レイライン
https://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol6/ 【富士山を巡る不思議なパワー】より
法華経の聖地七面山は多くの行者や参拝者の参拝が多い霊山である。特に春分の日と秋分の日は一大イベントで、七面山敬慎院から見る富士山山頂から昇る太陽を見るために多くの参拝者が集う。
日本一の富士山山頂から特別の日に太陽が昇る様は有史の日本人にとって霊験新たかであったろう。
このように、特別な日、特別な場所(断層上とか)、に聖地が一直線に並ぶ現象をレイラインという。
レイライン(Ley-Line:光の線:The Old Straight Track)は1921年イギリスの考古学者が太古の遺跡配置が直線に並ぶ様を発見し、著書『en:The Old Straight Track』により一気にメジャーになった。
単なる偶然なのかそれとも意味があるのか、その答えを解くために様々なラインを検証する考察が世界中でなされている。
上記に示したラインは明らかに意図を持って七面山を聖地にしたことが分かる。これは疑いようの無い事実であろう。
次に以下のようなラインを想定した。七面山-人穴-富士山-須走浅間神社である。
七面山は春分と秋分の日に「そのように見える場所」を選定して聖地とした。
そのライン上にある人穴はどうだろう?
これは偶然に空いた洞窟である。その洞窟が聖地と成り得るだろうか?ご存知のように富士山周辺には数百以上の洞窟が存在する。しかしながら聖地となっている洞窟はいくつも無い。
その昔、角行はそのことを認識した上でこの人穴にこもったのであろうか?
このようにレイラインも「無理やりなこじつけ」をしようとすれば如何様にも解釈できる危険性があることを認識しなければいけないし、何か意味があるかもしれないことも考慮するべきであろう。
だが、もし仮に隠された歴史の謎を解く鍵があるとしたら現在残されたラインを辿るしかないことも事実だ。新事実はそこにあるのかもしれない。
以上のことを認識した上で、現在色々言われている富士山に関係したレイラインと私が独自に発見(気になる)したラインを考察して見る。
一般的にラインと成り得る条件は、1.太陽の動きと方角(風水とか)。2.断層や地磁気や水脈の上。3.見た目上。などが考えられる。
2006年から富士山にある金運神社が有名になったが、これは船井総研の船井幸雄氏のイヤシロチ・レイラインの成果に他ならない。船井幸雄氏のレイラインは磁場とマイナスイオンを基本に据えられており、ライン上には癒しの地域が並んでいるという。
金運神社は、船井氏が「お金に困りたくなかったら富士山のこの神社に行くと良い」という話から広まったが、実のところ富士山のパワースポットを特定した方法が勉強不足の私には良く分からない。
しかしながら、この神社を訪れた人はパワーを感じるようで実際に私も、「体が温かくなった」とか「金運が上昇した」とかの体験談を良く聞く。
金運神社のレポートはこちらから。
現在はそのご利益が無くなっていると考えられます。
詳しくは→金運神社の場所が変わった?富士山最古、冨士御室浅間神社!
断層や地磁気などで考慮すると事象が複雑化し、思い込みが入り込み易くなるので、私は太古の人々の考えそうなことから考察をはじめたいと思う。
太陽と富士山
まず、一番分かりやすい(太古の人も分かるであろう)太陽の動きについて富士山とともに考察して見た。
太陽の動きとはズバリ、春分・秋分・夏至・冬至の日の太陽の出入りである。
富士山はその高さから遠くの地まで山頂が良く見える特徴がある。そのため富士山の山頂と聖地を重ね合わせる行為は想像しやすい。右図は富士山と諏訪大社のラインを中心に模した。
・春分秋分・日出日没
白山-諏訪大社-鹿島神宮 出雲大社-元伊勢-伊吹山-富士山-寒川神社
・夏至日出・冬至日没
阿蘇-矢吹-諏訪大社-日光 霧島-伊勢神宮-豊川神社-富士山-皇居
・夏至日没・冬至日出
日光-鹿島神宮 諏訪大社-寒川神社 矢吹-豊川神社 元伊勢-伊勢 出雲大社-熊野
ここでさらりと上図に出てきた聖域と神話をおさらいしておこう。
白山
スサノオ、アマテラス、ヤマノカミなどの多くの神々と島々を創造したイザナキとイザナミの神社、白山比咩神社。
イザナミは後に出産の際、焼け死んで黄泉の国に行く。イザナキはイザナミを黄泉の国まで迎えに行くが失敗する。黄泉の国の帰り、禊の最中、三貴子(天照大神《アマテラスオオミカミ》)・月読命《ツキヨミノミコト》・須佐之男命《スサノオ》)がイザナキの体から現れる。
ちなみに、イザナキ・イザナミと同系列の神々は神世七代(十二神)、その上に位置するのが天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を含む別天神(五神)。その神々の住んでいる場所を高天原という。
阿蘇
世界最大のカルデラで、神話の時代噴火を繰り返していた。神々の住む高天原のあった場所という説や邪馬台国のあった場所という説もあり、大和朝廷の故郷かもしれない。もしかすると、邪馬台国の分派(神武天皇の系譜)が阿蘇の地を捨てて高千穂を抜け日向に移動したと考えるのも面白い(天孫降臨でニニギノミコトは高天原から日向の高千穂に降り立った)。
ちなみにニニギノミコトより先に高天原を追放されたスサノオは出雲に降り立ち、大国主命(オオクニヌシノミコト)の代までに周辺の地域を服従させていった。こちらも邪馬台国の分派が出雲に渡ったと考えると面白い。
霧島
先に悪さをして高天原を追放されたスサノオの系譜(~大国主命)が出雲で勢力を伸ばすのを見て天照大神(アマテラスオオミカミ)は孫にあたるニニギノミコトを地上へ降臨させることに決めた。その降り立った場所が霧島付近の高千穂。ちなみに霧島神宮はニニギノミコトを祭ってある。また、ニニギノミコトが鉾を逆さまに突き刺した天の逆鉾は霧島の高千穂峰にある(日本人初の新婚旅行で坂本龍馬が訪れている)。降臨の際、随伴した主な神はオモイカネノカミ(別天神、高木神の子)、道案内したのが猿太彦(道祖神)。
ここで注意しなければいけないことは地名である。神話の移り変わり(神武天皇の系譜)は、高天原=阿蘇?(甘木)=邪馬台国?→阿蘇高千穂?→天孫降臨=霧島高千穂→日向→宇佐・瀬戸内海→上陸=熊野→大和と移動するが、移動した先で似たような地名が存在することは良く知られている。
つまり、一族が移動するたびに長い年月をかけその地に留まり、過去の土地の記憶を新しい地で名付けながら大和に至ったのだと思う。甘木周辺・日向周辺・熊野周辺・伊勢周辺・大和周辺には似たような地名や山名が相似形で数多く存在している。
ニニギノミコトは山神である大山津見神・オオヤマツミ(大山衹神社)の娘、木花咲耶姫・コノハナノサクヤヒメ(浅間神社)と結婚し、海彦(鹿児島神宮)・山彦・ホスセリの三子ができる。山彦が皇位を継ぎその孫が神武天皇である。こうして日向にて次期体制を整えたと考えられる。
日向
霧島近くの日向から神武天皇は東征を始める。海に出た神武天皇は宇佐など北九州に寄航した後、瀬戸内海を渡って大阪に付く。しかし、土地の豪族の抵抗に遭い敗れて紀伊半島の裏に当たる熊野に上陸し、大和に至る。
熊野
荒ぶる熊野の諸豪族の抵抗を受けながら神武天皇は大和へ向かう。神武天皇は兄とともに熊野の自然=豪族=神々を闇に葬りながら三本足のヤタガラスの導きで吉野を超える。熊野は冥府に通じる国、光に対する闇の国とされた。
出雲
熊野と同様、死に通じる国、根の国と呼ばれる。スサノオの系譜である大国主命(オオクニヌシノミコト)は出雲を平定したにもかかわらず、天照大神の使いである天津神に脅され、国譲りを了承し死者の国に隠退した。また大国主命に従って国造りしてきた神々も封じ込められた。大和朝廷の出雲支配の記憶がこういった神話になったと思われる。
その時脅しに行った神はタケミカズチノオノカミ(鹿島神宮)とフツヌシノカミ(香取神宮)で脅されたのが大国主命とその子、タケミナカタノカミとコトシロヌシノカミである。大国主命は先に記したとおり隠退(出雲大社・氷川神社・など)。タケミナカタノカミは力比べに負けて諏訪へ逃れる(諏訪大社)。コトシロヌシノカミはさっさと退散(三島神社)。
このとき天照大神(アマテラス)軍(大和朝廷)の参謀・司令塔だったのがオモイカネ(天岩戸神社)で前線制圧軍がタケミカズチノオノカミとフツヌシノカミであったと考えられる。大和朝廷は地方の豪族と信仰を確実に制圧していったのだ。
伊勢
伊勢神宮(天照大神)は全国の神社の大本である。大和から見て最初に太陽の昇る五十鈴川(五十鈴川は日向にもある。ちなみに神武天皇の后は五十鈴姫)の上流に日神の宮を建てたことに始まる。また伊勢にはニニギノミコト降臨の道案内役、猿太彦神社もある。
伊吹山
大和朝廷成立後、景行天皇の子ヤマトタケルは日本各地の平定に出かける。まさに東奔西走の活躍であったが、伊吹山の神と戦い命を落とした。
邪馬台国と土着日本人
天照大神(アマテラスオオミカミ)を邪馬台国(阿蘇周辺=半島渡来人国家)の卑弥呼と位置づけ、スサノオは邪馬台国を追放された男王で、北東に向かい出雲に逃れた。その後、卑弥呼の死後に混乱した邪馬台国から南東に脱出した男王がニニギノミコト。ニニギノミコトは日向にたどり着き三代を過ごす。日向にて神武天皇は海に乗り出し宇佐を通り瀬戸内海を東へ。出雲の国譲りは大和政権誕生後の近畿・中国の制圧時の話と重なりあうと解釈する。ヤマトタケルの東征によって中部・関東の制圧。縄文からの土着日本人は九州南部と東北地方に押しやられる。のちに東北王アテルイの敗北によって東北の土着日本人は北海道まで追いやられ、現在は九州南部・沖縄・北海道(アイヌ)・四国南部に分散するに至った。沖縄の方言とアイヌ語が似ているのはこのためである。
このように神話が重層的に事実の断片と結びついて語りかけてくる。神話に時間経過と場所を求めると正解が出ないかもしれない。神話は断片的な事実の集大成で、時間経過と場所を無視して一つのストーリーに編成してある場合がある。
神々の系譜
(略)
別解釈
高天原を中国大陸と見ると、別天神=半島の国々、神世七代=三国志前の中国の国々と置き換え、アマテラスオオミカミ=北九州に渡った人々=後の邪馬台国?、スサノオ=島根付近に渡った人々と見ることもできる。
その後、北九州に勢力を持ったアマテラスオオミカミの子孫の神武天皇が日向から瀬戸内海を渡る際にスサノオの子孫が支配している中国地方を通る。ここで、スサノオの子孫が同族である神武天皇に中国地方を譲った可能性がある。神武天皇は紀伊から大和に入り近畿地方を制圧し、ここに近畿・中国地方を中心とした大和政権が誕生した。問題になってる邪馬台国の場所の記述は脱出大陸人の楽園を秘すため、魏の使節団にウソの報告をさせたとも考えられる。
太陽の通り道に神話を重ねるとレイラインは面白くなる。
諏訪大社と三島神社が富士山を挟んで対峙している。しかもライン上にはどちらも大室山がある。
鹿島神宮の西に諏訪大社があることも神話と繋がる。
タケミカズチノオノカミ(鹿島神宮)から見てタケミナカタノカミ(諏訪大社)は特別な日に日没と重なる。日没は冥界を意味し、出雲・熊野と同様に封じ込めを意味する。
更に鹿島神宮から見て冬至の日没は富士山山頂にほぼ重なる。
出雲神話と時代は違うが、ヤマトタケルの東征時に平定された豪族と信仰が封じ込められたのであろう。更に言うと、大和朝廷の黎明期は日本の中央部(近畿・中国)しか支配地域でなかった。その最前線にあたる場所に重要な神社が存在している。
または大和から前線の正確な位置がどの方角にあるか把握するために聖地を設けたことが神社建立の基礎になったのかもしれない。
更に白山-鹿島ライン上に諏訪山と諏訪町が存在する。そして諏訪から富士山を通ると三島大社がある。後年の諏訪信仰に繋がるのだが、民衆のささやかな抵抗かもしれないし、大和朝廷の結界なのかも知れない。
現在、諏訪町と富士山の間にはふじみ野市(埼玉県)や富士見市(埼玉県)がある。
つまり、諏訪町からも富士山の山頂が見えるということを意味する。これは太陽の通りではなく、見た目で結ばれたレイラインだ。
ここからは太陽の通り道ではなく、見た目のレイラインの考察に入ると同時に富士山にスポットを当てて検証してみる。
まず、先ほどの諏訪大社・諏訪町・諏訪山と富士山を結んだレイラインを見てみると面白い事実に突き当たる。
諏訪大社と富士山の間には精進湖諏訪神社が位置し、諏訪町と富士山の間には山中湖諏訪神社が位置し、諏訪山と富士山の間には河口湖諏訪神社が位置する。
これは単なる偶然だろうか?
更に河口湖諏訪神社と富士山のラインを中心に等角度(45度)で精進湖諏訪神社と山中湖諏訪神社が富士山頂から位置している。
右の図のその他の黄色いプロットは富士五湖の神社である。
諏訪大社-精進湖諏訪神社-大室山-富士山-(宝永火口)-三島神社-大室山のライン。
榛名山-諏訪山-河口湖諏訪神社-小御岳杜-富士山のライン。
諏訪町-ふじみ野市-山中湖諏訪神社-富士山のライン。
実に見事な符合と言っても過言ではないだろう。
更に富士山-白糸の滝-諏訪町の豊川神社のラインを見つけたが、確証に至っていないため深く言及しない。上の図を見ると諏訪-豊川の交点に日の入山があるが、このラインは富士山の春分・秋分ラインだからである(その先は伊吹山・出雲)。問題なのは諏訪-豊川ラインに何か意味が無ければいけない。何かありそうな雰囲気はあるのだが後の研究に譲る。
これらは、富士山の頂上を見ながら聖地の場所を決めた例であることは間違いない。それに白山-諏訪大社-諏訪山-諏訪町-鹿島神宮の太陽の通り道。それらは全てライン上に一致し、その交点からのラインは富士山山頂へと集約している。その集約する過程で富士五湖の諏訪神社の上空を全てのラインが横切る。
何時の時代でこのレイラインが成立したのか正確に調査していないが、何らかの意図を持って作られたラインである。それが富士山の封じ込めなのか富士山信仰なのか定かではないが、かなりの精度でライン上に乗せてくる昔の人々の知恵には頭が下がる。なぜなら、富士五湖の諏訪神社のケースでは直接互いを見通せないからである。太陽の通り道と富士山頂を上手く組み合わせた結果であると思うが…。
ひとまずここで諏訪神社系の考察を終わりにして次は浅間神社の考察に入る。
鹿島神宮-伊勢神宮-霧島のレイラインに乗っているのが浅間神社の総本山、富士山本宮浅間神社で静岡県富士宮市にある。しかし、太陽のラインに乗っているものの夏至の日出は富士山山頂から昇らない。強いて言えば春分・秋分の日に愛鷹山から日が出るが、そこまでこじつけないこととする。
富士山本宮浅間神社-富士山山頂-冨士御室浅間神社(富士山二合目)は諏訪神社の関係に似ている(右図)。つまり、太陽の通り道と富士山山頂の関係が成立しているからだ。また、このラインの延長線上には(ラインが微妙に曲がるが)富士吉田北口本宮冨士浅間神社と富士吉田下浅間神社もある。
ところが、それ以外の富士五湖に点在する浅間神社を同様に処理するとラインに狂いが生じる。微妙に位置関係がずれるのだ。許容誤差といえば誤差なのだが、それではすっきりしない。何かが違うのだ。
そこで注目したのは、富士山二合目(勝山飛び地)にある冨士御室浅間神社だ。この社は富士山で最も古い社として知られている。
699年奉斉、807年坂上田村麻呂が蝦夷地のアテルイを征伐した御礼として社殿を創建。時代が下って武田信玄願文奉納。また参拝の不便から(里宮)冨士御室浅間神社は河口湖勝山に位置し、富士吉田の下浅間神社は冨士御室浅間神社の下社ということになる。そのような関係で昔は地域を越えて勝山の神社と吉田の神社共同で流鏑馬神事を富士急ハイランド付近で行っていた。のちに流鏑馬神事は(里宮)冨士御室浅間神社が引継ぎ、下浅間神社は馬飛ばしとして現在に至る。
余談だが、冨士御室浅間神社の上浅間に対して北口本宮冨士浅間神社を下浅間とも言う。
冨士御室浅間神社は明らかに富士宮の富士山本宮浅間神社と富士山山頂を意識した配置になっていることは先に記した。現在、二合目の冨士御室浅間神社へは登山道でなければ行けないが、昔は鎌倉往還の通行路として富士五湖と静岡を最短距離で繋いでいたのだろう。
ちなみに当時の富士山は良く噴火しており、二合目の冨士御室浅間神社も何度か燃えた。その事実からして、当時の富士山には木があまり生えていなかったと推定される。
浅間神社の主祭神は大山津見神・オオヤマツミ(大山衹神社)の娘、木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)である。また神社の目的はズバリ、火山の鎮火である。
いよいよここから富士五湖地方の神社と浅間神社の関係に入りたいと思う。
富士五湖地方の神社は富士山二合目冨士御室浅間神社を中心とした「見た目」で決定されたレイラインである。
富士五湖の神社は富士山山頂を中心に考えると諏訪神社以外はラインが上手くいかない。
そこで、富士山最古の社である冨士御室浅間神社を中心にしたらどうなるのか試してみた。
まず事実のみ記す。
(略)
火山の名前にはASのように母音+S音で始まるものが多く、富士山も太古は「アサマ」と呼ばれていた。
大和朝廷の成立時、富士山や浅間山はたびたび噴火していた。噴火はヤマトタケルによってせっかく制圧した東国に氾濫を招く。それを避けるための監視が伊勢なのかもしれない。
一番最初、冒頭に示した富士山-伊勢のレイラインの先には霧島がある。霧島付近はクマソの勢力が一部残っていた。霧島噴火も監視の対処なのかもしれない。
また逆の方向は鹿島神宮である。ヤマトタケルは筑波まで東征したがその先は支配地外である。その境界に鹿島神宮があるのも偶然ではないと思う。
さらに記すと、ヤマトタケルはその後、甲斐(山梨)を通過し信濃(長野)に入っている。つまり、諏訪大社だ。そして伊吹山で命が尽きるわけである。
夏至の太陽に沿って伊勢-富士山-鹿島と東征し、春分・秋分の太陽に沿って鹿島-諏訪、冬至の太陽に沿って諏訪-伊吹。
つまり、ヤマトタケルの東征後の結界が冒頭に出たレイラインではないかと思うと歴史のロマンが楽しく感じられる。
そして大和朝廷は東国の噴火状況が良く見える伊勢を東国の結界の要に置いた。
ちなみに九州の要は宇佐神宮であると思われる。
また、志摩半島に浅間山と呼ばれる山が多い。まず共通して言えることはそれぞれの山から富士山(浅間山)と浅間山が見えることである。
さらに浅間山を線で繋ぐと富士山と浅間山の方向を指しているとも感じられるがいかがであろうか?
志摩半島各地の浅間山は単純に富士山が眺望できる山という意味かもしれない。富士講の名残かもしれない。しかし、それ以上の意味をもつかもしれない部分が歴史の楽しさでもある。
伊勢ではこのほかに朝熊山という場所が浅間山と富士山の噴火観察に適している。
時の権力者がこの地から何を思って東方を見ていたのだろう…