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Jesus Christ Glory Church

ヨハネ福音書20章1-10

2018.02.14 16:25

~さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。~


今日の本文は、二千年前にイエスの墓が空であったか、どうであったか。という本当にあった歴史の事実が書かれてあります。この当時の、ガリラヤ湖で見つかった石に書かれていた文字の中で、ローマの皇帝がこの時代墓荒らしについては、物凄く厳密に処罰をするという勅令が出された碑文が残されています。当時王の墓、或は貴族の墓が常に荒らされていたんです。だから、墓泥棒が専ら流行っていた時代。貧しい者達が墓を掘ってそこにある金銀宝石を盗むという時代がエジプトだけではなく、この当時、このイスラエル地方やローマでもかなり墓泥棒が頻繁に起こっていたので、墓泥棒に関する厳しい処罰が法律で決められていたんです。それでいて、イエスの墓がどういう墓だったか前回メッセージした通り、死刑にあった人は共同墓地で死体がそのまま晒されているのが通例なのに、イエスの墓は、王様と匹敵するぐらいの墓であった。そして、それと同等のミイラづくり、薬や香料を塗ってイエス・キリストを、本当に王様のように墓に入れた事件が前回ありました。イエス・キリストは元々大工で、正直言って貧乏人の倅、本当に貧しい生活をしていたんです。ましてや十字架刑というのは、死刑の中でも最も罪深い死刑だった。そのような罪人は罪人の共同墓地に葬られるはずなのに、イエス・キリストは、誰も入った事のない、豪華で大きな墓の中に入ったんです。だから当然、イエス・キリストは王族や貴族と同様の墓に入っているから、墓泥棒が狙うのは当時ではありうることだったんです。そして、そのような法律もあった。今日はそのイエスの墓が空であったか、どうであったかという事件なんです。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教と、大きな宗教がありますけど、誰も彼もがイエス・キリストは知っています。聖人で偉人だった。偉大な人だった。多くの貧しい人を助けたと、認めない人が世界にいません。だからクリスマスは誰も彼もが祝っています。イエス・キリストの誕生は、誰も疑っていないんです。ただ疑っているのは、死んで甦ったか、ここなんです。イエス・キリストは死んだ。エホバの証人とかキリスト教と名乗る統一教会とか、イエス・キリストは死んで終わっています。甦っていないんです。 でも、イエス・キリストは甦ったのか、生き返ったのか、復活したのか、という所で、この二千年前も大騒ぎだったんです。大騒動です。何故なら、イエス・キリストを一旦墓に入れた後、イエスを死刑にしたユダヤ人の祭司長、律法学者、「死刑にしろ、死刑にしろ」と大騒ぎした人達は、何と言ったか?彼等はピラトに向かって「イエス・キリストは三日後に甦ると言っているので、弟子達がイエス・キリストの死体を盗んで、甦ったと嘘をついてはいけないので、見張りをつけてくれ」と頼んでいるんです。イエス・キリストが死刑になった瞬間に、ユダヤ人達はピラトに向かって、兵隊を墓場の前に置いてくれ、番人を置いてくれ、しかも、石で封印してくれ、しかも、封印のおまじないまでしてくれと、嘆願していたのです。そしてその時の碑文で、その通りに実行していることが書かれてあります。イエス・キリストの墓は誰もどけられない大きな岩で封印し、そして兵士達が何人も寝ずの番をしていたんです。そして弟子達がイエスの死体を持っていくといけないから、と言っていたあの弟子達はどうしましたか?十字架で逃げました。墓に行って、イエスの死体を盗むような勇気のある弟子は一人もいません。この時ペテロは三回呪って逃げたし、全ての弟子はイエスから逃げています。十字架には女達しかいないんです。男は誰もいなかったんです。ヨハネは居たけれど。でも、その弟子達が死体を盗むほどの勇気はありません。だから、イエスの死体を埋めてくれたのだって弟子じゃなかったんです。お金持ちのアリマタヤのヨセフだったんです。信仰告白を大胆に言えない隠れキリシタン達が死体を墓に入れたんです。この人達はお金持ちの人達です。その時弟子達は全員居ません。葬りの時女達だって遠くから見ていただけです。弟子達は誰もイエスの死体に触れてはいません。その弟子が盗むはずないんです。盗む勇気なんかないし、強い信仰もありません。しかし実際に金曜日に死刑が実行されました。そして、金曜日にイエス・キリストは、墓の中に入ったんです。紛れもない史実です。そして、岩で封印がされ、ローマ人の屈強な、訓練された兵士が何人も番をしていたし、祭司長達はテントを張って、そこに居て見張っていたんです。何人かのユダヤ人の議員達も寝ずにそこに居たんです。何故なら暴動が起きたらいけないし、テロが起きてはいけない。イエスの死体は絶対盗まれてはいけない。三日後に甦ったと、嘘をつかれてはいけない。それは当時凄い大事件だったからです。 でも、今日の一節にみるマグダラのマリヤが週の始めに墓を見に行ったとは、日曜日の朝です。日曜日の朝、やっとユダヤ人の安息日が終わって、日曜日の朝、イエス・キリストにもう一度香料を塗りに行こうとして、女達が墓を見に行くとその岩はどけられていたんです。大男でさえ持ち上げられない岩がコロコロと転がって、封印は解けていて、そこに天使達だけが居た、と他の福音書に書いてあります。「イエスは甦られました。もうここには居ません。」と天使の話しを聞き、マグダラのマリヤが急いでペテロとヨハネの所へ行ったんです。イエス・キリストの死体がありません。誰が盗んだか分かりません。とマグダラのマリヤは言っています。甦ると言われたイエスの言葉を誰も信じていないんです。このマグダラのマリヤもユダヤ人の悪い人か、或はローマ人の兵士が、或は墓泥棒が、イエスの死体を盗んでいったのではないかと報告しています。 「甦ります。私は必ず甦ります。」このイエスの言葉を誰も信じていない。そして、ペテロとヨハネも信じていない。そして、急いで墓まで走って行ったんです。若いヨハネが先に着いて、次にペテロが着いたんですが、本当に墓にはイエス・キリストの死体がなかったんです。でも、ここでまた不思議なんです。亜麻布とターバンがそのまま置かれてあった、と書いてある。この亜麻布は白い麻の布を細く切って包帯のようにして首から下は包帯のようにグルグル巻くんです。ミイラにするために。だから、私たちがホラー映画で見るようなミイラの状態です。だけど、首から上はターバンのように、風呂敷や手拭いのような太い亜麻布で、大きな亜麻布で顔を覆うんです。その顔を包んでいたターバンと首から下の包帯が巻かれていたのが分かれていて、しかもです、巻かれたままの形で置かれていて、身体だけスッポリ蒸発してしまった状態で布があるんです。包帯を取った、とか、そのターバンを取ったとかの状態ではないんです。身体だけどっかいなくなっちゃったほど、そのまんま包帯とターバンが棺桶の上にあるんです。それをペテロとヨハネが見て、信じた、と書いてあります。ここは何かというと、律法に依っては、成人男性の二人が証言しなければいけないという法律がユダヤ人にはあって、だからペテロとヨハネは弟子の中でも、いつもイエス様と一緒に居た弟子、第一の弟子、第二の弟子、と言われるほどなので、証言に立つ為に、二人はここを見ているんです。ここは、女達が十人見ても証人と認められない。男で、成人した二人が証言しないと、それは証明されない。だから、ペテロとヨハネが見て信じた。と書かれてある通りです。そして、そこの墓は空っぽだった。 ここで、ラザロの死んで蘇った話がこれより数日前にあります。ラザロと言う男の人は、同じようにミイラの状態で墓に葬られて、四日後にイエス様が「ラザロよ、出てきなさい。」と言った時に、彼はその墓から出て来たんですよね、それはイエス・キリストの復活を象徴するものだったけれども、でも、彼はミイラのまま出て来たんです。彼はターバンを巻かれたまま、包帯を巻かれたまま、その状態で墓から出て来たんです。そして、イエス様が「包帯を取ってあげなさい。そして彼を立たせてあげなさい。」と、言います。イエス様の包帯は、包帯がそのまま棺桶の上にありました。普通イエス様の死体を盗んだら、その包帯は、包帯のまま盗むでしょ。一々イエスの死体を盗むのに包帯を取って盗む人はいないでしょう。巻かれたまま盗む方が簡単です。もし、イエス様がご自身で歩いて行かれる場合も、ラザロのように一旦心臓が止まったけど、もう一回心臓が動いたっていう状態であるならば、包帯を巻いたまま出て行くでしょう。素っ裸になって墓から出るなんて事はないんです。包帯を巻いたまま出て行くでしょう。でも、イエスの復活はラザロのように心臓が一回止まって、再び動いたという蘇生とは違います。完璧な、完全な体の変化です。イエス様は死んだら自分の肉体はもうないんです。何故ですか?神の姿に戻られたからです。神の姿に戻られたので、布はいりません。だからそのまんま巻かれていたミイラ状態の、包帯が棺桶に置かれ、イエス様は蒸発したみたいに、いなくなっているのは当然です。もうイエス様は肉体をもつ必要がないんです。死んで一旦、私達の罪のための血を流した贖いが済んだら、イエス様は墓に留まっている必要がなかったんです。神の御姿に、イエス様は元の姿に、元の位置に戻られたんです。それが、復活だったんです。復活の事件。 だけど、ペテロとヤコブも女達も、墓を見てイエスの死体がない事は分かっていた。それは証言しています。それは信じているんです。イエスがいないことは。でも甦ったことはまだ分からないんです。イエスが復活しているという、あの聖書の言葉はまだ二人にも、誰にも、人間にはまだ誰も理解していなかった。だから天使に言われるんです。「どこを見ていますか。何をしているんです?イエスは甦ってガリラヤに行きました。」と弟子達は言われるんです。そして、弟子達が余りにも恐怖で鍵を閉めて部屋の中で、「イエスが甦ったと言っているけど、本当かどうか。」って大騒ぎしている時に真ん中にイエスが突然現れて、「何を驚いているんです?何を怖がるんです?」と、おっしゃいます。それから四十日、イエスは皆の前にお姿を現します。このイエスの復活の事件を一番古く、復活の事件をはじめに書いた人はパウロだったんです。福音書に目撃談はあっても、パウロが初めに福音の中で、手紙の中で、イエスの復活を語っています。 


第1コリント15章3節~8節

~私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。~


これは、イエスが死んで二十年から三十年後に書かれた、最も古いイエス・キリストの復活を書いた手紙です。ここはキリスト教の、クリスチャンとしての教理でもあり、私達が救われた告白でもあるんです。イエス・キリストは聖書の通り、私達の罪の為に十字架で死んだ事、そして葬られた事、三日目に甦った事、この三つは一つも抜けてはいけないんです。私達がイエス・キリストを説明する時に、死んで甦ったもそうですが、ここは葬られた、まで正しく必ず告白しなくてはなりません。使徒信条にも『葬られた』と信仰告白しなさい。と言ってるように、私達の信仰告白は、『イエスは罪の為に死なれ、そして葬られ、三日目に甦った』これが救いの教理なんです。そして、イエス様がはじめて復活して甦って、現れたのは女達でした。そして女達の後に、ケパに現れ、(ケパとはペテロの事です。)それから十二人の弟子に現れた。そして、その後五百人が同時にイエスを見た、と言っています。この五百人はイエス様がガリラヤに行かれた時、ガリラヤで多くの者達がイエスを見ています。その後、ヤコブが見た。このヤコブはイエス・キリストの生まれた後、弟とも呼ばれ、マリアから生まれた兄弟達です。イエス・キリストが死んで甦るまで、彼らは兄弟だったから、イエスが神である事を信じてはいませんでした。ただの人間としか見ていなかったんです。むしろ恥晒しな兄弟だったんです。死刑にもなって。イエス・キリストをむしろ悪く思っていた兄弟達。家族達。でもその後、その兄弟もさすがに甦ったイエスを見て、神であった事を信じたんです。後にこのヤコブ、イエス・キリストの兄弟と言われている、このヤコブはキリスト教初代教会の一番トップに立つ、総長になっていく。そして最後に、パウロに会った。だからこの人達は全員、イエス・キリストが復活した、その復活したイエスを見ているんです。五百人以上の者がこの復活を見ている。なのに、パリサイ人、祭司長、イエスを死刑にしたサンヘドリンの議員達はどうしたと思いますか?ローマ人の兵士でさえ怖がったという碑文があるんです。イエス様が死んだ時に空が真っ暗になり、大地震が起きたんです。その上に、神殿の天幕が上から下まで破れ、しかもあれは、象が引っ張っても破れない程の絨毯なんです。その絨毯が破れ、その上に死人が蘇った。この、色んな、あまりにも様々な出来事の中でやはりこの方は神であった、というローマ人達もいっぱい増えていった。そして怖れたんです。イエス・キリストを死刑にした人達はこう言うんです。そのローマ人の兵士達にお金を渡して、「弟子がイエス・キリストの死体を盗んだと言い触らせろ。」と命令します。だからいまだにユダヤ人達はイエス・キリストの甦りを信じていない。と、聖書に書かれてあります。いまだにユダヤ人は信じていない。故にその通りになりました。ユダヤ人でキリスト教はほとんどいません。イエス・キリストが死んで甦った事を信じるユダヤ人はいまだにいないんです。だから、この嘘のデマがいまだにユダヤ人の中では信じられている。でも、五百人がいっぺんに見ているんです。その当時だって、ユダヤ人の中に残っている手紙の中で確かにイエス・キリストは甦ったと告白している人もいるんです。サンヘドリンの中に、議員の中にイエスを死刑にしろ、と言った人の中にもイエス・キリストが甦ったと見た人達がいるんです。その本当の証拠があるにもかかわらず、いまだに多くの、ほとんどの者が、イエスは甦っていない。復活なんかあり得ない、と言っています。 でも、おかしいんです。彼らは暴動を恐れて、このようにストライキやデモが起こるのを恐れて、イエス・キリストの死体は弟子が盗んだ、と言い触らせと命令した彼らは、弟子にはそんな力がない事を知っているんです。すでに逃げたという事を知ってます。なのに、なんでこんなに恐がったんでしょう。なんでイエスの死体が無くなった事がこんなに恐いのか。ローマ人をはじめ、ユダヤ人をはじめ、皆怖がっているんです。イエスが甦る事を。何故ですか?イエスが死んだ事を誰も彼もが恐れています。誰も彼もがイエスは神だったかもしれないと思っているんです。心のどっかで。そして、甦るだろうとどっかで思っちゃうんです。だって死人が蘇って、イエスが手を置けばどんな病人も癒され、水の上を歩いたんです。こいつは神を冒涜した、殺せ、と言っているにも拘らず、神だったかしれないとどっかで思っていて、甦るかもしれないと思っています。彼らは何が恐いんですか?神からくる天罰が恐いんです。だから、無かった事にしたい、見なかった事、聞かなかった事にしたい。イエスは甦っていないと、思い込みたいんです。 どれだけ神様について人間は怖いのかということです。いざという時本当に怖いのは誰ですか?泥棒ですか?殺人者ですか?地震ですか?本当に怖いのは地獄です。私達、もしかして癌だと言われ、明日死にますよ、って言われた時本当に怖いのは死ぬ事じゃないです。地獄へ行く事、或は神の裁きを受ける事。死の直前は、死んだ後私はどうなのるのか?これが一番怖いんです。この人達は皆そうです。今はいい。死んだ時、神を殺した自分達はどうなるのか?誰でも怖いんです。無意識に怖いんです。信じていないっていう人でも、見てください、死を告知された瞬間、皆どれだけ死が怖いですか?でも、人間が本当に死が怖いんですか?違います。本当に怖いのは神です。本当に心の奥深くで、信じていないという者でさえ、本当に怖いのは神です。何故?裁くからです、神は。それで私達は、生きている間にこの神と出会い、生きてる間に、他の、自分の隣人もイエスに出会わせたいと願うんです。死ぬ時、怖いからです。死んだ後必ず裁かれるんです。その時、私達に中間はないです。天国か地獄です。これを信じないならキリスト教ではありません。そして、まだまだ先だから考えるのは止めよう。違いますよ、子供でさえも、天国と地獄をハッキリと理解して、死ぬ時、私は必ず天国へ行くという告白が必要なんです。何故?アメリカは9歳の子供でも癌告知をします。3歳でも、4歳でもするんです。何故ですか?クリスチャンの親はこう言います。「あなたはイエスの元へ行くから、何も怖くない。死を受け入れなさい。」クリスチャンの家族はこういうんです。たとえ子供でも癌告知をするんです。でも、日本はしません。秘密にします。死ぬ事を内緒にするんです。癌だって言わないんです。言ったとしても、治るよって言います。手術をすれば治る。薬を飲めば治る。こうやって慰めるしかないんです。何故?死が怖いから。受け入れられないんです。 私達、今日の復活祭、今から聖餐式をします。イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むという議式です。儀式です。あくまでもこれは、儀式です。あくまでもこれは、葡萄ジュースにパンに過ぎません。でも、私達が心で今やる事は、パンとジュースじゃないんです。イエス・キリストが私達の罪を赦し、そして私達が天国行く事が出来るように神の子供としてくれ、神様が私達の父となってくださる関係を結ぶ記念なんです。それをイエス様がこの死刑場で達成されたんです。物凄い犠牲を果たし、槍で刺され、平手打ちをされ、唾をかけられ、服を脱がされ、裸になって十字架刑です。神が何故そこまでするんですか?私達全ての呪いを引き受けたからです。全ての病、全ての呪い、全ての罪、全ての卑しさ、辱め、それ全部引き受けて、「わたしが代わりに引き受けるから、あなた方は必ず救われる」これを約束されたのです。そして私達は記念しなさい、と命令されています。私達クリスチャンの中で儀式では二つあります。洗礼式と聖餐式です。クリスマスではないんです。必ずやりなさいと言われたのは、洗礼式と聖餐式です。聖餐式は今日やる事、洗礼式は皆さんがなさった、水の中で一度古い自分が死んで、水から上がる時、新しく生まれ変わる、という儀式です。これは生涯に一度しかありません。でも、聖餐式は毎日する教会もあれば、一週間に一度、或は月に一度、年に何回、その教会によって違いますが、私達は今日、この聖餐式を記念するんです。そして今から、イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むという契約の記念をします。心から私達が救われた事を感謝し、イエス・キリストが復活した事を感謝します。今は本当に終わりの時代です。私達の周りは命の保証はないんです。いつ、誰が、死ぬか分かりません。でも、私達が怖いのは死ぬ事じゃないんです。イエス・キリストを知らない事です。イエス・キリストを知らないで、地獄へ行ってしまう事が一番怖い事です。あなた方がうかうかしている間に家族は明日どうなるか、分からないんです。何も伝えなかった、あなたの隣人はそのまま終わってしまうんです。明日地震がくれば、福音を伝える時間はなくなるんです。今日という今日に感謝して、今日という今日、自分の最善を尽くし、言えなかったらせめて祈るとか、まだ福音を語る勇気がないなら、その人の名前を挙げてイエス様に救って欲しいと、毎日祈るべきなんです。そして、それを今日私は生まれ変わって、今日から私が絶対イエス様に従いますという決心をして、イエス様の聖餐式の記念に与かりたいと思います。アーメン。