ヨハネ福音書20章30-31
~この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。~
この30節、31節で『あなた方が信じる為』と書いてあるし、このしるし以外にも沢山のしるしがあった、と括られています。その前にはトマスが、「私は信じない。」と言ったところにイエス様が現れて、「見て信じる者よりも、見ないで信じる者が幸いだ。」これは、ヨハネが書いた1世紀末頃には、もう目撃者がいなくなっていて、ここからは見ないで福音を聞いて信じる者達の時代がやってくるからです。そして、目撃者達には沢山のしるしをイエス様は見せた。しかし、イエス様はもう弟子達の前で昇天されるのを見せた以降は、その姿を肉眼では現しません。当然目撃者達もいなくなる。だから、『しるし』ではなく、福音を聞いて信じる時がくるのです。というのが、最後の、ヨハネの20章最後の括りだったんです。でも、21章にくると、ガリラヤ湖畔の事件が起こります。イエス様が弟子達の真ん中に立たれて、「聖霊を受けなさい。あなた方に平安があるように」と仰った後、『あなた方を遣わすためだ。福音が全世界に行くためだ』と書いてあります。そして、『あなた方が信じる為』という括りで20章が終わっています。なのに、21章は弟子達がまたイエスから散らされている物語が書かれています。信じる為、あなた方が私から派遣される為、福音が宣べ伝えられる為、という括りで終わっているのにも関わらず、ガリラヤ湖に向かい、またイエス様から離れて漁に出て、自分の仕事に戻ってしまうという話になってしまうんです。一旦20章で締めて、ストーリーが完成されているにも関わらず、21章では、また弟子達が散らされた話が出てくる。だから、多くの神学の学者達はこの21章は別のものではないのか?という、論争の的だったんです。このように、本当はヨハネの福音書は20章で終わっていたのではないのか?21章は後から書かれたものではないのか?するなら誰が書いたのか。21章は別の人が書いたのか。ヨハネが書いたのか。論争が続きます。でも、マルコの福音書も一旦括られた後に、『』書きが書かれていて、また福音書が続けられている事もあって、マルコの福音書は元々写本が2つも3つもあるそうなんです。だから、マルコはここまで書いて、その後はまたマルコが別な時に書いたのか。或はマルコじゃない人が書いたのか?という風に言われていて、だからこのように写本が別々に存在している聖書もある。でも、ヨハネの福音書は20章で終わったはず。21章は別な人が書いたのではないかと言われているけど、2世紀頃の書物の中に初めから21章まで書かれているという証拠があるんです。初めからヨハネの福音書は20章まで写本があって、21章は別に存在したという事はないんです。ヨハネの福音書が1章~21章まで読まれている事は2世紀頃からも言われている事。だから別の人が書いたかどうか以前に、これが筆記されて配られている時には、もう既に21章はあったんです。だから、20章で切られたのか、21章は別に書いたのか?という論争の答えは、初めから21章は存在していたと言われていて、では、文体は違うのか?と言えば、文体も似ている。だから、21章もまた、ヨハネが書いたと言う人もいれば、違うと言う人もまだいる。でもここで、さっきも言ったように、『あなた方を派遣する』で終わっているのに、内容が突然、散らされた話はおかしいのではないか?というのが一つ。あと一つはヨハネの福音書は20章までは、主の、イエスの愛した弟子という表現しかありません。ヨハネは、自分の名前は直接出さないんです。母親のサロメや父ゼベタイという名前も出さない。自分の兄弟のヤコブの名前も出さないんです。そして、自分の事もヨハネとは言わないです。イエスの愛した弟子、という表現をずっとしていくんです。だから、ヨハネはイエスが本当に愛してくれたという事を表現している。自分の名前を決して明かさない。なのに、21章になると、自分の名前を明かしているんです。ガリラヤに戻った人達の名前の中に、ゼベタイの子達、とハッキリとヤコブとヨハネだと表現がされている。だから、今までのヨハネの福音書で自分を表現するのとは、違う。そして、終わりの方にいくと
~これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。~
と語られています。だから、ここで確かに考えられるのは、ヨハネの福音書は20章までしか書いていないだろう。信じない者ではなく、信じる者になれとは、ヨハネ福音書の最後だったんだろう。とどうしても考えてしまう。では21章は誰が書いたのか?と言えば、ヨハネの証を聞いた弟子達が付け足したというのが真実ではないか?と、結論付けることができます。 すると今日の本文、最後のヨハネが語った内容が重要になっていくんです。
~この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。~
この意味が重要になります。このヨハネの福音書は1章が紹介されて、2章~12章までは、しるしと奇跡の話が出てきます。それは、七つのしるしなんです。でも、この七つのしるしは、主がユダヤ人達、民衆、一般の人の中で、「わたしこそ、神の子キリストだ。わたしこそ王である。わたしこそ主である。あのモーセに語り、モーセに現れたのは、わたしである。天からパンを下したのもわたしで、あの岩から水を出したのは、わたしである」とずうっと証ししていきます。その七つのしるしの中では、弟子というよりは、一般の、見ている全ての人に向かって、「わたしこそメシヤであなたがたが待ち望んだキリストだ」を証ししていくんです。そして、その12章の後は弟子達に語られる教えなんですが、しるしはないです。主には、説教なんです。イエス様はここからは説教を続けます。ヨハネ書の特徴なんです。他の福音書ではもっと奇跡やしるしが沢山書かれてあるのに、ヨハネは七つしか書かないんです。その上にその後は説教に入っちゃうんです。では、一般の人には大変な奇跡を行ったけど、弟子達の前ではしるしを行わなかったのか?という意味では、ヨハネは違うと言っています。この他にも、もっと多くのしるしをイエスは表わしている。弟子達は他の誰よりも、偉大な奇跡を見て、体験している。それをもし、本当に書こうとするなら、この世の書物では収めきれない。とヨハネは証言しています。即ちヨハネは敢えて書かなかったと言っているんです。私はイエスの事をもっといっぱい知っている。でも、敢えて書かなかった。わざと七つのしるししか、私は記録しないと言っているんです。そして、ヨハネの証言や証し、見た、目撃したものは、全て弟子は聞いています。その頃、1世紀までの間にヨハネから聞いた弟子達は、もっと他の沢山のしるし、もっと他の沢山の奇跡は聞かされている。しかし聖書には書かれていない。その弟子達が、ヨハネが20章まで書き終え、それをまた誰かが筆記して手紙にして送らなければいけない段になった時に、この21章を入れたかった。聞いた業の中で、聞いたしるしの中で、イエス様が弟子に表わした奇跡は驚くばかりだったのです。魚を網で取れない程の大漁で、それはその前に「子供達、魚が取れないのですか?」とイエス様が現れ、ヨハネが気付き、「あの方は主です。」そして奇跡が起こった。これを絶対入れたかったんです。ヨハネから聞いた弟子達は。ヨハネは七つのしるしで充分と、思っていたけれど、聞いた弟子達はヨハネが死ぬ間際、或は死んだ後、これを発行、この聖書を写本する時に、この21章を必ず入れたかった。だから、これを書いたものは、イエスの、本当の、真の弟子だった事を、私達は証しする。何故なら、このガリラヤの奇跡をヨハネは見ているからです。だから、21章は足されたのではないかと言われているんです。弟子達にとっては絶対省けない。この奇跡だけは絶対入れなくてはならないと思い、21章を書いたとされる理由です。ヨハネが20章まで書いて直ぐ、皆に配られるはずです。その間にそれをまた清書したりしなくてはならない。それで、その間にまた時間がかかります。何故なら、当時は羊の革やパピルスに書いているので、今のように簡単ではないです。その間に沢山の時間が費やされます。証を聞かされた者達が、この21章を入れたい。もうヨハネは生きていないかもしれない。でも、私達はこれを入れたい。と言って21章が書かれたのではないかと言われているのが、真相ではないかと思われます。 このようにして、ペテロやヨハネ・ヤコブは、特にイエス様に奇跡を見せられました。他の弟子は置いていかれたのに、御姿が変わる時も、死人が生き返る時も、三人しか連れて行かない。だから、書かれている以上に三人は見ている可能性があります。弟子達にしても、もう書物に書けない程の奇跡を見ているはずなんです。その奇跡をヨハネは書く必要がない。敢えて書かなくてもいいという判断をしているんです。だから、沢山のしるしは行われている。弟子達は全員、それを見た。でも、私は敢えて書かない。ヨハネは七つで充分だったんです。イエスを紹介するのは、それで十分だ。それだから、見ないで信じる者の幸いと、トマスの事件を通して書いています。あなた方は見たから信じたのではなく、聞いたから信じて、そして、聞いた後にそれが事実である事を信じたから、まるで見たかの如くにイエスと直接会ったかの如くに信じたのではないか、とペテロが言っている。その後の時代は、イエスを見た事もない。その奇跡を味わった事も無い人、或は異邦人達が福音を聞いて信じる為に、この福音書は書かれていますよね?その2世紀以降は、イエスを見た事がない。その目撃証人も死んでいる。では、何で信じるのか?『聞いて信じる』という次元に入っていかなくてはなりません。次の世代は、見て信じたのではなく、聞いて信じるしかない。でも、初めに福音書を書く弟子達。初めに証をし、伝道をし、目撃した内容を語る人には、イエスは見せたんです。だから、イエス様の公的な働きの三年半、或は四年間の公生涯の仕事の時には、この十二人の弟子、或は五百人が目撃することは必要だったんです。何故なら、全世界にイエスは生きていると証しする為には、目撃者が必要だったから、イエス様は目撃者には、もの凄く沢山の奇跡を見せているんです。だから書物には書ききれない。 イエスがお生まれになった聖霊降臨、処女マリアからお生まれになったお話から、十字架の刑まで、復活のところまで書こうとしたら、どの書物もまとめられない。それだけの多くの奇跡が余りにも行われているから、全部書ききれない。でも、それを全部覚えている弟子達は口で言い広げました。そして、聞いて信じる者達には福音書を書いてくれたんです。だから、他にも沢山あったけど、書くには七つのしるしで十分だ。あなた方は見ないで信じなさい。聞いて信じる者になりなさい。これが新約聖書なんです。だから、イエス様は新約聖書を書かす者には、どこにでも連れて行き、沢山見せて、沢山力を与えているんです。何故ならその後の人が聖書を読んで信じる為、それが重要だったからです。マルティン・ルターが宗教改革する時、彼はたった一人だったんです。大いなる力のカトリックの一枚岩に向かって、しかも司教でもない、ただの修道士、平信徒であるルターが立ち上がる時に、独りぼっちでした。九十五箇条カトリックに突きつける時、それを門に貼り付ける時には一人だったんです。しかし、彼は聖霊の力を受けて、それでも勇気を以って九十五箇条にも及び、カトリックの間違いをつき付けます。聖書の、パウロの言っている事とは違うという九十五箇条を書いて、教会に貼り付けるということは、大いなる力に立ち向かうことだったんです。でも、その時ドイツは丁度、印刷技術が発達していくんです。そして、印刷機が生まれて来たんです。従って、マルティン・ルターの九十五箇条が一瞬にして印刷されて、二週間の間に全ドイツで読まれたんです。それから賛同する宗教改革者達が生まれたんです。一瞬の内に起きました。あっという間にマルティン・ルターに同意する人達が立ち上がったんです。この奇跡がなければ、この宗教改革はなされなかったかもしれません。あの時、印刷機が無ければ、あの時印刷技術がドイツに無かったなら、こんなに早くは…もっと時間がかかったはずです。プロテスタントが生まれるのに、もっと長い時間がかかったでしょう。しかも、それをはじめたのは、たった一人です。たかが平信徒の身分で。主教でもなければ、教皇でもない。あれだけ大いなる力を誇っているカトリックに向かって。当時は政治を行っていました。権力機構だったカトリック教会に向かって、一人で広められたのは印刷機があったからです。二週間という短時間の間に、宗教改革者達が立ち上がるという快挙は、ドイツ中の人達が、それを読めたからです。そのように、福音書は、とても重要です。聖書を読むことは本当に重要だったという事です。はじめの百年は聖書が無いから、弟子達の口頭、言葉だけの伝道だった。でも、福音書が書かれた後は、説教と書物が伝道の道具になっていくんです。だから、伝道は、当然聖書と説教が同時にこなくてはならない。そうやって、今の今まで聖書と説教が同時にされてきました。でも、遥かに活字には力があります。ヨハネは、あなた方は見ないでも信じなさい。聞いて信じなさいと言いました。説教は勿論ですが、書物では書ききれなかったイエスの力を、絶対人間の言語では収められない。そして、ヨハネは万物の創造される前におられたイエスを見ているし、黙示録で見ているように、地球の終わり、世の終わり、新しいエルサレムを見ています。その創めから、終わりまでを見ています。神様の知識の一部分をスクリーンのように見せられて、幻のように頭に入れられているんです。捕らわれていたパトモス島で。だから、ヨハネが知っているのは、ヨハネの福音書の短い文章の中だけで納まりません。聞かされた弟子達は知っていた。でも私達は聞かされてはいない。私達は、その生きた弟子達とは会ってはいないから。だから、私達はこの福音書でしか分からないんです。だけどヨハネは七つのしるしで十分だって言っています。何故なら福音は、この奇跡としるしが全てではないからです。考古学者達が歴史を見る時に、発見された土器、発見された色んな時代のしるしは、全部書き記していきます。その既存の書物が何冊あろうと、歴史の事実は消えていくので、証拠が現れた瞬間全部書くんです。一つ残らずです。発見した人が全部書いていきます。そして、何冊でも本を出します。なのに、イエスに関してだけは、書かなくていいと言うんです。イエスに関してだけは、「これで十分だ。」と言って短い文章で終わっちゃうんです。何故歴史の事実だったのに、これは、史実だったのにも関わらず、ヨハネは書いてくれないのか?弟子達は何故こんなに短い文章で終わらせてしまうのか?今になって異端者は、イエスの事を間違って書いています。見てもいないくせに、聞いてもいないくせに、勝手に書いちゃうんです。それは異端です。でも、見て、聞いた、イエスを実際に手で触った者達は、これしか書いてくれないという事です。もっと書く内容があるにみかかわらず。もっと聞いたら信じるかもしれないと人間側は思うかもしれない。でも、ヨハネはこう言うんです。「いいえ、もうこれだけで十分です。」確かに弟子達はこれ以上の事を知っている。これ以上の事を見た。イエスに関してはあなた以上に全部知っている。でも、書かないって言っている。何故?イエスは今も生きているからです。歴史の人物達は、もう登場しません。死んでいないんです。何も語りません。でも、イエスは今も生きているから。聖霊はいまだにイエス・キリストを教える事が出来る。だから、ここでヨハネは、「これで十分だ。聖霊が働いて皆に語るから、私の仕事はここで十分なんだ。」これがヨハネの最後の20章の括りの大事なところなんです。あなた方はこの新約聖書一つで信じるべきだ。信じるに値する。信じるに、十分だ。不足がないと教えます。そして、それを教えているのは、聖霊様だから私が全部書く必要はない。聖霊があなたに教えるだろう。これがヨハネの言いたい事なんです。だから、新約聖書が書かれていない時には、弟子達の口が重要だったんです。弟子達が証ししなくてはならなかった。目撃者が必要だったんです。でも、新約聖書が書かれた後は、目撃者はいらないんです。もう、そのような奇跡やしるしを語る必要がない。イエス・キリストが死んで葬られ、甦った話で十分救われるに値する、十分に聖霊様がそれだけで救ってしまう。だからヨハネはこれ以上書かなくていいんです。 そして、
~しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため~
と書いてあるように、これは「告白しなさい。」です。イエスが神の子と告白するためと言ってはいますが、ラザロが死んだ時、マルタに向かって「あなたは信じますか?」とイエス様が言われた時、「わたしは甦りで、命です。真理です。道です。」それを、「あなたは信じますか?」「はい。私は信じます。あなたが神の子キリストである事を信じます。」と彼女は告白しています。ペテロも「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白している。でも、彼らは悟っていないんです。それ言った後だって、彼らは悟れませんでした。イエス様が復活する事も信じていないんです。決して彼らは悟っていなかった、と聖書に書いてある。だから、ここでいうのは、口先だけの事を言ってないんです。神の子キリスト、イエスは主。これを告白するためと言ってはいないんです。ヨハネが今言っているのは、信じてない者が信じるようにと言っている訳ではありません。この告白はもう、あなたが、あなたのものではなく、イエスの所有に移されたので、従いなさい。この福音書が書かれたのは、あなたがイエスを単に信じる為ではなく、信じた者が更に信じ続け、もっと深くもっと高く、もっと誠実にもっと忠実に信じる為と言っているんです。 福音書は伝道の書ではなく、教育の書です。誰に向かって?信じた者にです。福音書が出たのは、聖書が出たのは、信じない人が信じる為ではなくもう既に信じた者が信じ続ける為、教育を受ける為、み言葉の訓練を受ける為です。
~また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。~
このように信じ続ける、信じた者が更に信仰を持つため、この福音書は書かれました。そして、あなたがイエスに依って命を得る為福音書が書かれた理由です。それは、イエスに依って命が与えられる為です。イエスの所に、「聖書はこう書いてありますが、律法で何が重要ですか?」と聞いた時に、イエス様は「『神を愛し、隣人を愛す』が一番重要だ」と言ったところ、「それは立派なお答えです。」とパリサイ人や律法学者達は言うけれども、イエス様はそういう人達に向かって何て言うのか?「あなた方は聖書を調べているが、聖書を読んでいるが、聖書を勉強しているが、あなた方はわたしの所に来ようとはしない」と言っています。「あなた方が聖書の中で調べている事が、わたしだという事を知らない」イエス様は聖書を読んでいるクリスチャンに向かって、そう言っています。だから、わたしもあなたを知らない。だから、わたしもあなたの耳を閉ざし、わたしもあなたの心を閉ざし、決して聞いて悟って悔い改め、喜ばせないようにする。イエス様はそう言っています。ヨハネはそれを語っています。 イエスに依って命を得る為とは、イエスに向かわない人は聖書を読んでも無駄です。説教聞いても無駄です。何故?聖書を調べる事が重要じゃない。読むことが重要じゃない。聖書は研究する書物ではない。イエスに出会うもの。イエスに従うもの。イエスの声を聞くもの。イエスを求めているもの。これが、聖書です。福音書が書かれた理由。調べる書物ではなく勉強するためでもありません。従うために書かれたんです。従順するため、服従するため、忠誠を誓うため。誰に?我が主(あるじ)に。私の王に、です。 それが、「我が神、我が主」と告白する責任です。 古代の封建時代は王の命令は絶対です。従わないなら死刑です。奴隷も同じで、主の命令は完全服従です。この時代は、もうそんなことはしません。でも聖書は、イエスは王で、主と言っています。私達信じる者はそのしもべ。だから絶対服従の原理は同じです。 この時代の自由とは何ですか? 「自分が王で、主」とうたっています。誰にも従いません。王はなく、主も存在しません。「私が主人公です」 神はもはや人間の同等の友、人間の命令を聞かなくてはならない、しもべとなっています。 これでは聖書のいう意味がわからないのです。当然従えません。 これがかつてないほどひどいといわれる、神を最も冒涜する終わりの時代です。犯罪が多発することではありません。 神を手軽に信じたと口で言いながら、神がわからず、神の力を侮って、主が人間となっている時代です。そしてその自覚も持てません。恐ろしい時代なのです。 今も昔も、神は絶対で、怖れるお方です。神が王としてこの地でご自身を現される時が、地球の、人類の終わりです。信じる者は聖霊様がそのことを教えます。 今もイエス様は信じる者の主、王です。アーメン。