで語っています。マリアはヨハネの家に引き取られ、新しい霊的関係の共同体が生まれます。マルコの部屋で百二十人が聖霊の降臨を待っています。そして、火の聖霊を受けた者達は本当の神の家族として、初代教会が建ちあがります。その時に、どれだけ多くの神の子供が生まれてきたのか。イエス・キリストは十字架で死にましたが、その後生まれた子供は十二人の弟子どころか、一度に三千人が救われていき、五千人が救われていき、地の果てまでも神の子供が増えていきます。それを一体誰が生ませたのか?誰がこの子達を集めたのか?と、イザヤが預言している通りで、イエス様は今、死んでいきますけど、『わたしの時がきた』と発表しています。子供が沢山増えるようになる。その子供は誰の子供ですか?神の子供達です。そして、神の子供達が世界中に広がっていく。それは、アブラハムの約束が本当に成就する時です。あなたの子供は海の砂の数ほどに、星の数ほどに増える。これは、どういう意味か?アブラハムの子孫は、ユダヤ人でもなく、血肉でもない。信仰ある人がアブラハムの子孫だと呼ばれると、書いてある通りに、信仰ある者達が増え広がっていく。それはアブラハムと神様との約束です。そして、今マリアは自分の息子が死んだと、悲しんでいるかもしれない。でも、ヨハネの家に一緒に住みなさい。同じ共同体を作りなさい、とイエス様に言われた後から生まれてくる子供達は何千人、何万人となっていくんです。それを見て、誰がこれを生ませたのか?と、イザヤは叫んでいるんです。誰がこの子供を生んだのですか?

それで、


イザヤ66章6-9

~聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。~


ネブカドネザルによって、カルデヤ人によって連れていかれた、放浪の民が七十年後にペルシヤの王の時に戻ってきます。それを預言しています。神様は必ずもう一回子供を取り戻す。必ずもう一度生みなおす。そして、わたしの国は一瞬にして生まれてくる。誰がこんな一瞬にして国を創る事ができるのか?わたし、神しかいないのではないか。生ませる者が、胎を閉ざすだろうか。わたしは救おうとしているのに、誰が救われないと言うのか?という事です。今、マリアはシクシク泣いているかもしれない。自分の子供は、もう殺されると、思っているかもしれない。でも、ここから始まるんです。この時をどんなにイエス様は待っておられたのか。「どれほどわたしはこの瞬間を待っていたのか」新しい霊的な共同体が生まれる事をイエス様は望んでいたのです。カナの婚礼の時は、「あなたとわたしと何の関係がありますか?わたしにしがみ付くのは止めなさい。わたしの時はまだなのだから」と言っていたイエス様が、とうとう「わたしの時が来ました」と十字架上で仰り、国が一瞬にして生まれ、一瞬にして子供が生まれる、と仰ったのです。それはわたしの時です。それを一体誰がしたのか?あなたは何故泣いているのか?今、わたしは新しい国を建てようとしているのに。イエス様がそれを比喩として、マリアとヨハネの霊的関係、新しい共同体は、今わたしが生み出す。わたしの国を一瞬にして建て直す。その時がいよいよ来た。わたしが死ねばそれが起こります。わたしが甦れば、その事が起きます。今まさに神の国が誕生しようとしているんです。その神の国は、一瞬にして生まれると、イエス様が十字架上で、語られます。あなた方は今、嘆くのか?わたしが死んだら、そんなに悲しいのか?十字架の死刑が、そんなにあなた方にとって恐怖なのか?でも、わたしは今から国を創ります。一瞬にして神の国が誕生しようとしている。今、霊的な本当の家族が生まれようとしている。今までのような血肉の、感情の、人間の身勝手な愛情の家族ではなくて、霊的な家族が今から生まれるんです。真の神の国が誕生します。とうとうわたしの時が来たからです。今ヨハネにマリアを引き取りなさいという理由が、ここにあります。これは『教会誕生』です。教会を建物だと理解しては駄目です。霊的な神の国。霊的な神の家族。霊的な新しい交わりの共同体。それがイエス様の十字架上での最後の遺言だったんです。

わたしが十字架に架かって死んで、甦るのは、この地上で神の国を建て、この地上で天国が到来し、この地上で今までの血肉の家族、血筋ではない、肉に依った家族ではない、霊的な、イエス・キリストを天の父と、神と、主と呼ぶ、共同体の頭となる、その国を今からわたしは建てます。それが、十字架のイエス様の最後の言葉です。私達には勿論、個人の救いはあります。私達自身が神殿で、神の宮と呼ばれているから、私達の心に神の国誕生は、信じて救われた時に起こる事です。だから、神様の救いは一人一人、神が私の心に住まう時に神の国が立ち上がります。だけれども、イエス様がヨハネとマリアに一緒に住ませ、サロメも住ませ、ヤコブも一緒に住み、ペテロ達も一緒に共同体を作り、一緒に住むその家は、何を言っていますか?それは『教会』です。だから、イエス様が十字架に架かって死んだのは、個人的な救いもあったけれども、教会誕生だったんです。むしろ、これこそが重要だったんです。個人の救いは勿論、それがなければ教会は建てられない。だけど、目標は私、一人の救いではありません。私一人が神と出会えばいい、という問題ではなく、教会が建て上げられる。神の国がこの地上でも起きる。天国をこの地上で味わう事が出来る、という共同体が教会です。

教会とは霊的な神の国です。死んで、新しく起きるのではなく、生きている間に、神の国の相続者になり、神の子供となって、神の共同体に入れられ、神の家族として誕生するのは、この地上から始まります。天国行ってから始まるのではありません。この地上で神の家族となるんです。それは私達が励まし合ったり、慰め合ったりという人間的な情愛ではありません。霊的な関係。イエス・キリストが死んで甦らなければ、生まれなかったイエスの国です。その過程を通して生まれてきた家が、すなわち教会です。私達が自分勝手にしていいものではありません。だから、パウロが「夫は妻を愛しなさい。妻は夫に従いなさい。」それは、天上の偉大な奥義なのです。夫と妻の関係は、この地上にいる天国の比喩です。夫と妻は誰を言っているのか?『イエス・キリストと教会の関係です。』イエス・キリストが夫であるなら、教会は花嫁だと聖書に書いてあります。その花嫁とは教会なんです。教会はイエスと婚姻の関係です。だから、教会が花嫁で妻なら、夫に従うのは当たり前という関係です。だから、パウロは、夫と妻の関係が、イエス・キリストと教会の関係で、天国の偉大な奥義だと言いました。今まで隠されていた秘密です。しかも偉大な教理なのです。何と言う神の深い知恵。何と言う神の偉大な摂理。と驚嘆して、感嘆しているんです。何故なら、イエス・キリストは妻の為に命を捨てたんです。妻を余りにも愛するが故に、妻の為に十字架で死んだんです。この妻を誕生させる為にイエス様は死んで甦られました。その妻とは、私個人もいいます。男の人もイエスの花嫁。女の人もイエスの花嫁。ここに、性別は関係ありません。イエス・キリストの妻は教会です。イエス・キリストの花嫁は教会なんです。イエス・キリストと結ばれるのは、神の国です。イエス・キリストと花嫁になれるのは、霊的な共同体です。血肉のものではない。だから、能力も関係ない。イエス・キリストが、「あなたはわたしの花嫁だ」と言ってくれたから、完成されたのです。私は何にもしていない。それどころか何にも分からなかった。何にも犠牲しない。何の対価も払わず、花婿にただ愛され花嫁になった関係です。ただ、夫に一方的に愛されたんです。ただイエス様に一方的に贖ってもらったんです。だから、今度は妻が夫に従うのです。教会がイエスに従うのは、当たり前のことです。霊的な共同体が教会であるなら、主に従うのは当然です。何故なら、命懸けで妻を愛してくれ、生んでくれたからです。

それが教会の使命です。

私達は、教会を自分勝手に、自分の望み通りに、考えてはいけないのです。イエス様の十字架の死は、教会を愛し、教会の為に対価を払ったものです。それこそがイエス様の願いだったんです。だから、ヨハネに母を引き取らせたのは、親子関係を結んだり、養子縁組をしたりするのではなく、教会を建てることで、今十字架の下で、最後のイエスの遺言だったんです。教会は個人のものではない。イエスのものです。そして、私達は、全員がイエスの花嫁です。全員がイエスに結ばれた、イエスと繋がっている、葡萄の木の枝です。だからこそ、神の子として、イエス・キリストの霊的な共同体に入れられた、イエス・キリストの家族を裁いていい筈がありません。憎んでいい筈がないんです。悪口を言っていい筈がないではありませんか。イエス様が命を賭してまでも救った相手です。それをこんなに軽々しく、扱っていい筈がないんです。私達はイエスのものなのです。サタンでさえ手が出せない相手です。


28節

~この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。~


イエス様が渇くと仰った時に、酸い葡萄酒をイエス様の口に含ませようとしています。それは、聖書が成就するためだ、と書いてある。確かに詩篇に酸い葡萄酒を飲ませた、と書いてありますけど、それをわざわざ演出の為に、聖書が成就するために、この酸い葡萄酒を飲んだという意味ではないんです。それは、他の福音書で、十字架に架けられる前に兵士達がイエス様に没薬を飲ませようとしたその時にはイエス様は受け取らなかった、と書いてあります。その没薬は何だったかというと、当然酸い葡萄酒ではあったんですが、 麻酔だったんです。普通は死刑に架けられる前に飲ませるものです。少しは痛みが和らぐために、没薬を飲ませるんです。でも、イエス様はその麻酔のような痛み止めは、飲まなかったんです。なぜですか?『十字架の痛みは、一滴残らず、わたしは受け入れる』 少しもその痛みを和らげることはない。全ての呪い、全ての痛み、全ての死を、麻酔とかで紛らわして受け入れることはない。ここは、拒絶だったんです。麻酔とか、痛みを和らげるものは、わたしは受け入れない。わたしは十字架の痛みを一人で受け入れるという意思表示だった。

では、ここで何故酸い葡萄酒を受け入れられたかというと、この酸い葡萄酒は全ての痛みを言っています。全ての苦味、全ての苦しみを言っているんです。わたしは、一滴残らず、その痛みは引き受ける。ここでは受け入れるんです。しかし麻酔は受け入れない。痛み止めはいらない。そのまま十字架を受け入れます。その最後の苦しみの一滴まで飲み干します。という覚悟なんです。ただ、魔法のように聖書が成就して、預言が成就した、というだけの演出ではありません。そうではなくて、イエス様はこの十字架を独りで受け入れる、全ての痛みも受け入れる。苦難も病気も、全世界の呪いを一気に引き受けます。という覚悟を言っているんです。それをヨハネは、ここでイエス様は一つも逃げなかった。自ら自発的に受け入れていた。全ての苦しみ、全ての呪い、全ての痛みを和らげることなど一つもせず、人間の慰めも要求しなかった。それをヨハネは言いたいんです。

そして、最後の、十字架で語った言葉がこうです。


30節

~イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。~


『完了した』です。最後の言葉は。これ、何を完了したんですか?わたしは死ぬという、ただそう言う意味ではありません。ここの『完了した』は、本当に聖書が成就した。律法が成就した。神の国は完成された。霊的共同体は完璧に完成された。ハデスの門も、サタンも、この教会を潰す事は絶対出来ない。わたしが建て、神が完了したとはどれほどの完全でしょうか?私達人間が完璧だ、これこそ完全だと言っても、私達はまた何回もやり直します。完全に終了と言っても明日また失敗して、またやり直し、いつも不完全です。イエス様の『完成した』は、もう不足がないんです。欠けた所がない。全知全能の創造主の神が、『完了した』と言われたら、被造物は一切手が出せないです。一切の言い訳も弁明も許されなくなります。神が天の国を完成させたら、今ある時間はただの猶予です。『完了した』と神が全てを終わらせたら、『艱難時代』、終わりの時です。この二千年は、終わりの時なのです。イエス様の律法の成就は、罪人の救いです。神の国はもう既に建てられています。既にこの地上で始まっているんです。二千年前から、完了しているんです。キリストの花嫁として相応しく準備する期間が、この二千年です。私達は今、花嫁としての準備期間です。婚約はしたけれど、結婚式は天国に行った時、その時私達は婚姻の宴会をします。今は、花嫁候補として、整えられていなければいけないのです。それは、私達の心の事です。皺も染みもなく清められ、心の中に憎しみや怒り、妬み、嫉妬、人を裁く心を捨てていくのです。そんなものは、イエス様の花嫁として相応しくないから、整えていき聖められていくのです。それが花嫁修業です。天国に入る訓練の一つです。私達が、よくクリスチャンは酒を止めて、タバコを止めなさい。礼拝に出なさい。什一献金払いなさい。祈りなさい。聖書読みなさいと教えられますが、もっと重要なのは、心の中で花嫁として整えられていく事です。それがないのに、無理やり酒を止めさせようとしたり、タバコを止めさせようとしたり、喧嘩を止めさせようとしても、無理です。聖霊様が働いてくださらなければ、人は自ら無理なのです。

だからイエス様に祈り、従えるよう努力し、自分の感情を捨てて、天国を目指すのです。