日本人が培った心の文化・わびさびと幽玄の世界
Facebook竹元 久了さん投稿記事
🌷日本人が培った心の文化・わびさびと幽玄の世界
♦わびさひの世界は日本社会の中に至るところで観られる。
日本の建築、芸術、文学、哲学、思想、日本食、陶芸、地方の街並み、里山など、全般に浸透している。自然の姿、物体、そして生き物との相互関係は、不完全さやはかなさといった、美に焦点を当てたこの世界観の重要な部分である。
引用
侘(わび、侘びとも)とは
動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され美意識の中にとりこまれていった。
「わび」の真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流、はやりの社会にはいない」ということである。貧しいということ、すなわち世問的な事物―富・力・名に頼っていないこと、しかし、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること―これが「わび」を本質的に組成するものである。
「侘び」は現在では「質素な単純性、鮮度、慎ましさ」あるいは「渋い上品さ」という意味を持ち、自然のもの・人工的なもの両方に用いる。
わび・さび(侘・寂)は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。本来は、侘(わび)と寂(さび)は別の概念である。侘び・寂びというのは禅の影響で生まれた美意識であり、悟りを得るために理解すべき必要な要素である。禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「成仏するための基礎である神聖な性質」である。
.
寂び
寂は動詞「さぶ」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子(経年変化)を意味している。転じて「寂れる」というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。本来は良い概念ではなかったが、『徒然草』などには古くなった冊子を味わい深いと見る記述があり、この頃には古びた様子に美を見出す意識が生まれていたことが確認される。室町時代には特に俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにも取り入れられて理論化されてゆく。さらに松尾芭蕉以降の俳句では中心的な美意識となるが、松尾本人が寂について直接語ったり記した記録は非常に少ないとされる。俳諧での寂とは、特に、古いもの、老人などに共通する特徴のことで、古いものの内側からにじみ出てくるような、外装などに関係しない美しさのことだという。
具体的な例で挙げられるのは、コケの生えた石がある。誰も動かさない石は、日本の風土の中では表面にコケが生え、緑色になる。日本人はこれを、石の内部から出てくるものに見立てた。このように古びた様子に美を見出す態度であるため、骨董趣味と関連が深い。たとえば、イギリスなどの骨董(アンティーク)とは、異なる点もあるものの、共通する面もあるといえる。寂はより自然そのものの作用に重点がある一方で、西洋の骨董では歴史面に重点があると考えられる。
寂びの意味には静寂も含まれる。日本ではあらゆるものを受け入れる為に静かで受身の心が必要だと考えられている。それは「無念」や「無想」として知られる精神状態である。これは単に何も考えや創造、感情などがない状態を言うものではない。思想、反省あるいは、すべての愛着を断った意識によって、生来の能力を働かせるという意味である。この心境をまた「無我」といい、利己的思想を抱かず、自分の所得を意識せぬ状態である。この心境になれれば、我々は悟りを開けると考えられている。上述のように日本の美意識にある寂びにとって静寂はとても重要な要素なのである。
.
幽玄は「神秘的な深み」という風に通常翻訳される。幽玄とは言葉の意味には表れず、また、目には定かに見えなくても、その奥に人間が感じることが可能な美を意味する。「今、そこにある姿」の美しさだけを楽しむのではなく、そこに「隠された姿」の美しさを想像することで、感動に深みを与える美意識である。たとえば、花を見て「美しい」と思う。それは「今、そこにある美しい姿」である。美しい花にはいままで風や雨や雪などに耐えたという過去があり、そして、どんなに美しく咲こうともいつかは枯れていくという未来がある。美しい花はそれだけで感動を与えるが、そうした現在の姿の裏側にある過去と未来に見えるものに思いを馳せるとき、その美しさは「今、そこにある姿」を超えた感動を手にすることができる