巡歴の高僧・道興准后 (どうこうじゅごう)の歌
http://shimin.camelianet.com/shiminweb/pre_16/Pre16-2a.htm 【巡歴の高僧・道興准后 (どうこうじゅごう)の歌】より
-新座郡(にいくらごおり)に残された五百年前の足跡 -
(聞き手・安斎 達雄)
並はずれた貴族
歴史上の人物の中には、多くの人たちにはまったく知られていないが、知っているひとにとっては、きわめてビッグな存在の人がいる。道興准后もそうしたひとりだ。道興准后は、今からおよそ五〇〇年前の十五世紀末に京都から関東にはいり、現在の朝霞・新座・和光・志木を含むかつての新座郡にもやってきて、歌をよんでいる。
この道興の勢威は、並のものではない。まずかれは、関白のちには太政大臣となる近衛房嗣(このえふさつぐ)の二男として、永享二(一四三〇)年にうまれた。そして、幼いころから出家し、やがて聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)となった。聖護院とは、聖体(天皇)護持の寺というところから付けられた名だ。また、門跡とは、皇族や上級貴族がはいる特定の寺、またその寺の統括者につけられた呼称である。
その後、園城寺(おんじょうじ)(三井寺【みいでら】)の長吏(ちょうり)、熊野(くまの)三山および新(いま)熊野の検校(けんぎょう)も兼ねた。寺院の職名は宗派などによって異なっているが、長吏も検校も寺の代表者と考えてよい。
さらに道興は大僧正に任じられ、准后となった。これ以後、道興は「道興准后」と書かれるようになる。准后とは太皇太后・皇太后・皇后の三后に準ずる待遇を与えられた人のことだ。戦乱が相ついだこの時代、経済的な恩典はほとんどなかったと思われるが、大変な名誉であることには変わりはない。
このように、道興准后は天皇家の信任があつかったが、それだけではない。室町幕府の八代将軍足利義政(よしまさ)お抱えの護持僧(ごじそう)も務めていた。足利義政といえば、東山文化を代表する銀閣(国宝。世界遺産にも登録)をつくった将軍である。武家政権との固いきずなも持っていたのである。
八代将軍足利義政の跡目をめぐって、その弟義視(よしみ)と実子義尚(よしひさ)の相続争いに端を発した応仁(おうにん)の乱(一四六七~七七年)は、有力大名の家督争いとも複雑に連動して十一年も繰り広げられ、京都を焼け野原にした。乱は一応の終息をみたものの、時代は本格的な戦国乱世に向かいつつあり、それは武蔵国とて同様であった。道興准后の諸国巡歴の旅が始まったのは、そうしたさなかの文明十八(一四八六)年のことである。そのとき年齢は五十七歳。かれは、この廻国の旅で、和歌や漢詩を数多くよんだ。それらは帰国後に『廻国雑記(かいこくざっき)』としてまとめられている。
宗岡の夕けむり
文明十八年六月中旬に京都を出発した道興准后は、北陸道を通って越後国に至り、そこから南下して関東に入る。しかし、その行程路は自由気ままとしか言いようがなく、武蔵国にも四回にわたって出入りを繰り返している。この年の秋、道興准后は、現在の志木市域の宗岡に入った。以下、『廻国雑記』によって見ていこう。
「むねおかといへる所をとおり侍(はべ)りけるに、夕の煙を見て、
夕けぶり あらそう暮を見せてけり わが家々の宗岡の宿」
夕食をつくる煙が、あちこちから争うように立ちのぼる様子をうたったものだが、江戸時代のようなにぎやか宿場を想定しては間違いだろう。しかし、集落ができていたことは確かだ。志木市内の地名が文献上に現れた最初のものという。上宗岡の千光寺(せんこうじ)近くには、この歌碑がたてられている。つぎは新座市域の歌である。
野寺と野火止塚
「また、野寺(のでら)といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。この鐘、古(いにし)への乱れにより、土の底に埋みけるとなむ。そのまま掘り出さざりければ、
音にきく野寺をとへば跡(あと)古(ふ)りて こたふる鐘もなき夕(ゆうべ)かな」
片山の野寺の鐘で知られた八幡社は、明治末期に近在の神社と合祀されて、現在は武野(たけしの)神社となっている。ここには十一世紀の中頃、安倍氏を討つため奥州に向かう八幡太郎義家が戦勝を祈願したという伝承がある。また、野寺の鐘については、在原業平(ありわらのなりひら)や紀貫之(きのつらゆき)の歌も残されている。しかし、その昔、鐘は火事のさいに池の中に投げ込まれ、そのままに放置していたので、すでになくなっていたという。
つぎは野火止塚(のびどめづか)である。現在は平林寺の境内にあるが、当時平林寺はまだない。平林寺より野火止塚のほうが歴史が古いのだ。
「此(こ)のあたりに野びどめのつかという塚あり。けふはな焼きそと詠(えい)ぜしによりて、烽火(のろし)忽(たちま)ちやけとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、
わか草の妻も籠(こも)らぬ冬されに やがてもかるゝ野火止の塚」
『伊勢物語』によると、ある男が人の娘を盗んで武蔵野にはいり、女を草むらに隠して逃げた。追っ手の役人たちは、野原にひそむ男をあぶり出すため草原に火をつけた。女は役人にたのんだ。武蔵野を今日は焼かないで下さい。草むらには夫も私もこもっているのですから、と。そこで、草原を燃やし始めた火はとめられたので、この塚を野火止塚と名づけたという。道興准后はこの伝承をうけて、愛する女がこもることもないもの寂しい冬の野火止塚をよんだのだ。
膝折と浜崎
これをすぎて、膝折(ひざおり)といへる里に市(いち)侍り。暫(しばら)くかりやに休みて、例の俳諧(はいかい)を詠じて、同行に語り侍る。
商人(あきびと)はいかで立つらむ 膝折の市に脚気(かつけ)を売りにぞありけり」
膝折は、江戸時代には川越街道の宿場であったが、それ以前の室町時代から市がたっていたことがわかる。歌中にある「かっけ」とは、竹で編んでつくった茶碗などを入れる脚つきの籠(かご)をさし、正しくは「脚籠」と書く。道興准后は、脚の病の「脚気」と、売り物の「脚籠」をかけて、「膝を折るという地名の市でかっけ(脚籠)という籠を売っている商人は、かっけ(脚気)という脚の病にかかって、どうやって歩くのだろう」と戯(ざ)れ歌をつくって楽しんだのであろう。
旅に出て半年が過ぎ、道興准后は正月を武蔵国で過ごした。
「武蔵野の末に浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、
武蔵野をわけつゝゆけば浜崎の 里とはきけど立つ波もなし」
武蔵野の草を分けながら、浜崎という名の地に向かったが、波が立つ浜などなかったという意味の歌だ。脚気といい、浜崎といい、言葉あそびの歌にすぎないとも言えるが、当時、こうした歌風は一般的であったようだ。
残念ながら『廻国雑記』には、和光市域をよんだ歌はない。しかし、白子あたりを通ったり宿泊したりした可能性は大いにある。また、東上線和光市駅南口から四〇〇メートルほど離れたところに、道興准后がよんだ和歌五首を刻んだ文化六(一八〇九)年造立の石碑が残る。そのうちの一首は、『廻国雑記』には記されていない歌で、広沢をよんだものである。広沢という地名は和光市や朝霞市に残る。このあたり一帯はかつて広沢の庄と呼ばれていた。道興准后の足跡は新座郡をおおっていたといえよう。
大塚の十玉坊への滞在
浜崎のあと道興准后は、甲斐や奥羽地方をまわり、五月に京都に戻って二年間にわたる巡歴の旅を終えた。かれは、なぜ、東国におもむいたのだろうか。かれの聖護院門跡という地位は、天台宗(てんだいしゅう)系の修験(しゅげん/本山【ほんざん】派)の総帥の立場にある。修験とは山岳で修行を積むことによって呪力を強めようとする信仰をいう。いわば原始的な山岳信仰と仏教が結びついた宗教で、修行にはげむ人を山伏(やまぶし)と呼んだりする。
修験には、ほかに真言宗(しんごんしゅう)系のもの(当山【とうざん】派)もあり、東国では真言宗系統が勢いを増しつつあったようだ。守勢にたたされた道興准后は、教線拡大のため東国にのり込み、同時に足利義政のために東国武将の動きについての情報収拾にあたっていたものと考えられよう。
当時、道興准后は大塚の十玉坊(じゅうぎょくぼう)に四回も滞在した。十玉坊は、このあたりの聖護院系統の修験の拠点である。この大塚の地については、川越の南大塚だとの説もあったが、近年の研究では、志木市幸町の大塚説が主流となっている。そうであれば、道興准后と新座郡との結びつきはさらに強くなるが、それについては、別稿が必要であろう。